雑記帳

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エンジェルダスト(11)

金曜日。

 パパスに殴られたときにできた目の周りの痣はまだ消えていない。それをブラックのアビエイターサングラスで隠し、まじめな好青年をきどって、グレーのウールのズボンにライトブルーのシャツ、赤と青のストライプのネクタイ、ホワイトのVネックセーターにネイビーブルーのスポーツコートをはおり、プレッピースタイルできめて、午後2時にアパートを出た。
 ギャラガー警部の奥さんが私に興味を持っている。それにしても初対面の日に、こんなかっこ悪い顔で会わなければならないと思うと、照れくささと恥ずかしさが入り混じった複雑な心境だった。ギャラガー夫人へのプレゼントを買うため、ワシントンストリート沿いにあるゴールデンローズフラワーショップに立ち寄った。警部の奥さんは日本人だとケリーが言っていた。日本女性にはどんな花がいいのかよくわからなかったので店主に花を選んでもらい、白と黄色の菊を混ぜて花束を作ってもらった。
 店を出たあと、ブロードウェイストリートに沿って西に向かい、ロシアンヒルの麓からポルクストリートに通じているブロードウエイトンネルを抜け、ギャラガー警部の自宅があるハイドストリート1800番地をめざして歩いていった。警部の自宅を見つけるのに時間はかからなかった。家よりも先に道路のわきに駐車してあるケリーの青いワーゲンを見つけた。ワーゲンの横には淡いグレーとブラウンを混ぜたような色合いのレンガ塀があり、その先に重厚な木製の扉があった。扉の上には、警部から教えてもらった番地が真鍮の切り文字で表示されていた。サンフランシスコでは真鍮はすぐに黒く変色してしまう。よほど注意して見ない限り、そんなところに番地が表示されていることに気がつく人は少ないだろう。背の高い塀と木の扉で道路からでは中の様子がまったく見えない。扉の横にあるインターホンを押すと、すぐに「はい」という女性の声が聞こえた。
「あの、ブライアン・オニールですが」
「オニールさん? あのご用件は?」
「今日、警部に招待されて来たんですが、ギャラガー警部にお会いできますか」
「はいはい、ギャラガー警部ね。ギャラガー警部だけに会いたいのね。ビッグケリーとギャラガー夫人には会いたくないのね。ごめんね、残念だけど二人に会いたくなったら、そのときにもう一度出直してきてくれるかしら」
 と、予期せぬ門前払いに少し面食らったが、その女性の声は明るくて、笑顔でしゃべっているようだ。
「待って、まって! ビッグケリーとギャラガー夫人にも会いたいです」
 インターホンの向こうから、笑い声が聞こえた。
「そう、ビッグケリーと主人の母に会いたいのね。家ではギャラガー夫人っていったら主人の母のことよ。それじゃ、ギャラガー警部の奥さんには会いたくないのかしら」
 インターホンから笑い声交じりの流暢な英語が返ってきた。
「あの、あの、もちろん会いたいです。あの、警部の奥さんですね、プレゼントがあるんですが」
「まぁ! 私にプレゼント! すてき! アハハ、ブライアンね。ごめんね、からかっちゃって。あなたがもうすぐ来ると思って、そこの扉の鍵は開けておいたから中に入ってきてくれる。猫がいるから気をつけてね」
 やっとギャラガー邸に入場の許可が出た。それにしても面白い奥さんだ。人懐っこいしゃべり方をするので、年上の女性と話しているというよりも、年下の女の子と話しているような気になった。

 電子錠がついた重たい扉を開けるとレンガで造った階段があった。階段の両端にはローズマリーが生い茂っている。階段を上がると、木の生い茂った庭になっているが、ここは庭というよりはちょっとしたジャングルだ。背の高い椰子の木とまったく剪定されていない松の木。名前のわからない木の間にフジも植えてある。それぞれの枝が重なり合って太陽の光をさえぎっているので、未だ4時前だというのにずいぶん薄暗い。ここに立っていると、深い森に迷い込んだような気になってくる。地面には小さな植物とコケ、パンパスグラス、人工的に作ったと思われる小川と池。あちこちに大小さまざまな岩が置いてあり家の正面に近づくほど岩の形も大きくなっている。
 こんな庭にしようと思ったのは警部だろうか? それとも奥さんの趣味だろうか?美的センスのまったく感じられないカオスのような庭。人が見たら、この家の住人はよほどの無精者か変人だと思うだろう。
 岩の陰から黄金色のふさふさの尻尾が見えた。私の気配を察したのか、サッとシッポを岩の後ろに隠した。そのとき、突然ひらめいた。この庭に植えられた木、巨大な岩はでたらめにおいてあるのではない。すべて計算の上に配置されているのだ。
 サンフランシスコは坂道の町である。警部の家は坂の下に建っている。誰かが坂の上から望遠鏡で警部の家をのぞこうとしても、木が目隠しの役目をして中が見えない。地面はコケで滑りやすくなっている場所もあり、枯葉が散乱しているので歩けば葉を踏む音がする。庭に忍び込んだ誰かが部屋の中に銃弾を撃ち込みたくても、大きな岩が盾の役目を果たし、弾を撃ち込むことができない。
 庭が家族を守っている。刑事の隠れ家としては最高の設計である。

 玄関のドアは開いていて、その奥でブルーのエプロンをつけた身長160センチくらいの少しふっくらした日本女性が微笑んで立っていた。ほんのり薄化粧をして緩やかにカールしたセミロングが彼女の丸顔にとてもよく似合っている。実際の年齢はもっと上だろうが、30代前半くらいにみえる。
「いらっしゃい。ブライアンね」
 にこやかな顔で彼女が挨拶した。
「はじめまして」と、私は握手の代わりに軽くお辞儀をした。
「あの、これ、奥さんにプレゼントです。今日は招待していただいて有り難うございます」
 花束を受け取ると、彼女は満面の笑みを浮かべて言った。
「まぁ、いい匂い! きれいなお花ね。有り難う、ブライアン。私のことはケイコってよんでちょうだいね。主人の友だちはみんなそう呼ぶの」
 日本人とは思えないくらい流暢な英語である。
「あの、英語、すごくじょうずですね。日本の人だって全然わからないです」
「アハハ、私、アメリカ人よ」
「え? アメリカ人?」私は思わず聞き返した。
「日本人の顔してるのに変でしょ。私、二世なのよ。サンフランシスコで生まれて、戦争が終わってから日本の大阪にいって、またもどってきたの。そんなことより、さぁ、あがってちょうだい」
 ケイコさんに言われて、靴のまま部屋に入ろうとしたら、「ここは日本の家だから、ごめんね、靴、ぬいでね」と注意された。日本人は靴を脱いで部屋にあがるということをすっかり忘れていた。

 ケイコさんに導かれて、広いリビングルームに案内された。インテリアはすべて落ちついたマホガニー色で統一されていて、ビクトリアスタイルのアンティークな椅子がこの部屋の雰囲気によくあっている。壁には日本の絵がいくつか飾ってあった。
 合気道を稽古していたころ、日本文化に少しだけ興味を持ったことがある。しかし、あのころは、日本文化のことよりも、合気道の稽古で汗をかいて、くたくたになるまで体を動かすことのほうが楽しかった。誰が描いたのかわからないが、漫画のようなサムライの絵があった。私がその絵の前で立ち止まって見ていたら、「ブライアン、それ知ってる? 歌舞伎絵っていうの。歌舞伎役者の顔よ。写楽って人がかいたのよ。その隣は北斎の浮世絵。神奈川沖波裏ってタイトル、全部、主人の趣味なの、それから、ブライアン、こっちにきて」と、名前を言われてもさっぱりわからなかったが、警部の部屋に案内されるまで、あちこちの壁や棚に飾ってある浮世絵、書道、陶芸茶碗など、ケイコさんの解説でミニ美術館のようなギャラガー邸の展示品を楽しませてもらった。

 廊下の突き当たりにある部屋からケリーと警部の声が聞こえてきた。
「インスペクター42、10-97 (到着した)」
 と言って、ケイコさんがドアをノックするとすぐに中から「10-4」というギャラガー警部の声が聞こえた。警官と結婚したカップルを数名知っているが、家の中で警察無線のテンコードで会話する夫婦は始めて見た。私が部屋に入ると、ケリーが開口一番、「遅いぞ、オニール! もうボトル一本あけてしまったよ」
 赤ら顔のケリーの顔がもっと赤くなっている。ケリーも私と似たようなサングラスをかけていた。
「ジョンは2時間も前からここに来て飲んでるんだ。さぁ、こっちにきて座りなさい」
 警部はブラックレザーのソファーにゆったり腰掛け、空のグラスにギネスを注いで私のほうに差し出した。どこから聞こえてくるのかわからないが、この家に入ったときから小さな音でずっとクラシックが聞こえていた。警部の部屋にもクラシックが流れている。
「家の展示品ツアーはどうだった? ケイコはうちに来る客、全員に解説つきで案内して回るのが好きみたいでね。興味のない人には苦痛だったんじゃないかな?」
「いいえ。いろいろ見せてもらって楽しかったですよ。警部の和風の趣味、すごいですね。警部の家、すごいなぁ。今日は招待してもらってありがとうございます」というと、「警部なんて肩書きはここじゃとってくれよ。家のルールだ。私を呼ぶときはキースでいい、ついでに、このあつかましいビッグガイも、ジョンでいいぞ」
「え、でも・・・・・・」
 とためらっているとケリーが言った。
「肩書きなんて面倒なもの、この家じゃとっちまえ。ルールだぞ、オニール」
 ケリーは元気な声で笑っている。ウイスキーが程よくまわっているのだろう。
「あ、はい、ジョン、あの、でも、そんなに飲んで、体、もう大丈夫なんですか?」
「わたしの骨はオールドブッシュミルズがあればあっという間にくっつくよ。あ、そうだ、おまえにはいいのを作ってやるよ」
 そういうとケリーは空いているグラスにギネスを半分ほど注ぎ、その中にブッシュミルズをどぼどぼ入れて、「ほら、これがタフガイカクテルだ」といって私に渡してくれた。 
「ジョン、だめよ、ブライアンいじめちゃ。それより、あなたのサングラスの下も、ジョンと一緒なの?」
 といって、ケイコさんは自分の人差し指で目の周りに円を描いた。
「ええ、まぁ」とあいまいな返事をしたら、「殴られてできた傷は勇者の証だ、なぁボーイ」と警部が補ってくれた。
「勇者の証? それ、やんちゃ坊主の証でしょ、ねぇ、キース」
 ケイコさんはいたずらっぽい表情で警部を見た。横でケリーが笑っている。

 ケイコさんは夕食の準備をするといって部屋を出て行った。私はケリーの作ってくれたタフガイカクテルを一口飲んだ。酒は強いほうだと自分では思っているが、こんなのをケリーと同じペースで飲んだら、間違いなくい1時間以内にダウンする。私はケリーからもう一杯飲めとすすめられないよう、ちびちびなめるように飲みながら警部の部屋をゆっくり見回した。
 警部の部屋は学者の書斎のようだ。書類が山のように積みあがっているダークブラウンの大きなデスク。和風の小物があちこちに置かれている。大きな本箱には、法律学から犯罪学、心理学、薬学、芸術関連の本、植物図鑑、百科事典、地質学と気象学、武道の本、日本語でタイトルが書かれた本が手当たり次第に突っ込んである。「整理整頓」という言葉とは程遠い部屋であるが、この部屋はなぜか妙に落ち着く。
「すごい数の本ですね」
 私は本箱を眺めながら警部に言った。
「私が君ぐらいの年は、戦時中だったからね。勉強したくてもできなかったんだよ。その反動で市警にはいってから、無性に勉強したくなってね。いつの間にやら本がたまってしまったよ」
 警部は本箱の方に顔をむけて言った。

 「勉強」といわれると、楽しくなかった高校時代を思い出してしまう。義理の父にサンフランシスコでも一番厳しいカソリックの高校に強制的に入れられて、高校時代は勉強ばかりしていた。学生時代は「遊ぶ」という言葉は私の生活の中にはなかった。唯一の楽しみは合気道の稽古の日。がむしゃらに体を動かしていれば、いやなことは全部忘れることができた。この高校を卒業すれば、カリフォルニアでも一流の大学に入学できる。同級生はほとんどが大学に進学したが、私はそういう道を選ばなかった。義理の父への反発もあって、生ぬるい大学生活ではなく、戦場を選んだ。
 本箱の下段に合気道の本が並んでいたので、じっと見ていたら、「合気道がやりたかったら、私が教えている道場に来ればケイコが相手をしてくれるよ」と警部が言った。
「行ってもいいんですか?」
「稽古したければいつでも来ればいい。その代わり彼女、6段だ」
「ワオ! 6段ですか! すごいですね!  警部、じゃなくてキースが奥さんに教えたんですか?」
「違う違う。私じゃない。合気道を教えたのは彼女のおじいさんだ。もともと京都の警官でね、警察で合気道と警官を辞めてからは近所の道場で剣術を教えていたんだ」
「ケイコさんのおじいさんも警官だったんですか」
「ああ、それで警官の主人を選んだわけではないだろうけど、そういえば、アメリカの警官はサムライと同じだって彼女のおじいさんがよく言ってたよ」
「ああ、そういわれてみれば、そうかなぁ」
 サムライ映画は何本か見たことがある。確かに彼らも死を恐れない勇敢な兵士だ。でも、ハラキリだけは理解できない。自殺なんてばかげてる。警部の口からサムライの話がでて、昔見た映画の中の、ハラキリの場面が浮かんできた。
「でも、アメリカの警官はハラキリはしませんよ」
「ハハ、そりゃ、オニールの言うとおりだ、わたしなら首を切り落とすほうにまわるよ」
 ケリーが手で首を切るまねをしながら言った。
「ハラキリで死ぬのはいやだなぁ、すごく痛そうですよ」
「ハラキリは痛いか。それもそうだな。よし、それじゃ、ハラキリは無しにして、われわれサンフランシスコのサムライに乾杯だ。ほら、ボーイ、一気にいけ」
 警部は新しいグラスにブッシュミルズとギネスを並々と注いでくれた。ケリーが笑ってみている。
「ボーイ、ほら、サムライスピリットがあるなら一気にいけ! 立派な警官になれないぞ!」
 私が来るまでに一体何杯飲んだのかわからないが、警部もだいぶアルコールが回ってきてるようだ。どうにでもなれと、一息で飲み干すと、警部もケリーも大きな声で笑った。こんなに楽しそうに笑う警部を見たのは初めてだ。
 それからすぐに、ケイコさんがドアをノックして、食事の準備ができたことを知らせに来てくれた。ドアが開いたとき、食欲をそそるいい匂いが部屋に入ってきた。私たちは空のグラスを持って、一列に並び、ケイコさんについてキッチンまで歩いていった。

 広くてゆったりしたスペースのキッチン。外でも食事ができるようにガラスの壁と天井でしつらえたサンルームがある。キッチンの真ん中には背の高いカップボード、ステンレスの調理代、現代風のしゃれたキッチン道具が並んでいる。壁をくりぬいて作ったアーチ型の入り口の向こうはダイニングルームになっている。モダンなイメージのキッチンとは対照的に、隣のダイニングルームはシックで落ち着いたオリエンタルな雰囲気が漂っていた。バーガンディーを貴重としたペルシャ絨毯。チャイナ風のタペストリー。和風の陶製の置物。木のフレームに入った大小さまざまな写真。壁際には革張りのソファーや肘掛け椅子、ロッキングチェアがあちこちにおかれている。煉瓦を組んで作った大きな暖炉には火が入っていて、その前で黒白の猫が2匹寝ていた。私が庭で見かけた黄金色の尻尾の持ち主は、壁際に置かれた寝椅子の上で私たち人間の様子をじっと観察している。ソファーの横におかれたマホガニーのサイドテーブルの上には私がプレゼントした花が活けてあった。ペイズリー柄のテーブルクロスがかけてある大きなテーブルにはすでに料理の用意がされていて、真ん中におかれた幅広の鉄なべからいい匂いがしてくる。
「おなか減ったでしょ、さぁ座って」とケイコさんに言われて、私はケリーの隣に腰掛けた。
 スキヤキという料理を初めて食べたが甘辛く煮込んだ肉がとても旨い。ケリーはオールドブッシュミルズを飲みながら箸で肉をつついていた。私以外みな、箸を上手に使っているが、私がフォークで食べていたら、「スキヤキをフォークでたべると、ブライアンだけ違う料理を食べてるみたいにみえるわね」とケイコさんにからかわれてしまった。
 なべの中には私の知らない日本の食材ばかり入っていた。ケイコさんから名前を教えてもらったが、覚えることができたのは「トーフ」だけで、あとはみな、右から左に名前が抜けていってしまった。

 それから2時間くらい、スキヤキを囲んで他愛ない雑談をしながら楽しい時間をすごした。
「アップルパイがあるの、ちょっとまってね」とケイコさんがキッチンにさがり、デザートの用意をしている間、私は席を立って、部屋に飾ってある写真を眺めていた。その中にセピア色の写真が一枚あった。戦時中の写真で、アーミー服をきた若いころのギャラガー警部が写っていた。その隣に並んで写っている背の高い若者はケリーのように見える。
「あの、この写真に写っている背の高い人はひょっとしてジョンですか?」
「ああ、その写真か、そうだよ、若いころのジョンだ。GHQに配属されて駐留軍で東京に来たときに撮ったんだよ。東京から戻ってからジョンと一緒に市警にはいったんだ。だから、戦時中から今までジョンとはずっと一緒だ。腐れ縁の夫婦みたいなもんだな。ケイコより長い付き合いだから、20年以上になるかな、ジョン」
 といって、警部は壁際の寝椅子に横たわっているケリーのほうを振り向いて言ったが、いつの間にやらケリーは黄金色の猫と一緒に寝てしまっていた。
「とうとうダウンか。まぁいい、寝かしとけ、家に帰ったって猫しかいないしな」警部が言った。
「あの、奥さんはいないんですか?」
「聞いてなかったか? 奥さんは数年前になくなってね。たまに家に来て一緒に食事して、いつも酔っ払って寝てしまうよ」
「奥さん、なくなられたんですか。そうか・・・・・・それじゃ、ここが家みたいなもんですね」
「まるっきり自分のうちのつもりでいるよ。当分起きないからな。まぁ、ボーイも好きなとこに座ってゆっくりしてなさい」

 しばらくして、ケイコさんがアップルパイとコーヒーをトレーに乗せて持ってきた。長いすで寝ているケリーをチラッと見て、やさしい笑みを浮かべた。
「はい、どうぞ、ブライアン、ここに置くわよ、あとはセルフサービス。コーヒーのお変わりはキッチンにあるから、あとは好きなようにしてて」
 トレーをテーブルにおくと、ケイコさんは人に勧めるわけでもなく、自分のアップルパイを食べ始めた。警部はコーヒーカップを持って、暖炉のそばの肘掛け椅子に腰掛けた。私はもう少し、ダイニングルームに並べられた小物を見学させてもらうことにした。
 日本の仏像、陶器の茶碗、花瓶、小さな陶製の人形、写真立て、アロマキャンドル、木彫りの置物。アジアの珍しい小物がたくさん並べられているが、その配置には何の秩序もない。ただそこにおいてあるだけだ。

「ねぇ、ブライアン、ずっと警官を続けるの?」
 壁に飾ってある写真を眺めていたら、後ろからケイコさんに声をかけられた。
「はい、そのつもりです」
「キースとジョンが聞いたら大喜びするわね。長年、警官してると、いろんなことあるから、何かあったらいつでもいらっしゃいよ。遠慮しなくていいわよ。そんなことしたらキースが怒っちゃうわ。ジョンなんて、独身に戻ってからウイスキー持参で非番のたびに来てるわよ。ほら、そこの棚の一番下、ジョンのウイスキー、キープしてあるの」
 ケイコさんが指し示すほうを見たら、オールドブッシュミルズが10本ほど並べられていた。
「これ、全部、ジョン専用のウイスキーですか?」
「そうよ。これがないとだめみたいね。自分で命の水だって言ってるわ。アル中って意味じゃなくて、ジョンにはこれが必要なの」
 私は長いすで寝ているケリーを見た。時々、寝返りを打つのが気に入らないのだろう、ケリーの腹の上で寝ていた猫は場所を移動して、今は警部の足元で丸まっている。ケリーは起きる気配はまったくない。この上なく無防備な姿で気持ちよさそうに眠っている。

「オイ、ケイコ、サティが流れてる、ラジオのボリューム上げてくれないか」
 警部に言われて、ケイコさんは後ろの飾りだなにおいてあるラジオのボリュームを上げた。静かなピアノ曲が流れてきた。警部はひざの上に乗った猫の頭を撫でながらしばらく聞いていたが、やがて手の動きが緩慢になり、そのうちにとまってしまった。警部も寝てしまったようだ。

 しばらくの間、何もせず、ただ座ってラジオから流れてくるピアノ曲を聴いていた。
 何だろう。この不思議な感覚は。ここにいるだけで気持ちが和らいでくる。外を走る車の音も聞こえない。時々、暖炉の薪が弾ける音だけ。ラジオから聞こえてくる物悲しいピアノの調べ。間接照明の柔らかな光。暖炉の上に置かれたアロマポットからやさしいラベンダーの匂いが漂ってくる。この部屋にいると、次第に思考するという力が失われていく。ここは不思議な空間だ。結局、私も眠ってしまった。「帰るぞ」とケリーに起こされ、警部の家を出たのは深夜2時だった。


 翌日、パトカーで巡回中、ユニオンスクエアで警部のフューリーを見かけた。横を通り過ぎるとき、警部は私たちのほうを見ていたが、いつもの無愛想な警部に戻っていた。ケリーは今日はまた一段と元気になっている。本当にオールドブッシュミルズで骨がくっついてしまったのではないかと思えてきた。パトロールの途中で運転を変わろうかとケリーが言ったが、直りかけの怪我が悪化すると良くないからとケリーの申し出を断って、ずっと私が運転した。

 それから3日間は大きな事件もなく、パパスのような化け物も現れなかった。唯一、厄介な仕事といえば、ギャラガー警部が作るといっていたPCPの資料作りが、結局は私の仕事になってしまった。どこで警部の気が変わったのかわからないが、「立派な警官になりたければ知識を増やせ」といわれて、警部から、私が朗読したPCPの本のコピーを渡された。断るわけにもいかないので、本のコピーと、別の本から得た情報を加えて3日間かけて資料を作成し、4日目にコピーを数枚警部に渡し、残りはケリーと一緒に近隣の分署に配布した。フラナガン巡査部長からは、「いいものを作ってくれた」と感謝された。PCPに関する知識を前もって持っていれば、わけもわからず殴り合いをして大怪我をする率も減ってくるだろう。

 パトロールに出ていると時間があっという間に過ぎていく。テンダーロインの風景はどこも毎日同じである。しかし、そこで起こる犯罪は、毎回、違った姿を見せるのだ。時々、ギャラガー警部の家が無償に恋しくなるときがある。あのダイニングルームですごした穏やかな時間が、遠い昔の記憶のように思えてくる。

 

 

(続く)

 

 

 

 

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※パンパスグラス:シロガネヨシ。南米産、日本のススキに似ている植物