エンジェルダスト(31)
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サンフランシスコは、まるで真冬の嵐が来たかと思うほどの冷たく激しい雨に襲われた。
午後4時。
ケイコ・ギャラガーはサンフランシスコ美術学校の正門に車を停め、立花真琴を待っていた。10分ほど前まで、狂ったようにフロントガラスをたたきつけていた雨は幾分落ち着いてきたが、ケイコの心は穏やかではなかった。
30分ほど前、夫のキースからオニールが撃たれて意識不明の重態だという電話を受けた。
真琴になんと言えばいいのか――運転している間、ずっとそのことを考えていた。
4時10分、真琴が校舎から出てきた。黄色いレインコートのフードを深くかぶり、正面に止まっている真っ赤な1970年型MGBGTまで走り、助手席に乗り込んだ。
「すごい雨! 台風みたい」
フードをはずし、レインコートを脱ぎながらケイコをみて笑いながら真琴が言った。
しかし、ケイコの顔に笑顔が浮かばないのを見て、真琴が聞いた。
「ケイコさん、どうしたの?」
「あのね、まこちゃん・・・・・・」
「はい?」
笑顔のない真剣な表情のケイコをみて、真琴は、自分が何か粗相をして注意されるのではないかと思った。
「30分ぐらい前にね、キースから電話がかかってきて、今から病院にいかないといけないの」
「警部さんがどうかしたの?」
「ちがうちがう、キースじゃないの。キースじゃなくてブライアン」
「何? ブライアンがどうかしたの?」
「彼、今、大学病院のERにいるの。詳しいことよくわからないけど、まこちゃん、とにかく、あなたをつれて病院にいかないといけないの」
「ケイコさん、どうしてブライアンがERにいるの?」
「ごめんね、まこちゃん。私も詳しいことがわからないの。今日ね、何か大掛かりなイベントがあるって言ってたのよ。キースはそれだけしか教えてくれなかったけど、たぶんそれでブライアンが怪我をしたんだと思う。とにかく病院へいきましょう」
ケイコが答えると、真琴は運転席のほうに体を向け、ケイコの腕をきつくつかんだ。
「お願い、教えて、ほんとのこと教えて、ケイコさん、知ってるなら教えて。怪我って大怪我? 何があったの? お願い、ケイコさん、教えて」
ケイコは真琴の顔を見た。真琴の目は瞬きもせずじっとケイコを見つめている。
「あのね、ブライアンが、怪我・・・・・・」と言いかけて、ケイコは言葉をとめた。
「ブライアンが何?」
訴えかけるような目で真琴がケイコを見ている。
「あのね、まこちゃん・・・・・・」
ケイコは一瞬、言葉につまった。
「なに? 怪我が何? ケイコさん、お願い、言って」
数秒の沈黙。ケイコは何かを言おうとして口を開けたが言葉が出ない。教えて、と真琴の目が訴えている。
「撃たれた・・・・・・」
とかすれた声がケイコの口から出たとき、真琴はケイコの腕を強くつかんだまま視線をケイコから外した。何も言わず、ただ自分の足元をにらみつけている。もう一方の手は爪が食い込むほど膝を強くつかみ、小刻みに震えている。ケイコは真琴の手に自分の手をかさね、ささやくような声で言った。
「まこちゃん、病院にいこう」
真琴は小さくうなずいた。
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5分後、ケイコのMGBは水しぶきを跳ね上げながら、カリフォルニアストリートを目指してハイドストリートの坂を下っていた。ワシントンストリートの交差点では、衝突事故で横転したトラックの荷台からこぼれ落ちた大量のレンガを市の作業員が拾い集め、道路の清掃をしていた。
外の景色は真琴の目には何も入らなかった。ただ視線を足元に落とし、一言もしゃべらなかった。
「まこちゃん、病院に着く前に、あなたに言うことがあるの。」
信号待ちをしているときにケイコが低く静かな声で言った。真琴は返事をしない。
「今、聞きたくないなら、又、今度にするけど」
「なんですか」
顔を上げ、かすれた声で真琴が訊いた。
「すごく重要な話なの。今、ブライアンと暮らしてるでしょ。だから、どうしてもあなたに知ってほしいことがあるの」
ケイコは真琴に目を向けた。
「まこちゃん、警官の仕事はものすごく危険なの、わかるわね」
真琴は無表情でうなずいた。
信号が変わると、ケイコはゆっくりとアクセルを踏み込み、運転しながら話を続けた。
「警官はね兵士と同じなの。町の人たちを守るために戦ってる兵隊なのよ。ブライアンもジョンもみんな、この町の人たちが不幸にならないように私たちの世話をして、守ってくれてるの。私たちのためにね、彼らは命がけで戦ってるのよ。時々ね、私たちのために、彼らの命を全部与えてしまう警官もいるのね。私、キースと結婚してから、救急病院から電話がかかってきたことが何度もあるの。もうどうしていいかわからなくて、何を考えればいいのか、頭の中がむちゃくちゃになってね。病院にいくまで何が待ってるのかわからないでしょ。だから、すごく怖くて・・・・・・まこちゃんも、今、そうだと思う。あなたはまだ若いし、ブライアンと長く付き合っていないから、彼のこと完全にはわかっていないと思うけど、でもこれだけはわかってほしいことがあるの。私もあなたも警官と一緒に生活してるってこと、それをよくわかってほしいの」
ケイコがそこまで話し終わると、今までうつむいていた真琴が顔を上げ、ケイコを見た。
「まこちゃん、あなたがこの先もブライアンと一緒にいたいなら、覚悟を決めなきゃだめ。
いつか、あなたが一番望んでないことが起こるかもしれない。だから、その日のために、心の準備をしておくの」
「心の準備?」
「そう。心の準備。まこちゃん、強くなりなさい。あなたはブライアンのために強くなるの。
自分のために強くなるの。それができなければ、警官とは一緒に暮らせないのよ」
ケイコはハンドルを握り、目は前方を見ている。真琴はケイコを見た。それから、ケイコと同じ方向に目を向けた。窓を叩きつける雨。ワイパーが必死で追い払う。二人とも何も言わない。しばらくして、真琴が口を開いた。
「私、わからない、強くなれるかどうか・・・・・・今までそんなこと考えたことないから・・・・・・」
「それなら今、考えて。ブライアンを愛してるの? 彼はあなたの命を救ってくれたでしょ。だから、きっと彼のことを大切に思ってると思うの。その気持ちが何なのか、自分に聞いてみて。それは愛なのか、それとも、すぐに消えてしまう落書きみたいなものなのか、自分の心と対話するの」
ケイコはハンドルから右手を離し、真琴の手を軽く握った。
「私、愛って何かよくわからない」
真琴が答えると、ケイコは真琴の手を強く握った。
「まこちゃん、よく聞いて。警官はね、ギバー(giver/与える人)なの。仕事と町の人たちに毎日たくさんのものを与えてるの。でもね、与えるばかりじゃ、いつかは空っぽになってしまうでしょ。そうなった警官は最初は心が枯れて、最後には体が枯れて死んでしまうのよ。
だから、枯れないためには、警官にはいつも水を与えてくれる人が必要なの。まこちゃん、今すぐに考えて。ブライアンのためにずっと水を与え続けられるかどうか。病院に着くまでに答えを出して」
真琴は何も言わず、ただうなずいて、ケイコの手を握り返した。それから病院につくまでの間、二人は何もしゃべらなかった。
カリフォルニア大学のメディカルセンターの建物が見えてきたころには、雨の勢いも幾分弱まり、真っ黒だった雲は灰色に変わっていた。ケイコは病院の駐車場に車を止め、真琴と一緒に、エマージェンシールームに向かって走っていった。
エマージェンシールームの廊下でギャラガー警部とジョン・ケリーが待っていた。真琴はケイコの腕につかまり、血の気の失せた顔でギャラガーとケリーの前に立った。ギャラガーは真琴を抱き寄せ、
「大丈夫だ」
低く静かな声。真琴は無言だった。棒立ちで、ただギャラガーの胸に顔をうずめていた。
「ブライアンは、どう?」
ケイコが訊いた。
「手術は終わったが・・・・・・」
ギャラガーは一瞬、間をおいて眉間にしわを寄せ、腕の中の真琴に視線を移し、それからケイコに目を向けた。夫と目があうと、ケイコは「大丈夫」とでも言うように軽く目配せした。
ギャラガーは小さく頷いた。
「至近距離から弾倉が空になるまで撃ち合ったんだ。頭を撃たれた」
棒立ちだった真琴の手が動いてギャラガーのジャケットを強く握り締めた。
「だいじょうぶ。弾は入ってない。ただ出血がひどかった。手術は終わったが、意識がまだ戻らない」
「一発だけ?」
ケイコが訊くと、ギャラガーは首を横に振った。
「5発撃たれてる。左の太ももと、後ろから2発、弾は貫通したが肋骨が折れてる、それから右肩。右の太ももは、撃たれてはいないが、弾で肉がえぐれて、そこからも出血がひどかった」
ケイコは一瞬、息を吸い込み、唇を強くかみ締めた。
真琴は目を強く閉じていた。その目じりから涙がこぼれ、頬の輪郭をたどって首筋に消えていった。ギャラガーは真琴をしっかり胸に抱きしめた。
「会える」
真琴は胸に顔をうずめたまま、くぐもった声で訊いた。
「会えるよ」
ジョンが答え、真琴の肩に手を置いた。
「一緒においで。病室まで行こう」
真琴は横に立っている大きな警官を見上げた。真っ白な髪、コバルトブルーの瞳、ケリーはやさしく包み込むような表情を真琴に向けた。真琴は小さく頷き、ギャラガーから体を離した。そのとき、真琴はケリーが右腕を怪我している事にはじめて気がついた。ケリーが手に持っているジャケットは右袖が裂け、血がこびりついていた。
「その血」
「ああ、ちょっと弾がかすっただけだから、わたしのことは心配しなくてもいいよ」
ケリーは大きな手で真琴の小さな手を握り、一緒に病院の地階にあるリカバリールーム(RR/術後回復室)まで歩いていった。ケイコと警部も二人の後に従った。
オニールが移された12号室のドアには『面会謝絶』のプレートがかかっている。4人が病室の前に来たとき、中から看護婦が出てきた。ケリーの顔を見ると、看護婦は「家族の方以外、面会できませんよ」と愛想のない顔と声。
「家族だ」
ケリーはそう言って病室に入っていった。
真琴はケリーに手を引かれて病室に入った。しかし、ベッドに横たわっているオニールの姿が目に入ったとき、その場で立ち止まってしまった。
「眠ってるだけだ、大丈夫」
ケリーは真琴の肩を抱いて、ベッドの枕元まで彼女を連れて行った。
オニールの頭には幅の広い包帯が巻かれ、顔面は蒼白、両腕には点滴の針が射しこまれている。ベッドの上からハンモックのように吊り下げられている幅広の包帯の上に左足を乗せ、右足は枕の上に置かれている。
真琴はベッドの脇に座り、オニールの顔をじっと見つめた。オニールは全く動かない。
蝋人形のように生気のない顔。真琴の体は徐々に椅子に沈み、益々小さくなっていく。
しばらくの間、病室には、真琴のすすり泣く声しか聞こえなかった。
「マコト、名前をよんでやってくれ。ここに戻ってこれるように呼び続けるんだ。オニールは道がわからないんだ。だから、名前を呼んでやってくれ。そうしたら、こいつはここに戻ってくる。必ず戻ってくる。だから名前を呼んでやってほしい」
ケリーが優しい声で真琴の耳元で言った。真琴は小さくうなずき、オニールの耳に顔を近づけた。
「ブゥラァイアン、おきて・・・・・・ おきて・・・・・・」
オニールの耳元でささやき、包帯からこぼれている髪の毛を静かに触った。ダークブラウンの髪の毛にはすでに白髪が混ざっている。真琴の目に一気に涙があふれ、零れ落ちた涙はオニールの頬を伝っていった。
「おきて・・・・・・ ブラァイアン・・・・・・アップルパイたべよ。いっしょに たべよ・・・・・・じょうずにやくから。いっしょにたべよ・・・・・・おきて、ブラァイアン、一人じゃ、いやだ、おきて・・・・・・」
涙で言葉を詰まらせながら、真琴は耳元でささやき続けた。
「ブラァイアン、死んだらだめ・・・・・・おきて・・・・・・ブラァイアン、ブラァイアン、死んだらだめ・・・・・・死んだらだめ・・・・・・死んだらだめ」
真琴は初めて学校を休んだ。朝になるとケイコの車で病院まで連れてきてもらい、夜になるまでオニールのそばにいた。ケイコとギャラガー、ケリーが朝晩交代で病室を訪れ、オニールの名前を呼び続けた。
三日めの朝、真琴は病室に来るとすぐに枕元に座って、オニールの耳元で朝の挨拶をした。
「ブゥラァイアン、おはよう、ブラァイアン、おきて、ブゥラァイアン。今日は雨やんだよ。ねぇ、おきて。ねぇ、ブゥラァイアン、起きて」
涙で声が詰ると顔をあげて、ゆっくり落ちていく点滴のしずくを見た。それから再び耳元で名前を呼ぶ。
「ブラァイアン、起きて。死んじゃダメ。ブラァイアン、ブライアン、一人にしないで、置いていかないで、ブライアン・・・・・・」
そのとき、なにか声を聞いたような気がした。真琴はオニールの顔を見た。しかし彼の口元は閉じたままで何も変わっていない。真琴はもう一度、耳元で名前を呼んだ。
「ブライアン、ブライアン、一人にしないで ブライアン、置いていったらいやだ。ブライアン、ブライアン、ブライアン」
何度も何度もオニールの名前を呼んだ。
「おきて、ブライアン」と言ったとき、オニールの唇がかすかに動いた。
「もう いち ど・・・・・・」
真琴ははっきりとオニールの声を聞いた。
「なに、なに、言って、何、ブライアン」
真琴はオニールの顔に向かってよびかけた。返事はない。真琴は待った。そうして数分過ぎたとき、微かにオニールの唇が動いた。
「もう いち ど、なまえ、ブライアン」
途切れ途切れの小さな声だった。
「ブライアン」
真琴は少し大きな声で呼びかけた。オニールからの返事を期待したが、彼の唇は動かなかった。
「ブライアン」と真琴がかすれた声でもう一度呼んだとき、オニールの目がゆっくりと開いた。
「それでいい・・・・・・ぼくは・・・・・・ここにいる、きみを、おいて、いかない」
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私が覚えているのは、地面にたまった真っ赤な血。それから、何か白いものの中にずっといたような気がする。
私の意識が完全に戻ったとき、枕元でじっと見ているマコトのアーモンドの目が見えた。
その後ろで、マコトの肩に手をかけ、覗き込むようにして私の顔をみているケイコさんが見えた。ベッドの足元で、いつもの無愛想な顔で何度もうなずきながら私を見つめている警部が見えた。腕組みをしてコバルトブルーの瞳で私を見下ろしているジョンの大きな体が見えた。
「おかえり」
ケイコさんの声。初めて会ったときの、あの柔らかな笑みを浮かべて私を見ている。
「バカヤロ。パートナーはな、無線の届くとこにいるもんだ。一人で遠くまで行くな」
ジョンが言った。そしてすぐに目頭を押さえ、天井を向いてしまった。
私はベッドの足元に立っている警部を見た。警部は何も言わない。ただ、じっと私を見ている。眉間にしわを寄せ、無愛想で少し怒ったような警部の顔。なぜかわからないが、この顔にあえて嬉しかった。
「ブライアン」
マコトが言った。きれいな発音だ。私の名を呼ぶ声を、白いもやの中で何度も聞いたように思う。いや、間違いなく聞いた。はっきり聞こえた。彼女の声が私をここへ案内した。
私は帰ってきたんだ。私の町、サンフランシスコ。帰ってきた。自分の家へ帰ってきた。
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翌日は、朝一番にジョンと警部が部屋にやってきた。
「どうだ、生還一日目の朝は?」
ジョンが言った。
「包帯だらけでミイラの気分ですね」
「なにはともあれ、やれやれだ、良かったよ。パートナーのおまえがいなくなるなんて、考えたくもなったからな」
「ジョン、それなら心配しないで。年金をもらうまで、まだ19年と7ヶ月あるから、それまではパートナーやめませんよ」
ジョンが笑った。私も笑いたかったが、胸が痛くて大きな声では笑えなかった。警部はあごひげを撫でながら、私を見ていた。
「痛みはどうだ、ボーイ、今日はもうすぐしたら拷問だからな。泣くんじゃないぞ」
「拷問?」と私が聞き返すと警部はにやりと笑っただけで何も言わなかった。
警部とジョンが帰った後、事件の事情聴取のため殺人課と麻薬課から捜査官が数名、病室にやってきた。その中には内部調査委員会のメンバーと、パトロール課のタランティーノ警部補の顔もあった。後から聞いた話だが、タランティーノ警部補は、市警の署長室にテレビ局が来た日からあちこちに媚を売り、自分の首をつなぎとめるのに必死だったらしい。努力の甲斐あって、いまだにパトロール課に籍をおいている。今日も、チーフの命令を無視して私の病室に押しかけてきたようだ。
事情聴取が終わるまで、医者は痛み止めの注射を打ってくれなかった。話の途中で眠ってしまうとと困ると思ったのだろう。痛みに耐えながら、自分の身に起こったことを思い出し、間違いのないように受け答えしなくてはならない。事情聴取が始まって二時間くらいはまだましだった。しかし後半になると、あちこちに痛みが襲ってくる。大きな声ではっきり話す事など到底不可能なのに、捜査官たちはこちらの事情などお構いなしに訊いて来る。警部の言ったとおり、これは私にはまさに”拷問”だった。捜査官たちが引き上げたあと、医者が注射をうってくれた。何の注射かわからなかったが、そのおかげで、翌日の朝まで完全にノックダウンだった。
マコトは学校が終わると、毎日ケイコさんと一緒に見舞いに来てくれた。週末は、朝から彼女一人でやってきた。もう外を歩いても、マコトの命を狙うものはいない。夜になってケイコさんが迎えに来るまで、ずっと私の枕元に座って話をしていた。彼女の話はいつも質問ばかりである。
「痛い? 銃でうたれたら熱い? どういうふうに痛い? ショットガンとライフルは同じ? ちがう? あなたの銃、なに? ビッグケリーの銃は? 警部さんの銃は?」
マコトの口から出てくるのは、女の子が興味を持つような質問ではなかった。銃の話を 彼女が理解できる英語で説明するのは、事情聴取に答えるよりも大変だった。でも、私の説明を目をまん丸にして聞いているマコトの顔を見ているのが私には楽しかった。
ベッドに縛り付けられた生活が二週間続き、やっと少しの間なら外に出ても良いという許可が出た。病院のアテンダントが、毎日決まった時間にきて、車椅子で散歩に連れ出してくれた。
時々、ジョンが私を誘拐しにやってきた。看護婦に見つからないように、こっそり病室を抜け出し、ジョンのフォードでドギーディナーまでホットドッグを買いにいった。どういう誘拐計画がたてられていたのかは知らないが、たいていいつも、ドギーディナーに行くときはフォードの後部座席に私のロングコートを持ったマコトがいた。時々、本部の近くにあるハッピードーナツまでドライブすることもあった。まだ傷が治っていない体に、ドライブはきつかったが、車椅子の散歩よりはずっと楽しかった。
入院生活も一ヶ月が過ぎ、サンフランシスコは五月になっていた。医者は私を車椅子に縛りつけておきたかったようだが、私は病院のアテンダントに頼んで、松葉杖を貸してもらった。早く自分の足で歩けるようになりたかったから、マコトが見舞いに来たときは、看護婦に見つからないように空き地まで車椅子で連れて行ってもらい、そこで松葉杖を使って歩く練習をした。時々、転んでしまうこともあったが、マコトは決して手を貸さなかった。その代わり、私が自力で立ち上がるまで、いつまでも待っていてくれた。
週に一度、非番の日になると、警部とジョンが病室に顔を出し、エンジェルダスト事件の報告に来てくれた。
タイリーとクリープランド・ジョーンズは拘置所(county Jail)に入っている。彼らの弁護士が、起訴を取り消すために証拠隠滅を図ったようであるが、結局うまくいかなかった。
ロンの父親、ハワード・チャンは、広東パシフィックの帳簿類すべての法廷調査が終わったあと無罪になった。ハワードは、自分の息子がギャングと関係していた事は前から知っていた、と証言したが、ハワード自身がロンの密輸と関わっていたいたという証拠が発見されなかったのである。ピア48の倉庫から押収した商品から、PCPを混入したスノーグローブ、殺虫剤のスプレー、アロマオイルが見つかったが、これらの商品はすべて、倉庫の管理を任されていたロンが父親に内緒で香港からオーダーしたものである事が判明した。
マスターチャンは、ロンが死んだ事も、私が銃で撃たれた事もニュースで知っていた。私のことを心配して、ギャラガー警部に会いにきたそうだ。警部はマスターチャンにロンの犯した事をすべてを話した。
14Kの指示で香港からエンジェルダストを輸入し、町にばら撒いていた事、マコトのアパートの壁に”DIE JAP”の落書きをしたこと、そして、ジョイラックボーイズにマコトを殺すよう依頼した事――
話をすべて聞き終わったマスターチャンは、悲しい表情でがっくりと肩をおとし、帰っていった、と警部が話してくれた。
しかし、警部が持ってきた話の中には面白いものもあった。以前から、香港マフィアの動きを警戒していたヤクザの友人、サミータナガワから<エンジェルダスト>事件が解決した事を祝って、日本酒の箱が3つも届いたそうだ。
中に添えられていた手紙には、
『ギャラガー先生と若き精鋭部隊へ
これは私からのささやかなプレゼントです。
これからも、われわれの友情が末永く続きます事を願っております。・・・・・・』
と書かれていた。
もう一枚、きれいなライトブルーの小さなカードが入っていた。それには、
『ブライアン・オニール様
一日も早い回復を祈っています。
元気になったら、ギャラガー警部と一緒にラスベガスに遊びに来てください。皆様 のお越しを心よりお待ちしております。
マリリン・宮崎』
”マリリン・宮崎” という人を私は知らない。警部に「この人は誰ですか?」と訊いたが、いつものように、にやりと笑うだけで、何も教えてくれなかった。
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二ヶ月が過ぎ、入院生活最後の晩、フラナガン巡査部長が見舞いに来てくれた。ラムの葬儀以来、フラナガン巡査部長には会っていないが、足の怪我もすっかり治り、一月ほど前からセントラル署の夜勤のスーパーバイザーとして仕事に復帰したそうだ。
「君たちのおかげで、テンダーロイン署の評判もずいぶんよくなったよ。長年、テンダーロインにいるが、君とジョンくらいだなぁ。テンダーロインの名を良いほうで有名にしてくれたのは・・・・・・そういえば、キースもそうだった」
「あの、警部も?」
私が訊くと、急に何かを思い出したようにフラナガン巡査部長が声を出して笑った。
「どうしたんですか?」
「ああ、ちょっと、昔を思い出してね。キースとパートナーを組んでた事があってね。私も一緒に大暴れしたよ。君とジョンのようにね。キースはね、若いころは今よりももっとワイルドだったんだ。鼻の骨だけで23回骨折してるからね。まぁ、他の警官もそうだが、キースもここの病院の常連だよ。でも、これは極秘事項だからね。私がこんな事を言ったなんてことは、内緒にしてくれよ」
巡査部長はいつもの穏やかな笑顔を私に向けた。
「23回ですか! 考えただけでも痛そうだ。じゃ、自分の怪我なんてまだまだですね。追い越せるまでがんばらなきゃ」
「怪我で競争せんでもいいよ」
巡査部長が笑って答えた。
「でもね、オニール、ずっと警官をしてると、トラブルに巻き込まれて大怪我して、痛い思いばかりしなきゃならんが、そのたびに、パートナーシップが深くなっていたように思うよ。えらそうなことを言うわけじゃないけど、困難と痛みが私たちを深く結び付けるんだよ」
巡査部長の話を聞きながら、私はジョンと一緒にテンダーロインをパトロールしていたころを思い出していた。3日に一度、どちらかが殴られていた。
「明日は退院だね。キースは仕事で抜けられないから、ジョンが迎えにくると言ってたよ。しばらくは仕事は無理だと思うが、とにかく早く戻ってきなさい。どうも私は昔から、暴れ馬と縁があるみたいでね。セントラル署で、又、君を調教しないとなぁ。早く立派な近衛兵になってもらわないとね」
フラナガン巡査部長は大きな分厚い手で、私の肩を軽くたたき、にっこり笑いながら病室を出て行った。
翌日、病院生活最後のランチを食べ終わったころ、ジョンが迎えに来てくれた。
「やっと退院か。ほら、これ、お前の着替えだ。マコトが準備してくれたよ。ついでに、彼女を学校まで送って行ったからな」
ジョンは私の旅行かばんをベッドの上に置き、中から着替えを出してくれた。きれいに折りたたんだブルージーンズにグレーのスウェットシャツ、ブラックのレザーコート。包帯を巻いた足に負担がかからないように、ジーンズの外側のステッチは丁寧にカットされていた。
着替えをすました後は病院の方針で車椅子に乗せられて駐車場まで行った。フォードの前まで来ると付き添いのアテンダントが私の体を抱き上げて立たせようとしたが、それを断わり松葉杖を貸してもらった。多少苦労したが何とか後部座席に座る事ができた。
「オニール、その足じゃまだしばらくは自宅療養だな」
アテンダントが車のドアを閉めるとジョンがいった。
「こんな怪我、すぐに治りますよ」
「まぁ、しばらくはじっとしてろ。今、本部に来てもエンジェルダストの報告書の整理ばかりで退屈だぞ。深い傷はこういうときにしっかり治せ。セントラル署に行ったら、また外回りだ。今のうちにその折れた骨、しっかりくっつけておかないと、また折れるぞ。正義をなすのは骨が折れるんだ。マァ何度も折れば頑丈になるけどな」
ジョンはいつものように元気な声で笑いながら、車を駐車場から出した。
「ジョン、骨だけじゃなくて血の出る努力もしないとだめですね。あの、ジョン・・・・・・」
「何?」
「前に警部が『正義をなせ』って言いましたよね。それが時々わからなくなって。よかったのか悪かったのか」
私はロンを殺した。”正義のために”という崇高な気持ちなど全くなかった。私の中にあったのは ”怒りと憎しみ”だけだ。
「ハハァ、また難しい事で悩んでるなぁ。オニール、おまえ、いくつになった?」
「23になりました」
信号で車が止まったとき、ジョンが振り向いて私の顔を見た。
「私は50だ、来月で51になる。わたしやキースみたいな白髪の爺さんになるまで、警官やってりゃ、そのうちわかるさ」
信号が青に変わり、ジョンは車を発進させ、運転しながら話を続けた。
「自分でこれがベストだ、って思うことをすればいい。あとの審判は神にゆだねる。
そんなとこだな。どうだ、答えになってないか」
ジョンはバックミラーから私を見てにっこり笑った。
私もバックミラーに向かって、笑顔を返した。
ユニオンスクエアの手前まできたとき、ジョンは右の指示器を出した。私のアパートとは方向が違うので尋ねたら、
「お前に見せたいものがあってな。少しだけ本部に寄っていくけど、いいだろ?」
「何ですか? 見せたいものって」
と、訊いたが、「本部に着くまでは内緒だ」といって教えてくれなかった。
それから10分ほどでフォードは"Hall of Justice"の駐車場についた。ジョンがドアを開けてくれたので、松葉杖を使って車からおりると、階段からギャラガー警部が降りてきた。私のそばに来て、「元気そうだな」と一言だけ言うと、立ち止まらずに先に歩いていってしまった。
「オニール、ほら、キースのあとについていけ」
とジョンに言われ、私は松葉杖を使って、ゆっくり警部の後についていった。私がいつもシボレーを止めていた場所で警部が立ち止まった。その場所にはブラックのシボレーがとまっていた。
「おまえの車だ」警部が言った。
ドアには銃弾の後もなく、フロントガラスも新しいものと取り替えられていて、ボディーはワックスで丹念に磨かれ新車のように輝いている。
「あの、これ、私が乗ってたシボレー?」
私が訊くとジョンが、
「おまえさん、徹底的にぶち壊してくれたからなぁ。ボディーは銃弾だらけ、あちこち部品は折れ曲がってるし、おまえの体と一緒だ。瀕死の重態で修理工場にもっていったんだからな。全部直して新しいものと取り替えたんだぞ」
と、笑顔で答えた。
「すごいな、新車みたいだ」
私は車を見ながら、ゆっくりと運転席側に回った。
ドアの上に 10センチほどの高さで" 102" という数字が白い色でレタリングしてあるのが目に入った。
「あれ? 何ですか、この数字?」
「おまえのコールサインだよ。助手席のほうにも描いてある」
警部が答えた。
「私のコールサインがどうしてここに?」
「我々からの退院祝いだよ。このナンバーは、この先もずっとこのシボレーはおまえの車だというしるしだ。この車のカーチェイスは捜査官の間で有名になってるぞ。
私としてはもう少し大きい数字にしたかったんだがな、この車は覆面だからこれ以上は無理だ。それから、中も直したぞ」
というと、警部は運転席のドアを開けた。
私は松葉杖で体を支え、首だけ曲げて中をのぞいた。内装も新車に買い換えたのではないかと思うくらいきれいになっている。
まさかこんなビッグプレゼントが待っていたなんて思いもしなかった。
「あの、なんと言えばいいか・・・・・・こんなすばらしいお祝い、ほんと、最高です」
どうやって感謝の気持ちを伝えればいいのか上手い言葉が出てこなかった。
ドアに描かれたナンバーをじっと見つめていたらジョンが言った。
「本当のことを言うとな、もしもおまえが死んだら、この車も一緒に埋めるつもりだったんだ。だけど、そんなことにならなくてすんだ。車もおまえも新しくなって蘇ったからな。前よりも、快適だ、ほとんど新品だからなぁ。フォードもぶち壊すか、なぁ、キース」
といって、ジョンは警部を見た。
警部はひげを引っ張りながら、口をすぼめているが、笑っているように見える。
私の松葉杖に目をやり、警部がいった。
「まだ痛むのか?」
「あ、はい、少しだけ。でも大丈夫です」
「それなら早く治して出て来い。そんな怪我は1週間で治せ。待ってるからな」
警部はにやりと笑い親指を立ててグッドのサインを示し、エレベーターのほうに歩いていった。
「よし、それじゃオニール、行くか。アパートまで送っていくよ。途中でハッピードーナツ、よってくか? どうだ? 10−4か?」
ジョンの顔が笑っている。
「ハッピードーナツ! ハイ、もちろん、オッケー。10−4です!」
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