雑記帳

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エンジェルダスト(19)

金曜日

 まるで神が私たちを祝福してくれたようなすばらしい朝。目の覚めるようなコバルトブルーの空。窓から見えるサンフランシスコ湾は緑を敷き詰めた草原のようだ。クルージングにはこれ以上すばらしい日はないだろう。

 9時30分、私はハイドストリートとビーチストリートの交差点でマコトを待っていた。待ち合わせの場所は何度も繰り返し説明したので、若干不安は残るがたぶん大丈夫だろう。

 昨夜は10時ころまで彼女をクルージングに誘うかどうか悩んでいた。彼女が私を嫌っていないことはわかるがそれ以上の気持ちがあるのかどうか、さっぱりわからない。私は彼女に惹かれている。でもそれは、酷い事件に巻き込まれた被害者に対する同情かもしれない。彼女に接近すればチャンファミリーの情報がもっと引き出せるかもしれない。あるいはPCPに関する情報が何かわかるかもしれない、という打算が私の中にあるのかもしれない。私は本当に彼女自身が好きなんだろうか。ずっとそのことで自分と対話していた。しばらく考え、結論を出した。
 私はタチバナマコトという日本から来た不思議な女の子に興味がある。国籍の違いも言葉の壁も、そんなことは大きな問題ではない。彼女をもっと深く知りたいと思う。だから私は電話をかけて彼女をクルージングに誘った。

「クルージング 楽しそう。でも、ボート、氷山にぶつかったら わたし、泳げない?」
「サンフランシスコ湾に氷山はないよ。心配ならライフジャケットをもって行くよ、一緒に来るかい?」
「イエス

 

   ******

 ケーブルカーが急な坂道を下りてくる。その中に、ブルージーンズにライトブルーのスウェットシャツをきたマコトの姿が見えた。
ケーブルカーの中から手を振っている。彼女はケーブルカーが止まると、ぴょんと飛び降り、にっこり笑って「ハイ!」と挨拶した。

「ヘイ! ブゥラァイアン! ケーブルカー おもしろい! また乗る?」
 彼女は大きな目でもっと乗りたいと訴えている。
「OK、OK。ケーブルカーはまた今度ね。今日は友達が待ってるからね」
 駄々をこねる小さな子供の父親になったような気分だ。相変わらず彼女は前を見て歩かない。でも今日は上ではなく下を見て、私のことなど忘れてしまったかのように一人でどんどん坂をスキップしながら下りて行ってしまう。どこへ行くのかわかっているんだろうか。案の定、ジェファーソンストリートを右に曲がらなければいけないのに、彼女はまっすぐ行ってしまった。私が追いかけて彼女を連れ戻したが、ジェファーソンストリートでも一人で飛び跳ねて先に行ってしまう。時々、歩道沿いに並んでいるレストランや小さな宝石店、ボート用品店の前で立ち止まってウインドウを覗き込んでいる。やっと彼女に追いついて腕を掴もうとすると、合気道の経験でもあるのではないかと思うくらい見事に私の手をかわして逃げていってしまう。この子を捕まえるのはストリートの浮浪者を捕まえるよりも大変だ。
 彼女は一人でどんどん先に行ってしまい、フィッシャーマンズワーフの有名なシーフードレストラン<pompeii's grotto="">の中へ入っていってしまったので、私は急いで追いかけて彼女のジーンズのベルトを掴んで店の外まで引っ張ってきた。それを見ていた中年の女性の観光客が私のそばに来てこう言った。
「あの、警察を呼びましょうか?」
 私は左手でマコトのジーンズのベルトを掴み、右手でポケットから警察のバッジケースとIDカードをだして、その中年の女性に示した。
「私は警官です。この子、ちょっと脳の病気を患っていて、今日は一日だけ、外出の許可をとったんですよ。それで、彼女の家族から今日一日、彼女の監視役を頼まれたんです。ご迷惑かけて申し訳ないです」
 その中年の女性はチラッとマコトの顔を見て、「そうでしたか、ご苦労様です」といって、行ってしまった。マコトは私たちが何をしゃべっていたのか全くわからなかったようだ。まだ私の手を振りほどこうと腰をひねっている。

「ヘイヘイ、ユーアーブラット! カームダウン!(落ち着け)」
「ブラット って何?」
 マコトが訊いた。
「ブラットは。ちょっと待って」
 私はポケットから辞書を出して、右手だけでページを開き”ブラット”の意味を調べた。
「ブラットは、日本語でヤンチャボウズ、ガキ。君はガキ」
「ノー! 私 ガキ ちがう!」
「君は、ガキ、だ」
 マコトは腰をひねるのをやめて大きな目で私をにらみつけた。
「わたし、帰る!」といって、引き返そうとするので、私はもっと強く彼女のジーンズのベルトを引っ張った。
「ほらほら、あそこ、みて!  友だちが手を振ってる。あのボート、のるんだよ、あそこみて」
 彼女は私が指差すほうに振り返った。
「ワァー すごい!」

 前方の埠頭に係留中の全長10メートルくらいの真っ白なキャビンクルーザーのデッキからジョンが手を振っている。ギャラガー警部とケイコさんの姿も見える。

 私はマコトの手を掴んでクルーザーまで連れて行くと、ジョンがマコトの手をとってデッキに乗せてくれた。私たちはデッキでお互い簡単な自己紹介をし、マコトはジョンにアントニオの路地で助けてくれたことの礼を言った。ジョンは「無事でよかったね」と笑顔で答え、私の方に顔を向けてウインクした。

「よし!  全員そろったな、じゃ行くぞ。オニール、ロープをはずしてくれ」
 ジョンに言われて、私はもう一度桟橋に降り、クルーザーをつないであるロープをはずしてすぐにデッキに飛び乗った。私たちを乗せた真っ白なクルーザーは桟橋を離れ、ゆっくりゆっくり、大海原めざして進んでいった。

 ジョンのクルーザーは私が想像していたものとは全く違っていた。太陽の光を受けてキラキラ輝く真っ白な船体。チーク材のデッキ、鈍い光を放つクロムメッキの大きな舵輪とスッロットルレバー。上部には操縦席もついた2〜3人がゆったりくつろげるフライングブリッジ(最上船橋)。キャビンの内装はシックなダークブラウン。寝台がわりにもなる柔らかなクッション入りの長いす。食事のできる長いテーブル。小さな流し台と冷蔵庫。シャワーとトイレもついている。まるで洋上のビップルームにいるようだ。

「ジョン!  このクルーザーすごいですね。普通のヨットだとばかり思ってました」
「正直言うとな、オニール、パパスにアバラを折られてから、そろそろ私も潮時かなと思ったんだ。いつまでも警官を続けるわけにもいかないだろ。引退したらこの船で魚釣りでもして海のジェントルマンの暮らしも悪くないだろ。だからこの船を買ったんだ。魚群探知機とレーダーもついてるぞ」
「あら、素敵じゃない」ケイコさんが言った。
「そうだな。引退したら海で暮らすか。私は魚釣りよりクラシックを一日中聴いてるよ」
 警部の腕はまだプラスターがはめられているが顔の傷はベースボールキャップとサングラスで隠れているのでそれほどわからない。
 風も波も、みんなの顔もとても穏やかだ。




Pompeii's Grottoのホームページ
http://www.pompeisgrottosf.com/



 マコトとケイコさんはすぐに意気投合して二人で日本語でお喋りしている。何を話しているのか、デッキの男たちにはさっぱりわからなかった。
 ケイコさんが冷蔵庫からビールを出してきてくれた。警部とジョン、私にはギネス、ケイコさんとマコトはキリンビール。警部は片手だけで器用に栓を開け、一気に半分くらい飲んでしまった。さわやかな潮風の中で飲む冷えたビールは最高だ。ケイコさんが私の隣にきて、内緒話でもするようにささやいた。
「ブライアン。かわいい子ね。あなたたちお似合いのカップルよ」
「あの、いや、別にそんな・・・・・・彼女は知り合ったばかりで。まだ友だちだから・・・・・・」
 私がしどろもどろに喋っていたら、ケイコさんがアハハと笑って、私の背中をバンと叩いた。ジョンも警部も笑っている。マコトは何を話していたのかわからないようだったが みんなの輪に入って楽しそうに笑っていた。

 クルーザーは30ノットで穏やかな海を進んでいく。空はどこまでも高く抜けるようなライトブルー。海は限りなく広がる穏やかなダークブルー。地平線に見え隠れする客船のシルエット。はるか沖合いの水面は太陽の光でキラキラ輝いている。
 かつては脱獄不可能といわれたアルカトラズ刑務所のある監獄島を右手に眺め、朽ち果てたバラックの並ぶサンフランシスコの西の玄関、エンジェルアイランドの東側を過ぎ、ブルーのグランデ―ションの中を真っ白いクルーザーが進んでいく。
 マコトとケイコさんはフライングブリッジから海を眺めていた。この空と海が織り成すすばらしい芸術作品がマコトの心を完全に捉えたようだ。

「彼女にはいい友だちが見つかったようだな。サンフランシスコで日本語のわかる友人を見つけるのは難しいだろう」
 警部が私に言った。
「はい、でも彼女、ちょっと・・・・・・いや、だいぶ変わってる子で」
 というと、「それじゃ、お前にぴったりだ。好きなんだろ。そうじゃなかったら連れてこないよなぁ、正直に言えよ」とジョンが笑いながら言った。ジョンの声が大きいので、そのうちマコトに聞こえてしまうのではないかと思い、何でもいいから話を切り替えようとして、ぱっと浮かんだのが赤いマスタングのことだった。
「そういえば、先日ポーツマススクエアでマコトにあったときに、メイリン・チャンがあの赤いマスタングを運転してマコトを迎えに来たんですよ」
メイリン・チャンは あの路地にいた中国人の子だろ? 彼女の車だったのか?」 
 ジョンが訊いた。
「マコトがいうには、あの車は父親のものだけど兄がよく使うといってました」
 それから私は、昨日、マコトから聞いたチャンファミリーのことをジョンと警部に伝えた。警部はずっと顎ひげをこすりながら聞いていた。
「なかなか興味深い話だ。メイリンの父親のビジネスはインポートビジネスか。あのマスタングの所有者は広東インポートだったな」
「はい。マコトは会社の名前は言いませんでしたが、メイリンの父親の会社が広東インポートだと思います」
「前にボーイからもらった車の情報から調べたんだが、車の登録住所は広東インポートの住所ではなくワシントンストリートになってた。ワシントンストリートにも事務所が一軒あって、ベイブリッジの南側の埠頭に倉庫を持ってる。広東インポートに関しては届出もしてあるし、法に触れるようなことは何もない。中国と香港と取引しているようだ。マコトは、メイリンの兄があの車をよく使うと言ったんだな」
「はい、たぶん父親の仕事でドライバーでもしてるんじゃないかと思ったんですが。メイリンがあまり家族の話はしたがらないみたいなんで、よくわからないんですが。何か、家族内で揉め事があるみたいですね。私の考えですが、兄のロン・チャンがお金をたくさんもってるというのは、ひょっとして父親のビジネス以外で儲けた金なんじゃないかと思うんですが」
「それじゃ、わたしたちがあの晩みかけたマスタングの運転手、顔を隠して走り去ったやつがメイリンのアニキか? 話してた相手はタイリー・スコットだったしなぁ。やっぱりあそこでヤクの取引でもしてたんだろうか」 
 ジョンが言った。
「ロンの顔がわからないので、はっきりしたことはわかりませんが、マコトが言ってたロン・チャンはギャングかもしれないってのが気になりますね」
 私が言うと、警部は口を少し尖らせ、さらに強く顎ひげをこすりながら「ウーン」と唸ってうなずいた。
「とにかく、私が又、仕事に復帰したらもう少し情報を集めてみるよ。あ、それと、PCPの件だが、アントニオでマコトとメイリンを襲ったジェームズ・ベラスコと、テンダーロイン署で暴れてくれたオマー・スコットの遺体からもPCPが出たぞ。サンフランシスコの過去3ヶ月の記録を調べたら、PCPの犠牲者は28人になってる。これからもっと増えるかもしれない。おまえたちもこれから忙しくなるぞ」
 警部が私とジョンの顔を交互に見て言った。
「忙しくなってくれたらいいんだけどな。あのクソどものおかげで謹慎処分がどうなるかもわからんし――」
 ジョンがそう言ったとき、フライングブリッジからマコトが大きな声で私を呼んだ。
「ブゥラァイアン!  みて!  ジョナサン!」
「ジョナサン?  なに?」
 私が訊きかえすと、ケイコさんがマコトのかわりに答えてくれた。
「カモメのことよ。マコトちゃんねぇ、SEAGULLがうまく発音できないの。カモメのジョナサン、知ってるでしょ。ジョナサンはカモメのこと。ほら、あそこ。ジョナサンがたくさん飛んでるわよ」
 ケイコさんとマコトが指さすほうを見ると、真っ青な空にたくさんのカモメが飛んでいた。
「オニール、おまえはこれから忙しくなるぞ、彼女に英語、教えてやらないといけないしな。英語の先生、大変な仕事だ。がんばれよ!」
 ジョンの言葉が上にいるケイコさんにも聞こえたようで、大きくうなずいて笑っている。私は返事に困ってしまったので、笑いでごまかしてジョナサンの群れを眺めていた。



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※カモメのジョナサン:1972年ごろアメリカで大ヒットしたリチャード・バックの小説
原題は「Jonathan Livingston Seagull」


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 サウサリートはサンフランシスコの北に位置するマリンカウンティーにある緑豊かな丘陵地帯と海に挟まれたリゾート地である。はじめは小さな漁村だったが、いまではしゃれたレストランやアートギャラリー、専門店が並び、多くの観光客でにぎわっている。
 私たちはクルーザーを降りて、サウサリートの町でしばらく時間をつぶすことにした。ケイコさんとマコトはまるで仲のいい姉妹のように手をつないで私たちの5メートルほど先を歩いている。

 セーターしか売っていない大きな店に入って店内を見て周り、ケイコさんはホワイトのセーターを一枚買った。一番はしゃいでいたのがジョンで、気に入った色のセーターを見つけると鏡の前に行って体に合わせ、「おい、どっちが似合う?」と私に聞く。店にいる間、ずっとジョンのファッションアドバイザーをしていた。
 どの店に立ち寄るかはすべて女性任せ。男たちはただおとなしく従うだけである。

 ブリッジウェイ(サウサリートのメインストリート)にという極端に小さい看板を掲げたバー&レストランがある。注意してみないと、通り過ぎてしまうくらい小さな看板である。ここは昼は軽食の店、夜はバーに変わり、地元のミュージシャンによるジャズやカントリーミュージックの生演奏が聞ける。私たちはここでランチタイムをとることにした。
 店内はウィッカーチェアーとテーブルがたくさんおいてあり、ダークマホガニーの柱で区切られている。店内の奥はパティオ(中庭)になっていて、そこでも食事ができるようにベンチとテーブルが並べてあった。私たちはパティオに席を取り、この店自慢のチーズバーガーと分厚くカットしたフライドポテト、男性陣はギネス、女性陣はサンフランシスコの有名なビール「アンカースティーム」をオーダーした。マコトは大きな目で店内をきょろきょろ見回している。見るもの聞くもの食べるもの、彼女の周りに存在するあらゆるものに興味があるようだ。

 ランチのあとは海を眺めながら海岸通りをのんびり散歩した。コンクリートでできた歩道のすぐ左側は海である。歩道の左下には直径30センチほどの石がいくつも積み上げてあり、それが波よけのテトラポッドの役割を果たしている。
 1940年ごろからオープンしているレストランの近くまで来たとき、岩に座って釣り糸をひっぱっている中国人の老人の姿が目に入った。
 何か魚がかかったようだ。マコトは立ち止まってじっと老人をいている。海面から魚の姿が見えたとき、マコトが大きな声で叫んだ。
「見て!  みて! シャーク!  シャーク!」
 老人が釣り上げた魚は70センチほどのタイガーシャークだった。サンフランシスコ湾には時折、ホオジロザメも姿を見せることもあり、鮫はそれほど珍しくもないが、日本から来たマコトには、姿は小さくても、本物の鮫をまじかで見るのは初めての経験だったようだ。どうしても鮫に触りたいというので、その老人にお願いして触らせてもらった。
「すごい! サンドペーパーみたい。すごい!」
 マコトはこんなことを何度も言いながら、目をまん丸にして鮫肌の感触を楽しんでいた。それからクルーザーに戻り、フィッシャーマンズワーフに向かった。クルーザーの前方にゴールデンゲートブリッジが見えてきた。この橋のふもとには南北戦争時代に建設されたレンガ造りの要塞、フォートポイントがある。今は国立公園になっているが戦時中は米第6軍(南方陸軍)の本部があった「プレシディオ・オブ・サンフランシスコ」をデッキから眺め、古代ギリシャの建造物をイメージさせるパレスオブファインアーツを過ぎ、まるでクルーザーごと過去へタイムスリップしたのではないかと錯覚するほど、私たちの眼前には時を越えて存在する建物が次々と現れてくる。クルーザーに乗っている間中、マコトはあちこち指差して「あれは何?」「これは何?」と私に質問した。

 私たちの乗ったクルーザーがフィッシャーマンズワーフの埠頭についたころには、太陽は半分ほど地平線にかくれていた。私とマコトはジョンのワーゲンでアパートまで送ってもらい、夜の9時頃、アパートに戻った。

 すばらしい天気。見事な風景。久しぶりに味わった開放感。そして私のそばにマコトがいた。

 留守番電話にメッセージが一件あったのでチェックした。それは署長室の秘書からのメッセージだった。

「月曜日、朝11時、制服、制帽を着用して署長室に来てください」