雑記帳

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エンジェルダスト(26)

日曜日、午前9時。

 太極拳の稽古から戻り、ドアに鍵を差し込んだとき、中から電話のベルが聞こえた。私は急いでドアを開けて部屋に入り、電話の上に覆いかぶさっている雑誌の山を払い落として受話器をとった。
「ブゥラァイアン! 私、おねがい、聞いて!  ビッグプロブレム! ヘルプミー!」
 受話器のむこうから、かなり上ずったマコトの声がした。
「何かあったのか?」
「ハワードさん、あの落書き見た。とても怒ってる。ハワードさん、出て行け言った。私はトラブルを運ぶから。ハワードさんの家族に。ハワードさんの家族、危険にするから。今すぐ、出て行け、彼そういった。24時間以内に出て行け。ハワードさん。今月の家賃、うけとらない。私、どうすればいい? わたし、どこいくの? 家がない。どうするの!」
 かなり興奮しているようで、まるで私を責めているような口調だ。
「ちょっと待って。なぜ君がでていくの? 誰かが落書きしたからか? それは君のせいじゃないだろ。24時間以内なんて、無茶苦茶な話じゃないか」
メイリンがお父さん、説得した。でも、だめ。私、出なければならない。今日中。どこ行くの? 私、どこに住むの? 家がない。助けて!  住むとこないの。私、家がないの。どこいくの!」
 彼女の声はますます上ずっていき、終いには泣き声のようになってきた。
「わかった、わかった、わかったから落ち着いて。とにかく、今日は僕のアパートにおいで」
「ブゥラァイアンのアパート?」
「そうだ。僕のアパートに荷物を全部持ってくるんだ。ここに引越し。わかるか?」

 一人暮らしの男の部屋に引っ越して来いというのも、無茶な話しだとは思ったが、マコトの話があまりにも突然のことで、それ以外に良い方法が思いつかなかった。

「ダメ! 私、あなたにトラブル運ぶ」
「だけど、家がないんだろ。とにかくここに来て、それからどうするか考えよう」
 マコトから暫く返事が返ってこなかった。沈黙の時間があまりにも長いので、こちらから切り出した。

「とにかくおいで。今日中に新しいアパートを探すなんて無理だろ。僕のアパートじゃいやか?」
「迷惑ちがう? ほんとにOK?」
「OKだ。100パーセント、OKだよ」
 ほんの数秒、間をおいて「サンキュー」という返事が返ってきた。
「よし、それなら今から君のアパートに行くよ。荷物は何があるの?」
「えっと、洋服とふとん。テーブル、本。少し食器。それから絵の道具」
「わかった。それじゃトラックをゲットしたらすぐ行く」

 電話を切ってすぐに私の頭に浮かんだのがゴンザレス巡査だ。彼はトヨタピックアップトラックに乗っている。私はテンダーロイン署に電話をかけた。

「ハイ、グッドモーニング。ブライアン・オニールです」
「オッ、ブライアンか。元気にしてるか?」
 電話に答えたのは、セントラル署に転属が決まったフラナガン巡査部長に代わって新しく巡査部長になったラルフ・ジョンソンである。
「かなり元気ですよ。あの、今日はゴンザレス巡査はもう出てますよね」
「ゴンザレスなら、今さっき、新しいパートナーと一緒にパトロールに出かけたよ。彼に用事か?」
”ラム”ではなく”新しいパートナー”という言葉に少し寂しい思いがした。
「はい、ちょっと急用があって。私から無線で連絡します。今日は、彼のコールサインは何番ですか?」
「えっと、ちょっと待てよ。今調べる」
 電話口の向こうで紙をめくるような音が聞こえてきた。
「ゴンザレスは今日は、3アダム24 だ」
 お礼を言って電話を切り、すぐに無線でゴンザレスを呼び出した。無線では詳しい説明もせず、困ってる人を助けたいから車を借りたいと言っただけなのに、ゴンザレスはそれ以上の理由も聞かず、快く「OK」の返事をくれた。私は車の鍵をもらうために、シボレーでエリスストリートとテイラーストリートの交差点に向かった。交差点の角にあるビルの前に、ゴンザレスと彼の新しいパートナー、フィル・ジャコブ巡査が立っていた。

「アントニオの路地で助けた子が困ってるんだ。だから彼女を助けたい。それで車が要るんだ。1時間で返すよ」
 ゴンザレスに理由を説明すると、彼は大きな手で私の肩をたたき、「人助けは俺たちの役目だ。遠慮なく使ってくれ」といって、鍵を渡してくれた。
それからすぐにテンダーロイン署に行って、駐車場でシボレーからピックアップトラックに乗り換え、マコトのアパートに向かった。
アパートの壁に書かれてあった文字は、壁と同じ色のペンキで消されていたが、それを見たとき、また得体の知れない不安を感じた。 
 いやな予感がする。とにかく一刻も早く荷物を積みこんで、マコトを私のアパートまでつれてこよう。3階まで駆け上がり、マコトの部屋に行くとドアが開いていて、ダンボールの箱がいくつか外に出ていた。マコトは私の顔を見ると「ハイ」と挨拶したが、その顔にはいつもの笑顔はなかった。 私たちは二人で3、4回階段を往復してトラックに荷物を積み込み、私のアパートに向かった。とりあえず荷物を全部狭いリビングルームに押し込んで、私は車を返すためにテンダーロイン署に戻った。シボレーに乗り換えて、途中でチャイニーズフードを買い、アパートに戻ってみると殺風景な私の部屋がアトリエに変わっていた。大きなイーゼルにキャンバス、モリエールの石膏像、美術図鑑とイラストレーションの本が部屋の隅に積みあがっている。かろうじて足の踏み場だけはできていた。
「すごいな、アトリエみたいだ」
「はい、わたし、半分、アーティスト」
 マコトの顔に笑顔が戻っている。
「少し休憩しないか? おなか減っただろ」
 買ってきたチャイニーズフードの袋をマコトに見せると、彼女はにっこり笑ってうなずいた。
「新しいアパートが見つかるまで、ここが君の家だ」
「ありがとう。ブゥラァイアン、あなた、いつもやさしい。私を2回助けた。サンキュー」

 それから1時間ほどディナータイムをとった後、再び荷物のかたずけを始めた。マコトが運んできた荷物、それは彼女がこの世界で所有してる全てのもの。それが今、私の部屋にある。

『何日でも、何年でも、君がいたいだけここにいればいいよ』
 本の整理をしているマコトの後ろ姿に向かって、心の中でそう言った。

 9時にはかたずけも終わり、ビールでささやかな引っ越し祝いをした。マコトはよほど疲れていたのだろう。私がシャワーを浴びている間にベッドで眠ってしまった。猫の柄が入ったブルーのパジャマを着て、まったく無防備な姿で眠っている。
 私はソファーにブランケットと枕を持っていって、ベッドを作り、部屋のライトを消した。今夜はきれいな月が出ている。窓から差し込む青白い月明かりがマコトの顔にきれいな陰影をつけている。
 彼女とひとつになりたい。この腕に抱きしめたい。こんなチャンスを見逃す男はよほどの間抜けか大ばか者だ。今、彼女は私のベッドで眠っている。裸になって彼女の隣にもぐりこめばいい。簡単なことだ。
 そう、戦争に行くまでは簡単なことだった。
 私は彼女を抱けるのか。
 自分の手の下に、頚動脈を押さえつけられ白目をむいてもだえ苦しんでいる敵兵の顔が見える。この手で、敵兵の首の骨を何度も折った。この手で銃を撃ち、何人も殺した。こんな死臭と血のこびりついた手でどうしてマコトを抱ける。
『人を殺した人間は、自分で牢獄を作り、その中で永久に苦しみ続ける。そして、いつか自分に殺される』
 そういう遺書を残して自殺した戦友がいた。

 ベトナム戦争が残したものは、大量の死人と頭のいかれた連中。そして、好きな子も抱けない間抜けな男。
 もういい。
 もう考えるのはやめよう。
 今夜、彼女がここにいる。
 それだけで十分だ。

 マコトの寝姿を見ながら、やがて私も眠りの世界へ落ちていった。