雑記帳

作品倉庫

エンジェルダスト(5)

ケリーと私はテンダーロイン署を出てエディーストリートを西に向かって歩いていた。時刻は午後3時をまわっている。外はだいぶ冷え込んできた。冷たい風に乗って霧が降りてきている。

 霧がサンフランシスコ上空にとどまって町まで降りてこない日もある。しかし、今日はあと数時間でベイエリア全体が靄に包まれるだろう。今、霧のベールはゆっくりとフィルモアストリートを覆っていく。テンダーロインに霧のベールがかかるのもあとわずかの時間である。

 ストリート沿いの店は早々と<閉店>の看板を掲げているところもあった。空っぽの店舗、酒屋、倉庫のような小さな事務所、安ホテル――どの店の入り口も汚れていて、尿のすえた臭いと嘔吐物、腐ったビールの臭いが漂っている。何をするでもなく、ただ店先の扉や壁にもたれかかっている男たち。黒人の男女が歩道の縁石すれすれに止めてある車の側にたむろして、スラングだらけの英語で喋っている。仲間内でしか通じないくだらない話。彼らの会話が聞こえてきたが何を話しているのか私にはサッパリ判らなかった。

 ポルクストリートの南まで来ると、雰囲気ががらりと変わる。路上にはゴミもなく小綺麗な軽食の店(ランチカウンター)やレストラン、バーが点在している。夕暮れのストリートを行き交う人々はそれぞれの目的地に向かって、早足で歩き去っていく。

 ポルクストリートとタークストリートが交差するあたりまで来たとき、ケリーが言った。

「コーヒーでものまないか? いい店があるんだ」

 ケリーと私は『マブハイカフェ』と書かれたフィリピン料理の店に立ち寄った。朝食とランチを提供している壁をくりぬいて作った小さな店である。

「ここのコーヒーは美味いぞ」

 ケリーはMサイズのフレンチローストを注文した。

「オニール、おまえさんのフィールドトレーナーに賄賂を送るチャンスだぞ」

 ケリーはいたずらっぽい笑みを浮かべている。この大きな神はコーヒーの賄賂で満足するらしい。警官は何をたのんでも値引きされる。私はお気に入りのヘーゼルナッツコーヒーを注文し、ケリーの分とあわせて2ドルを支払った。

 私たちはコーヒーの入った紙コップを受け取り、ポルクストリートからマカリスタストリートの方へ向かってコーヒーをすすりながら再びパトロールを続けた。

 

 今日はクリスマスイブ。図書館、裁判所、市庁舎はすでに閉まっていた。政府のお役人達は、家族とクリスマスイブを祝うため、渋滞に巻き込まれる前に早々と仕事を切り上げ帰宅したようだ。

 夕方の4時までが勤務時間なら、パトロールも楽である。ダウンタウンで買い物を楽しんでいる人たちや、バス停でバスを待っている人たちをそれとなく監視して歩いていればいい。ところが、4時を過ぎると事情が変わってくる。買い物を終え、家に帰るため、クリスマスプレゼントをいっぱい抱えた買い物客達が通りに溢れる時間帯になると、それをねらってスリや強盗達もうろつき出すのである。この時期になると、人のクリスマスを台無しにしてやろうと目論んでいる連中が獲物をねらってストリートを歩き回っているのだ。クリスマスイブはこういう連中の数が普段よりも多いのである。毎年、クリスマスイブの4時以降になるとそういう光景が見られるのであるが、今年は少し様子が違っていた。

 交通渋滞が始まる4時前に、私たちはマーケットストリートにさしかかった。うっすらとした霧がストリートを包んでいるが、視界はまだ悪くはない。もうすでに、道路は混雑していて歩道は大きな荷物を抱えた買い物客達でごった返していた。サンフランシスコ高速鉄道の工事で、道路は掘り返され、道幅をひろげる工事が進んでいる。そのため、バス停が移転されて、荷物を抱えた歩行者達は、バス停を探して右往左往している。少し歩いては立ち止まって辺りを見回し、来た道を引き返し、また立ち止まる。こういう人たちは、たいていこの辺の住人ではない。ゆっくり歩いているのは、行くあてのないテンダーロインの住人で、歩き疲れたら街灯の側の建物の壁によりかかって一休みし、再び目的もなく歩きだすのである。

 

ホームレス1

ある男が私の目にとまった。その男はあきらかにテンダーロインの住人である。歩き疲れて壁にもたれてたっているのも嫌になったのだろう。その男は、歩行者に足をふまれることなど気にする様子もなくその場に足を投げ出して座り込み、すぐに身体を横たえて路上で眠り込んでしまった。

 ケリーはその男の側まで行き足元に立ってナイトスティック(60cmの警棒)で、眠っている男の靴をたたいた。

「おい、おきろ!」ケリーが怒鳴った。

 男は寝返りをうったが起きあがる様子はない。

「オニール、こいつを起こせ」ケリーが言った。

 私は男の脇ににまわって、片手で眠っている男の手首を掴み、力ずくで引っ張りおこし、路上に投げ出された足を曲げようとしたら、突然その男が目を開け私にけりかかってきた。すぐに取り押さえて、手首を捻り上げた。男はすぐにおとなしくなったが、酒臭い息を私の顔にはきかけてくれた。

 

 テンダーロインの浮浪者は実際の年齢より10歳くらいは老けて見えるのだが、この男は見たところ50代くらいだろうか。くたびれたアーミージャケットにブルージーンズ、すり切れたサンフランシスコジャイアンツの野球帽をかぶり、一呼吸するたびに、安物のワインの臭いをはき出している。

 私が男を押さえている間に、ケリーは男のポケットをさぐって、ソーシャルサービスベネフィットカードと社会保障番号証を見つけた。この男に逮捕状が出ていないか確認するため、ケリーは男の住所、氏名、年齢、社会保障番号を無線で司令室に伝えた。2分もしない内に、司令室から「ピーター・ジェンセンには犯罪歴なし」という返事が返ってきた。

「オッケー、ピーター。今夜はおまえを刑務所にぶちこめると思ったんだが、予定が変わった。こっちも今夜は忙しいからな。刑務所はまた今度にして、今夜、おまえのいくところはあそこだ」と言って、ケリーはゴールデンゲートアベニューのある東の方を指さした。

「今から、セントアンソニーダイニングルームにいって食事をもらい、今夜はそこで寝ろ。いいな。おまえが違う場所にいかないように、2人でおまえの後をついていくからな。パトロールの帰りにそこに立ち寄るぞ。おとなしく寝てろよ」

 ピーターはしぶしぶ立ち上がって、ヨロヨロとした足取りで、ケリーが指さした方向に歩いていった。私とケリーは、ピーターの後を数メートル離れてついていった。

 

ホームレス2

※セントアンソニーダイニングルーム
テンダーロインの貧しい人々やホームレスに一年中、暖かい食べ物を提供している教会

※ソーシャルサービスベネフィットカード
このカード保持者には無料で食べ物、医療、住宅などを提供している。

 

 

 ピーターの姿を目で追いながら歩いていると、ケリーがこんなことを言った。
「オニール。パトロールに出たら、目の数を増やしてそれをもっと発達させなきゃいかん」
「は?」
 ケリーが何を伝えようとしたいのかすぐにはわからなかった。
「ヒッピーシング(hippie thing)みたいなものさ。要するに意識の拡大、精神の解放。わかるか? 心が一点だけに囚われたらダメだ。おまえの後ろで何が起こっているのか、横で何が起こってるか、すぐ目の前で、あるいはずっと前方で何がおこってるかわからなければいけない」
「ああ、はい、わかります。シチュエイションアウェアネス(状況認識)ですね。いかなる時も自分のまわりで何が起こっているのかしっかり認識せよと軍で習いました」
「その通り! 」ケリーはそういって、私のほうに振り向いた。
「犯罪はおまえの後ろでおこる。悪い奴らはおまえが通り過ぎるまではじっとしてるさ。だから、前後左右を見通す目がいるんだ。それも、肉眼で見える範囲だけじゃダメだ。100メートル先、200メートル先、いや、もっと先まで見通せる目がいる。透視みたいなもんだな。常に、まわりで何が起こっているか知っていなけりゃいかん。例えば、ドアの前で立ってる男は 何をしている、手に何を持っている、何を考えている、常に自分のまわりにレーダーを張り巡らせておくんだな」
「はい、わかります。つまりあそこにいる男は何をしようとしてるか・・・・・・」
 私は店の扉の前で立ち小便をしようとしている黒人の男の方に顔を向けた。
 ケリーはうなずいて、「おまえが先に見つけたから、行って来い。先ずは自分でやってみろ」
「はい、わかりました」

 私は早足で男に近づき、すぐ後ろに立った。ぼろぼろの茶色のコートにシミだらけのフェドーラ帽(中折れ帽子)をかぶった70才くらいの老人が扉に小便をひっかけている。
「警察だ!」
 老人の左耳元で低く力強い声で言った。
「振り向くな! いますぐそれをズボンにしまえ!」 
 老人は驚いて、握っていたものを離してしまい、なま暖かい液体がコートをつたって流れている。
「わしは、今、やめられねぇ」 老人の弱々しい声。
「クソッタレ! とっととやっちまえ」
 私はもう一度、低い声で怒鳴った。老人は尿を全部出し切ると、ズボンの中に自分のモノをしまい、振り返って恥ずかしそうな顔でにやっと笑った。
「アンタ、今何してた! 何考えてるんだ! 自分が何をしたかわかってるのか! 」
「すんません、すまんことです。オシファー。でも、わしはもれそうで。もれちまいそうで。もれそうだったから。ほかにするとこがねぇだ」
 老人は脅えているが、必死で言い訳しようとしている。
「アンタ、わかってるのか? 立ち小便は犯罪だって知ってるのか! 小便で留置所送りになるんだぞ」
「すんません、すんません」
 見窄らしい姿で、必死で謝っている老人を見ていたら、少し哀れに思えてきた。
「アンタ、名前は?」
「ヘンリー・ジェファーソン」
「どこに住んでる?」
「エディーストリート」
 老人はうつむいて消え入りそうな声で答えた。
「ジェファーソン。あんたをどうするか考えているんだが・・・・・・」
 私はそういうと、まわりを見回した。確かに、このあたりには公衆便所は一軒もない。レストランや売店のオーナーはこういう連中にトイレを貸してやる気はさらさらない。
「結婚してるんだろ? たぶん、孫もいるんだろ?」
「はぁ」
「今日は何の日か知ってるか、ジェファーソン? クリスマスイブだぞ。奥さんはクリスマスイブに、警察まであんたを引き取りにこなくちゃいけない。それであんたの奥さんは幸せか?」
「すんません、すんません、もうしねぇ。もうしねぇから、勘弁してくだせぇ」
 老人は何度も何度も頭を下げて、消え入りそうな声で必死に許しを求めている。私たちのまわりには、通行人はまばらである。黒人の老人と警官が何をしているかなど気にする人は誰もいない。時々、横をとりすぎていく通行人も、この老人に目をやる人は1人もいない。私はうつむいている老人を見ながら少し考え、結論を出した。
「もういい、ジェファーソン。今日の所は見逃してやろう。そのかわり、今度、こんなことをしたら、即、留置所だぞ。言い訳は一切なしだ。次は聞く耳はないからな。アンタの顔は覚えておくからな。これでおわりだ。ジェファーソン。家へ帰れ。これが私からのクリスマスプレゼントだ。二度とするなよ」
 老人は頭を何度もさげながら、そそくさとその場を立ち去り、人混みの中に消えていった。

「よし、オッケー。ところでオニール、どうしてあいつを行かせた?」
 私と老人のやりとりを側で黙ってみていたケリーが訊いた。

「簡単な理由です。あの男がいったように、この辺には公衆便所は一軒もありません。彼のいったことは嘘じゃありません。急にトイレに行きたくなったんです。でもあの年で、トイレがなかったら、どうするか。たぶん、トイレまでまにあわない。それに、彼が振り返ったとき、必死でズボンにしまって隠そうとしてました。彼のソーセージをだれかに見せてわいせつ行為をしようとかそういうつもりはないんだと思いました。本当に彼が言ったように漏れそうだったんです。トイレがないから仕方なくここでやったと言うのは嘘じゃないと思いました。それに、彼のコートの前はだいぶ濡れてました。これで彼の罪は洗い流されました」
 私が言い終わると、ケリーは急に大声で笑い出した。
「よくやった、坊主! おまえさんの判断はそれでいい、満点 満点! ハハハ」といつまでも笑っている。
「よし! それじゃ次の遊び相手を探しにいくぞ」
 ケリーは私の尻を大きな手でパンとたたくと、笑いながら歩き出した。

 

 

マーケットストリート

 私たちはマーケットストリートを北に向かってぶらぶらと歩いていた。途中でケーブルカーが私たちを追い抜いていった。車内に座っていた日本人らしき顔立ちの小さな女の子が手を振ったので、ケリーも私もにっこり笑って、同じように手を振って挨拶した。

 パウエルストリートとマーケットストリートの交差点がケーブルカーの終点で、ここにはケーブルカーを方向転換させるための大きなターンテーブルがある。私たちがここについた時には、歩道にはケーブルカーが方向転換されるのを待っている人たちの長蛇の列ができていた。クリスマスプレゼントを両手に抱えた人、旅行鞄を持った観光客、会社帰りのスーツ姿の男達が、ある場所は2列で、ある場所は3列で、いまかいまかとケーブルカーに乗り込むのを待っている。

 

 ケリーと私はこの入り乱れた列をしばらくの間、立ち止まって見ていた。一体この中の何人がベトナムのことを考えているんだろうか? 今、アメリカがベトナムで何をしているのか、彼らは知っているのだろうか? クリスマスプレゼントを大事そうに抱えた人の列を見て、ふとそんなことを考えた。


 数分して、再びケリーが歩き出した。私はその後に従った。ケーブルカーを待っている人の列にそって、はじめは行列の右側を、しばらく行くとUターンして今度は左側を歩いて戻る。まるで何かを探しているようだ。私は黙ってついていった。

 ケリーが立ち止まった。彼の表情が厳しくなる。捜し物がみつかったのだ。彼の獲物。ケリーは獲物を探していた。列の右側の後ろの方にブルージーンズにブルーのジャンパー、白いスニーカーを履いた黒人がたっていた。ケリーの目は彼に注がれている。ケリーはすばやく獲物の後ろに近づいた。

「私の間違いでなければ、もしかして、ジョナス・ジョーンズか?」

"> ケリーはその男の後ろから訊いた。

「オシファーケリー!」

 男は振り返りもせず、落胆したような口調で答えた。私は列から外れたところで2人の話を聞いていた。この男も“オフィサー”と正しく発音できなかった。


(何故出来ない)

 そんな疑問がふと頭に浮かんだ。

 

「おまえ、なんでこんなとこにいる?! 答えろ!」

 ケリーが言うと、男はめんどくさそうに振り返ってケリーの顔を見た。年齢は40代くらい、アバタだらけの顔。男は白い歯を見せてにやっと笑った。

「ハロー、オシファー。ずいぶんとお見かけしませんでしたね」

「ジョナス、おまえ、どこに隠れてた?  サンクエンティンにぶち込まれてたんじゃないのか?!」

「いやぁ、オレはもう出ましたぜ、3週間前に、仮釈放でさ」

 ケリーは私のほうをみて、「オニール、ちょっとここへこい」と言って手まねきした。私は並んでいる人の間を割って、ケリーの側まで行った。

「オニール、この男はジョナス・ジョーンズといってな、商売はスリだ。いまからここで、商売を始める気だったらしが、わたしが営業妨害してしまったらしい。なぁ、ジョナス」ケリーはにやりと笑った。

「人聞きの悪いこといわねぇでくだせぇよ、オシファー。オレはもうスリはやらねぇ。うちへ帰るんでケーブルカーを待ってただけですぜ、もうトラブルはごめんだ」

「ほう。それは立派な心がけだ。ところで、ジョナス、私の仲間を紹介するよ。オフィサーオニールだ」といって、ケリーは私の肩をたたいた。 

「ハイ、オシファー、よろしく」

 ジョナスは握手を求めてきた。私も同じように手を出しかけたが、アカデミーで言われたことを思いだし、すぐに手をひっこめた。

『素性のわからない者とむやみに握手をするな。しっかり握れるものを相手にあたえてはいけない』

 ジョナスは私の顔をちらっとみて、「フゥン」と落胆したようにため息をもらし肩をすくめて手をひっこめた。

 

「刑務所で歯をなおしてもらったようだな」ケリーがいった。

「あの時はひどい目にあわされましたぜ」

 ジョナスは敵意の籠もった声で答えた。

「おまえが素直に逮捕されてりゃ、痛い目をみずにすんだのに、反抗するから、そんなことになるんだ」

「オレを殴って、歯をおっちまいやがって。残ってる歯はたった一本だけになっちまったよ。それに、歯だけじゃない、指の骨まで折ってくれた。アンタの手は怪物だよ、まったく!」

 声にはさらに怒りが籠もっている。

「だれかのポケットから、財布を抜き取ろうとしてる手が見えたからな。わたしは正義をなしたまでよ」ケリーが言った。

「ところで、ジョナス、ここにいるオフィサーオニールは、かなり気が短い。ベトナムに数年にいたから、たぶん向こうで何かあったんだろう。とにかく腹が立つと何をしでかすかわからん男だ。だからオフィサーオニールの前でうだうだ言ってると、どうなるかわからんぞ」

 私は一瞬、吹き出しそうになった。必死で唇をかみしめて、うつむいて笑いをこらえていた。ケリーはさらに続けた。

「この地区は、オフィサーオニールに任せることにしたから、彼が何をしようとわたしはいっさいタッチしない。だから、おまえも大怪我をする前に、とっととここからずらかったほうがいいぞ。そう思わんか。ジョナス?」

 私は下を向いて、握り拳で額をとんとん叩き、眉間に皺を寄せ唇をかみしめて、必死で笑いをこらえていた。その姿がジョナスには「危険な男」とうつったのだろう。

「わかりました、わかりましたよ、でていきますよ」

 といって、ジョナスはあたふたと私たちの前から逃げていった。

 

 

 私たちはしばらくの間、ターンテーブルの周辺で、他にもジョナスのようなスリがいないか監視していた。ときどき、観光客からホテルの場所をきかれたり、待っている人たちとたわいのない雑談をしながら、しばらくの間ここで過ごした。

 霧が流れている。何もせずにじっと立っているのはかなり寒い。ケリーも同じことを思ったのかもしれない。

「オニール、夕飯でも食べに行くか。うまいステーキの店があるぞ」

 またその店で賄賂を贈れと言われるのは御免被りたいが、冷え切った身体にステーキと言う言葉はかなり魅力的に響いた。

 

 私はケリーの横に並んで、彼のお気に入りのステーキレストランへ向かって歩いていった。パウエルストリート沿いにある<タッドのステーキハウス>は初期のサンフランシスコを思わせるようなインテリアだった。床には深紅のベルベットのカーペット、ビクトリア朝の壁紙。シックな色合いのテーブルとイス、ガラスのシャンデリア。値段も、ステーキ、ベイクドポテト、サラダ、コーヒーとついて、6ドル99セントと手頃な値段である。落ちついた雰囲気のカフェテリアスタイルの店だが、コックもウエイターもすべてゲイである。私たちが料理を選んでいるのをゲイ達がそれとなく見ている。もしかしたら、彼らも私たちを選んでいるのではないだろうか。何か妙な気分だった。

 私とケリーはトレーをもって店の一番奥にあるテーブルに向かった。私がイスに腰掛けようとしたときケリーが言った。

「入り口に背中をむけて座ってはダメだ、イスはこちら側にもってこい」

 たしかにケリーの言うように、出入り口の扉に背を向けて座ったがために、銃で撃たれた警官が何人もいることは事実である。

 

 フィリピン人の給仕がコーヒーのお変わりを持ってきた。私とケリーは2杯めのコーヒーをのんでから店を出た。外は夜霧でかすんでいる。旨いステーキと暖かいコーヒーのおかげで、寒さはそれほど感じなかった。街灯とビルの窓の灯り、ネオンライトで視界はそれほど悪くはない。パウエルストリートを登り、ギアリーストリート、ユニオンスクエアへとパトロールを続けた。歩道にはまだ人が多い。

 ユニオンスクエアの真ん中から、救世軍ブラスバンドの演奏が聞こえてきた。霧でにじんだ様々な色の光の輪、ブラスバンドの奏でるクリスマスメロディー。

 サンフランシスコで育ち、ダウンタウンは何度も来た場所である。毎年見てきたユニオンスクエアのクリスマスイブ。しかし、今年のイブの風景はいつもよりずっときれいに見える。ケリーとパトロールに出て、薄汚い浮浪者たちを見た後なので余計にそう感じるのかもしれない。今夜のユニオンスクエアは、私が今まで見たこともないような幻想的な美しさを感じた。

 音楽を聴きながらダウンタウンを行き交う人の流れを見ていると、一台の白いプリムスフューリーが視界に入ってきた。その車は10メートルほど先のセントフランシスホテルの前で止まった。

「オニール、何見てる?」ケリーが聞いた。

「あのホテルの前に止まったフューリー」と、自分の顔で方向を示した。ケリーは交差点の角に建っているホテルのほうに目を向けた。

「ああ、あれはキースだな。ああ、まちがいない。キース・ギャラガー警部だよ。お前も顔を覚えといたほうがいいぞ。彼はこの辺りを担当してるから、これから一緒に仕事することもあるかもしれないぞ」

「警部ですか」

「そうだ。本部の殺人課にいる。横を通り過ぎるときはじろじろ見るんじゃないぞ。なにか捜査中かもしれないからな。知らん顔してろ」

「はい」

 

 フューリーの横を通り過ぎるとき、道路を見る振りをして運転手をちらっと見た。グレーヘアーで口ひげを生やしフィールドジャケットを着た年配の男性で、コーヒーを飲みながら、何かメモを取っていた。警部が私に気がついたのかどうかわからなかったが、これが私とギャラガー警部との始めての出会いだった。

 

 

 私たちはメイソンストリートにむかってパトロールを続けた。買い物帰りの人の群れは皆、小走りで私たちとは違う方向へ去っていく。レフティーオドール(ベースボールバー)を通り過ぎ、しばらく歩くと世界中の新聞、雑誌を扱っている<ハロルドのブックショップ>がある。ケリーはその店に入っていった。フロアより一段高いレジの前に、黒髪で黒縁眼鏡を鼻まで下げた初老の男が座っていた。

 

「ハッピーハヌカ!  ハロルド!」

 

 ケリーの声が店中に聞こえて、立ち読みしていた客がレジの方をちらっと見た。

 

「メリークリスマス、ケリー!」

 

 黒縁眼鏡の老人も大きな声でケリーに挨拶を返した。眼鏡の奥で目が笑っている。

 

「ケリー、この若いのはあんたの友達か? それとも新入りかね?」

 

 店長のハロルドは私の顔をみてニッコリ笑った。

 

「彼はブライアン・オニール。まだ 新米だがいずれすばらしい警官になるよ、わたしみたいにな」

 

「そりゃ、こまったもんだ。最悪の警官はあんたひとりで十分だよ。たのむからケリーみたいにはなってくれるなよ」

 

 ハロルドはそういって微笑んだ。

 

 

 

 ケリーとハロルドが雑談をしている間、私は店内を見て回っていた。20分ほどこの店で時間をつぶしたあと、店を出てメイソンストリートを下ってダウンタウンをぬけ、オファレルストリートからエリスストリートへと霧で霞んだ歩道をゆっくり歩き、テンダーロインの中心部へ向かった。

 

 私たちは再び浮浪者のたむろするストリートへ戻ってきた。しかし、夕方よりも路上の浮浪者の数が減っている。どこかに寒さを凌げる手頃な寝場所をみつけたか、クリスマスイブの晩はセントアンソニー教会で神の慈悲にすがるのだろうか。

 

 

 

 風がおさまってきた。霧の流れが止まりテンダーロインはグレーにかすんでいる。テンダーロインの騒音まで霧が包んでしまったように妙に静かである。腕時計を見たら午後10時を少し過ぎたころだった。ギアリーストリートにさしかかったとき突然私の無線がなった。

 

「3 アダム42! 3アダム42!  応答せよ! 男が銃を振り回してます。場所はオファレルシアターの前。ポルクとオファレルの角です」

 

 何度も同じことを繰り返している。ケリーが肘で私をつついた。

 

「おい、呼んでるぞ、答えたか」

 

 私は慌てて無線をとって応答した。

 

「はい、3アダム42、今、エリスとポルクの角にいます」

 

 再び、司令室からの命令が来た。

 

「3アダム42は現場に急行してください。ポルクとオファレルの角で銃を振り回している男がいると通報を受けました」

 

 私とケリーは急いで指示された場所に向かった。

 

 

 

 

「止まれ!」

 

 私はケリーの前を走っていたが、もうまもなく通報をうけた現場に到着するというところでケリーに呼び止められた。

 

「まてまて、オニール。ここからはスピードを落とせ。すぐに現場にいくことも大事だが、早くいきすぎてもいけない。現場に近づいたら、ゆっくり歩いてまわりをよく見るんだ。おまえのまわり、前方、よく観察しながら現場に近づくんだ。いいな、決して慌てるな。安全な場所から何が起こっているのかよく観察するんだ。もしバックアップが必要なら、ここから援護をよべ、いいな!」

 

 ここからなら歩いても2分以内で現場に到着する。私はケリーに教えられたように、うっすらと靄のかかった歩道の前方、左右に目を凝らし付近の様子を探った。怪しいものは何もない。オファレルストリートを右に曲がってすぐ前方で、赤茶けた明かりの下に人だかりが出来ていた。全員の視線が彼らの足下にある何かに注がれている。

 

「どけどけ、警察だ、どけ!」

 

 ケリーは大きなバリトンで怒鳴りながら、人だかりを押し分け輪の中心に入っていった。私もケリーのあとに続いた。

 

 

 

 路上には黒人が仰向けに倒れていた。最初見たときはそれが人間の死体だとは思わなかった。大きな人形が転がっているように見えたのだ。つま先を上に向け股を開き、両腕を横にひろげ、顔は完全に崩れ、人間とは思えない。白い眼球が飛び出し、半開きの口からハンドガンのシリンダーが出ている。路上には血たまりが広がっていて、ぽっかり空いた後頭部の穴からはまだどす黒い血が流れ出ている。劇場の看板を囲んでいる電球の明かりが舞台のスポットライトのように、ここだけを照らし、闇の中から浮かび上がらせている。

 

 私は死体から目をあげ、ヌード嬢のポスターが入れてあるガラスのショーケースを見た。男の頭を貫通した銃弾でガラスは粉々にわれてしまっている。ガラスケースの中のポスターに薄いピンク色の茹でたエビのような塊が飛び散っていた。私はガラスケースに近づいて、それが何か確かめてみた。ガラスケースの中には白い肌の裸の女が2人で抱き合って、物欲しそうな目でこちらを見ているポスターが貼ってあった。彼女たちの白い肌一面に薄いピンクの塊が飛び散っている。私はその塊に目を近づけた。

 

 それは茹でたエビではなかった。死体の後頭部にあいた穴から飛び散った人間の脳みそ。どろっとしたピンク色の液体が彼女たちの白い肌の上をゆっくり流れていった。

 

  ケリーが叫んでいる。

「救急車と鑑識をよべ! オニール!目撃者を見つけろ!」

 私はすぐに司令室に無線を入れた。

「こちら3アダム42!」

「3アダム42、どうぞ」司令室からの声。

「3アダム42, 10-97、現在、オファレルシアターの前。ポルクストリート。男の射殺死体、自殺の可能性があります。大至急、救急車と鑑識を要請します」

 

 数秒待って、司令室からの返事が来た。

「10-4(了解)、3アダム42は現在地、セントラル地区のオファレルシアター。217(射殺死体)、801 ポッシブル(自殺の可能性あり)。408 エンルート(救急車が向かっている)、3サム12 ローリング(テンダーロイン署から巡査が現場に向かっている)。インスペクター42、レスポンディング フローム ギアリーアンドパウエル(ユニオンスクエアのパウエルとギアリーストリートから警部が現場に向かった)」

 

 

 

 私の足下に無惨な姿でころがっているものは人形ではない。彼は確かに人間だった。ベトナムで何回も頭を吹き飛ばされた死体を見たことがある。脳みそをまき散らした死体は何度も見た。しかし、ここはベトナムじゃない。ここは戦場じゃない。それなのに何故こんなむごたらしい死体が。この男は何故こんなひどい死に方を選んだ? なぜ? 私はまたベトナムにもどってきたのか・・・・・・

 

 

 

 

 

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※ ハッピーハヌカユダヤの言葉、「ハヌカ」はクリスマスとほぼ同じ時期に祝われるユダヤ教の祭り

 

レフティーオドール:サンフランシスコ出身のプロ野球選手(1897-1969)。ここは彼が作ったレストラン。

 

  

※10-97 : 警察無線のラジオコード。意味は[現場に到着した]

 

 

 

 

 

ユニオンスクエア1

ユニオンスクエア2

タッドステーキハウス

タッドステーキハウス店内