雑記帳

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エンジェルダスト(29)

 水曜日。午前6時30分。
 
 フライドエッグと香ばしいコーヒーの匂いが、私を眠りの世界から現実に連れ戻した。キッチンでマコトが朝食を作っている。ソファーからゆっくり体を起こし、両手で顔を押さえ、数回上下に動かした。手のひらにひげが当たる。今日のために、3日ほどひげを剃らなかった。無精ひげのほうがテンダーロインの浮浪者らしくみえる。今朝はシャワーもやめておこう。 小汚いほうがテンダーロインには似つかわしい。
 

 8時10分までにマコトを学校につれていき、ジェームズ巡査が迎えにくるまで ぜったいに校庭から出るなと念を押し、彼女が教室に入るのを見送って本部に向かった。運転しながら今日のことを考えた。自分に割り当てられた任務はそれほど困難なことではないが、やはり初めての一斉検挙ということもあり幾分緊張している。
 
 戦場に行くとき、ヘリの中で感じた緊張とは違う。あの時は何を考えても「死」に直結してしまう。そういう時は聖書の言葉でも繰り返すのがいいのだろうが、カソリックの学校に行って、神に不信感を抱くようになってしまった。パラシュートで降り立つまでの間、私の恐怖をやわらげてくれたのは聖書ではなくシェークスピアだった。
 
『最悪だと思ってるうちはまだ最悪ではない』(※リア王から)
 
 この一節を何度も繰り返し唱えていた。でも、今、感じているものは、戦場ではなく試合に赴く前の緊張感に似ている。今日の試合はぜったいに自分が勝つ。そういう自信が心の中にある。ただ、それと同時に不安が時折顔を見せる。警官になってパトロール中に学んだことがある。
 
『物事は早急に悪くなる』
 
 そうならないことを願ってハンドルを切った。
 


     *****


 9時30分。捜査課のブリーフィングが始まった。今朝のブリーフィングを仕切っているのはギャラガー警部である。ブリーフィングルームには、スコット署長のアシスタント、捜査課の課長、フィルモア地区とエディーストリートでバックアップしてくれる北署の署長と麻薬課の捜査官たち、ショーン・ケリー捜査官、テンダーロイン署の警官たちが集まっている。みな真剣な顔でギャラガー警部の話をききながらメモを取っていた。
 
 2時間後、私はテンダーロイン署のラルフ・ジョンソン署長と一緒にテンダーロイン署に戻った。私と一緒にタイリー・スコット逮捕にむかうのは、ゴンザレス巡査、ピーター・スタッフォード巡査、ヘンリー・タナカ巡査である。今日は、警官たちは役者になったつもりで割り当てられた役を演じなければならない。 
 ピーターとヘンリーは白いカバーオール(つなぎ服)に派手なオレンジ色の安全ベストを着て、土木作業員に変装し、ゴンザレスは虫に食われたグレーのセーターの上から第2次大戦中に将校が来ていたグリーンのオーバーコートをはおり、型が崩れたグレーのフェドーラ帽をかぶった片腕の男を演ずる。ゴンザレスのコートの右袖には腕がない。袖があまり激しく動かないようにひじのところでピンで固定してあり、ゴンザレスの腕はコートの中に隠して、手でしっかりと自分のベルトをつかんでいる。外から見たら本当に腕がないように見える。左のポケットからジャックダニエルウイスキーのビンが半分ほど見えている。もちろん中身は本物ではない。ゴンザレスの好きな砂糖がたっぷり入った紅茶が入っているのだ。紅茶といわなければ本物のウイスキーに見える。片腕男になりきるために、家でも片腕で過ごしたとゴンザレスが少し照れたような笑みを浮かべて言った。
 私は穴の開いたジーンズにブラックのスウエットシャツを着て、左耳にセットした警察無線のイヤホンとワイヤーが見えないようにアーミージャケットの襟を立てニット帽を深くかぶった。 

 ジョンソン巡査部長が壁にテンダーロイン地区の地図をはり、各警官の待機場所の再確認と注意事項の簡単なミーティングをおこなった。 
 ディーラーの逮捕は速やかに行うこと。もたもたしているとマスコミがかぎつけて、すべての計画が台無しになる――これはキース・ギャラガー警部からの指示である。


 午後1時。
 
 土木作業員に変装したピーターとヘンリーはタイリー・スコットが住んでいるアパートの裏の路地に回り、下水道の工事中であるように思わせるため、マンホールのふたを開けた。水道工事会社から借りてきた白いトラックをマンホールのそばに止め、ブリーフィングの打ち合わせどおり、作業員のヘルメットをかぶってバンパーにもたれ、コーヒーを飲みながら私からの指示を待つ。
 
 ゴンザレスは足を引きずりながらアパート周辺をしばらくうろついたあと、空き家になっている店の前に座り込んだ。私のポジションからゴンザレスの姿がよく見える。彼はポケットからウイスキーのビンを取り出し一口飲むと、またポケットに戻し、今度はキャメルのタバコを内ポケットから出してライターで火をつけた。すべて左手一本で行っている。たいしたもんだ。ゴンザレスは完全に浮浪者になりきっている。
 
 私たちの位置からワンブロックはなれたビルの陰では、パトカーと囚人護送車のバンが待機している。私はバーの壁にもたれて、中身をジンジャエールに入れ替えたビールを飲み、タバコをふかしながらマスタングが現れるのを待った。
 
 今日は青空はまったく見えない。分厚い雲が町全体を覆っている。明日はまた雨かもしれない。
 
 

 2時47分。
 
 タイリー・スコットが白い封筒を持ってアパートから出てきた。私たちの存在にはまったく気づいていない。彼は数メートル先の駐車禁止エリアまで歩いていき、そこで立ち止まった。2分後、タイリーの横でマスタングが止まった。助手席の窓があくと、タイリーは白い封筒をなげいれ、茶色の分厚い封筒を受け取った。タイリーがアパートに戻ってくる。
 
「ヘンリー! ゴー!」
  私は左の袖口につけたマイクでヘンリーに指示を与えた。路上に座り込んでいるゴンザレスは私を見ている。私がアパートに向かってゆっくり歩き出すと、ゴンザレスも立ち上がってアパートのほうに歩き出した。ヘンリーとピーターは裏口からアパートに入り、ヘンリーは階段の下、ピーターは通路に立ってタイリーの逃げ道をふさぐ。二人とも後ろ手にリボルバーを隠し持ってタイリーを待っている。
 
 マスタングは走り去った。
「オールユニット。ゴー! ゴー!」
  タイリーがアパートに入った。3歩後ろに私とゴンザレス。ヘンリーとピーターが拳銃を後ろに隠したままタイリーに近づく。 
「タイリー!  警察だ! 動くな!」 
 私はタイリーの背中に向かって叫んだ。タイリーの肩が一瞬ビクっと動いたのがはっきりわかった。タイリーはその場で立ち止まりピーターとヘンリーを見ている。ヘンリーは後ろに隠し持った拳銃をズボンのポケットに滑り込ませ、両手を差し出して怒鳴った。 
「警察だ! その封筒をこっちへ渡せ! サァ早く!」 
 タイリーは動かない。 
 後ろを振り返り私とゴンザレスをにらみつけた。 
 今、ゴンザレスの右手にはコルトパイソンがしっかり握られ、左手で警察バッジを掲げている。 
 タイリーは再びヘンリーのほうに振り返った。 
 ピーターとヘンリーはタイリーをにらみつけ、視線をはずさない。 
「封筒を渡せ!」 
 ヘンリーが一歩、詰め寄る。
 
 突然、タイリーが手に持っていた封筒をヘンリーの顔に投げつけ、ピーターにむかって猛烈なタックルを食らわした。ピーターが真後ろに吹き飛ばされた。タイリーは床に倒れたピーターを飛び越え、裏口のドアに向かって突進し外に飛び出していった。
 
「ゴンザレス! 表から回れ!」 
 声と同時にゴンザレスが表に飛び出した。私は銃を手にしたまま、タイリーの後を猛ダッシュで追った。タイリーはエリスストリートを猛烈な勢いで走っていく。右に曲がり左に曲がり、狭い路地を抜け、再びエリスストリートに戻ってきた。数メートル前方の曲がり角からゴンザレスが飛び出しこちらに向かって走ってくる。ゴンザレスは銃口をタイリーに向け、叫んだ。
 
「とまれ!  警察だ!」

 タイリーがとまった。
  私との距離は20メートル。私はタイリーの背中に銃口を向け走った。やつの右手に何かある。黒い物体。リボルバーか! 
 距離が7メートルに迫ったとき、タイリーの右手が前方にあがりトリガーに指がかかった。
  間に合わない!  ゴンザレスが撃たれる! 
  私はためらわず引き金を引いた。 
  弾は右脚をえぐって尻に埋まった。タイリーの体が大きく左に旋回し地面に落下した。と同時に、まるで映画監督が演出でもしたかのように囚人護送車が現れ、4名の警官がタイリーをかっさらうようにして護送車に押し込んだ。 
 中でタイリーがわめいている。 
「クソッタレ! ケツ!  ケツ! 撃ちやがった!  (Shit!! mothafucak shot me in my ass!!)」
  声は数回聞こえたが、すぐに静かになった。 
 気絶でもしたか。ざまあみろ! 尻を撃たれたくらいでガタガタわめくな! あばよ! タイリー!
 
 遠ざかる救急車に向かって軽く手を振ってやった。

 

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 タイリーの逮捕劇があった場所から2マイル(約3Km) 離れたフィルモア地区。フィルモアストリートから半ブロック西に行ったエディーストリートの路上にゴールドのフォードLTDが止まっている。乗っているのはギャラガー警部とジョン・ケリー捜査官。二人は2時間前から壊れかけたビクトリアンハウスを見張っていた。
  このビクトリアンハウスは、数十年前に低賃金者のための2階建てアパートとして建設されたが、長い年月、風雨に好きなように犯され続け、傷ついても誰からも手当てされず、あとは自然崩壊の日を待つだけの哀れな化け物屋敷である。
 
 彼らの30メートル後ろの角を曲がった路地にはパトカーが一台、エディーストリートの南側を走っているタークストリートとゴールデンゲートストリートには、北署の警官をのせたパトカーが2台、いつでもスタートできる状態で待機している。ビクトリアンハウスの裏では、麻薬課の捜査官が6名、狭い路地で連絡が来るのを待っていた。 
 エディーストリートとフィルモアストリートの交差点には、ブラックのレザーコートを着た身長190センチ位のガタイのいい男がシェパードを連れて立っている。K−9ユニットの警官、ジョン・ハンコック巡査とヴォン・リッパーである。ハンコックは市警に入るまではカリフォルニア大学バークレー校のフットボール選手だった。K−9ユニットに配属され、そこで優秀な犬の捜査官ヴォン・リッパーとペアを組み、やがて彼らはK−9の中でも最強のチームと言われるようになった。今回彼らに与えられた任務は、散歩をしている振りをして交差点の周辺を見張ること。
 

 3時37分。フォードLTDのカー無線がなった。 
「こちらインスペクター102。ここは コード4(すべてOK) 容疑者は確保、品物はラボで検査中です」 
 オニールとギャラガーが無線で話しているころ、ロン・チャンのマスタングはエディーとフィルモアの交差点の30メートルほど手前を走っていた。 
 最初にマスタングを見つけたのはヴォン・リッパーだった。彼の視線の先に赤いマスタングが見える。ハンコックはすぐに無線でギャラガーに知らせた。 
フィルモアから車が来ます」 

 30秒後、ビクトリアンハウスの正面入り口から黄土色のズボンにアロハシャツ、黄土色のウインドブレーカーをきた黒人が出てきた。男の後ろでドアが大きな音を立てて閉まった。男の名はクリーブランド・ジョーンズ。彼はブラウンのベレー帽を頭の上に載せ、正面の階段を2〜3段降りたところで空を見上げた。雲がますます分厚く重くなってベイエリアを覆っている。
 
「チェッ! また雨かよ!  (motha fuckin rain's comin)」 
 ふてくされた表情で、階段に座り、マスタングが現れるのを待った。

 彼は「自分は成功者だ」と思っていた。ドラッグディーラーとしての彼の名前も知れ渡ってきた。取引相手も順調に増えている。彼の懐にはいつもたんまり金がある。ドラッグは彼に富を与える。
 
 彼は、「自分は強欲な男ではない」と思っていた。高級な家もいらない。 車も要らない。自分は多くは望まない。金さえあれば満足だ。
 
 彼は数種類の薬物を売買していた。ヘロインはオークランドの黒人から仕入れ、マリファナ、クラック、LSDはハンターズポイントの黒人から手ごろな値段で買い付ける。エンジェルダストはチャイニーズボーイが運んでくる。ドラッグの売買は簡単だ。フィルモアに住んでる誰かがドラッグがほしいといえば、いつでも調達してやる。自分はなんて頼りになる男なんだろう。
  彼はそう思っていた。


 ビクトリアンハウスの前でマスタングがとまった。
 
「インスペクター42からバックヤードのユニットへ。車が正面でとまった。ゴー!」 
 6名の捜査官は裏庭に入り、3名ずつ左右に別れてビクトリアンハウス側面に回り込み、表通りから見えないように壁にぴったり体をつけ次の指令を待った。
  クリーブランドはゆっくり腰を上げ、階段を下りてマスタングに近づく。助手席の窓が開くと、クリーブランド上着の左ポケットから白い封筒を取り出し、車の中に投げこんだ。すぐに茶色い封筒が差し出された。封筒の中にはエンジェルダストを混入したマリファナの包み、PCP溶液に浸したタバコが入っている。 
「来週、同じ時間に」 
 ロンはそれだけ伝えると窓を閉め、すぐに車を発進させエディーストリートを下っていった。ロンは黒人を毛嫌いしていた。しかし、彼の取引相手にはブラックパンサーズ(黒豹党)のメンバーもいる。黒人のエリアでは取引が終わればすぐに車を発進させ、必要以上に時間を費やす気はなかった。
 
 クリーブランドは猛スピードで走り去るマスタングを見送り、家に戻ろうとしたとき、ゆっくりこちらに歩いてくるハンコックとヴァンリッパーに気がついた。
(こんな男、この辺にいたか? 新しく越してきたんだろうか) 
 彼はそう思った。
 
 クリーブランドがハンコックに気を取られている間に、全ユニットはギャラガーからのゴーサインを受け取った。 
「インスペクタ−42から全ユニットへ。容疑者は封筒をもってる。容疑者は封筒を持ってる。ゴー! ゴー!」
 
 無線が終わると同時に、ケリーは駐車エリアから車を出し、一気に加速し赤信号を無視してフィルモアの交差点を突っ切り、ビクトリアンハウスの横で急停止した。すぐ後ろにパトカーが止まった。銃を持った6人の捜査官が建物の脇を抜けて表のストリートに出てきた。
 
「警察だ!! 動くな!(Police! freeze!)」 
 ブルージーンズをはいた捜査官が警察バッジを示しながら叫んだ。声に驚き、クリーブランドは一瞬、動けなかった。しかしその数秒後、ハンコックとは反対の方向に一気に駆け出した。すごいスピードで坂を下りていく。 
 ハンコックはヴォンリッパーのリーシュ(紐)をはずし、駆け下りていくクリーブランドを指差した。 
「BITE!(かみつけ)」 
 その号令でヴォンリッパーが弾丸のような勢いで飛び出し、瞬く間に獲物との距離を近めていく。クリーブランドは肩越しに後ろを見た。 
 犬が追ってくる。 
 彼は縁石沿いに止めてある2台の車の隙間から道路に飛び出した。しかしギャラガーのフォードが行く手を遮った。ヴォンリッパーがクリーブランドに飛びかかり右腕に噛みついた。 
 その瞬間、「グゥワァッ!」という悲鳴が上がる。 
 腕をくわえたままヴォンリッパーは獲物を引きずっている。クリーブランドは必死で敵の口をこじ開けようとしているが、ますます牙が食い込んでいく。ついに腕が外れたと思った瞬間、左手に鋭い牙が食い込んだ。
 
「リッパー! 止め!(Ripper , Halt!)」
  ハンコックが雷鳴のような低音で叫んだ。ヴォンリッパーはすぐに腕を離したが、容疑者のそばから離れない。クリーブランドにいつでも飛びかかれる体勢で顔をにらみつけながら低いうなり声を上げている。 

 二人の警官がクリーブランドに近づくと、ヴォンリッパーは威嚇をやめ、ハンコックの横に戻った。ハンコックがリーシュをつけている間に、二人の警官がクリーブランドのボディーチェックをし、武器を所持していないことを確認するとうつぶせにして怪我をした腕に手錠をかけた。ハンコックとヴォンリッパーのチームがパトカーに戻っていく。
 
「すごい犬だな」
  パトカーに乗り込むヴォンリッパーとハンコックを見ながらケリーが言った。
「彼らは以前にもお前とボーイを助けてるんだぞ」
 ギャラガーが言った。 
「そんなことがあったか?」 
「覚えてるだろ。数ヶ月前、プロジェクトに逃げ込んだパパスに噛みついたのがリッパーだ」
 「そうか! あいつに噛み付いたのはこの犬だったのか。それならお礼を言わないと」
  そういうとケリーは急いで車から降り、ハンコックのパトカーまで走っていった。
 
 ギャラガーはカー無線で全ユニットにメッセージを送った。
 
「コード4! コード4! 容疑者は確保した」
 


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ブラックパンサーズ(黒豹党 Black Panther Party)
 武力による黒人開放を提唱している政治団体
 1960年半ばから1970年代にかけて、カリフォルニアのバークレー、サンフランシスコの黒人居住区で特に活発に運動していた。
 白人から黒人の居住区を守るという名目で結成されたが、彼らの自衛手段はすべて銃などの武力や暴力。
 このようなエリアに犯人が逃げ込むと逮捕は困難を極めた。
 
※ クラック:コカインのストリートネーム
 氷砂糖のような形をしている。
 熱を加えると蒸発して煙だけが残る。
 常習性の高い危険な薬物。
 アメリカでは 黒人の人口が多い貧しい地域で使用者が多い。
 

 

本部――午後4時。
 
 捜査官たちが戻ってきた。
 
 プロジェクトを担当した捜査官の話によると、容疑者確保からパトカーに乗せて現場を離れるまでにかかった時間は約5分。チームワークの勝利とはいえ驚異的なスピードである。ここの住人は、「でていけ」という代わりに一発撃つ。「くるな」といいたければもう一発。銃で会話する連中には話し合いなど通用しない。今回もプロジェクトの住人から銃で攻撃されたようだが死傷者は出なかった。こんなところに長居すれば死体の数が増えるだけだ。 

 どこのエリアでも逮捕は短時間で行われ、ギャラガー警部が計画したとおりに事は進んでいる。予定外の出来事といえば、私の撃った弾が、タイリーの尻ではなく財布に当たってしまったことだ。後ろポケットの財布に入っていた札束がクッションの役目を果たし、タイリーの尻まで到達しなかった。右足の太ももの後ろに裂傷があるだけで重症には至っていない。ただし、当分はクッションなしでは椅子に座れないだろうと医者が笑いながら言った。病院でもきちがいのようにわめき散らしていたらしいが、私が行ったときには鎮静剤で眠らされていた。
――あいつはピーターを突き倒して逃げ出し、ゴンザレスを撃ち殺そうとした。やつの体に大きなダメージを与えられなかったとは、まったく悪運の強い野郎だ。
 
 報告書に添付するタイリーのメディカルレポートを書いていたとき、警部とジョンが戻ってきた。 
「ハイ、オニール。今の気分はどうだ?」
  私の顔をみるなり、ずいぶん明るい声でジョンが言った。
「え? 私の気分? 何のことですか?」
「鑑識の帰りに病院に寄ったんだが、おまえ、タイリーのどこを撃ったって?」 
「なんだ、そのことですか。それなら気分最低、あんなとこに財布がはいってたなんて、まったく予想外ですよ」 
「何いってるんだ。あいつの札束に穴を開けるとはたいしたもんだ。グッドシューティングだな。今回もメダルがゲットできるぞ」 
 ジョンは大きな声で笑いながら椅子にどっかり腰を下ろした。
「あいつの運がよかっただけですよ」
 そう言うと警部の顔に微かに笑が浮かんだ。 
「そうじゃない、おまえの腕がいいんだろ。課長には弾は当たってないと報告しておいたからな。課長も大笑いしてたぞ。それにしても、新人でおまえくらいだなぁ、4ヶ月で2回も撃ったのは。ほとんどの警官は退職するまでめったに撃たないんだがな。まぁ、今回の場合は精神的ダメージのほうが大きいがな。タイリーにはいい薬だ、とにかくよくやった」
  私は自分のするべきことをしただけだと警部に言おうと思ったとき、デスクの上の電話が鳴った。受話器をとると、クライムラボから検査結果を知らせる電話だった。タイリーとクリーブランドが受け取った封筒の中身から思ったとおりPCPが検出された。電話を切ってラボからの結果を警部に知らせると、隣でジョンが「ナイス!」といって机をパンとたたいた。
 
「OK! ビンゴだな。ボーイ、おまえはすぐにラボでレポートをもらってきてくれ。私はそれをもって逮捕状と捜査令状をとってくる」 
「いよいよ、黒幕逮捕ですね」 
「そのことなんだがな、ボーイ。プランに若干の変更があって、課長とも相談したんだが、逮捕は明日に持ち越しになったんだ」 
「今日じゃないんですか?」 
「今日はまずい。ワ・シン・チュウが今日はサンフランシスコにいないんだ。サミーから連絡がきたんだが、やつは今、ベガスにいる」 
「サミーって、警部のともだちのサミー・タナガワですか?」 
「そうだ。サミーの話じゃ、カジノで日本人のビジネスマン相手にポーカーに夢中だったらしいな。結果は日本人が勝ったようだが。明日、ここに戻ってくるという情報をサミーがつかんで、私に連絡してくれたんだ。明日はおそらくロンと接触するはずだ。そのほうがこちらとしても都合がいい。うまくいけば、ロンと一緒に大物もゲットできるぞ」 
 私が少しがっかりしたような表情で警部を見たら、ジョンが話を付け加えた。 
「オニール、中止になったわけじゃないんだ、そうがっかりするなよ。状況は常に変化する、プランを成功に導くために我々は常に状況にあわせて最善の方法をとらねばならん。っていうのはキースからの受け売りだがな」
  ジョンはにやっと笑って警部の顔を見た。警部は右の眉だけ吊り上げて、ジョンの顔を見ながらマルボロを取り出し、火をつける前に話し始めた。
「今回の逮捕は絶対に失敗するわけはいかん。ワ・シン・チュウに逃げられたらますます厄介なことになるからな。明日は広東パシフィックとスポッフォードのアジトにも踏み込むぞ。それから、マリン郡のストロベリーポイントにあるやつの家も家宅捜査に入るつもりだ。これについてはFBIに協力を頼んだんだが、人員不足か時間がないのか理由はわからんが、今すぐ動く気がないらしい。そのかわりマリン郡の保安官事務所が手伝ってくれることになった」
 
 今夜は夜の9時を過ぎても、まだ大勢の捜査官がオフィスに残って仕事をしている。逮捕が明日に持ち越されたため、その打ち合わせや準備のため、北署やテンダーロイン署、セントラル署の警官も出入りしている。警部は明日の最終打ち合わせのため、ブリーフィングルームにこもったきりまだでてこない。私はラボで検査報告書のコピーを受け取った後、それをもとに報告書を仕上げ、残りの時間はジョンとたわいのない話をしながら警部の帰りを待っていた。
 
「何だ、オニール、さっきからずっと浮かない顔してるな。逮捕が延期になっってがっくりきたか?」 
 3杯目のコーヒーをカップに注ぎながらジョンが言った。
「いや、そういうわけじゃないですけど、なんだか、今日は物足りない気分ですよ、なんかすっきりしないなぁ」 
「何で?」 
「今日のタイリーの事もあるし明日のことも、いろいろ・・・・・・、それに今日はずいぶん簡単にタイリーがつかまってしまったし、何かよくわからないんですけど、なにか足りない」 
 ジョンはうなずきながらコーヒーに砂糖を入れて、スプーンでゆっくり混ぜている。
 
「タイリーがあっという間につかまったんで気抜けしたか。それは、おまえ、一種の警官病だな。危険な目にはあいたくないと思ってる半面、心のどこかではもっと危険で、エキサイトできることを求めてる。そういう私もそうだからなぁ。おまえの気持ちはわかるよ」
 
 ジョンの言ったことは当たってる。確かにタイリーがもっと暴れてくれて、逮捕にもっと手間取ったほうが面白かったと思っていた。それに、ロンのこともある。明日は、今日のように大きなトラブルもなく、スムーズに事が運べばいいとは思っているのだが、それとはまったく逆の考えも私の中に入っている。頭の中が矛盾だらけだ。
 
 ロンがあっけなく逮捕されて手錠をかけられれば満足か。
 冗談じゃない。あいつには生きたままライオンに食われるような地獄を味わわせてやりたい。
 

 そんなことを考えていると、いったい自分は警官なんだかただの人殺しなんだか、何が正しくて何が悪いのか、よくわからなくなってきた。
 

「ほら、コーヒーでも飲んで、キースがくるまで、頭、休めてろ」 
 ジョンが私のコーヒーを作ってくれた。
「警官にはそういうとこがあるからなぁ。うまく説明できんが、警官というのは、危険を求める危険なやつだな。だがなぁ、オニール、あんまり危険ばかり求めすぎると終いには、狂人みたいになっちまうぞ。それで奥さんに逃げられた警官はいくらでもいるんだぞ。気をつけろよ。マコトに愛想つかされないようにしないとな」 
「いや、別に、マコトとはそんなんじゃないですよ。」
 
 なんだか話が変な方向に行きかけたので、話題を変えようと思ったら、うまい具合に電話が鳴った。 
「ハイ、オニールです」 
「ハロー、オオ、ハイ オニール! 私はトム・ケリー。 覚えてるかな? モントゴメリーのビルの警備員、ジョンのいとこのトムだよ」 
「ああ、はい、トム、 しっかり覚えてますよ」  
 「覚えていてくれてよかった。実は君に、知らせようと思って電話したんだが、例のチャイニーズガイ。10分くらい前に、あの部屋に入って行くのを見かけたんだ。覚えてるだろ。アンサーリングマシーンの置いてあった部屋。今さっき、部屋から出てきてリムジンでどこかへ行ってしまったよ」 
「トム!  それはすごい情報じゃないですか!  ありがとう、今、ギャラガー警部は会議中でいないんですけど、戻ってきたら伝えますよ」 
「いや、お礼はいいよ、私はまだ警官だって言ってくれたのがうれしくってね。少しでも役に立ちたいんだ」 
「ほんとにありがとうございます。 あの、ジョンと電話代わりましょうか。今 一緒にいますよ」
 「ああ、ありがとう、それじゃ代わってくれるかな」
  それからしばらく、ジョンは楽しそうにトムと電話で話していた。
 
 電話を切って10分ほどで警部が戻ってきたので、トムから得た情報を伝えた。
 「そうか、わかった。それはグッドだな! やつは もう戻ってきてるんだな。よし! 明日はもっとエキサイトできるぞ!」
 

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 ★カリフォルニアで発行される逮捕状について


ワ・シン・チュウのような海外の犯罪者に対してサンフランシスコの裁判所が発行する逮捕状を[ local warrant ] といいます。

逮捕状には有効期限があります。
たとえば、すりや空き巣、駐車違反の罰金を払わないなど、それほど重大事件ではない犯罪者に発行される逮捕状は 「Daytime  warrant] と呼ばれ、昼間に逮捕が行われます。
この場合は、逮捕は犯人の自宅でのみ行われます。
daytime warrnat  は 昼間、犯人の自宅でのみ有効な逮捕状で、夜は使えません。

それでは自宅から逃げ出した犯人はどうなるのか。
この場合、たとえば、昼間、逮捕に行ったときに 犯人が逃げ出して、どこかのバーで見つかった場合は、そこで逮捕できますが、罪状には、逃亡罪、公務執行妨害 などなどの罪状がさらに加算され、その分 刑務所での服役期間が延長されます。
時々、アメリカには、刑期300年とか400年の刑を宣告された犯罪者がいますが、これは、いくつかの犯罪の刑期が加算された数字で、もちろん300年も生きている犯罪者はいません。
このようなとんでもない数字は、死んでからも罪に服せということではなく、この犯罪者はその数字に匹敵するほどの罪を犯したという見せしめのために与えられた刑期です。


エンジェルダストに登場するワ・シン・チュウやロン・チャンの場合は 重大事件の犯人ですので、daytime warrantの規則は当てはまりません。
逮捕状に時間的な制約はありません。

このような重大事件の犯人の逮捕はいつでも可能です。