雑記帳

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エンジェルダスト(9)

第9章

 


 私は真っ暗な密林の中にいた。闇に締め付けられ、息苦しさすら感じる時もある。漆黒よりも黒く、暗黒よりも暗い闇。それは恐怖をもたらし、恐怖は人の奥底に潜む狂気を目覚めさす。

 深夜3時。べトコンが2度目の奇襲攻撃をしかけてきた。奴らはキャンプの周囲にはりめぐらした鉄条網を突破し、一気になだれ込んできた。
 一瞬、真っ白い光に包まれた。光はたちまち闇に呑みこまれる。
 私は闇に向けてやみくもに撃った。姿の見えない敵に向かって、あたってくれと祈りながら、ただひたすら撃ち続けた。弾の飛ぶ音が次第に大きくなってくる。敵はすぐ近くにいる。グレネードと迫撃砲がすぐ近くで炸裂する。オレンジと黄色と白の強烈な光。その一瞬の光の中で私は敵の姿を見た。無表情なゴーストがAK-47の銃口を私に向けて立っている。絶望も落胆も痛みも苦しみも感じられない無表情のゴーストの群れ。そして彼らの目からダランとぶら下がっているのは、飛び出したレロイの目。ぽっかりと穴のあいた頭蓋骨。真っ黒な軍服を着たおぞましい姿のゴーストが銃を乱射しながらやってくる。耳が張り裂けるような銃声の洪水。
 突然、炎が上がった。パチパチっという白いアーク光。B-52の爆撃! 
 無線が叫んでいる。
「投下まで1分!」
 上空でホイッスルがなるような音を聞いた。次の瞬間、私は吹き飛ばされ地面に叩きつけられた。

 起き上がれない! 目に見えない何かが私を押さえつけている。
 ここから逃げなければ!
 立てない!
 身体が全く動かない!
 その時、目が眩むほどの強い光!

「ノォォォォォー!」

 

     *****


 午前4時。真っ暗な部屋で目が覚めた。パジャマは汗でぐっしょり濡れている。再び目を閉じるのが恐ろしかった。眠れば夢の中で爆弾とベトコンが私を待っている。
 身体が重い。私はベッドから起き上がり、よろよろとした足取りでバスルームに行った。しばらくの間、熱いシャワーの下でじっと立っていた。湯が体中を流れていく。少しずつ、少しずつ、狂気が洗い流されていく。
 シャワーの後、洗い立てのスウェットスーツに着替え、ジョギングシューズをはいて、コロンブスアベニューの角にある売店までサンフランシスコクロニクルの朝刊を買いに出かけた。アパートにもどり、ダブルエスプレッソを作った。ロケット燃料――ダブルエスプレッソにつけたニックネーム。私はこの呼び名が気に入った。

 コーヒーを飲みながら新聞の記事に目を通す。昨夜の飛び降り自殺をした男の記事が載っていたが、すぐにめくって「ビートルベイリー」と「ピーナッツ」のマンガを読んだ。


 1973年、最初のパトロール。世間は新年を向かえ浮かれているが、私には日が変わっただけでしかない。でも署に行くと、フラナガン巡査部長からささやかなニューイヤープレゼントをもらった。パトカーのカギ。今日は徒歩ではなくパトカーでパトロールができる。ケリーが運転手。私は助手席に座りショットガンを抱えた。

 ニューイヤーは大晦日のことを思えば、随分と静かな日である。クリスマスや大晦日のように外でドンちゃん騒ぎをする連中もいない。皆、家でホットドックハンバーガー、ビールを飲みながらテレビでフットボールの試合に夢中になっている。   時々、司令室から「バーで喧嘩」の無線が入ったが、どれも怪我人が出るような大きな喧嘩はなかった。フットボールの審判に納得がいかないか、賭けたチームが勝ったのに、金を払わないことで腹を立てた客をなだめるだけですみ、ナイトスティックを振り下ろして止めなければならないような喧嘩は一件もなかった。

 ケリーはパトロールエリアから外れた街までパトカーを飛ばし、<ハッピードーナツ>に立ち寄ってコーヒーとドーナツで休憩し、また腹が減ると、担当エリアを外れた<ドギーディナー>でケチャップとマスタードのたっぷりついたホットドッグを食べた。
 私たちのパトカーはポルクストリートをゆっくり巡り、9時30分ごろ、あのいまわしいオファレルシアターのあるストリートに入った。車の前方の歩道を背の高い男が歩いている。がっしりした体格の背の高い黒人で、髪の毛は短く刈り上げ、一見すると、野球の選手かボクサーのように見える。私たちのパトカーが男の横を通り過ぎようとした途端、それまで特に不審な様子もなくゆっくり歩いていた男が 突然走り出してオファレルシアターの近くにある透明のプラスチックのパネルで仕切られたバスステーションのなかに駆け込み、パネルを蹴りはじめた。
「あいつ、なにやってんだ?」ケリーが言った。
「酔っ払ってるんでしょうか?」
 ケリーはスピードを上げてワンブロック先の角を曲がってもう一度、男のいる道へ戻ってきた。男はまだバスステーションの中にいる。しかもさっきよりももっと気が立っているようだ。スピードを落としてゆっくりとパトカーは男に接近した。男がパトカー存在に気づいた途端、男のアドレナリンが沸騰したようで、もっと激しく壁を蹴り怒鳴り散らしている。男のがなり声が車内まで聞こえてきた。
「あいつを調べるぞ、悪い酒でも呑んだか?」
 ケリーはオファレルシアターの正面にパトカーを止めた。
「オニール、司令室に伝えろ」
 すぐに私はパトカーのラジオ無線で司令室に連絡した。
「こちら3 アダム42。今、ポルクとオファレルの角です。バス停の近く。917(不審者)。NMA(Negro male adult/黒人の成人男性), 年は20代前半、身長は180センチくらい、体重は約90キロ、短い黒髪、長袖のグレーのシャツ、黄土色のズボンを着用」
 司令室から「10−4」の返事をうけたあと、私とケリーはロングバトンを持って車から降りた。私はクルーエルグローブをひっぱって、しっかりと指にフィットさせながら男に近づいた。ケリーはまっすぐに男に近づき、私はバスステーションの背後から接近した。

「どうしました? 大丈夫ですか?」
 ケリーは男をこれ以上、興奮させないよう穏やかなトーンで声をかけた。男は何も答えない。
「どこか具合でも悪いんじゃないですか?大丈夫ですか?」ケリーがもう一度問いかけた。男はケリーを無視して、バスステーションの囲いをけっている。プラスチックは男の蹴りに耐えられず、バリッと割れてしまった。周りにプラスチックの破片が飛び散った。
「そんなとこ蹴ったら怪我しますよ。一体どうしたんですか?」

 ケリーが3度目に言った時、男は急に向きをかえ、ケリーの顎めがけて強烈なパンチを食らわした。至近距離からの突然の攻撃でケリーは後ろにのけぞり、その拍子に帽子が吹っ飛んで溝にはいってしまった。男はケリーに体勢を立て直す隙を与えず、すかさず体当たりをくらわし歩道に押し倒した。男は馬乗りになり、ケリーの顔とボディーにパンチの連打を浴びせる。私は男の背中にとびかかり、チョークホールドで締め落とそうとしたが、技がきかない。背中に飛びついた小男の警官など、この男にとっては、背中にたかったハエでしかない。
 ケリーは必死で男の拳を叩き落とし、倒れた状態から男のみぞおちと顎をめがけ反撃のパンチを出しているが、スピードも威力も圧倒的に男のほうが勝っている。男のパンチは確実に決まっている。ケリーの目から鼻から口から血が出ている。この男はプロのボクサーなのか、あるいはボクシングの経験があるんだろうか。明らかに素人のパンチではない。タフなケリーといえど、マウントポジションからこれだけ強烈なパンチを連発されれば、いつまで意識が持つわけがない。このままでは殴り殺される!

 私は後ろからショートバトンを男の脳天めがけ振り下ろした。バトンは命中した。しかし、びくともしない。そんなバカな! バトンがきかない! 痛くないのか? 当たったことすら気がついていないようだ。何でもいい。とにかくこの男をケリーから引き離さねば。
 ケリーは身体を左右に捻って必死で起き上がろうとしている。身体を捻った時、ケリーの脇があいた。その瞬間、ケリーの肋に強烈なパンチがはいった。
うぐぅ!」
 ケリーが唸る。 苦痛に歪むケリーの顔。折れた! ケリーの肋が折れた!
 折れた肋骨を狙って男の拳が振り下ろされようとした時、ケリーはあの大きな手で男の拳をガバッと掴んだ。ケリーが手を掴んでいる間に私は男の脇腹を思い切り蹴り上げ、頭にワンツスリーと拳を叩き込んだ。 
 だめだ!
 今、この男が狙っているのはケリーのみ。ケリーの息の根を止めるまでほかの敵には見向きもしない。

 ケリーの手が次第に力を失っていく。とうとう手が離れた。男はケリーの手を叩き落とし、ジャケットの上からケリーのホルスターを鷲つかみにし、ストラップごと引きちぎろうとしている。ジャケットのボタンがはじけ、前がはだけ、ケリーの拳銃が見えた途端、男は拳銃のグリップを掴んだ。ケリーが男の手を抑える。男が拳銃を抜いたらケリーが撃たれる。私は後ろから男の頭、肩、背中と何回もロングバトンを打ち付けた。
どうなってるんだ! 叫び声すらあげない。
 私はすぐにロングバトンを男の首に回し、ありったけの力を込めて後ろにひぱった。男の首が折れたってかまうものか。拳銃は絶対に渡さない。この男をケリーから引き離さねば。私は必死で男の首にかけたバトンを後ろにひぱった。
 ホルスターを掴んでいた手が少し浮いた。と思った瞬間、男は首にかかったバトンを両手で掴み、ものすごい力で手前に引いて、私からバトンをもぎ取ってしまった。新たな武器を手に入れた男は標的をケリーから私に変えた。ぱっとジャンプして立ち上がりついでに、ケリーの脇腹をキックした。

 真っ赤に充血した目、ゼイゼイという荒い呼吸。あれだけバトンでのどを絞めたのに何故気絶しない。何故たっていられる。どこにこんな力が残っているんだ。コイツは本当に人間か。
 男はバトンを振り回し、横揺れしながら間合いを詰めてくる。子供の時にみた映画の中にこんな化け物と戦うシーンがあったような気がする。この狂った野獣に叩き殺されるか、それとも私が殺すか。やらなければやられる。バトンの的にならないよう、右、左、前、後ろと間合いを切ったりつめたりしながら身体を動かした。
 バトンの動きが頭上で止まった。
 この一瞬の隙に、一か八かの勝負。今、バトンの攻撃を避けるにはこれしかない。男の下半身に向かってボディーアタック。不意をつかれ、男はバランスを崩した。バスステーションの囲いに背中をぶつけその拍子にバトンをおとした。私はすぐにそれを拾って、狙いも定めずバトンをたたきつけた。
 グワァンという鈍い音。後頭部に命中。
 なんてやつだ。バトンがきかない。まだ立っている。どうして倒れない。 何も感じないのか。

 もう一度男の頭をめがけて振り下ろした。が、男は腕でバトンを叩き落とし、と同時に強烈なストレートが飛んできた。一瞬、目の前を光がとんだ。今のパンチで右目がよく見えない。私は闇雲にバトンを打ちつけた。膝に当たった。確実に命中したはずだ。それなのにまだ倒れない! 男はじっと立っている。ハァハァハァと言う男の激しい呼吸音。男の黒い肌は汗で光っている。真っ赤な目は私を見ているのか、それとも違う何かを見ているのか。まるで鮫の目だ。ハァハァハァとあえぎながら、胸をかきむしっている。
 私は次の攻撃に備えた、が、突然男は、何を思ったのか、シャツのボタンをむしり取り、自分の服をビリビリやぶりだした。そして破いたシャツを私に投げつけ、上半身裸でポルクストリートのほうへ走っていった。
 これから一戦まじえるという矢先に、突然敵が消えてしまった。なんともあっけない幕切れ。何かわからないが、とにかく化け物は去った。
 私はケリーの側に駆け寄った。ケリーは起き上がれない。かなり苦しそうである。私はすぐに救援を要請した。
「3アダム42。 警官一名、重傷。コード3(救援頼む)」
 強烈なパンチを食らった痛みで、声を出すのもつらい。
 私からの通報で 司令室が全ユニットに指令を送っている。テンダーロインエリアのユニットだけでなく、近隣のエリア、そしてサンフランシスコ市警の本部にも連絡が入っている。
『全ユニットへ、3 アダム42 から緊急連絡。コード3(救援要請)。オフィーサーへの加重暴行。容疑者はオファレルストリートからバンネスアベニュー方面に徒歩で逃走。容疑者の服装は、上半身裸、薬物中毒の可能性あり。武器の所持に関しては不明』

 司令室と各ユニットとのやり取りがラジオから聞こえてくる。夜の静寂はサイレンによって破られた。あちこちで容疑者を探すパトカーのサイレンが聞こえる。パトカーの無線が全ユニットに向け叫んでいる。
「容疑者はウエスタンアディションの"プロジェクト"に向かう可能性あり」

 私はケリーを抱き起こし、私の肩に持たれかけさせた。
「オニー・・・・・・」
 ケリーが何か言おうとしたが痛みで言葉が続かないようだ。
「何も言わないで。すぐ救急車がきます。だから頑張って」
 ケリーは小さく頷いた。

 フラナガン巡査部長が現場に到着した。
「大丈夫か、オニール」
「私は大丈夫ですがケリー巡査が、たぶん肋が折れてます」
 フラナガン巡査部長は頷いた。それからケリーの横に跪き、声をかけた。
「ジョン、何も言わなくていい。だいぶ派手にやられたようだな。今すぐ救急車がくるからしっかりするんだ。今、K−9とSWATも容疑者を探してる。見つかるのも時間の問題だよ。だからあとのことは心配せんでいい」
 ケリーは眉間にしわを寄せ唇をかみしめ、黙って頷いた。
「オニール、キミもだいぶやられたようだね。大丈夫か? 鼻が青くなってる」
 フラナガン巡査部長は少し驚いたような表情で私の顔を見て言った。ケリーと私がこうなった詳細を伝えると、いつもは穏やかな巡査部長の表情が次第に険しくなっていった。彼は各ユニットに無線で詳細を伝え、テンダーロイン署の巡査に私たちの乗ったパトカーをとりに来るよう指示を出した。それからすぐに救急車が到着し、私とケリーはセントラル救急病院に運ばれた。
 あの化け物のような男と格闘して、肋骨の骨折と打撲ですんだのもケリーの頑丈で大きな体格のおかげである。しかし数週間はギブスの生活になる。私のほうは打撲に加え、鼻の骨が折れていた。ひどい頭痛で頭の中が脈打っている。医者の説明によると、鼻の骨は折れてはいるが骨の位置は正しい場所に収まっている。要するに、私の鼻に関しては自然治癒にまかせて、医者はこれ以上なにもしないということだ。コデインの入った痛み止めの薬を貰っただけである。

 テンダーロイン署の巡査が病院まで迎えにきてくれた。署に戻ると、フラナガン巡査部長は私の代わりに報告書を書いていた。皆、心配して「大丈夫か」と声をかけてくれた。私たちはブリーフィングルームに行き、ほかの警官たちと一緒に無線に耳を傾けていた。容疑者を探し始めてから、一時間半くらい過ぎた頃、どこかの警官から「コード4 10−15 (救援は必要ない、容疑者確保)」の無線が入った。それから私とケリーに容疑者の顔を確認する為、テンダーロイン署の外で待つよう指示が来た。数分で、容疑者を乗せたパトカーが署の前に到着し、私とケリーはパトカーの後部座席を覗き込んで手錠をかけられた男の顔を確認し、この男に間違いないことを伝えた。

 翌日は、怪我の療養ということで、フラナガン巡査部長から休暇をもらった。数日は休んでもよいといわれたが、私もケリーも、休暇は一日だけで十分である。あんな事件の後だったが、薬のおかげで、いやな夢を見なくてすんだ。
 朝、サンドイッチを作っていたら電話がなった。本と雑誌と新聞に埋もれたテーブルから電話機を引っ張り出し、受話器を取った。
「はい、オニール」
「オニールか。わたしだ。おまえ、怪我はどうだ?」
 電話の相手はケリーだった。
「私なら大丈夫ですよ。頭痛で頭が脈打ってましたが、薬でなんとか痛みは治まってます。それより、アバラ、折れたんでしょ?大丈夫ですか?」
「ああ、こんなの大した怪我じゃないといいたいとこだが、昨日の晩は体中が痛くて泣いてたよ。見事なパンチをたくさんもらったからなぁ」
 ケリーの声はすこぶる元気である。
「アイツはもう化け物ですよ。たたいても蹴ってもびくともしない。あんなヤツ、初めてです」
「全く、とんでもないやつだったな。今ごろは、本部の連中に締め上げられてるよ」
 ケリーが言った。
 電話で話しながら、昨晩のバトルを思い出していた。全く人間と戦っている気がしなかったが恐怖感はなかった。パンチの痛みが私を狂気に戻したのか、それとも正気に戻したのかわからない。あの男と対峙した時、生きてることを実感できる何かを感じていた。私はモータルコンバットを楽しんでいたのだ。

「オニール、お前は明日から仕事に出るんだろ?」
「はい、そのつもりですが」
「グッドニュースだぞ。今朝、フラナガン巡査部長から電話を貰って、怪我がよくなるまでパトカーでパトロールできることになった」
「え!  ホントに?」
「ああ、ほんとだ。ほかの警官がバックアップしてくれるから、私たちは車を走らせてればいいだけだ。当分はテンダーロインのドライブだ」
「ヤッピー!」思わず口から出てしまった。電話の向こうでケリーの笑い声が聞こえた。

「お前のおかげで命拾いしたよ、ありがとう。お礼を言いたくて電話したんだ。じゃ、明日会おう」
 ケリーは電話を切った。

 もしも、あの男が銃をもぎ取ってケリーを撃とうとしたら、私は躊躇いなくあの男を撃ち殺していた。それが警官としてするべきこと。『Just do that !』――誰に教わったわけでもない。戦場で学んだ。するべきことをただするだけ。それ以上の理由はない。
 何はともあれ、私もケリーもまだ生きている。電話を切った後は、一日、本を読んだりテレビを見ながらのんびり過ごした。

 

     *****


 翌日の火曜日は、朝、ブライアントストリートにあるシティーオブジャスティスに出頭するよう連絡を受けた。 ここは裁判所のほかに、サンフランシスコ市警の本部、一階にサウサーンステーション(南署)、建物の上階2フロアは、刑期が1年未満の犯罪者と、裁判中の被告人を入れておくJail など、多くの施設が入っていて人の出入りの激しい建物である。

 法廷でケリーに会った。ケリーはギブスをはめているので、随分と動きが不自由そうに見えるが元気そうだった。私は目の下に青あざが出来てしまったので、それを隠すために、サングラスをはめていた。ケリーも目の周りが黒ずんでまるでパンダのようだ。
 私たちが格闘した獣が、車椅子に乗せられて法廷に連れてこられた。男の顔が変形してしまって、最初見たとき別人かと思った。唇がはれ上がり、歯が折れていて、額は奇妙な色にはれあがっている。おそらく私のバトンが当たった時にできた傷だろう。あちこち殴られたあとや、切り傷、擦り傷で、これが私たちと格闘した男だと一目で確認するのは難しかった。
 男の名前は、ポール・パパス。22才。逮捕状に添付されたメディカルレポートによると、ポール・パパスは歩行不能。原因は、膝頭の損傷。これは私のバトンが当たった傷だろう。逮捕時に、K−9が男の足に噛み付いたようだ。それ以外の打撲傷については誰がつけた傷かわからない。そして、血液検査の結果、男の体内からPCPが検出された。私たちと格闘した晩、この男は地獄の天使に操られていたのだ。

 テンダーロイン署に戻る前、警官たちから「サンフランシスコで一番まずいランチを出す」と囁かれている本部のカフェテラスに立ち寄った。本部の警官たちの多くは、ランチタイムになると、タウンセンドストリートにあるハッピードーナツか、少し足を伸ばしてホットドッグの旨いドギーディナーまでランチを食べにいく。ケリーは本部のお偉方を毛嫌いしていた。彼らはハッピードーナツにはいかない。警官たちが"クワイアプラクティス(聖歌隊の練習)"とよんでいる警官仲間を集めて酒を呑みながらわいわいやるパーティーより、カクテルパーティーを好む。ケリーに言わせると、ハッピードーナツにも行かない、クワイアプラクティスもしない、彼らは平気で部下を危険な場所に行かせるが、自分は決して行こうとしない、こんな連中には警官魂の欠片もない、自分の立身出世ばかり考えている政治家と同じだということだ。
 ちょうど私たちがコーヒーのトレーを持って席に着こうとしたとき、ギャラガー警部がこちらにやって来た。体が少し左に傾いた独特の歩き方で、遠くからでも警部とすぐにわかる。ムスッとした表情はいつもと変わりない。警部は脇に分厚い本を2冊挟んでいる。
「おはようございます」
 私は立って朝の挨拶をすると、警部は私のサングラスを少し下にずらして、「鼻の骨はどうだ? 医者は何もしてくれなかったろ」と、まるで医者が診察する時のように鼻の付け根をじろっと見ていった。
「はい、でも警部、医者のことどうして知ってるんですか?」
「ハハハ、オニール、経験者は語る、だ」
 ケリーが笑いながら答えてくれた。
「ああ、はい、はい、そうなんですか」私も一緒に笑った。
「ジョン、そっちはどうだ。ケイコが心配してたぞ。お前がやられたってのにびっくりしてたよ」

「わたしは大丈夫だよ。ケイコサンにジョンは簡単にはくたばらないよって伝えておいてくれよ」
「おまえには骨折はかすり傷だからな、そう伝えとくよ。それよりも、今週の金曜、あいてるか? ケイコが夕飯を一緒にどうかって言ってるんだが。うちでスキヤキ、どうだ? ボーイに会いたがってる」
「え、私にですか? 警部の奥さんが」
「とにかく、あんなすごい相手と格闘した新米警官に興味しんしんでね」
 警部がニヤッと笑った。
「ヘイ、オニール! ラッキーだなおまえ。怪我をしたおかげで奥さんのスキヤキが食べれるぞ。金曜は非番だから、もちろん、いけるよな」 
 ケリーの目が「イエス」と言えと催促している。私も警部の奥さんにはあってみたいと思っていたので即座に「イエス」と返事をした。それから後の段取りはほとんどケリーが一方的に決め、金曜午後4時にギャラガー邸に集合と言うことになった。

「ああ、それと、ジョン。ニューイヤーに飛び降りた男、名前はケビン・ワシントン。こいつからもPCPが出たぞ。ボーイの勘があたったな」
「じゃ、やはりあの男もレロイみたいに衝動的に自殺したんですか?」私が訊いた。
「そうだな。PCPがまわって飛び降りろと天使の声をきいたんだろうな」
「またPCPかい。一体どうなってるんだ。クリスマスイブから連続じゃないか」
 ケリーがそう言うと、警部は膝の上においていた分厚い本をタイトルがみえるようにして私たちのほうに差し出した。表紙にはまるで呪文のような長たらしいアルファベットがならんでいる。

  【PHENYLEYCLOHEXYLPIPERIDINE】

「フェニル、クロ、アー、いらいらする! 何だい、この長たらしい名前は?」
 首をかしげてタイトルのアルファベットを読んでいたケリーが訊いた。
「フェニルシクロヘキシルピペリジン。これがPCPの化学名だ。こんな薬物は今までサンフランシスコで聞いたことがない。去年のイブから 今日までに3件もPCPがでたとなったら、もう少しPCPの知識を収集する必要を感じてね。さっき、図書館で借りてきた。ボーイ。まだ老眼じゃないだろ。ジョンはそろそろ頭も目も弱ってきてるようだから、しおりを挟んだところ、読んでやってくれないか?」
 ケリーがコーヒーを飲みながら警部の顔をじろっと見たが警部はそ知らぬ顔である。私はしおりのはさんであるページを開いたが、小さい字でびっしり書き込んである。
「そのページ、上からざっと読んでくれ」警部が言った。
「はい、えっと、フェニルシクロヘキシルピペリジン、別名フェンサイクリジンは、一般的にはPCP、エンジェルダストという呼び名で知られていて、1926年に非合法で合成され、1952年、解離性麻酔薬として開発された。使用すると精神活性作用が3時間ほど続く。体内からこの薬が消失するには8日以上かかり・・・・・・」
 声を出して人前で読むのは高校以来なので、どうもスムーズに読めない。オマケに字が小さくて読みずらい。ケリーと警部は私の下手くそな朗読を黙ってきいている。私は先を続けた。
「Olney's Lesions と呼ばれている脳障害を引き起こし、ラットの実験では、フェンサイクリジンを投与したラットには統合失調症様の脳の異常が認められた」
 そこまで読むとケリーが本を覗き込むように身を乗り出してきた。
「精神錯乱をひきおこすのか、そういえば、レロイの目撃者も、デビルがどうとか叫んでいたとか、目撃者がいってたなぁ」ケリーが言った。
「はい、人間の場合は、幻覚や妄想、離脱感と、それから様々な精神障害があって・・・・・・えっと、統合失調症の患者と区別がつかない、と書いてありますよ」

「フェンサイクリジンの形状は、本来、白色の結晶性粉末で・・・・・・、あ、これは、粉末を水に溶かして使うことも出来て、マリファナのような葉に振りかけたり、浸したりできるのか。パセリ、ミント、ジンジャーも・・・・・・、それを吸って」
「おい、オニール、1人で納得してないで、次は?」
 ケリーが催促した。
「あ、ええっと、『強い酒』と言う言葉はタバコなどを浸す為、PCPを水で溶かしたものをさす。液状のPCPに浸した後 乾燥させ喫煙することでPCPが体内に摂取される。使用すると、心と身体が分離したような感覚、恐ろしい幻覚によって凶暴性を発揮し、痙攣、それと、発汗、心臓発作、不安感、言語障害、感覚が麻痺し・・・・・・」
 そこまで読んで、おとといの晩、あの狂った男に何故バトンが効かなかったか納得がいった。
「どうした?」警部がいった。
「いえ、今、読んだところ、この感覚が麻痺。だからパパスは痛がらなかったのかと.えっと、次は、感覚が麻痺して・・・・・・」
 細かい字なので、一度ページから目を離すと、どこまで読んだか判らなくなってもたもたしていたら警部が言った。
「よしよし、そこまででいい。後は私が説明したほうがよさそうだな」
「いま、ボーイが言ったように、あの晩はポール・パパスはPCPの影響で、何も痛みを感じてなかったわけだ。この本で私も納得がいったよ。フラナガンから貰った報告書に書いてあることが信じられなくてね。並の人間なら、ロングバトンの打撃に耐えれるわけがない」
「恐ろしい薬だな」ケリーが言った。
「ジョン、もっと恐ろしいのは、ちょっとだけ、気晴らしで使ったPCPが、統合失調症のような脳の異常を引き起こし、暴力的になって他人を傷つけたりする。ポールがこれだ。2人の怪我を見ても、かなり凶暴になってたようだな。完全に自分を見失って、パンチを繰り出すだけの殺人ロボットになってたわけだ。それだけじゃないぞ。自分で自分を痛めつけたくなったり、突発的に死にたくなったりする場合もある。だからレロイとケビンの自殺の理由もこれで説明がつくだろ」
 警部は本を閉じて、私たちの顔を見ながらコーヒーを一口すすった。ケリーは腕組みをして頷いている。警部は先を続けた。
「兆候としては、顔が赤くなって突然暴れ出す。白目の充血 瞳孔拡大、眼振、目玉が意思とは関係なく異常な動きをする。それから、バランス感覚の消失、要するに、まっすぐたてない歩けない、カニのような横歩きになるわけだ。こういう人間をみたら、PCPを疑ったほうがいい。彼らの目には、たぶん何か恐ろしい物が見えてるはずだ。パパスが見ていたのはジョンでもなけりゃ、ボーイでもない。何か人間以外のものが見えていたと思う。それから、記憶喪失。パパスはあれだけのことをしておきながら、本人は何も覚えていなかった」
「警部、これって、精神疾患の症状、殆んど全部じゃないですか」
「その通りだ、ボーイ。殆んど全部、あらゆる症状が一度に出てくる。エンジェルダストはそういう薬だ。それが今、サンフランシスコに入ってきた」
 警部の話を聞いて、私の脳裏にレロイの白目、ケビンの穴の開いた頭、パパスの鮫のような目が鮮明に蘇ってきた。彼らはエンジェルに支配されていた。サンフランシスコに舞い降りた天使は神の使いではない。これは人間を地獄に引きずりこむ悪魔の使者だ。
「あの、警部。たった1週間の間に3人もPCPが出たって事は、だいぶ街中に広まってるはずだと思うんですが、どうして本部はPCPの情報をパトロール警官に流さないんですか?」
「流さないんじゃなくて、流したくないだけだろ。キース」
「まぁそんなとこだな。上に行くほど何でも独り占めしたがる傾向があってね。仲間同士でも重要な情報は分かち合わない主義がまかり通ってるよ」
 警部は少し身体を前に乗り出し今よりも抑えた声でいう。
「私が今、話したことよりももっと詳しい情報はすでにFedsが持ってるはずだ。彼らは私たちと情報を分かち合う気は全くない。それで、2人に少し協力してもらいたいんだが、PCPのコピーを各分署にばらまいてほしい。この本から、必要な箇所をピックアップして、原稿は私が作る。協力してくれるか?」
「はい、もちろん、手伝います」
 私は即座に返事をした。
「コラッ! おまえ、トレーナーをさしおいて、先に結論を出すな!」
 ケリーが半分笑いながら私の頭をポンとたたいた。
「あの、ダメなんですか?」
「イヤ。もちろんオッケーだ」
 警部はあきれた顔で私とケリーを見ていた。
「ジョンはパトロール課(patrol division)に知り合いが多いだろ。一週間で3人もテンダーロインでPCPが見つかってるから、先ずはテンダーロイン署とその周辺のエリアにコピーを配布してほしい」
「わけないよ。コピーを配るくらい簡単だ。それに、何が起こったか署の連中もみんな知りたがってる」
「そうか、じゃパトロールエリアは二人に任せるよ。それから」
 警部は軽く咳払いして話を続ける。
「これはオフレコの話だが、殺人捜査課(ホミサイド)のチーフとDA(州の検察官)に会って、色々話して来た。PCPの件に関して、その資料を全て見せてもらったが、ここ数ヶ月の間にPCPが原因と思われる事件が数件あった」
「ってことは、サンフランシスコでPCPを売りさばいているヤツがいるんだな」ケリーが言った。
「被害者はほとんど黒人だ。おそらく、PCPの売買はテンダーロイン、フィルモア、サウスイースト、ハンターズポイント。このエリアで行われていると思う。ミッション地区のヒスパニックにも2人犠牲者が出ているが、今のところ黒人の犠牲者のほうが多いからミッション地区は捜査から外してもいいだろう。どう思う、ジョン?」
「なぁ、キース、彼らはレイシャルプロファイリングだと、文句をいうんじゃないか? 白人の警官は貧しくて社会から虐げられた弱者をいじめてるっていうだろうなぁ」
「弱いものいじめ? どうして?」
 私が訊くと、警部は軽くため息をついた。
「彼らはそう思ってる。白人の警官が黒人のエリアに捜査に入るのを嫌がってるんだ。社会の底辺で生きている貧乏な黒人を逮捕すれば、彼らからすると弱いものいじめになるんだよ。私たちが探し出そうとしている売人も、そういう貧困にあえいでる社会の弱者かもしれない。だがな、ヤクを売ってる連中は、それでたんまり稼いでいるんだ。それが貧乏人か。売人はPCPを買った相手が死のうが生きようが、そんなことはどうでもいい。要は、金が入ればいいわけだ。そういうやつが弱者か。それはとんでもない大間違いだ」
 警部の語尾が荒くなっている。ケリーは頷きながら聞いていた。
「それと、検察官の話では、今回のケース、PCPの売人を殺人罪で起訴するつもりだ。その線で捜査を進めているようだ」
「殺人事件ですか。それじゃ、レロイもケビンも自殺じゃなくて殺人? でも、レロイのときは目撃者もいるし・・・・・・」
 私が訊くと、警部は椅子に座り直し、押さえた声で話し始めた。

「レロイの場合は誰が見ても自殺だと思うだろうな。だが、カリフォルニアでは、誰かが法に触れるようなことをしたとき、ほんのちょっとした軽犯罪でもいい。たとえば、私がジョンにヤクを売ったとしよう。ヤクを買ったジョンが誰かにそれを売って、その男が死んでしまった場合、ジョンは殺人犯ということになるんだ。ジョンには相手を殺す意図がなかったとしても、法的には殺人罪が成立する。もちろん、ジョンにヤクを売った私も殺人の共犯ということになる。つまり、私もジョンも相手を殺すために拳銃の引き金を引いたのと同じことになるわけだ。そういう理屈で、検察側もいろいろ捜査している」
「そうなんですか。じゃ、今回のPCPは殺人事件なんだ」

「そうだよボーイ。おまえもいつか捜査官になるかもしれないから、州法もしらないとな」
「オニールはそのうち立派な捜査官にもなれるよ。そのときはキースを助手にすればいい」
 ケリーが笑いながら言った。
「そのときは、私もジョンも引退してるよ」
 警部は白い歯を見せて少しだけ笑った。
「それじゃ、私は本部に戻るから。金曜日、4時だぞ。忘れると署長が怖いからきてくれよ。じゃ、金曜に」

 警部は軽く手を振って本部のほうへ戻っていった。
「署長って?」と訊くと、ケリーは笑いながらいった。
「ケイコさんだ」

 

 

 

 

 

 


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※ジョン・W・オルニー:セントルイスワシントン大学医学部医学博士

Olney's lesions ;(オルニーの病変)
グルタミン酸ナトリウム(MSG)を投与したラットの実験で神経細胞の損傷、破壊を認めた。

※The Feds:
FBI.CIA, DEA (Drug enforcement agency)
ICE (Immigration and customs Enforcement) などの
連邦政府の警察機関の総称

※レイシャルプロファイリング;人種的分析。犯罪捜査において、人種によって差別すること。ギャラガー警部は黒人の多く住むエリアのみを捜査対象にしている。

※DA(District Attoney)州検察官 《各連邦裁判管轄区の合衆国検察官

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※サンフランシスコは拘置所、留置所の区別はありません。
このような施設はJAILとよばれています。
1年未満の軽犯罪者、未成年者の犯罪者はJailに入ります。
一年以上の判決が出た被告人はSTATE PRISON に収監されます。

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※クルーエルグローブ:
メンズの黒い革手袋のこと。クルーエルは残酷、無慈悲という意味。警官は革手袋のことをこう呼んでいました。

※ プロジェクト とは福祉政策の一環として低所得者むけにたてられたアパートのこと。家賃もやすく、中には家賃が無料の部屋もある。ここの住人は殆んどが黒人で、ドラックと拳銃がらみの暴力事件が多いことでも有名である。たわいのない理由で警官に発砲する住民もいる。
注:1970年代のはなしです。ただし、現在もプロジェクトは危険なところもあり。

※SWAT:(特殊火器戦術部隊)注:文中にはSWATと書きましたが1970年代はまだSWATという名称はありません。

※K-9(canine):警察犬チーム