雑記帳

作品倉庫

エンジェルダスト(28)

火曜日 朝7時。
 
 まだ眠気が抜けきっていない頭でソファーから這い出てキッチンに行き、水道の蛇口から直接水を飲んだ。冷たい水が一気に胃の中へ落ちていく。 
 窓を開けると、穏やかな春風が部屋に入ってきた。生クリームのような真っ白な雲の間から青空がのぞいている。久しぶりにみるコバルトブルーの空。自分の体のコンディションとは正反対の天気だが、外回りの仕事をするにはありがたい。 

 午前9時。マコトは学校に行く支度を始めた。しばらく休んだらどうかと言ったが、どうしても仕上げなければならない作品があるので学校は休めないといった。それならば安全を考えて、私が送迎をすることにした。30分ほどで支度を終え、弾丸の貫通したポートフォリオを抱えて、一緒に駐車場まで行った。身長162センチは日本女性にしたら背の高いほうだろう。いつもなら、背筋を伸ばし私より数歩先を歩いて行くマコトが、今日は少し背中を丸め、私の後ろに体を寄せて、隠れるようにしてついてくる。彼女の敵がどこで見ているかわからない。車に乗り込むまでは、そうやって歩けと彼女に教えた。マコトを助手席に乗せ、シートを倒して寝かせた状態で学校まで送っていく。こうしておけば、走行中に狙われる心配はない。アパートの駐車場を出て、ヴァレーホストリートを下り、グラントアベニューで右に曲がった。学校に行くにはこの道を使うのが一番早い。昨日からマコトは一度も笑顔を見せていない。車の中でも無表情で一言もしゃべらなかった。学校の正門のすぐ前でシボレーを止め、私が先に下りて助手席のドアを開け彼女を下ろし、教室の建物の入り口まで一緒についていった。
 
「じゃぁ、僕は行くよ。今日は一日中、学校にいるんだよ。いいか。外に出たらだめ。ここにいるんだ」 
 学校の中にいるんだ(stay here in school)」という英語をゆっくり3回ほど繰り返し伝え、私が持ってきた茶色の大きな紙袋を彼女に渡した。 
「何? これ」 
 アパートを出てから、彼女が始めて口を聞いた。 
「君のランチだ。朝、僕が作った。チーズとサラミのサンドイッチと少し果物も入ってる。今日は外でランチはだめ。学校の中で食べるんだ。いつもハングリーだろ。飢え死にしないようにラージサイズで作ったからね。それにしても、僕よりたくさん食べるのに、どうして太らないんだ?」
 「メイビ アイ プー モア、フルオブシット
(Maybe I poo more .Full of shit/ たくさん出す)」
  マコトはまじめな顔で答えたが、私は噴出しそうになった。
「フルオブシットってどこで覚えた?」
「ジョンと警部さん。あなたと話してるとき。なぜ?」
「OKOK。今度二人に言っておくよ。君の前では使うなって。それは女の子が使っちゃだめだ」
  マコトは首をかしげていたので、正しい意味を教えたら、やっと彼女の顔に笑顔が戻った。 
「オッケー。じゃ、気をつけて。4時に迎えに来るよ。僕か黒白のパトカー。わかったか?」 
「ゴットイッツ(Got it /了解)」
  マコトはジョんが時々使う言葉で返事をし、バイバイと手を振りながら教室の中に入っていった。彼女の一日が無事終わることを願って、シボレーをスタートさせ、本部に顔を出す前にヴァレーホストリート沿いにあるセントラル署に立ち寄った。万一、私がマコトを迎えにいけない場合を考えて、だれかに私の代わりを頼もうと思った。
 
 受付で昼勤務の巡査長を呼び出してもらい、しばらく待っていると、ジョンによく似た顔つきの大柄の警官がやってきた。もしやこの人もケリー一族か、と思った私の勘は当たった。
 
 ジェームズ・P・ケリー巡査長。ジョンの従兄弟である。彼に事情を説明すると、巡査長はマコトの迎えを快く引き受けてくれた。アパートの部屋の前まで無事送り届けるから安心しなさいという心強い返事をもらい、車に戻った。シボレーがスタートしてすぐ、ジョンからの無線が入った。
 
「こちら101から102へ、チャンネル2へいけ」 
「はい、102、どうぞ」 
「彼女の具合はどうだ? 今朝、電話したけど誰も出なかったから何かあったのか?」 
「彼女ならOK。学校に行きましたよ。朝、車で送っていきました」 
「学校行ったのか! あんな目にあった翌日なのに」 
「いつもの元気はなかったですが、でも、多分、たくさん食べるから僕よりタフですよ」 
「ハハァ、そうか、まぁ元気ならいい。それと、ボスから命令だ、今日もマスタングを追っかけるぞ。いま、やつは自宅を出て、今、ダウンタウンを抜けた。まだ南に向かってる。特に急いでる様子もないな。お前はクレイストリートとスポッフォードストリートの交差点付近で待機してくれ。また連絡する」 
「10−4」 
 ジョンから指定された場所に進路を向け車を走らせた。おそらくロンはピア48の倉庫に行くつもりなのかもしれない。父親の仕事でいくんだろうか、それともドラッグの売買か。いずれにしても、やつがマスタングを運転できるのも今日で終わりだ。明日には決着がつく。勝負はお前の負けだ。今日一日、存分にドライブを楽しめ。
 
 ジョンからは10分おきくらいに連絡が入ってくる。ピア48を出た後は、ワシントンの事務所に戻り、ジョンは見張りを続けたが、何時間経ってもマスタングが動いたというジョンからの連絡は来なかった。その代わり、「退屈で仕方ない」という無線は頻繁に入ってきた。結局、私のほうも、シボレーはパーキングエリアから出ることもなく、時々、近くの売店でコーヒーを買うか、公園のトイレに行くかで時間が過ぎていった。
 
 4時30分ころ、セントラル署のジェームズ・ケリー巡査長から、「君から注文のあった荷物は無事、自宅まで配達した」という連絡をもらった。マコトのほうも何事もなく終わったようだ。巡査長からの連絡が終わると、ギャラガー警部の声が無線から聞こえてきた。
 
「インスペクター42からインスペクター101へ。ファイブ(5時)に本部の前で私をピックアップせよ。インスペクター102へ。コード5(張り込み)終わり(secure from Code 5)。ギンズバーグへ向かえ」

  30分後、私たちはギンズバーグのブース席で、オールドブッシュミルズとギネスを飲みながら、警部に今日の報告をしていた。
 
「まったく退屈な一日だったよ。それにしてもロンのやつ、妹の見舞いにも行かなかったが、どういうつもりだろうな。少しは罪の意識でも感じてるんだろうか」 
「罪の意識なんて、そんなもの感じるわけない、あいつはただの人格障害、反社会的人間です。人のことなんてどうでもいい、自分のことしか考えてないやつですよ」 
 私の意見に警部も頷いた。それから警部はギネスを一口のみ話し始めた。 
「それで明日のことだが、準備はすべて整った。ロンが配ってるパッケージをゲットしたら、鑑識がいつ品物が届いてもいいように準備して待ってる。明日は裁判官が二人、スタンバイしてる。鑑識の検査結果で私たちの思ってるものが出たら、逮捕状と捜査令状にすぐにサインしてくれる。それと、ロンと関わっているディーラー全員の無記名の逮捕状も用意してある」 
「すごいじゃないか!」
「ジョン、それだけじゃないぞ。ロンには殺人罪の逮捕状も出てるからな。ワ・シン・チュウの逮捕状もあるぞ」 
 警部はギネスを半分ほど一気に飲み、次の話を続けた。
「それで、明日の配置だが、ボーイはエリスストリート、私とジョンはエディーとフィルモア」 
「了解」 
 ジョンと私はほぼ同時に答えた。 
「それから、もうひとつ、今夜はグッドニュースがあるぞ」 
「グッドニュース? キース、もったいぶらないで早く教えろよ」
「今日、麻薬課とテンダーロイン署に警官の配置のことで話に行ったんだが。人員をもっとまわしてもらわないと、なんと言っても殺人課は人手不足だからな。テンダーロイン署は全員協力してくれる。それも全員、ボランティアで私たちと一緒に働いてくれることになった。明日はテンダーロイン署あげてのラムの弔い合戦だ」 
「それはすごい!」 
 ジョンは目を大きく開いて警部のほうに身を乗り出した。 
「これで今回の事件はすべてシャットダウン、ロックダウン。やつらは全員、我々の投下したレンガの下敷きだ」 
 警部はギネスの入ったグラスを持ち上げた。 
「われわれの勝利を願って乾杯だ」
 

 

 

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※逮捕者の氏名が記載されていない逮捕状を
 John Doe warrant という。
 John Doe は 日本語にするならば「名無しのゴンベ」または「太郎さん、花子さん」

※Poo は幼児語で「うんち」
 Full of shit は  直訳すると「クソでいっぱい」
 人を馬鹿にしたりするときに使う非常に下品な言葉。