雑記帳

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エンジェルダスト(25)

疲労感と憂鬱感が混ざり合って、アパートに戻っても何をする気にもなれなかった。夕方になって雨はますます激しくなってきた。暫くベッドに座って窓から雨を眺めていたが、落ち着くどころかますますイライラしてきて重苦しい気分は一向に良くならない。外を歩けば多少は気分転換になるかもしれない。散歩に出かけようかと考えていたらマコトから電話がかかってきた。日本語で「もしもし」のあとはマコト流の挨拶。
「アーユーハングリー?(おなか 減った?) きょう、しごと いく?」
「今日はもう家にいるよ。午前中、葬式があったんだ。今日は、それで終わり」
「それ知ってる、ラジオで聞いた。SFPDの人、誰か死んだ。今日、悲しい日ね。あの――」
 そこで、少しの間、言葉が途切れてしまった。
「何。どうしたの?」
「今、学校、おわった。 アパート行っていい? でも、悲しい日ならやめる」
「それは構わないけど、迎えに行こうか? 雨がひどいだろ。お腹減ってるなら食べに行くか?」
「ノーノー。わたし、ピザ、かいます。なんのピザがいいですか?」
「そんなこと気にしなくていいよ。マコトの好きなピザでいいよ」
「OK。ブゥラァイアンのアパート、いく。待ってて」
 
 それから30分ほどで、マコトが私のアパートを訪ねてきた。ピザの箱をレインコートの中に隠して歩いてきたようで、箱は濡れていないがマコトの黄色いレインコートからは雨水が滴り落ちていた。
 マッシュルームとアンチョビのピザを食べながら、二人でギャングが出てくるテレビドラマを見ていたが、私もマコトもあまり話をしなかった。話したことと言えば、英語のドラマが全く理解できないマコトに、今、何が起こっているのか、登場人物が何と言ったかを簡単に説明しただけである。しかし途中で眠気に襲われ番組の終わりまで説明することができなかった。

 目が覚めると毛布が体に巻きついていた。テーブルの上はきれいに片付けてあり、<サンキュー、カゼ、ひくよ グッドナイト>と書かれたメモが置いてあった。せっかく訪ねてきてくれたのに眠りこけてしまったとは。今日のマコトは少し元気がないように感じた。たぶん、雨の中を歩いてきたせいだろうと思ったが、こんな雨降りにマコトから電話して会いに来るとは、何かほかに話でもあったんじゃないだろうか?

 10時頃、ケイコさんから電話があった。明日は4時からみんなでバーベキューをするから食べにおいで、という誘いの電話だった。本部の上司の命令だといわれたら断るわけにはいかない。「OK」の返事をして電話を切った。誰が来るか聞かなかったが「みんな」のなかにはマコトも入っているんだろうか。明日は雨が上がってくれることを願ってベッドに入った。


 翌日は、多少なりとも天は私の願いを聞き入れてくれた。太陽は雲の牢獄に閉じ込められ、当分釈放されそうにないが、雨は降っていない。窓を開け、ノブヒルの平和な朝の空気を部屋にいれラジオをつけた。ヴィヴァルディの四季が流れている。シナモントーストとコーヒーの簡単な朝食をとりながらマコトのことを考えていた。今日のバーベキューには彼女も来るんだろうか。ケイコさんに訊きたかったが、そんなことを口に出して訊けるわけがない。


 午後二時、ジーンズに”NOTRE DAME”のロゴが入ったグレーのスウェットシャツ、ブルーのウインドブレーカーをはおってアパートを出た。ズボンのバックポケットに手錠をいれ、ベルトにつけた小さなホルスターにはワルサーPPK−Sがはいっている。
「拳銃なしで出かけるな」
 アカデミーの教官からもジョンからもしつこいくらいに言われた言葉。最近は、人気の刑事ドラマ『ストリートオブサンフランシスコ』の中で警部役のカール・モルデェンが同じセリフを言っていた。今では財布は忘れても拳銃だけは忘れたことがない。

 ユニオンストリートの坂の途中で、ホップスコッチ(hopscotch/けんけんぱ)をして遊んでいる女の子たちがいた。そのそばで男の子が凧揚げをしている。時間は十分にあるので、しばらく立ち止まって子供たちの遊びを眺めていた。天気がよければ、歩道にはさまざまな人種、年代の人たちがコーヒーを飲みながら、あるいはアイスクリームを食べながら散歩を楽しんでいるが、今日はいつもより静かだった。
 四時前にハイドストリートにある警部の家に着いたが、ジョンの青いワーゲンはすでにいつもの場所に止っていた。ブザーを押して数秒待つと、小さな声でインターホンから日本語が聞こえてきた。
「はい、もしもし」
 誰だろう? ケイコさんの声とは違うような気がするがインターホンの調子が悪いんだろうか。
「ケイコさんですか? ブライアンです」
「ハイ!  ブゥラァイアン!」
 こんな発音で私の名を呼ぶのは一人しかいない。
「君はマコトか?」
 インターホンのむこうから、すぐに「イエス」と明るい返事が帰ってきた。電子錠の開く音が聞こえるとすぐに扉を開け、ミニジャングルの庭を玄関めがけて走っていった。


 警部とジョンはビールを飲みながら、ダイニングルームで私が来るのを待っていた。マコトはひざに小さな黒白の猫を乗せて座っている。全員がそろうと、ケイコさんが軽く咳払いをして立ち上がった。
「レディースアンドジェントルマン。本日は、レストランギャラガーへおこしいただき誠にありがとうございます」
 と突然、ケイコさんの挨拶が始まった。
「本日は何もない日を祝って、スペシャルメニューをご用意しました。それではマコトシェフにメニューを紹介してもらいます」
「マコトシェフ?」私はケイコさんに訊いた。
「そうよ、まこちゃん、朝から家に来て手伝ってもらったの。英語も上手になったわよ。ブライアンが来るまで一生懸命練習してたの。聞いてあげて」
 マコトはメニューの書かれた紙をみながら読み始めた。
「チャコールグリルフィレミニョン(炭火焼フィレステーキ)、ベイクドポテト、フレッシュスプリングコーン、マシュルームソテー、クラブサラダ・ア・ラ・マコト、1968 ルイスマティーニピノ・ノワール、アンド、デザートは、チーズケーキ・ア・ラ・ケイコ」
 読み終わったとたん、拍手と一緒にみんなから「ベリーグッド!」といわれ、彼女の顔がほんのり赤くなったのがわかった。警部は拍手の代わりに親指を立てて"グッド"のサインを送っている。本当にケイコさんがいったように英語らしい発音になっている。
「オー!  ブラボー! マコト! 発音がベリーグッドになったじゃないか!」
 ジョンが拍手しながら大きな声でいうと、マコトは少し恥ずかしそうに「サンキュー」と返事をした。
「オイ、ケイコ。今日は何もない日じゃなくて何も起こらなかった日だろ」
 警部が言った。
「なんだそれ?」
 ジョンが訊くと、警部はテーブルの上に置いてあるチーズケーキを指さした。
「これはケイコが焼いたんだが、今日はオーブンを爆発させずにすんだ。ハッピーな出来事だろ。アメリカと日本では温度の数字が違うから自分が悪いんじゃないと言うんだが、壊すたびに新しいオーブンを買うのは私だからな」
 警部の話でみんな大笑いした。ケイコさんもまるで人ごとのように笑っている。
「はい、はい。どこかにそういう悪いワイフがいたって話はおしまい。それじゃ、我こそはジェントルマンだと思う殿方は、この肉と野菜を持ってテラスに集合。男性陣の任務は肉と野菜を焼くこと。私とマコちゃんはサラダの用意をするから、できたらもっていくわ。それから今日は仕事の話はなし。OKね」
「了解、10−4 OK。OK。イエス、マム(Ma’am」
「私はマムじゃなくてワイフ! とにかく今日はビジネストークは絶対にダメ。はい、ビール。持っていって」
 警部は手を額にかざして軍隊式の敬礼をするようなポーズで立ち上がり、ビールのボックスをぶら下げてキッチンの裏口からテラスへ出ていった。私とジョンもケイコさんから「ゴーゴーゴー!」と急かされて、バーベキューの材料が乗った皿を抱えて裏庭に移動した。


 テラスにはウェイバー社製の大きなバーベキューグリルとテーブル、形の不揃いな椅子が5脚おいてあり、グリルの中の炭はいい具合に火がついていた。私とジョンがステーキ用の牛肉とコーンを鉄板に並べていると警部がそばにきて、ないしょ話でもするような小さな声で言った。
「ちょっと聞いてくれ。おまえたちが来ると最近は仕事の話ばかりしてるから、女王陛下の機嫌が悪くてね。とにかく彼女が来る前に、少しだけ仕事の話をしたい。命令違反したのがばれたら、私は"ウチクビゴクモン" だからな。いいか。ケイコが来たら話題を変えるぞ」
「ウチクビゴクモン? 何ですか、それ?」
 私が訊くとジョンが手で首を切り落とすジェスチャーをして見せた。
「ああ、それは大変だ。わかりました」
「で、話ってなんだ?」
 ジョンが訊いた。
「来週のプランだが、アウトラインだけショートタイムで説明するからしっかり頭に入れておいてくれ」
「キース、どういうプランなんだ?」
 ジョんはポテトを鉄板に並べながら尋ねた。
「まず月曜日、ジョンはスポッフォードストリートのメイソンハウスに張り込んで、もしそこにマスタングが止っていたら追跡してほしい。どこに行ったか私に知らせてくれ。もしもワ・チュウを見かけた場合はすぐに無線でボーイに連絡してマスタングの追跡はボーイと交代。ジョンはワ・チュウをおいかけてくれ。ボーイはジョンから連絡が来たら、マスタングを見つけて追いかけて欲しい。たぶんロンはまたテンダーロインに来るはずだ。そこで待っていればマスタングをピックアップするのはそんなに難しくないだろ。とにかく月曜はその方法でやってみよう」
「OK」
 ジョンが言った。
「それからボーイ。おまえは月曜日の朝早く、望遠レンズのついたカメラを持ってテンダーロインへ行ってもらいたい。服装は観光客に化けてくれ。おまえにやって欲しいことは、タイリー・スコットを見つけて写真を撮ること。おまえたちが最初にマスタングを見つけたところに薄汚いアパートがあるだろ。そこがタイリーのアパートだ。外に出てきたら写真を撮って、そのあとはアパートの出入口がどこにあってどの道に出るのか詳しく調べてきてくれ。それが終わったらマカリスターストリートの"プロジェクト" に行って、ロンがドラッグを売った黒人、たぶんブラックパンサー党のメンバーだと思うが、もし見つけることができたら写真を撮ってくれ。そのあとはエディーストリート沿いのビクトリアンハウスにいた黒人。またそこにいたら写真を頼む。それから裏側がどうなってるか調べてきてくれ。それでヴィクトリアンハウス周辺の地図を作ってほしい。人員を配置するのにどこがいいか、その地図で考えるよ」
「OK! わかりました」
 私が返事をすると、警部は小さく数回頷いた。
「それで火曜日のプランだが、おまえたちはもう一度スポッフォードストリートに張り込んで、ロンかワ・チュウがいたらまた追跡だ。誰が誰を追うかはジョンが決めてくれ。それから水曜日のフェスティバルは――」
 話の途中で突然ケイコさんに遮られた。
「また仕事の話してる!」
 フルーツを盛り付けた大皿を持ったケイコさんがキッチンの裏口の前に立ってこちらを睨んでいる。
「そんな話しはしてないよ、なぁ、ボーイ」
 警部はケイコさんにわからないように私に向かって大げさなウインクをした。
「ダメ!  顔が笑ってないからすぐわかるわよ。約束破ったら畳ルームでハラキリ、ウチクビ、我が家のルール、覚えてる?」
 ケイコさんは小さな子供が怒ったときのように少し口を尖らせて私たちの方にやってきた。口では怒っているが目が笑っている。
「今、話してたのは軍事会議だ。あと2〜3分で終わるから。OKか?」
「軍事会議?!  もう、しょうがない人たちねぇ。後2〜3分だけよ。またやってたら三人そろってハラキリ、わかった?」 そういうと、ケイコさんはテーブルに皿を置いてキッチンへ戻っていった。ケイコさんの姿が見えなくなると、警部は再び小さな声で、「それでどこまで話した?」
「はい、あの水曜日 フェスティバル・・・・・・」 
 と、私がいうと、警部は私の肩を軽く数回タップして話の続きを始めた。
「水曜日は、事が順調に運べばこの日にフェスティバルを行うつもりだ。ロンの今まで行動パターンから推測して、おそらく水曜日はドラッグの配達と集金日だと思う。私の経験から言えば、こういう頭のいかれた連中というのは、たいていいつも同じ事を繰り返すもんだ。やつらは、パターンを変えない。だからロンもいつもと同じルートを取るはずだ。ジョンは水曜日はスポッフォードストリートで待機して、マスタングを追ってくれ。ロンがエディーストリートに向かったらすぐボーイに無線を入れてほしい」
「OK。わかった」 
 ジョンが言った。
「それからボーイのほうは、当日はテンダーロイン署から2ユニット(警官4名)と、それ以外に三名、警官がおまえに協力してくれるから、一時にテンダーロイン署にいって、タイリー・スコットをゲットする打ち合わせをしてほしい。ヤクの取引が終わったら、タイリーをその場で確保だ。やつの逃げ道を塞いで絶対に逃がすんじゃないぞ、いいな。今回の作戦は短時間で一気に片付けるからな。一箇所でも紐がほどけて誰かが逃げたら全てがアウトだ」
「ハイ、わかりました」
「タイリーを確保したら”HALL OF JUSTICE”に行って、殺人罪で調書を取れ。地方検事には、タイリーに保釈金なしの逮捕状を出すようにもう話しはついてるからな。罪状は殺人と有害な薬物の不法所持と売買」
「すごい手回しがいいんだ。すごいですね」
「地方検事局とは友達(buddy-boy) だよ。しかし、ひとつ困ったことがあるんだが・・・・・・」
「困ったこと?」
 ジョンが訊いた。
「タイリーを監獄(Jail)に入れたらすぐにロンから受け取ったドラッグを薬物検査に回してほしいんだが、検査の結果が出るまでに時間がかかる(there's a hitch)。問題はそれなんだ」
「何か具合の悪いことでもあるんですか」
 私が尋ねた。
「拘留中に電話の許可が出た場合、たぶん母親か弁護士に電話するだろう。ひょっとしたらこっそりロンに電話して知らせるかもしれない。検査結果が出るまでの間にこれをしてもらうとこちらとしては非常にやっかいだ。だからタイリーには、ちょっと痛い思いをしてもらって、監獄の病棟かジェネラル病院の囚人病棟で、結果が出るまでベッドに縛り付けておきたい。やつに電話をかけさせないようにするにはこれしかない」
 警部の話しを聞いて、すぐには了解できないものを感じた。『そんなことは悪いことだ、やってはいけない』と言う声と『相手は犯罪者だ、悪はかまわず叩き潰せ』という声が心の中で格闘している。しばらく黙って考えていたら警部が言った。
「ボーイ、いいか、これが重要なことじゃなければおまえにこんなことはいわない。タイリーを動けないようにしておくことは、今回どうしても必要なことだ。それができないなら、あっという間にすべてがだめになる。(this could all go down the toilet in an instant)」

 どうすればいいのかわからない。イエスかノーか。私は考えた。ラムの顔が浮かんだ。そして答えを出した。

 相手はドラックディーラーだ。自分の金のためにドラッグを売りさばいて、それで誰が死のうがそんなことはお構いなしの冷酷な犯罪者だ。そんなヤツに情けをかけて、大物を逃がすわけにはいかない。
「わかりました。そのようにします」
「よし、OK。それから、エディーストリートのもう一人のディーラー、ビクトリアンハウスにいた男だが、こちらは麻薬課が協力してくれる。ロンがタイリーにヤクを渡してフィルモアに向かったらすぐに私に連絡してくれ。私は麻薬課と一緒にヴィクトリアンハウスの近くで待機してるからな。多分 かなり強引な方法で捕まえると思うが、この男もタイリーと同じ方法で暫くじっとさせておく。わかるか。ボーイ」
 警部は私を見た。
「本当は私もこんな方法はとりたくない。タイリーもヴィクトリアンハウスの男も、どうやってロンに連絡するか知らないかもしれない。でも、それはあくまでこちらの推測だ。我々は希望的観測に賭けることはできない。万一、あの二人のどちらかが逮捕されたことをロンに伝えたら、物事はすぐにこうなる」
 警部は私の顔を見ながら熱く焼けた鉄板の上にアイリッシュウイスキーを垂らした。ジュっという音と同時に分裂して小さい水滴になり、あっという間に蒸発してしまった。

「それとプロジェクトにいた二人の黒人だが――」
 警部はそこで言葉を切り、私とジョンの顔を交互に見た。
「わかってると思うが、我々がこのエリアに踏み込めば必ず攻撃される。ロンの後を追ってプロジェクトに行ったときは、連中に見つからないように十分注意してくれ。もしもあの二人がプロジェクトの中に逃げ込んだらどうにもならん。あそこは隠れるとこならいくらでもあるからな。それにあそこにはあらゆる銃がそろってる。あの二人を逃したらお前たちが獲物にされて撃たれるぞ」
 ジョンと私は静かにうなずいた。
「実はな、PCPとは別の事件なんだが、殺人課も逮捕状をとるのにあの二人の写真がいるんだ。とにかく連中はどこからでも見張ってるから十分用心してくれ。あとは、ああ、そうだ。薬物検査でPCPが出たら、地方検事が殺人罪でロン・チャンの逮捕状と捜査令状をとるよう動いてくれる。ピア48の方は麻薬課が協力してくれるから、私たちは広東インポートとスポッフォードストリートのメイソンハウスに踏み込むぞ。そのときは、Tac Squad (特殊部隊) と Flying Squad (犯罪対策特別班)が我々のバックアップをしてくれることになってる」
「すごいじゃないか、ビッグイベントだな、キース。で、あの気味の悪いチャイニーズはどうなるんだ?」
 ジョンは肉を裏返しながら警部に言った。
「信頼できる情報筋によると、ロンはワ・チュウの命令で香港からPCPを輸入してばら撒いてるようだ。ジョーから連絡があったよ。ヴィニーの話しでは五日以内にマフィアがワ・チュウを殺ると言ってるらしい。FBIには彼らが喜びそうな骨を投げてやるよ。ヴィニーたちからもらった情報を彼らに流してやれば、ワ・チュウの逮捕にやっきになるだろう。ヤツが殺される前にどうにかするはずだ。もっとも彼らがワ・チュウを見つけることができたら、の話しだがな。マァ、そういうわけで、今日はささやかな前祝いだ。それで、おまえたちにこれからやってもらいたいことは、まもなくボスが戻ってくる。これじゃ肉が薄いだろ。ボーイ。持ってきた肉、もっと分厚く切って焼いてくれ」

 私が肉の塊を3cm位の厚さに切っていると、ケイコさんとマコトが大きな皿を抱えて戻ってきた。

「軍事会議は終わった? ずいぶんと真剣な顔で話してたけど。ノルマンディーにでも上陸するのかしら? はい、どうぞ。出陣祝い」といいながら、ケイコさんはテーブルの上に大皿を置いた。ゆでたてのロブスターが山のように盛り付けられている。湯気と一緒にうまそうな匂いが流れてきた。マコトが運んできた皿には、レタスとトマト、その上にカニの身がこぼれ落ちそうなくらい乗っている。
「もう会議はおしまい。おなかの方が減りすぎて怒ってるわよ。さぁ食べましょう」

 それから九時頃までバーベキューを囲んでダーティージョークも交えながら楽しい食事が続いた。


 帰るころになって、マコトがどうしても私に見せたいものがあるからアパートまで来てほしいと言ったので、ジョンのワーゲンでクレイストリートの交差点まで送ってもらった。
「どうしたの? 何を見せてくれるの?」
 歩きながら私が聞くと、彼女は「レター」と一言しか答えなかった。その意味がわかったのは、彼女のアパートの正面に着いたときだ。

<DIEJAP(死ね日本人)>

 この文字がアパートの壁のあちこちに、黒いペンキで書きなぐってあった。その下には 一回り小さい文字で中国語が書きこんである。おそらくDIEJAP>と同じ意味だろう。マコトは瞬きもせずその文字を見つめている。
「誰がこんなひどい落書きをしたんだ! いつ、見つけた?」
「今。今、初めて見た。あの、これじゃないの。見せたいものは、昨日の朝、部屋のドアに大きな紙ありました。ダイジャップ、紙に書いてあった。それ、言いたかった」
 それで昨日は雨の中、私のアパートを訪ねてきたのか。そんなことも知らず寝てしまったとは、なんてことだ。
「マコト。昨日、僕のアパートに来たのは、このことを話したかったんだな。ごめんよ。寝てしまって君が帰ったのも知らなかった。だけど、どうしてすぐに言わなかったんだ」
「きのう、お葬式だから。悲しい日。悪い話、よくないと思った。私、JAPの意味 知ってる。とても悪い言葉。それに、あなた疲れてる顔してた」

 私はマコトの正面に立ち、彼女の両肩を軽くつかんで目線をあわせた。マコトは不安な表情で私を見ている。
「いいか。マコト。大事なことを言うからね。よく聞くんだ。これから困ったことや怖いことがあったら、すぐに言うんだ。あとからじゃダメだ。僕のことは気にしなくていい。大事なことは最初に話すんだ。僕の言ったことがわかるか?」
 マコトは私の目を見つめたまま頷いた。
「でも、私、何かした?  私 日本人だから? 、私、チャイナタウンの人に悪いことしてない。ここの人たち、みんないい人だと思った。どうしてこんな悪いことするの?! 私、なにかした?  誰がやったの?!」
まるで私を責めているような口調で彼女が言った。
「わからない。チャイナタウンはアジアの人たちはみんな仲良く暮らしてるはずだけど、時々ルールに従わないのがいるんだ」
「そう、みんな いい人。でも、ハワードさん、怒る。きっと、これをみたらたくさん怒ります。 私、どうする?」
 マコトの顔には不安の表情がありありと出ている。
「大丈夫だ、心配しなくていい」
「でもハワードさん、怒ったら、私 とても困る。どうすればいいですか?」
「心配しないで。もしもハワードさんが何か言ってきたら電話して。僕が何とかするよ。おいで。部屋の前まで一緒に行ってあげるよ」
 私はマコトの手をとって三階まで上がって行った。部屋の前に来ても、彼女は何も言わずうつむいている。
「心配するな。大丈夫だ。僕は警官だよ。こういう嫌がらせをするやつは許せないから僕が捕まえるよ。だから何も心配しなくていい。困ったことがあったらいつでも電話して。いいね」
 マコトは小さくうなずき、ポケットから鍵を取り出した。「サンキュ。グッドナイト」と私の襟元を見ながら小さな声で挨拶し、部屋に入っていった。

 帰り道、漠然とした不安を感じながら歩いていた。なぜこんな不安を感じるんだろう。あの落書きのせいばかりではない。
『何かが道をやってくる、よくない何かが近づいている』
 眠りにつくまでマクベスの魔女の言葉が頭から消えなかった。

 

 

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※1968ルイスマティーニピノ・ノワール(Louis M. Martini 1956 Pinot Noir ):カリフォルニアワイン
※ストリートオブサンフランシスコ:サンフランシスコを舞台にしたダーティーハリーのような話。1972年から1977年に放映された刑事ドラマ。原作『poor poor Ophelia』(Carolyn Weston著)
※Ma'am は 女性の上官を呼ぶとき、「サー(sir)」と同じ。

ブラックパンサー党
1966年カリフォルニアオークランドで結成。武力による黒人解放をとなえている組織。

※tactical squad:現在のSWATのこと。1970代はサンフランシスコ市警にはSWATという名称はありません。SWATと同じような特殊部隊はTac Squad と呼ばれていました。Tac Squadは暴動などを鎮圧する部隊ですが、やり方が過激なため評判が悪く、その後,SRT(Special Resonse Team)と名称を変えました。これが、現在のSWATのことですが、サンフランシスコ市警でSWATという名前で呼ばれるようになったのは1980年代に入ってからです。