雑記帳

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エンジェルダスト(14)

朝7時。窓から差し込む眩しい光で目が覚めた。
 酷い頭痛。鼻を折ったときの頭痛とは痛みが違う。まるでくさい靴下を履いた兵隊が口の中で行進しているようだ。『地獄を見るぞ』とはこのことか。
 どうやってアパートまで帰ったんだろう。みんなで乾杯をして、アイルランドの歌を歌って、それからオールドブッシュミルズを一気に飲んで・・・・・・
ケリーがまた継ぎ足してくれて、それから警部からギネスをもらって飲んだような気がする。それから・・・・・・
 だめだ、記憶がそこまでしかない。とにかく熱いシャワーを浴びよう。それで少しはましになるだろう。
 ゆっくりベッドから起き上がった。服も着替えずに寝ていたのか。ひとつ体を動かすたびに「はぁ」とため息が出る。バスルームまでの距離のなんと長いこと。途中で椅子に足を引っ掛けてよろけて壁にぶつかった。
 壁にくくりつけられた薬戸棚をあけて、鼻を折ったときに病院でもらった痛み止めを2錠だして口に含み、洗面所の水道の蛇口から直接水を飲んだ。それからシャツもズボンも床に脱ぎ散らかして、夢遊病者のような足取りでバスルームに行き、いつもより熱いシャワーの下でしばらくじっと立っていた。熱い湯のおかげで兵隊たちの行進が少し緩慢になったような気がする。そのうち頭痛も治まってくるだろう。うがいをして歯を磨き、バスルームを出て洗い立てのスウェットスーツに着替えた。キッチンでコーヒーを沸かし、ラジオをつけた。しばらく椅子に座ってラジオのニュースを聞いていたが、昨日、自分の急所を撃った犯人のニュースは流れてこなかった。交通事故のニュースもない。みな無事、家に帰ったようだ。ロケット燃料とニックネームをつけたエスプレッソを2杯飲んで、1時間くらい、椅子に座ったまま寝てしまった。目が覚めたときには頭痛も消えていたので、近所のスーパーまで、散歩もかねて買い物に出かけ、帰ってからは汚れた制服の洗濯や部屋の掃除で一日を過ごした。
 夜、酔いつぶれた私を心配してケイコさんが電話をかけてきてくれた。ケイコさんの話では、乾杯のあと、ギネスを6杯、オールドブッシュミルズを5杯飲んでダウンしたらしい。完全に意識不明になった私をアパートまで運んでくれたのは警部とケリーだと教えてくれた。ギンズバーグでの飲み会の話を数分したあと、ケイコさんが私の明日の予定を訊いてきた。
「明日も非番でしょ。何も予定がないなら、キースも休みだからみんなでうちでご飯食べない? ビッグケリーも来るわよ。明日、寿司を作るの。キースがね、あなたたち、どうせ一人じゃ、チーズバーガーくらいしか食べてないだろうから、たまにはいいもの食べて栄養つけさせろって言ってるの。だから、明日の4時にまたうちに来て。いいでしょ? これは本部の警部からの命令よ、ブライアン。上司の命令には逆らえないわよ。OKね?」
 断る理由など何もない。警部のうちにまた遊びにいける。時間がゆっくり流れているあの静かなダイニングルーム。誘われなくとも何度でも行きたい場所だ。即座に「イエス」と返事をした。ケイコさんは警部の命令だといったが、きっとこれを提案したのはケイコさんだ。そんな気がした。
「それから、家に来るときはこの前みたいに、よそ行きの服でこなくてもいいわよ。ネクタイなんてとってきて。ジーンズでOKよ。じゃ4時に待ってるわね。バイバイ」
 相変わらず明るくて人懐こいしゃべり方のケイコさん。初めて会ったときもそうだったが、なぜか初対面という気がしなかった。ほんわかとした雰囲気のある気さくな女性。奥さんの話をするたびに警部の顔がほころんだのもわかる気がする。

 翌日はケイコさんに言われたように、ジーンズにスニーカーでギャラガー邸のドアベルを押した。今日は黄金色の猫ではなく黒白の猫が出迎えてくれた。今日もクラシックが流れている。部屋の中はかすかにスイートオレンジの香りがした。
 ダイニングルームのテーブルにはたくさんの料理が並べられていて、ケリーも警部も先に座って待っていた。大きな陶器の深皿には、きゅうりや卵、それ以外の名前はわからないが、赤や黄色や緑できれいにトッピングされた料理がのっている。
「今夜はチラシ寿司つくったの。食べてみて。これがマグロで、これがイカのサシミで・・・・・・」
 ケイコさんが食材の日本語を教えてくれている間に、警部が私の小皿に寿司をよそってくれた。
「ほら、ボーイ。フォークでいいから、この魚、食べてみろ。うまいぞ」
 警部が皿に色々乗せてくれた。警部のこんな姿は仕事中のあの無愛想な表情からはとても想像できない。グラスの氷がなくなると、ケリーは勝手にキッチンの冷蔵庫から氷を出してくる。ケイコさんは足元に絡みついてくる3匹の猫たちに魚をちぎってあげていた。なんだか本当の家族のような気がしてくる。

 そういえば、もう何年も家族そろって食事をしたことがない。私の本当の父は私が生まれてすぐに死んでしまった。6歳のときに新しい父と血のつながっていない弟ができたが、義理の父は私よりも弟のほうをかわいがった。義理の父は完全な白人至上主義者で、食事の時間になると、必ず始まるのが白人がいかにすばらしいかという話。彼の話が終わるまで、心の中では大好きだったジャングルブックモーグリのことばかり考えていた。こんな話を毎回食事のたびに聞かされることに嫌気がさして、学校が終わってもすぐには家に帰らず、友だちと夜遅くまで遊びまわっていた。最初から義理の父とは気があわなかったのだ。だから、いままで、義理の父を「パパ」と呼んだことは一度もない。本当の父が生きていたら、警部のように私の皿に料理をよそってくれたかもしれない。義理の父は絶対にしてくれなかった。

 楽しい時間は瞬く間に過ぎていく。テーブル中、所狭しと並んでいた料理もすべてなくなり、ケイコさんがキッチンで食器を洗っているとき、警部が一枚の写真を私たちに見せた。
「この男を知ってるか? 名前はジョナス・ジョーンズ」
 警部が訊いた。
「ああ、こいつならよく知ってるよ。すりの常習犯だろ。オニール、覚えてるだろ。去年のイブにケーブルカーのターンテーブルのところであった黒人だ」
「はい、この男なら覚えてますよ」
 あのあばただらけの顔は今でもよく覚えている。
「サンクエンティンに未だいると思ってたら、オニールとパトロールに出た最初の日に、偶然見かけてね。ケーブルカーの乗客の列に混ざってたから、どうせまたすりでも始めるんだろうと思って、ちょっと脅したら逃げてったよ。で、こいつがどうかしたのか?」
「こいつはもうスリはできない」
「出来ない?」ケリーがきき返した。
「ジョナスは死んだよ」
「えっ? この男、死んだんですか?」
 私が訊いた。
「首の骨を折って即死だったらしい。そのことで昨日は朝から捜査課の課長に呼び出されてね。おかげで二日酔いが一気にさめてしまったよ」
「なんで首の骨なんか折ったんだ? また自殺か?」
 ケリーが訊いた。
「いや、自殺じゃない。ジョナスの女房の話によると、部屋でマリファナを吸ってたようだが、それからしばらくして、突然大声でわめいて部屋を飛び出していって、アパートの階段から転げ落ちたときに首の骨を折って死んだらしい。まだ検視報告書を見てないが、おそらく今回もPCPが出るような気がするんだが。もしそうなら、クリスマスイブから昨日までで、PCPの犠牲者は12件になる」
「12件も! そんなにあったんですか」
 警部はギネスを一口飲んでから私の顔を見た。
「ボーイとジョンが直接かかわったのは3件だが、テンダーロイン以外の地区でも犠牲者が出ている」
「PCPの出所は何かわかってるのか?」
 ケリーが訊くと、警部は首を横に振った。
「死人に口なし。生きてるやつは記憶がない。正直、今のところこれといっていい情報がない」
 警部はそういうと、テーブルに置いてあるマルボロの箱から一本取り出して、ライターで火をつけた。ちょうどそのとき、ケイコさんが日本のお茶を持ってきてくれた。
「はい、ブライアン。日本のお茶、飲んだことある?」
「あ、はい、日本茶なら何回も飲んだことあります。ジャスミンティーとグリンティー、好きだから家にもいくつかおいてますよ」
日本茶が好きなんてめずらしいわね。コーヒーにしようかと思ったけど、よかったわ。もちろん、砂糖なんかいれないわよね」
「はい。誰か日本茶に砂糖入れるんですか?」
 私が訊くと、ケイコさんはにやっと笑って、警部とケリーの顔を交互に見た。
「この二人、砂糖無しじゃ飲めないのよ。日本茶に砂糖なんて日本文化の破壊よねぇ」
 ケリーはアハハと笑っている。警部は軽く咳払いして警部の隣に座ったケイコさんの頭を軽く叩いた。ケイコさんは笑いながら警部の前にシュガーポットを置くと、またキッチンに戻っていった。

「ああ、そうだ。PCPで思い出したが、ボーイの作ってくれたPCPの資料、お前の名前を入れて麻薬課(Narcotics)と捜査課(Inspector Bureau)に配ったんだが、課長からブライアン・オニールなんて捜査官は知らないって言われてね」
「ええ! 私の名前入りで配ったんですか?」
「あの資料はお前が全部作ったんだから、私の名前を入れるわけにはいかないだろ。だから課長にはちゃんと説明しておいたよ。ブライアン・オニールはテンダーロイン署の優秀な新米警官だってな」
 横できいていたケリーが私の肩を軽く叩き、笑顔で言った。
「オニール。ホントのことだから困ることはないだろ」
「え、でも・・・・・・」
「とにかく資料の出来栄えには課長もずいぶん感心して、公式文書にして配布したいといってる。このことは90日の研修が終わったときの評価にプラスされるぞ。将来、捜査官になりたいと思ったときに、課長に名前を覚えてもらっていたら、お前を推挙するときにも都合がいいだろ」
 警部が言った。
「ありがとうございます。でも、まだ捜査官になるかどうかは・・・・・・」
 というと、「お前、ギンズバーグクルーゾー警部になりたいって叫んでたじゃないか」とケリーが笑いながら言った。
「なんだ、ボーイ、覚えてないのか? 酷いフランス語のアクセントだったが、全員に言って回ってたんだぞ。まぁ、新米にしてはずいぶん行儀がよかったなぁ。新入りで酔っ払ってあそこまでやったのは市警始まって以来だぞ。だがな、ボーイ、そう焦るな。捜査官になりたければ、色々手順をふまんとな。もしお前にその気があるなら、どうやって振舞うかはジョンに教えてもらえ」
 警部はにやりと笑った。
 私がそんなことを叫んでいたなんて今始めて知った。二人でからかっているんだろうか。とにかく何も覚えていない。でも、将来、捜査官になるというのも悪くないかもしれない。

 翌日の夕方は、いつものように私とケリーはテンダーロインをパトロールしていた。私の鼻もケリーの肋骨もほとんど治っていたので、パトカーではなく徒歩で巡回していた。日が沈むまで、ギアリーストリートからオファレル、エリス エディーストリートをぐるっと周り、7時ころ、ギャラガー警部から無線がはいりタッドのステーキハウスで一緒に夕食を食べることになった。
 エリスストリートを歩いているとき、またあの赤いマスタングを見つけた。ナンバープレートには「IMPORT]と書いてある。でも今回は駐車禁止のレッドゾーンには別の車が入っていて、マスタングはその車に横付けするような位置で止まっていた。エンジンはアイドリング状態で、運転席には20代くらいの男が乗っている。運転手側の窓は開いていて、運転手は窓枠に肘をかけて外に立っている黒人の若者と話しをしている。
「あいつらヤクの取引でもやってるように見えるんだが・・・・・・」
 ケリーが言った。
 マスタングのほうに向かって歩いてくる私とケリーの姿を認めると、路上の男はあわてて助手席に乗り込み、ドアが閉まるとすぐにマスタングはタイヤの音をきしませて私たちの横を走り抜けていった。私たちの横を通り過ぎるとき、顔を見られたくないとでも言うように、運転席の男は頭を下に向けた。しかし私もケリーも運転手の顔をはっきり見た。彼は黒人ではなく中国人か日本人のような顔をしていた。
 マスタングを追跡したくとも徒歩ではどうすることもできない。しかし追いかけたところで、路上で話をしていただけでは罪にもならないし、せいぜいスピード違反で捕まえるくらいしかできないだろう。
「横に乗ってた黒人、あいつはタイリー・スコットだな」
 ケリーは助手席の男の顔もしっかり見ていたようだ。
「タイリー・スコット? 誰ですか?」私が訊いた。
「この辺を縄張りにしてるヤクのディーラーだ。しばらく務所に入ってたんだがな」
「あいつが。ヤクのディーラーなんだ」
「ああ。ヘロイン。コカイン、テンダーロインならほしい奴はいくらでもいる。いいか、オニール。パトロール中に妙なやつを見かけたら一回でそいつの顔を覚えるんだぞ。2回目に同じやつに会ったら要注意。3度目は危険信号だ。タイリーは度々見かけたからな。あいつのやり方はストリートの客に直接は売らない。ディーラーにおろすんだよ。委託販売みたいなもんだ。それでディーラーから金をもらうんだ。ヤクの代金とディーラーが売りさばいた分の何パーセントかがあいつの懐に入るわけだ。オニール、いま言ったことはおまえさんのクライムストッパーノートにメモしておけよ」
「はい、わかりました」

 タッドのステーキハウスで食事をしているときに、パトロール中に見かけた赤いフォードマスタングのことを警部に少し話した。警部はステーキを食べながら無表情で話を聞いていたので、私の話には興味がないのかと思ったら、「もっと詳しく聞かせてくれ」といわれた。私はマスタングを最初に見かけたときのいきさつから今夜のことまで、自分にわかる範囲で警部に話した。助手席に乗っていた黒人の話はケリーが伝えた。
「タイリーなら昔、かかわったことがあるからよく覚えているよ。やつが動くのは自分の儲けになるときだけだ。あの男はどうしようもならんクズだ。白人を徹底的に憎んでる」
 警部の表情は変わらないが口調がきつい。
「奴隷の時代は終わったのに、どうしていつまでも黒人は白人を憎むんですか?」
 日ごろから思っていたことを少し警部に質問してみた。
「白人だから、それだけだ。それ以外の理由なんか何もない。タイリーはアジア人も憎んでるようだが。自分のビジネスに役に立つアジア人は別だがね」
 警部は皿に残った最後の一切れを口に放り込み、ナプキンで口を拭いてから話を続けた。
フィルモア地区とテンダーロインでチャイニーズギャングが黒人のディーラーにヤクを売ってるという情報を掴んだが。たまたまその現場を見たという目撃者からの通報だ」
「チャイニーズギャングか。それならあのマスタングの運転手、ひょっとしたら中国人か? オニール、運転手の顔、お前も見ただろ」
 ケリーが私に顔を向けて言った。
「はい、日本人か中国人かわからないですけど、そんな顔でしたね」
 私が言うと、警部は腕組みをして眉間にしわを寄せ何か考えていた。短い沈黙の後、警部が言った。
「その運転手、中国人の可能性が高いな。おそらく私の推測だが、今夜、タイリーは中国人のディーラーと取引してたんじゃないだろうか」
「わたしも最初見た時、そう思ったんだ。オニール。おまえはどう思う?」ケリーが私に訊いた。
「そんな気がします。それに私たちの姿を見たらあわてて車、発進させたし、何にもしてないなら運転手が顔をかくすこともないのに。とにかく何か変な感じでした」
「いい情報だ。いまの話は麻薬課にも伝えておくよ。多分、彼らはタイリーに監視班を付けると思う。えっと、それから、ボーイ、おまえたちが見たマスタングのナンバーと、他に何か車のことでわかってることがあれば教えてくれないか」
 私は警部に車の情報を伝え、警部はそれを手帳に書き取っていた。
「ニューモデルで、IMPORT。広東パシフィックインポートが所有か。オッケー。サンキュー。これだけでも調査の手間が省けるよ。それじゃぁ、今夜はチャイナタウンをひとまわりしてくるか」

 店を出たあと、警部はフューリーでチャイナタウンに向かい、私とケリーは来た道を戻ってオファレルストリートのほうに向かって歩いていった。レロイが頭をぶち抜いたオファレルシアターは今夜も茶褐色の怪しげなネオンの明かりにくるまれている。冬の雨がチョークのあとも血の痕も、きれいさっぱり洗い流してしまった。割れたガラスケースも元通りになっている。オファレルシアターから少し行くとグレートアメリカンミュージックホールがある。今夜はロックのコンサートをやってるようだ。
 私たちは中の様子を見るために、満員の会場に入ったが強烈なフラッシュライトと無数のストロボの光、ものすごい大音響でお互いの話す声がよく聞こえない。ロックのリズムに合わせて若い男女が踊っている。会場は歩く隙間もないほど混雑していて、私たちの立っている場所からでは 中で何がおこっているのか全く見えない。マリファナの匂いがするが、どこから匂いがきたのか、誰が吸っているのか、この超満員の会場の中では見つけるのは不可能だ。これ以上ここにいても仕方がないのでコンサートホールから出てストリートに戻った。
 ロックの大音響の中にいたので外に出たときはほっとした。コンサートホールの地響きするような大音響に比べると、ストリートの騒音のほうがまだましだ。私たちはギアリーストリートでコーヒーを買って飲みながらパトロールを続けた。
 メイソンストリートとテイラーストリートの間に映画館が2軒あり、私たちが通りかかったとき、ちょうど映画が終わったようで、エキサイトした観客がぞろぞろと外に出てきた。路上が一気に賑やかになった。10時30分ごろまで、このストリートを行ったりきたりしていた。11時になると、映画館の周辺でたむろしていた若者たちの姿も消え、そろそろシフトも終わる時間なので署に戻ることに決めた。
 道すがらケリーが子供だったころの話をしてくれた。彼の家はミッション地区のチャーチストリート沿いにあり、高校時代はフットボールの選手だったという話をしながらのんびりと歩いていた。

 エリスストリートとオファレルストリートの間にアントニオストリートと言う名前の路地がある。ストリートと名前はついているが奥は行き止まりで通り抜けはできない。私たちがアントニオストリートのすぐ近くまで来たとき、路地の奥から空き缶が何かにぶつかる音がした。続いて女性の叫び声。ケリーと私は路地の角まで走り、ケリーが奥を覗きこんだ。
「オニール、これはまずいぞ」私の耳元でケリーが言った。
 私も頭を突き出して路地の奥に目をやった。数メートルほど先の行き止まりになったところに誰かがいる。路地には街灯はないが、路地の両脇に立っているアパートからもれる窓の明かりで、そこの人がいることがわかった。 
 ケリーが懐中電灯で路地の奥に明かりを向けた途端、パチーンと頬を平手打ちしたような音がした。数メートル先の行き止まりになったところに男が立っている。男の足元にはアパートの壁を背に地面にべったりと足を投げ出して座っている女性がいる。彼女のブラウスは前がはだけ、ブラジャーがずり落ちて片方の乳房が見えていた。もう一人の女性は、男の左腕に抱きかかえられ、髪の毛を鷲掴みにされているので身動きできない。彼女たちはアジア人のようだ。ハァハァという男の激しい息使いが聞こえる。
「警察だ! やめろ!」ケリーが叫んだ。
 男はこちらを振り向くと同時に、女性の髪を強く上に引っ張って右手に持ったナイフの刃を女性のわき腹に突きつけた。
「やめろ! ナイフを下ろせ!」ケリーが再び叫んだ。
「うせろ! ブタ!(Fuck you pig!)」
 男が叫んだ。左腕で抱きこんでいた女性をケリーのほうに向かせ、今、男はその女性を盾にしている。
「オニール、よく聞け」
 ケリーは私の耳元でささやくよりももっと小さな声で言った。
「わたしがこいつをとめる。おまえのライトを消せ。絶対にライトは使うな。お前はあいつから見えないところで、すぐに救援を呼べ。サイレントアプローチだ、わかってるな。それからわたしの右側でお前が援護してくれ。この男を説得してみる。うまくいくかどうかはわからないが、万一、わたしの身に何がが起こっても、わたしのことにはかまうな。お前は彼女たちを救うことだけ考えろ。わたしのことは絶対に心配するな。もしも、あいつが彼女たちに何かしようとしたら、お前は正しいことをしろ。わかったな」
「わかりました」
 私はすぐに建物の影になった暗い場所に入って、無線の音量を小さくしぼり司令室に救援を要請した。
「こちら3アダム42、コード3。場所はアントニオ。エリスとオファレルの間、ジョナスの西。ナイフを持った男が人質を取っている。容疑者は白人。年齢30代、黒髪、ブルーのシャツ、茶色のズボン、女性を二人、人質に取っている。ネゴシエーター(交渉人)とSWATを要請する。全ユニットにサイレントアプローチを要求する。繰り返す。サイレントアプローチ」
 通信を終え、ケリーのほうを振り向いたと同時にパトカーのサイレンが聞こえた。それは次第にこちらの方角に近づいてくる。
 バカヤロウ!  無線を聞いてなかったのか!  誰のパトカーか知らないが、とにかく早く消してくれ!  音は男の神経を逆なでする。しかし、サイレンはなりやまない。
 ケリーは懐中電灯の灯りを男の顔と上半身にあてながら、ゆっくりと距離を縮めていく。男の右頬にはナイフで切ったような深い傷があり、ザックリ割れた傷口から滴り落ちる血をベロでなめていた。ハァハァと呼吸をするたびに男の肩が大きく上下している。男の左腕に抱きかかえられ、ハンティングナイフをわき腹に突きつけられた女性の目は恐怖で見開かれ、瞬きひとつしない。
「ナイフを下ろしてその子を放しなさい」
 ケリーは穏やかな口調で言った。
「うるせぇ! 消えろ! こっからうせろ!」
「それはできない。ナイフをおろしてその子を放してほしい」
「やだね。そんなことできるか(ain't goin' to happen me)」
 半開きになった男の口から、血の混ざったよだれと一緒に短い笑い声が漏れた。
「オレはやりてぇんだよ。この黄色のメス豚(slant bitch)とよ。オレ様のコックをよぉ、ぶち込みてぇんだよ」
 男の口元の筋肉がヒクヒク動いている。そのたびに頬の傷も一緒に動き、まるで口が頬まで裂けたようにみえる。
「オレの邪魔するな!  それ以上くるな、さがれよ、こっちへ来るな!」
 地面をするようにじわじわ動いていたケリーの足が止まった。私はケリーの右後ろ、男からは陰になって見えない場所に立ち、リボルバーを抜いて撃鉄を起こし、男の頭部に狙いを定めた。ケリーはゆっくり穏やかに説得を続ける。 
「それはできないと言っただろ。お前がナイフを下ろして彼女とそこの友だちを放してくれたら、わたしたちは何もしない。お前を傷つけるようなことはしない。約束する」
「うそつけ! おまえ、オレを殺したいんだろ(You wanna fuckin kill me)」
「そんなことはしない。ほら、見なさい。銃は持ってない」
 手の中には何もないことを男に示すため、ケリーは右手をライトの明かりの中に差し出した。
「わかっただろ。銃は持っていない。だからナイフを下ろしてくれ。そうしたら誰も傷つかずにここから帰れるだろう。もちろんお前も無事だ。よく考えてくれ。ナイフを下ろして彼女たちを自由にするのが、お前にとっては一番いい方法じゃないか」
 男は何も答えない。ナイフの刃を女性のみぞおちの部分に押し当てながら少し考えているようだ。
 そのとき、ずっとサイレンを鳴らして走ってきたパトカーがすぐ近くで止まり、サイレンを消した。その途端、男の態度が急変した。
「この豚ヤロウ!」
 男はナイフを女性の喉もとに押し当て、ケリーをにらみつけながら叫んだ。
「このうそつきめ! 仲間をよんだな! お前ら、この女を逃がしたら、オレを殺すつもりだ!」
 男は彼女の頭を左肩に押し付けた。ナイフを握った手に力が入る。人質にとられた女性は目を大きく開き、ただ一点だけを見つめている。
 彼女の喉にナイフの刃が強く食い込んだ。
 今、まさに喉を掻き切ろうとしている。
 私は男に意識を集中した。敵の動きが見えてからではもう遅い。動きの起こりをとらえるのだ。私は陰の中で銃口を男に向け、その瞬間を待った。

 数秒後、ナイフを握り締めた拳がかすかに変化した。
 いまだ! 
 ナイフが右に引かれる瞬間。時間にしたら1秒にも満たない瞬間の動きが、はっきりみえた。
「うそつきのブタヤロウ!」
 男の叫び声と同時に私は引き金をひいた。
 雷鳴のような銃声。
 銃身から噴出す青と金色の炎。
 炎から飛び出した弾丸が、まっすぐにターゲット目指して飛んでいく。
 私にはそれがはっきり見えた。まるでスローモーションの映像のように、ゆっくりと弾が空中を飛んでいく。
 弾丸は男の歯を砕き、口の中に消えた。後頭部から真っ赤な血しぶきをあげ、男は糸の切れたマリオネットのように地面に崩れ落ちた。男のナイフは獲物の首を切り裂くことはできなかった。
 全てが終わったとき、あらゆる動きが通常の速さにもどった。

 一瞬にして静寂。硝煙の臭い。ケリーは身じろぎもせず倒れた男を見ていた。しかしすぐに私のほうに振り返りだまって頷いた。私とケリーは、ナイフを突きつけられていたアジア人の女性のほうに歩み寄った。年は私と同じくらいかもしれない。まるで凍り付いてしまったかのようにその場に立ちつくし大きな目で私たちをじっと見ている。口をしっかり閉じ、目には涙も浮かべていない。もう一人のアジア人の女性は、壁に背中をつけ、あらわになった胸を隠すように両腕でひざを抱きかかえ、がたがた震えている。彼女の顔からは血が流れていた。
 地面にはキャップのとれた護身用の催涙スプレーの缶が転がっていた。おそらくこれで身を守ろうとしたのだろう。催涙スプレーのそばには、ミリタリーサバイバルナイフが転がっていた。死んだ男が持っていた刃渡り20センチのハンティングナイフは立っている女性の足もとにあった。
 私は銃をホルスターに戻し無線をとった。
「こちら3アダム42。コード4、容疑者は死亡。スーパーバイザーと救急車を要請する。コード3は解除」
 私からの連絡が終わると司令室の通信士はすぐに全ユニットにむけ、私からのメッセージを繰り返した。ケリーは震えてしゃがみこんでいる女性を立たせ、抱きかかえるようにして暗い路地から街灯のともった明るいストリートのほうへ連れて行った。私は立っている女性のそばにより、「もう大丈夫です。あなたを傷つける人はもういませんよ」と声をかけたが、彼女は何も答えない。私は彼女の肩に左腕を回し、右手で彼女の二の腕をつかんで支えるようにして歩き、暗い路地を出た。歩道には銃を抜いた警官たちが何人かいた。彼らに軽くうなずきながら、待機していた救急車のほうに行き、彼女を救急隊員にあずけた。振り返ったらケリーが立っていた。
「彼女たちは無事だ。よかったな、オニール、ありがとう」
 彼は私の肩に軽く手を置き、数回、肩を軽く叩いた。いつもの張りのあるバリトンではなく、少し疲れているような声だった。

 フラナガン巡査部長のパトカーが到着すると、ケリーは険しい表情でパトカーまで歩いて行った。ドアが開いてフラナガン巡査部長が降り立つと、ケリーは激しい言葉を投げつけた。
「一体、誰がサイレンなんか鳴らしたんだ! クソッタレのバカはどこのどいつだ! そいつのせいであの女性が殺されかけたんだぞ。今すぐ、そのバカ者をここへ呼んでくれ!」
 ケリーはすごい剣幕で巡査部長に怒りをぶつけている。その場にいた全員が、黙ってケリーを見ていた。
「ジョン、わかった、よくわかったよ。だから少し落ち着いて。その警官を見つけて、私からよく言い聞かせておくから」
 巡査部長はケリーの大きな肩に両手をかけ、落ち着いた静かな声で答えた。
「ジョン、腹が立つのはよくわかる。でも、今は気を落ち着けて。まず、何があったのか話してくれないか。はじめから、ゆっくりでいいから、ここで起こったことを教えてほしい」
 少しの間、ケリーは巡査部長を睨み付けて何も答えなかったが、気を取り直し話し始めた。私はケリーの話が終わるまで、うつむいて巡査部長が乗ってきたパトカーにもたれかかっていた。なぜかわからないが無性にタバコが吸いたくなった。
「だれか、タバコをもってないですか?」
 私は下を向いたまま、そう言った。誰も聞いてないだろうと思ったら、横からタバコの箱がさっと差し出された。
「ほら、一本とれ」
 聞きなれた声。マルボロの箱。

 ギャラガー警部だった。
 差し出されたパッケージから一本抜きとると、警部がマッチで火をつけてくれた。警部からもらったマルボロを吸っていると、ベトナムにいたころを思い出す。戦場で吸ったタバコがどれだけ旨かったか。一本を吸い終わるまでの短い間だけ、私の周りのすべてを断ち切ることができる。
「全部もっていけ。私のはまだ車に積んである」 
 私は警部に礼をいって、マルボロの箱をポケットにしまった。それから、ホルスターに戻したリボルバーを取り出し、シリンダーを開けて警部に渡した。
「私の銃です。弾道検査にまわしてください」
 警部は何も言わず、ただうなずいて私の銃を受け取ると、容疑者の死体がある路地のほうへ歩いていった。
 フラナガン巡査部長とケリーの話が終わると、巡査部長が私を呼んだ。
「今からケリーと一緒に署に戻って、報告書を仕上げなさい。細かいことも全部、書き忘れないように。それが終わったら、二人でギンズバーグに行って待ってなさい、私もここが片付いたらすぐに行くよ。あとからみんなには連絡を入れるから、とにかく店で待ってなさい」
 巡査部長が優しい口調でそういった。
 私たちは署に戻り、報告書を書き終えてからケリーのワーゲンでギンズバーグに向かった。

 テンダーロイン署の仲間たちがギンズバーグに集まってきたのは深夜1時を過ぎていた。普段は話したこともない人たちが私のそばにきて握手をしたり、ビールをおごってくれた。
 2時ごろ、フラナガン巡査部長とギャラガー警部が店にきた。巡査部長がスコッチウイスキーを持って私とケリーのテーブルにやってきた。
「オニール、今夜、君がやったことは間違っちゃいないよ」
 巡査部長が私の肩に手を置いて優しい声でそう言った。
「それから、ジョンのやったことも立派だったよ。私の時代じゃ説得するなんてことはしなかった。すぐに力でねじ伏せようとしたもんだ」
 巡査部長の顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。
「それから、オニール、たのみがあるんだが。今夜はあんまり酔うんじゃないよ。多分、明日、君とジョンは今夜のことで、内部調査課(Internal Affairs)に呼ばれるはずだ。二日酔いじゃ具合が悪いからね。今夜のことを根掘り葉掘り聞かれると思う。謹慎処分にされるかもしれないが、そうなるかならないかは彼ら次第だ。最悪の場合、もしも謹慎処分になっても、彼らの判断には、一切タッチできないんだよ。でも、今夜、君とジョンがやったことは正しいと思ってる。あの状況では君たちのとった行動は正しい選択だよ。私はねぇ、オニール、君とジョンのことで、彼らがおかしなことを言ってきたら、誰がなんと言おうと、彼らと同等の立場で私の意見を述べるつもりだよ」
 私はフラナガン巡査部長を見た。年老いてはいるが、その眼には強い力がある。巡査部長はスコッチウイスキーのグラスをかかげて、私とケリーのために乾杯してくれた。
 全員が店を出たのは深夜3時を回っていた。ケリーの車で途中まで送ってもらい、車から降りたあと、人通りの絶えた深夜のコロンブスアベニューをアパートに向かって歩いていた。
 海岸から吹いてくる夜風が冷たかった。でもその冷たさを感じることができるのが嬉しかった。
 私は今日も生きている。

 

 

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※slant またはslope はアジア人を侮辱した言葉。
ベトナム戦争のころ、米軍兵士がしばしば使っていました。アメリカ人は、日本人、中国人、ベトナム人のアーモンドのような目が嫌いだったようで、slant(slope) は特にアジア人の目の形を侮辱していった言葉です。slope は「坂」「傾斜する」という意味

※サイレントアプローチ:サイレンを鳴らさずに現場にくること。

※クライムストッパー:
アメコミ「ディック・トレーシー」に登場するディックを助け悪と戦う若者たちのグループ。
明智小五郎と少年探偵団のような関係。
アメリカの警察で市民から寄せられたあらゆる種類の犯罪に関する情報をストックしてあるものをクライムストッパーノートとよぶこともあります。

※監視班
犯罪を起こしそうな人物は24時間体制で監視される。
それを行うチーム