雑記帳

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エンジェルダスト(4)

「あんたがオニールか?」
 背後から深いバリトンの声で名前を呼ばれ、それがあまりにも突然だったので本当にイスから飛び上がるほど驚いてしまった。私はとっさに振り返った。すぐ後ろで大柄の男が見下ろしている。私は慌ててイスをひいて立ち上がった。
 身長は2メートルくらいで体重は100キロ以上はありそうな赤ら顔の大男が、シルバーグレーの髪の毛をかき上げながら、私の慌てぶりがさも可笑しいというように無邪気な笑顔で私をながめていた。
「今度からは背中にも目をつけておいてくれよ。わたしがフィールドトレーナーのジョン・ケリーだ。よろしく」と言って、彼は手を差し出した。初っぱなから笑われた気恥ずかしさを、とりあえず照れ笑いでごまかし、「よろしくお願いします。ブライアン・オニールです」と挨拶を返し、差し出された手を握ったが、私の手がまるで3歳の子供の手のように見えた。
ケリーは私の手を握り上下に振った。その握力があまりにも強すぎて、指の骨が砕けてしまうのではないかと思った。力比べをするために握手をしているわけではないだろう。この大きな体のフィールドトレーナーにしたらこれが普通なのだ。ケリーは澄んだ青い目で私の顔を見ているが、私はどういう反応をすればいいのかわからなかった。一握りで骨を砕いてしまいそうなケリーの握力に驚いて痛そうにすればいいのか、それとも、これくらい何ともないと平気な顔をすればいいのか、あるいは、彼に対して畏怖の念をいだいたような表情をすればいいのか――
 迷っている内に握手の時間は終わり、ケリーは手を離した。
 「まだ時間も早いし、出かける前に少し話しをしようじゃないか」
 ケリーは私の肩を軽くたたくと、壁に立てかけてあるスチール製の折りたたみイスを開き、私と向かい合わせの位置におき、どかっと腰を据えた。
「ほら、座っていいよ」と言われて私もイスに腰を下ろした。
「よぅし、それでいい」
 ケリーの口振りもフラナガンと同じで、フレンドリーな印象を与えるアイルランド地方特有のなまりがある。

 フィールドトレーナーのジョン・ケリーのことは、ここへ来る前から聞かされていた。勤続21年。父親はセントラル署の警部補だった。親子二代にわたって、ずっとサンフランシスコ市警察で働いてきたアイルランド系の警官である。旺盛な食欲、水代わりに飲むオールドブッシュミルズ。ケリーは昇進を全てけって、ひたすらテンダーロインをパトロールし続けてきた。テンダーロインの誰もがケリーを知っている。テンダーロインの貧しい人々からは「ファーザーケリー」とよばれ、まるで懺悔でもするように誰もがケリーに悩みをうち明けに来る。彼らがトラブルに巻き込まれたとき、真っ先に駆け込むのがケリーのところなのだ。
(※オールドブッシュミルズアイリッシュウイスキー)

 そういう話を前もって聞かされていたので、私の中ではケリーのイメージがある程度出来上がっていた。かってハリウッド映画『汚れた顔の天使』の中でパット・オブライエンが演じた典型的なアイルランド系の神父、そういう人物を想像していたが、今、この大きなケリーと向かい合って座っていると、神父ではなくアイリッシュマフィアと一緒にいるような気になってくる。

 アイルランドからやって来た移民たちに出来る仕事はマフィアになること。そうやって彼らはアメリカにとどまりアイリッシュマフィアと呼ばれるようになった。警官すなわちアイリッシュマフィアと言われるくらいサンフランシスコ市警の警官やお偉方の中にはアイルランド系が非常に多い。警官からするとはなはだありがたくないニックネームである。実物のケリーに会って私が抱いた印象は、陽気でタフなアイリッシュマフィアの大型バージョンであった。

「これから長い時間ここで一緒に過ごすわけだが、その前にちょっとの間、話をしたいがいいかね?」
「はい、ケリー巡査」と返事をすると、「そんな堅苦しい呼び方はなしだ。ジョンでいいよ」とニッコリ笑って言った。ケリーはコーヒーのシミとタバコの焦げあとがついたテーブルの両端をつかんで、身体を私の方に少し乗り出すようにしながら話をはじめた。
「まず最初に訊くが、ここに来る前はベトナムにいたんだな」
 私が「はい」と返事をするとケリーは数回うなずいて、「ベトナムにいたということは、おまえさんには立派なタマがついてるってことだな。ん? どうなんだ?」

 男同士の話とはいえ、まさかこんな質問が最初にくるとは思ってもいなかったので、とまどってしまってすぐに返事が出来なかった。
「どうした? ついてないか?」
 私の顔を覗きこむようにして、ケリーが訊いた。ふっと顔を上げたとき、ケリーと目があった。カリフォルニアの澄み切った空を思わせるようなコバルトブルーの瞳。早く答えろと、その目が訴えている。
「あの、いえ、ついてます」とケリーの目を見て答えた途端に「ベェリーグゥーッド!」
 私の顔とは30センチほどしか離れていない距離で、ケリーの口からバリトンの大きな声が飛び出てきたので、今吸い込んだ息が私の鼻の奥で止まってしまった。ケリーはイスの背にもたれて微笑んでいる。

 一体、このフィールドトレーナーはどういう男なのだろう。一握りで骨を砕いてしまう握力。声だけでガラスを粉々にしてしまいそうなバリトン。初対面からこんな不躾な質問といい、これがアイルランド人特有の飾り気のなさなのか、それともただ単に、礼儀知らずだけなのか、私の頭の中は、驚きと疑問符でいっぱいだった。
「よしよし、立派なのがついとるか。よぉし、いいぞ」
 ケリーは私の方をみて、何回も頷いている。ふと、ケリーの視線が私の手に移った。
「その傷は?」とケリーが聞いた。
 私の両手と腕には、まだ完全には治りきっていないくすんだピンク色の傷痕がいくつもある。
「2年前、ナトラングでベトコンの攻撃を受けて、グレネードの榴散弾で両腕をやられました」
「ナトラングにいたのか」
「はい」
「そんな攻撃を受けて逃げようと思ったことは一度もないのか?」ケリーが訊いた。
 私はうつむいて、手首の傷痕を見ていた。ケリーの視線を強く感じる。少しの間、私もケリーも何も言わなかった。短い沈黙のあと、私は顔を上げ、ケリーに向かって答えた。
「逃げなければならなかったときが2〜3度ありました。逃げるべきだったと思います。たぶん、逃げた方が良かった。でも・・・・・・」
「おまえは逃げなかったんだな」とケリーが私の言葉をつないだ。私は小さく頷いた。
「よし、よくわかった」ケリーは続ける。
「今度の新人はベトナム帰りだって聞いてたからな。それならタマがついてるはずだとおまえさんの経歴から思ったわけだ。タマなしじゃ、戦場では戦えないからな。そうだろ? だけど、おまえは違う。おまえは逃げなかった。それに、今、自分でタマはついてるとはっきり言った。おまえは立派な”タマ”を持ってる。それはものすごくいいことだ。タマなしじゃ、ここでの仕事は勤まらん。誰かが銃を撃ってきても、おまえは逃げない。真っ先に現場を放り出して逃げだすような”タマなし”じゃない」

 黙って聞いていたが、私にはケリーの話が面白くなかった。本物の弾が飛んできた戦場で何ヶ月も闘ってきた人間に、こんなことを聞くなんて、一体、どういうつもりなんだろう。ずけずけと物をいうのはまだいい。私の勇気が品定めされたことが気に入らなかったのだ。
「私はそのように訓練されました」と、気分を害したことをケリーに示そうと、つっけんどんに言ったつもりだが、ケリーはいっこうに気にする様子もなく、穏やかな笑みを浮かべて私を見ている。

「ところで」と言ってから、軽く咳払いしてから話を続けた。
「アカデミーでも目立っていたようだが。おまえ達の資料は全部、目を通してる。もちろん極秘資料だから部外者の目に触れる心配はない。それによると、おまえのランクは、A。但し、態度に問題ありとなってる。何でもわかっているみたいな態度がみられたとか。どうなんだ?」
 私が何も答えずに黙っていると、「オニール、わたしとおまえだけの話だ。黙っていたら話が先に進まないだろ」と、さとすような口調でケリーが言った。指で軽く机を叩きながら私の言葉を待っている。それでも、しばらくの間、私は黙ってうつむいていたが、ケリーの視線と机をたたく音が苦になってきたので自分の手を見ながら返事をした。
「アカデミーの同期の中で軍隊経験があったのは私だけでしたから。だから、自分は有利だと思いました。他の者は、未経験者ばかりだったので軍隊にいた自分は優位に立っていると思っていました」
「そうか。だがな、オニール」
 ケリーは一旦言葉を切り、一呼吸おいてから先を続けた。
「ここはジャングルじゃない。もちろんここにも、猛獣のような連中がうようよしている。でも、ここはベトナムのジャングルとは違う。おまえがいるのはテンダーロインだ。ここにはここのルールがある。だから、この際ベトナムのことは忘れろ。おまえの持ってるベトナムの経験とやらが役に立つのは、銃を突きつけられた時か、暗闇でだれかに襲われたときだけだ。そんなことよりも、どうやって無線を使うか、どうやって報告書を書くか、相手に銃を向けるときはどうするか、犯人とどうやって闘うか、ここで必要なのは、こういうことだ。おまえは、もう全部わかってると思ってるかも知れないが、実際、何にもわかっちゃいない。先ずそれを自覚して貰わなきゃ、一緒には仕事はできんぞ」

 私の経験が否定された。ベトナムの経験を忘れろ――こんなことを言われたのは初めてだった。ケリーの言葉は、突然、死角からパンチをくらったような衝撃だった。私のうけたショックなどお構いなしにケリーは話し続ける。
「要するにだ、おまえさんはまだ、現場をしらない。だから、私の言うことをきいて良く理解してもらわないと一緒に外にはでれない。もし、それができないのなら、警官なんかやめて別の仕事を探した方がいい。こんなところで死ぬのはばからしいぞ。わかるか? それがわかるなら、わたしの持ってる全てをおまえに教える」
 ケリーの深く響くバリトンが私の上に覆い被さってくる。何か一言、言い返してやりたいと思ったが、何を言えばよいかわからなかった。それに、今は明らかに私のほうが分が悪い。

 新人は90日間、フィールドトレーナーについて研修を受ける。それが終わると六ヶ月間は見習いのパトロール警官として、あらゆる面から警官の資質をチェックされ一年後に合否が決まるのである。90日の研修期間中、フィールドトレーナーから見捨てられたら、もうそこで終わりである。ケリーから、「ノー」の判定を下されたら、どうあがいても私は一人前の警官にはなれない。
 私はだまってうつむいていた。
「オニール。顔を上げろ。大事な話だ」ケリーが言った。
「これからは、わたしがおまえの父親だ、ときには母親にもなる。パトロールに出たら、わたしが神だ。おまえのするべきことはわたしが決める。わたしが決めたこと以外におまえの選択肢はない。おまえはそれに従う。簡単なルールだろ。それがいやなら、90日後、おまえはこの世にはいない。毎朝、目を覚ましたければ、わたしのルールに従え。何か質問は?」
 鋭い視線でこちらをじっと見ている。この自信に満ちたケリーの姿。

 私が神だ――かつて戦場で同じ事を思ったことがある。相手がベトコンというだけで、今まで会ったことも話したことも、恨みすらない兵士を何人も撃ち殺した。このばかげた殺戮を自分の中で正当化させる理由がほしかった。なぜ私は敵を殺すのか。それは私が神だから。そう思い続けることで恐怖を克服し、それが自信になり、幾たびの戦いを生き残ってきた。敵は私を殺せない、殺すのは私、敵に死を与えるのは私。それは私が神だから。

 ケリーの過去がどうだったのか、そんなことはわからない。でもケリーの中に自分と同じ兵士の血を感じた。勇敢な兵士の中にはトラがいる。私はケリーの中にトラを見た。その姿の前では、自分の感じたいらだちなど、もうどうでもよくなってしまった。
「いいえ、ありません!」
 ケリーの目をまっすぐに見て私はそう答えた。ケリーの顔がほころんだ。「ベリーグッド!」

 ブラックのジャケットにシルバーのバッジをつけた神がのっそりと立ち上がり、私の前に立った。彼の顔をはっきり見ようと思ったら、見上げなければならない。
「オニール、ちょっと立って、ぐるっと回ってみよ」ケリーが言った。
 ケリーの意図がわからなかったが、私は言われるままに立ち上がってケリーの前で一回転して見せた。
「その上着じゃダメだ、ここじゃ、すぐにいかれちまうぞ。そのうち、着る機会もあるから、そのときまで、しまっておけ。そのかわり、上着はこれ」と言って、自分の着ている上着を指さした。ケリーの上着はブラックのウォームジャケットで、左胸にシルバーバッジ、両肩にはSFPDのパッチが縫いつけてあった。
「あした、ギアリーストリートのユニフォームショップに行って、サムにわたしと同じジャケットと言えば、あとは全部やってくれる。サムがおまえさんにピッタリのを作ってくれるよ。すぐ出来るから、ちょっとだけ待ってればいい。それから、他に・・・・・・」
 ケリーは私の顔を見ながら考えている。
「ああ、そうだ、S&Wのオーバーサイズグリップがいる。銃は両手で持って撃つか?」
「はい」
「よしよし、オッケーだ。それから、弾はマグナムか?」
「いいえ、ハローポイントのプラスピープラスです」
「よし、これもオッケー、グッドグッド。壁をぶち抜くような弾はここじゃ必要ないからな」
「非番のときは、どの拳銃を持ち歩いてるんだ?」
「ショルダーリグにはスミスアンドウェッソンM59の9ミリを入れています。それから、ワルサーPPK-S 380も持ってでかけます」
「59だけでいい。ワルサーはいらないぞ。それはジェームズ・ボンドに返してこい。どうしても持ち歩きたいんなら、女の子とダンスに行くときだけにしておけ。それと、もっとマガジンポーチもほしいな」
 私の持ち物をあれこれチェックしているケリーが、まるで父親のように思えてくる。
「これはおまえのか?」
 ケリーは机の上に置いてある私の制帽を見ていった。
「はい、私のです」
「これじゃ、新米だってことがまるわかりだな」
 ケリーは制帽をとると、それをひっくり返し、「こんなものは邪魔だ」と言って、帽子の形状を保つために入れてあるワイヤーをいとも簡単に抜き取ってしまった。あっと言う間に警官の帽子がフィフティミッションスタイルに変身した。
「どうだ、こっちのほうがカッコイイだろ」といって、私の頭に帽子をかぶせた。
「よし、オッケー。さぁ、オニール、それじゃ今から散歩に行くぞ!」

 

(続く)
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※ナトラング:ベトナム語では「ニャチャン」
ニャチャンの発音は難しいのでアメリカ人はナトラングとよんでいた。
アメリカ軍特殊部隊の司令塔があった場所。

※ショルダーリグ:ショルダーホルスターの俗語

フィフティミッションスタイル:第2次大戦中、パイロットがかぶっていた形の崩れた帽子

※ハローポイント+P+ :ホローポイントともいう。
主に警官が使う銃弾の一種。
357マグナムほどの威力はないが、命中すると、先端が拡張し、ターゲットの体内に多大なダメージを与える。
+P+ は火薬の量が通常より多いことを示す記号。