雑記帳

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エンジェルダスト(8)

ケリーと私がテンダーロイン署を出た時には、どんよりと曇った空はいまにも雨の脅迫にまけてしまいそうだった。夕方になってかなり気温が下がってきた。おまけに雨が降りそうとあっては、パトロールに出る気もうせるが、ありがたいことに、ウールのシャツの下にタートルネックの黒のセーターなら着てもよいと言われた。セーターを着て、軍隊で使っていたブラックの皮手袋をはめる。これで随分と寒さをしのげるだろう。ほとんどの警官は手を防御するために季節に関わりなくブラックの皮手袋をはめていた。どこのメンズショップでも売っている黒皮の手袋であるが、市警のパトロール警官たちは、この手袋のことを冗談で<クルーエルグローブ(無慈悲な手袋)>とよんでいる。警官のためにはピッタリの名前かも知れない。私はこのスタイルが気に入った。防寒云々に関わりなく、ブラックのジャケットにブラックの手袋はかっこいい。

 私たちは歩道を西に向かって歩いていた。テイラーストリートの交差点を右に曲がったとき、半ブロックほど先のアパートの壁にもたれかかっている黒人の男が目にとまった。男はジーンズに茶色の帽子、刑務所の囚人がきているデニムのハーフコートをきていた。足下に散乱するタバコの吸い殻は、この男がずいぶん前からここにいたということを証明している。
 私より数歩先を歩いていたケリーがふいに立ち止まり振り返った。
「オニール、頷かずに返事をしろ。真っ直ぐ前を見てろ。アパートの前にいる黒人が見えるか?」
「はい、デニムの上着をきた男がいます。囚人みたいな恰好してますよ」
 刑務所から脱走したのなら、こんな人目につきやすい場所にいるわけがない。おそらく、あの男は囚人の服が好きなんだろう。囚人服は英雄のシンボル。ストリートギャングのヒーローになりたければ、刑務所に入れ。そうすれば人間の格が上がる。刑務所暮らしを経験すれば一人前の本物の男として認められる。私にはこういう連中の理論は永久に理解できない。

「あいつの足下にタバコのカスが山ほど転がってるだろ。ずいぶん前からあそこにいたんだ。あのアパートに住んでるのかもしれんし、そうじゃないかもしれん。いやぁ、でも、たぶん、わたしの勘だが、アイツはあそこのアパートの住人じゃないな。それにしても、あそこで何をしてるんだ? だれかを待ってるんだろうか? 何か、悪い予感がするな」ケリーが言った。
「ちょっとあの男とおしゃべりでもするか。どうも、胸騒ぎがする。あの男に近づいたら、おまえはヤツの右側に立て。後はわたしの言うとおりにやれ、いいな」
「わかりました」私は頷かずに返事をした。
「おまえはわたしより2〜3歩前を歩け」

 ケリーに言われたように、数歩前を歩き、ケリーは私の右後ろからついてきた。私は男から一歩通り過ぎたところで止まった。ケリーは素早く男の隣についた。男は腕組みをして壁にもたれかかっている。
「手をおろせ、ゆっくりだ」
 ケリーは低い声で言った。
「オレに言ってるのか」
「ここには他に誰かいるか? おまえのことだよ。わかったらさっさとその手をしたにおろせ」
 男はケリーをにらみつけながら手を下ろした。
「ここで何をしてる?」
ケリーが訊くと、男は迷惑そうな表情で大きな警官を睨んだ。
「ヘイ、何してるかだって!? ダチをまってるのさ。何でオレにかまう? ここで待ってちゃわるいのか?」
「ダチの名前は」
 体格ではケリーのほうがはるかに勝っている。その大きな体を武器にして男を見下ろし睨み付けている。
「ボブだよ、ボブって名だよ」
「そうか、で、ここでどれだけ待ってたんだ?」
「オレは今きたとこさ。何でいちいちそんなこと聞くんだよ。オレが何かしたのか? アンタのやってることは、ポリィスハラァスメンじゃないか!」
「ポリィスハラァスメント?」
 ケリーが発音を真似して言うと、男は「フン」と鼻から息を吐きだし目を反らした。
「ほう、そうか、今、来たんだな。なるほどな。ということはおまえはかなりヘビースモーカーだな。このタバコのカス。今、来たにしちゃ、多すぎるように思うがね」
 ケリーは靴でタバコのカスを男の足下へ集めている。
「オレんじゃねぇ」
「これはおまえのじゃないのか。わたしは全部おまえのだと思ってるが」
「いい加減にしてくれよ。おまえら、オレをからかってどうしようてんだ!? オレは待ってただけだ。こんなタバコなんてしらねぇ。それが一体どんな罪になるってんだよ!?」
「モペリー(mopery)なんてのはどうだ。UIPのほうがいいか」
「モペリー? UIP?」
 男はケリーを見上げて睨みつけた。
「おまえのクソ頭じゃわからんだろうな」
 そう言うと、ケリーは私のほうに振り返り、「オフィサー、どう思う」と質問した。
「あ、はい、モペリー。これは完璧にモペリーです」
 モペリーもUIPも何のことかわからなかったが、顔を真っ直ぐケリーに向けて即答した。ケリーは大きく頷くと、「そうだろ、これはモペリーだ」と再び、男のほうをみて言った。
「よーし、壁を向け!」
「なに!?」
「早く、言ったとおりにしろ! 壁を向け! はやくっ! やれっ!」
 ケリーは大きなバリトンで文字どおり頭ごなしに怒鳴った。男は嫌そうな顔で私とケリーを交互に見て、首を横に振りながら壁に向き直った。「オニール、こいつを調べろ」ケリーが言った。私は男の背後に立ち、「頭の後ろに手をおけ!」と命じると、男は両手を上げてバンザイの恰好をした。
「手を頭の後ろにおけといったんだ、上じゃない! 人の話をよく聞け!」
 私が声を荒げて言うと、男はバンザイした両手をおろし首の後ろに回した。
「聞こえなかったか? 首じゃない。頭の後ろだ! おまえ、頭、バカか!」
 さらに大きな声で怒鳴りつけると、男は小馬鹿にしたような目で肩越しに私を見て手を頭の後ろにおいた。
「指を組んで両足を開け!」
 そういうと男はフンと鼻で笑い指を組んだ。
「足は!」
「なに?!」
「両足を開けと言ったのがわからんのか!」
 私がもう一度怒鳴ると、「はいよ」と男は嫌そうな返事をして、ちょうど靴一足分くらいの幅に足を開いた。かなり腹が立ったので、内側から男の足首を思いきり蹴って、もっと足を開かせてやった。男は一瞬よろめいて「クソッタレ!」と言葉を吐き捨てた。
 私はちょっと背伸びをして左手で男の両指を掴み、男が後ろ手に組んだ手を動かせないようにした。指をつかんだまま、男の右に回り、自分の左足を男の右足にピッタリつけた。掴んだ指ごと男の身体を後ろに引いてかなり不安定な角度に反り返らせ自分の人差し指と中指で男の身体を支えた。その状態にさせておいて、私はあいている右手で男を調べた。
「くるしいだろ。お互いと身の安全のためだ。がまんしろ」
 男の耳元でそういうと、男は眉間に皺を寄せ横目で私をにらみつけた。
「ヘイ、シャッポのアンちゃんよ」かすれた声で男がいった。
「アンちゃんじゃない!! 警官だ! わかったか!」
 耳元で怒鳴ってやった。

 男の帽子、上着、胸から腹、尻、股の内側とチェックし、今度はポジションを変えて、男の指を右手に持ちかえ、身体にくまなくバターを塗るように手でボディーチェックを続けた。上着の左のポケットに固い感触があった。長くて固い物。金属? いや、違う。これはたぶんナイフだ。
 私が左ポケットの上で手を止めた途端、男は肘を小刻みに振って私から逃れようとした。身体を左に捻ってきたので、掴んでいた指を思い切り後ろに引っ張って地面にひっくり返し、倒れたと同時に左の膝を思い切りけっ飛ばしてやった。男の顔が激痛でゆがんだ。私はすぐに男の上に馬乗りになり、自分の膝で男の顎をおさえつけ、へばった男の顔面に強烈なパンチをみまってやった。
「ウグググググッ」 男のうめき声。ほとんど気絶しかかっている。電光石火のスピードでケリーが男の左手に手錠をかけ、私も手伝って男をうつぶせにさせ、後ろ手に手錠をかけた。
「よし! 一丁上がり!」ケリーは男の頭を後ろから大きな手でパンとたたいた。
「お手柄だな、オニール! ギャラガー警部に気に入られるわけだ、ナァ、スマートボーイ!」
 ケリーが私の顔を見て笑った。
「こういう連中をみると私の愛の鉄拳が勝手にうごいてしまって」と市警流のジョークのつもりで言ったが、ケリーから「何を生意気なことを。おお、神よ。この若い羊を許したまえ」と返され、私もケリーと一緒に大笑いした。
 ストリートハンティング――私は獲物をゲットする楽しみを覚えた。

 二人でうつぶせの男をひっくり返し、その位置から腕をひっぱてひとまず地面に座らせ、ワンツースリーの号令で一気に立たせた。男は完全には意識は失っておらず、ウウウンンとうなっている。ケリーが男の身体を支えている間に、私は男の左ポケットを探った。出てきたのは、今では床屋でしかお目にかからないひげそり用の折り畳み式ナイフだった。悪の手にわたれば、あっと言う間に喉をかき切る凶器になる。
「おい、朝だ。起きろ」と言って、ケリーは男の頬に2〜3回パンパンと平手打ちを加えた。男は顔をゆがめて、ペッと地面につばを吐いた。
「おまえに聞きたいことがあるが、ひょっとして、おまえの商売は床屋か? わざわざ、お客の家まで出迎えに行ってたのか?」
 ケリーは男の顎をあいている方の手で掴み、自分のほうにむけて言った。
「そ、そうださ、ジムの頭、剃ってやろうとしてたんだ」
 男は低い声でぼそっと答えた。ケリーが手を離すと、男の頭ががくんと落ちた。
「ジムか。たしかさっきはボブとか言ってたな」ケリーが言った。
「そ、そう、ボブだ、ボブ、頭がこんがらがっちまったじゃねぇか。そいつがぶん殴るからよ」
 男は頭を持ち上げて私のほうを見た。
「その腐った口を閉じたらどうだ。おまえの言ってることは全部デタラメだ」
「そんなこと、どうやってわかるってんだ?」
「おまえの口が動いてるからさ」
 男はケリーを睨んだ。目には憎しみと怒りが満ちている。ケリーと男がにらみ合いをしている間に、私は男の靴下の中から免許証を見つけた。男の名前はジェームズ・クーパー。すぐに、無線を取り出して司令室を呼んだ。
「司令室、こちら3 アダム42」
「はい、3アダム42どうぞ」
 免許証から男の名前と住所、免許証番号を伝え、逮捕状の有無を確認するよう要請した。2分ほどで返事が来た。
「こちら司令室。3アダム42、応答せよ」
「3アダム42、どうぞ」
「ジェームズ・クーパーには逮捕状が3通発行されています。アラメダカウンティーからADW(凶器による暴行)、重犯。サンフランシスコから強姦罪。サンフランシスコから仮釈放期間中の暴行のため保釈金なしの逮捕状です」
「10−4、3アダム42、コード4(救援は必要ない)」
 私からの通信は終わったが、司令室がパトカーに指示を与えている音声が無線から聞こえてくる。

 赤い回転灯を回しながらパトカーが近づいてきた。私とケリーが立っている場所で止まり、テンダーロイン署のテッド・クイン巡査とトニー・デフランシスコ巡査が降りてきた。私たちは軽く握手をして二言三言ジョークをかわしたあと、パトカーの2人の巡査は手錠につながれたクーパーをパトカーの後部座席に押し込んだ。
 二人の巡査がパトカーに乗ろうとしたとき「チョット待って」とケリーが呼び止めた。二人ともきょとんとした顔でケリーを見ている。
「コイツは後ろ向きに座らせた方がいい」
 ケリーの言った意味が解ったようで、二人はすぐにクーパーを車から降ろし、再び後ろ向きにして後部座席の間に押し込んだ。ケリーはクーパーの足を持ち上げて靴を脱がし、白いソックスもはぎ取った。クーパーの右足の裏にはサージカルテープがまいてあり、それをはがすと手錠のカギが出てきた。ケリーの表情がたちまち厳しくなり、恐ろしい形相でクーパーをにらんでいる。ケリーが、脱がした靴に目をやったとき、左の中敷きが少し浮いている事に気がつき、それを外して中を調べたら両刃のカミソリが見つかった。
「このクソ野郎!」
 ケリーが吐き捨てるように言った。
「これでまた罪が増えたな。おめでとう、クーパー」
 ケリーがそう言うと、クーパーはケリーの顔につばを吐きかけた。ケリーは顔に飛んだ唾を手で軽くぬぐい、「ありがとよ。オレからのお礼だ」
 大きな手でクーパーの顔面にまともにパンチを食らわせた。その拍子にクーパーの歯が折れてしまった。
「刑務所で治してもらえ!」
 鼻血と歯の痛みの土産付きでクーパーは署に連行されていった。私たちもパトカーが行ってしまうと徒歩で署に向かった。道すがら、私はケリーに質問した。
「あの、さっき言ってたモペリーとかUIPってなんですか?」
 あきれたような顔でケリーがこちらを見た。
「何だ、何にも知らずに返事してたのか」
「はぁ」
「モペリーは放浪罪、UIPはアグリーインパブリック、早い話が、クソに集まってくるウジ虫の罪」
私は思わず吹き出してしまった。ケリーも笑っている。
「ヘイ、ボーイ、おまえさんもモペリーだぞ、パトロール警官はみんなモペリーだ」

 

 


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※重犯(重罪)は重い罪ではなく英語で言うならfelony.たくさんの犯罪を重ねること。

 

 

クーパーは署の待機房(holding cell)に入れられていた。鼻血は止まっていたが、二人の警官に殴られたあとが今ごろになって腫れ上がってきている。
「おい、クーパー、おまえに逮捕状が3通もでてるらしいな」
 ケリーが鉄格子越しに声をかけたがクーパーは振り向きもしない。
「良い態度だ。褒美に、今日は逃亡未遂が加わったぞ」
「逃亡未遂? そんな覚えはないな。こっちはそこのガキに鼻までへし折られたんだ」
 クーパーが腫れ上がった顔をケリーにむけて言った。
「そりゃ悪いことをしたな、あいにくわたしのパートナーは気が短いんでね。素直にじっとしてりゃ、鼻は無事だったのに、残念だな、ボディーチェックの最中におまえはパートナーから逃げようとした、これだけでも十分逃亡未遂だ。おまけに、足のうらの手錠のカギ。いいのがれは出来ないな、まぁ、毎年、刑務所で新年をいわえ、ハッピーニューイヤー」
 皮肉を込めてケリーがいった。

 それから5分後、私たちは再び夜のパトロールにもどった。マーケットストリートまで来たとき、とうとう雲は雨の脅迫に負けてしまったらしい。小雨の歩道を歩いていると無線がなった。
「こちら3 アダム42、どうぞ」
「タークストリート222番地、ゴールドコーストラウンジで418(喧嘩)です。武器の所持に関しては現在のところ不明」
「10-4、3アダム42 、現場にむかいます。到着時間は約5分(ETA is 5)」


 ケリーと私は駆け足でタークストリートの現場に向かった。知らせをうけた建物の前に着いたが、歩道には通行人の姿も見えず、どこかで喧嘩をしているような声も聞こえてこなかった。
 <GOLD COST>と書かれた赤と黄色のネオンが濡れた歩道に反射している。私たちはその看板の下にあるドアから中に入ると、店の奥から叫び声とガラスが割れるような音が聞こえてきた。私は一瞬ケリーの顔を見た。
「オニール、ここはおまえのほうがいい。わたしでは年をとりすぎている。先にいけ、わたしはおまえのあとについていく」
 ケリーの指示通り、私はビールとタバコのにおいが漂っている店内の薄暗い通路を通って奥まで歩いていった。奥のカウンターの前で二人の男が拳を振り上げながら、お互いにわめき散らしている。彼らのまわりを取り囲むように見物人の壁が出来ていた。
「警察だ。道をあけろ!」
 私が叫んだ。
「道をあけろ!」もう一度叫ぶと、何人かは私に道を譲ったが、スキンヘッドの青いアロハシャツをきた背の高い男は、私の言葉を完全に無視して、いっこうに動こうとしない。
「どきなさい」私は男の背中に向かっていった。全く動く気配はない。私は男のえりくびを掴むと同時にひかがみを蹴って男を床に倒し、私とケリーはその男をまたいで中に入った。争っている二人に向かって「やめろ!」と怒なったが全く聞こえていない。
「やめろぉ!」さらに大声でどなりつけた。まだ、喧嘩をやめない。コイツらには耳がないのか!
 私はナイトスティックを振り上げてバーのカウンターに思い切り叩きつけた。その音に驚いて、やっと喧嘩が止まった。二人の男は音のしたほうを振り返ったが、まるでたったいま、私の存在に気がついたような顔をしている。
「何があったんだ?!」
 私がそう言った途端、二人同時にすごい剣幕でまくしたてるので、何を言っているのかさっぱりわからない。
「待て待て待て! いっしょにしゃべったらわからん! ひとりずつだ。先ずあんたから」
 私は赤いフランネルのシャツをきた身長180センチくらいの中年の男の方に顔をむけた。
「こいつが俺の金をとった」
「うそだ! そんなことするか! てめぇみたいなこじきから誰が金をとる!」
「何だと、このやろうう! うそつきはおまえだろ、このこそどろ!」
 と二人はまた、喧嘩を始めようとする。
「いいかげんにしないか! あんたたち、そこのカウンターに両手をついて足をひらけ、さぁ、はやく!」
 少し前に同じようなセリフを言った覚えがある。でも今回は素直に私の命令に従った。身体をチェックし、武器を所持していないことを確認したあと、二人に言った。
「オッケー、それじゃポケットにはいってる金をみんな出してカウンターにおいて」
 赤いフランネルの男は、ポケットから20ドル札一枚と小銭をバラバラとカウンターの上においた。もう一人は私より背が低く、口ひげをはやした50代くらいの男で、スウェットシャツの胸ポケットから、くしゃくしゃに丸まった20ドル紙幣と5ドル紙幣、1ドル紙幣の束、あとは小銭を何枚かカウンターに並べた。私はカウンターに並べられた紙くずのようにくしゃくしゃに丸まったお金を見ながら、赤いフランネルの男に言った。
「ふーん、この金をぬすまれたのか」
 私は指先で、まるまった札束をころんと赤シャツの男のほうにころがした。
「そ、それは、俺のだと思ったんだ。うそじゃない、ほんとだよ」
 先ほどとは声の調子が変わっている。
「よし、わかった。ちょっと、バーテン!」
 カウンターの隅で怯えてしまってかたまっている若いバーテンに声をかけた。
「この二人はいくら飲んだ?」
 おそるおそる私たちの側に歩みより、「ビール2本で5ドル( 5 bucks) です」と小さな声でいった。
「それだけ? 他には?」
 私は床に散乱している割れたコップやビール瓶を見ながらバーテンに訊いた。
「えーと、他には、えーっと、割れたコップ代が7ドルで、棚のガラス戸の修理に21ドル」
 若いバーテンはぼそぼそと聞き取りにくい小さな声で答えた。
「わかった、しめて33ドル。それでオッケーだね」
「はい」バーテンが頷いた。私はカウンターに並んだ紙幣から20ドル札を2枚とり、「残りはチップだ」といってバーテンに渡した。側で事の成り行きをみていたケリーが二人の中年男にむかって言った。
「あんたたち、いい年してこんなみっともないことするんじゃないぞ。ギャングじゃないだろ。自分が紳士だと思うんなら。今夜はもう家へ帰れ。わかったか」

 それから私は二人の男をしたがえて、薄ぐらい通路を歩いて店の入り口に向かった。二人はおとなしく私のあとについてきた。しんがりにはケリーがいる。ところが、さっき私がひっくり返した青いアロハシャツの大男がまた私の行く手を遮った。男は腕組みをして立ちはだかっている。
「イクスキューズミー、サー」私は穏やかにその男に言った。
「すみません、そこを通してください」
 男は何も言わない。私は穏やかな口調でもう一度同じことを言った。が、男の返事はたった一言。
「やだね」
 全身から小便とビールの臭い、加えてむっとするほどタバコ臭い。
 またか! もういいかげんにしてくれ!
 私は左手に持っていたバトンで、男のみぞおちめがけておもいきり突きをいれた。男がバランスを崩した瞬間、右手を掴んで、右腕を男の首にまきつけるようにして右うしろにひっぱり、男が体勢を戻そうと身体を左にねじってきたので、その力を利用して再び、床にひっくり返してやった。すぐに倒れた男の右手首をつかみ内側に90度曲げた。
「おい、これ以上おこらせたら、おまえの手首をおるぞ!」
「イテ、イテェ、わ、わかった、イテぇよ、わかったから手を離せ!」
 私が手をはなすと、すぐにケリーがアロハシャツの胸元とズボンのベルトをもって、いとも簡単に男を床からひっぱり起こし、引きずるようにして力ずくで店の外まで連れ出した。ケリーは胸ぐらをしっかり掴んだまま、男の背中を店のドアに押しつけ、すごみのあるバリトンで男を脅している。
「おまえは警官の邪魔をした。今夜は署のオリでねるか!」
「いやだ!」
「いやなら、とっととここから消えろ!」
「わかった、わかったわかった!」
「二度とこの店には来るな! またおまえの顔を見たら、今度はオリ行きだぞ!  どこかでわたしたちを見かけたら、大けがする前にどこかに消え失せろ。わかったな!」
 ケリーが手をはなすと、男は小走りで雨のしょぼつく歩道を西のほうに逃げていった。
 店で喧嘩をしていた二人も、とうの昔に姿を消していた。私とケリーが店の前から立ち去ろうとしたとき無線がなった。
「こちらインスペクター42、3アダム42 どうぞ」
 無線はギャラガー警部からだった。
「3アダム42」ケリーが答えた。
「チャンネル2で応答せよ」警部の声。
「10−4(了解)」
 警部からの指示で私たちは無線をチャンネル2に切り替えた。
「こちら3アダム42、チャンネル2に変えた。どうした?」
「ジョンか。本部から連絡をうけて、さっきクーパーに会ってきた。ずっとヤツを探してたんだが、つかまえてくれて感謝してるよ。明日の朝、タスクフォースと殺人課の刑事がもう一度、取り調べをするそうだ。ヘイ、ボーイ、そこできいてるだろ。よくやったな。サンキュー、スマートボーイ
 無線から聞こえてくる警部の声はとても明るい。
「今夜はなにか予定があるのか? なけりゃサムの店で夕飯でもどうだ?」
「そりゃ名案だ。ボーイも多分、腹ぺこだ。今夜はコイツは気がたってるから、何か腹にいれてやらないとな。それじゃ、45分後にサムの店であおう」
「インスペクター42, 10-4」 

 警部からの通信が終わり、私たちはサムの店に向かった。

 

 

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※タスクフォース:
 ある種類又は特定の事件、地域にかぎって捜査するチーム。Sex crime task force, Asian gang task force, Tenderloin task force など

 

 

『サムズホフブロウ』はカフェテリアスタイルのドイツ風レストランで、店内はファインウッドの木目調の壁、ジャーマンビールの樽、ドイツの写真やポスターが飾られ、バイエルン地方の酒場の雰囲気を漂わせている。
 私とケリーが店に入ったとき、ドイツのウンパバンドの生演奏がちょうど始まったところだった。バイオリン、トランペット、クラリネットアコーディオン、チューバが ウンパ、ウンパ、ウンパと単調だが軽快なサウンドを作っている。バイエルン地方の伝統的な帽子と皮ズボンで揃えたミュージシャン達はリズムにあわせて唄い踊り、お客を楽しませてくれる。
 先に来ていたギャラガー警部は私たちの姿をみつけると、手をあげて居場所を教えてくれた。私とケリーは大きなトレーをもって、白いコック服にコック帽をかぶったシェフの立っているカウンターで料理と飲み物を注文し、出来上がった料理をトレーにのせて、ギャラガー警部のいるテーブルに行った。そこは店の奥の壁際にしつらえられたブース席でプライベートルームにいるような落ち着いた雰囲気がある。ケリーは警部の隣に並んで座った。そうなると私はドアを背にして座ることになる。ケリーはまるで私の心がわかったようにニヤっと笑って私に言った。
「おまえさん、背が低いからな。ドア側にすわってもおまえの姿はみえないよ。そのかわり、わたしと警部が急に身を伏せたら、うしろから銃をもったヤツがきたってことだ。その時はおまえが先にズドンかな」
「はぁ、どうも忠告ありがとうございます」と気力の萎えた声で答えると、
「大丈夫だ、ボーイ。心配するな。まだ、いけにえにはしないよ」
 ローストビーフサンドを食べていた警部が私に言った。あまりありがたくないフォローだが、今夜はいつもは愛想のない警部の顔もいくぶんほころんでいる。

「そういえば、クーパーの鼻、ボーイがやったのか。これはポリスハラスメントだとクーパーが私に噛みついてきたぞ。」
 私がジャーマンエールを飲みかけたとき警部が訊いた。
「今日はこいつ、かたっぱしから叩き潰してるよ」私のかわりにケリーが答えてくれた。
「ほら、オニール、沢山食べろよ。まだパトロールがのこってるし、あとで腹が減っていらいらすると、逆に命とりになるぞ」
 ケリーは ハハハと笑って、私の2倍の量があるマッシュポテトとコーンビーフサンドイッチをうまそうに食べている。それをビールで流し込んでからケリーが私に質問した。
「オニール、さっき聞こうと思ったんだが、クーパーとアロハシャツの大男にやった技はなんだ? 手をもってひっくり返しただろう」
「ああ、あれですか。あれは日本の武道で合気道っていうんですよ」
「なんだ、おまえもサムライ武道ができるのか。キースと同じだな。しってるか? ギャラガー警部はリトル大坂で合気道を教えてるんだぞ」
 ケリーが言うと、警部は軽く咳払いして、ケリーの顔を見て、言った。
「ジョン、私が教えているのは合気道じゃなくて合気術だ」
「どっちも同じだろ」ケリーが言う。
「それだからど素人はこまる、ボーイに笑われるぞ」
 警部はビールを飲みながら私を見た。顔が笑っている。
"無愛想な警部"のイメージのほうが強いので、こんな笑顔を向けられるとかえって、とまどってしまう。
「合気術を教えてやるっていってるのに、このアイリッシュガイは家内の方がいいみたいでね」 
 警部は隣でマッシュポテトをつついているケリーをちらっと見た。
「え、警部の奥さんも合気術されるんですか?」
「いや、家内のは合気道だ、もっとも今では書道に鞍替えして、家中、彼女の書いた漢字だらけだよ。何て書いてあるのか私にはわからんがね。全部、ただの線に見えるよ。どこが芸術なんだかさっぱりわからん」
 と言いつつ、警部はずいぶん嬉しそうに話している。
「オニール、知ってるか? キースの奥さんは日本人だよ。彼女の日本料理は最高だぞ。特に、スキヤキ。あれは最高にうまい」
 嬉しそうに話すケリー。
「スキヤキ?」 
 初めて聞く名前だった。チャイナタウンで中国料理はよく食べたことがあるが、日本料理はさっぱりわからない。
「そうだ、オニール。今度、スキヤキをごちそうになりに行こう。キース、いいよな」
「だめだと言っても、おまえはくるだろ。スキヤキが目当てか、ケイコが目当てかどっちだ? ん?」
「そりゃ、ケイコだ。あんなナイスな女性、おまえにゃもったいないよ」 

 私は二人の会話を、コンビーフサンドを食べながら聞いていた。いつも怒っているような表情のギャラガー警部だが、今夜、ケリーと話している警部にはいつもの冷たい雰囲気は感じられなかった。奥さんの話が出るたびに、フッと顔が緩む。この厳つい男どもを虜にする日本女性。一体、どんな人だろう。私もギャラガー夫人にあってみたいと思った。これから数日後、私は初めて彼女に会うことになるのだが、まさか、顔中、絆創膏とあざだらけの無様な姿で会うことになるとは、この時は夢にも思わなかった。


     
 午後8時に警部と別れた後、私とケリーはマーケットストリートからパウエルストリートとパトロールを続け、午後9時にはユニオンスクエアにいた。小雨のユニオンスクエアは、霧にかすんだクリスマスイブの晩とは、また違った趣がある。あの夜のように、大きなプレゼントの袋をかかえて右往左往する人の姿はない。今夜はもっと厳かな空気に包まれているような気がした。

 1972年もまもなく終わろうとしている。しゃれたレストランやバーは、どの店も新年を祝う為にやってきた人々で満員だった。席があくまで外で待っている人々の長い列が出来ている店もある。
 私たちはギアリーストリートからメイソンストリートに入り、エリスストリートに向かって歩いていた。この辺りの飲食店はバーをのぞいて、どこも「閉店」の看板を掲げている店が多い。テンダーロインで新年を迎えたいと思うのは、ネズミとゴキブリくらいだろう。私たちが歩いていると、すぐ前方、右側の暗い路地から、女が泣き叫んでいるような声が聞こえてきた。
「お金はみんなあげるから・・・・・・ぶたないで!」
 女の泣き声に続いて、パシッという平手打ちの音。私とケリーは懐中電灯で路地の奥を照らしてみた。光の輪が男女の姿を捉えた。男が手を振り上げ、女の顔に今まさに振り下ろされんとした刹那、ケリーが懐中電灯の光を男の顔に当て叫んだ。
「よせ!」

 男は突然の強烈な光で目がくらんだのか、振り上げた手を自分の額にかざしてこちらに振り返った。私たちは二人のほうに駆け寄り、ケリーはすかさず女の手を引っ張って自分のほうに引き寄せ、私は男の後ろから抱きついて二人を引き離した。
 真っ赤なブラウスに黒皮のミニスカート、黒いハイヒールの女と、見るからに高級そうなキャメルのロングコートを着た背の高い黒人の男。おそらく娼婦とそのパトロンだろう。
 突然男が身体を捻り、私の腕を振りほどいて殴りかかってきた。入り身で男の右拳を交わし、空を切った男の右手首と肘を掴みながら押し下げて地面に倒した。すぐに男の側に片膝ついて太ももを支点にして、木の枝を折る要領で男の右腕を折った。
 ぐわわぁ! という悲鳴。
 男が暴れないように、すぐに私の腕を男の首にまわし前腕で締め上げ、血液の流れを遮断し気絶させた。ぐったりとなった男の腕を後ろに回し手錠をかけた。女はケリーの大きな身体に力いっぱいしがみついて倒れた男をじっと見ている。
 私は女の顔を見た。この子はまだ少女だ。目が落ちくぼんで、ほほもげっそりしているが、以前はもっとかわいい顔だったはずだ。きっとヘロインとマリファナがこの子の若さを食い荒らしてしまったのだろう。

「オニール、こいつが目を覚ます前にポケットを調べろ」
 ケリーに言われ、コートのポケットに手を入れたとき、ズボンのベルト部分に硬い感触があった。コートのボタンを外して前を開けたら、ベルトにはめこまれたホルスターからドイツ軍の9ミリのルガーがでてきた。
「ワオ!」思わず小さな叫び声が出た。
「とんでもない野郎だな」ケリーも少し驚いたようだ。
「オニール、すぐに司令室に無線を入れて救急車の手配と、もしギャラガー警部がこの近辺にいたらここへ来るよう伝えてくれ」
 ケリーに指示されたように、無線をいれてしばらくすると救急車とギャラガー警部のフューリーがほぼ同時に到着した。私は男のホルスターから抜き取ったルガーと免許証を警部に渡した。
「マルカス・エンクォーム」
 警部は免許証を見ながら、男の名前をつぶやいた。
「今夜はキミ達に感謝状をおくらないといけないな。一晩でふたりも手配中の男を捕まえてくれた。クーパーとこいつだ」
「この男、手配中だったんですか?」
 私がききかえした。
「半年前に売春婦がふたり殺されたんだが、まだどっちも17歳だった。やったのはこの男だ。証拠もあがってたが行方知れずでずっと探してたんだよ。拳銃で頭をぶち抜かれていたよ。たぶん使ったのはこの拳銃だと思う」
 警部はルガーを私のほうに示した。

 被害者は17歳! 今、ケリーにしがみついている少女のたどる運命も同じだったのだろう。腹の奥からアドレナリンが湧き上がってくるのを感じる。全身の骨を折ってやればよかった。

 救急隊員が到着して男の腕に応急措置をして担架に乗せようとしていた。私とケリーがそれを見ていると警部に呼ばれた。
「オニール、おまえは今からこの男と一緒にセントラル救急病院にいってほしいんだが。医者からいろいろ聞かれると思うが、あとで、それをまとめて報告書を作ってほしい。それからジョンは、この子の身元を調べて報告書に添付してくれないか」
 警部が私とケリーに指示を与えた。
「わかりました」私が答えた。
「私もあとから病院にいく。じゃ、病院で会おう」
 ケリーは少女と一緒に署に戻り、私は救急車に乗り込んだ。男の意識は戻っていたが、何も言わず、担架の上から憎しみを込めた目で瞬きもせず、私だけを睨みつけていた。救急車が病院につくまで私も男から視線を外さなかった。

 お前の腕の痛みなど一時のものだ。すぐに、神がおまえに、一生消えない苦しみと痛みをあたえるだろう。思い知るがいい、この人殺し! 人殺し・・・・・・

 私も同類じゃないか。私は戦場でたくさん殺した。自分が誰を殺したのかもわからない。この男が殺した子たちより、もっと幼い子どもたちを、戦いに巻き込みたくさん殺した。でも、私は、兵士としての任務から、祖国への忠誠心で人殺しをした。この男は何の為に殺したんだ。自分のエゴか? 私はエゴじゃない。するべきことをしただけ・・・・・・

 クソッタレ!
 人殺しに大義名分なんか、クそくらえだ!

 

     *****

 

 緊急救命室(ER)で若い医者からいろいろ辛らつな質問をされた。
「この腕はあなたが折ったんですね。完全におれてますが、この男は一体何をしたんですか。こんなにひどく折られるようなことをしたんですか」
「この男は少女を二人殺して捕まるのがイヤで逃げてました。おまけに警官に殴りかかってきた」
 私が答えると、もうひとりの医者が言った。
「それにしても、ちょっとやりすぎじゃないかね」
 軽蔑したような目で私を見ている。
「あなたとは話してない、私はこちらの先生の質問に答えたんだ」
 私がそう言うと、その医者の顔がもっと引きつった。そこへギャラガー警部が警官を二人従えて救命室に入ってきた。
「オニール巡査の精神はまともですから、あなたがた医者の意見には同意しませんよ。先生、どうもお手数かけましたね。さぁ、オニール、行くぞ」
 医者は苦々しい顔で警部を見ていたが、警部のほうは二人の医者に一瞥もくれず、言いたいことだけ言ってしまうと私の肩を軽く叩き、行くぞと目で合図した。私は警部の後について出口のほうに歩いていった。警部と一緒に来た警官2名は治療室に残り、容疑者をポトレロ地区にあるサンフランシスコジェネラル病院の囚人病棟へ移送する準備を始めた。

「オニール、お前は今日から黒人のファシストを弾圧する人種差別集団の歩兵だと思え。本部の殺人課はジェネラル病院でやつが来るのを待ってる。医者が折れた腕を治療する前に、いろいろ聞きたいことがあるらしい」
 病院の通路を歩きながら警部がそういった。病院を出た途端、深夜の冷気で身体が一瞬すくんだが、雨はいつの間にやら上がっていた。私は警部のフューリーでテンダーロイン署まで送ってもらい、警部は私を降ろすとすぐに車を発進させた。

 ケリーは路地で救った少女と話をしていた。誰かがドーナツとコーヒーをこの少女に差し入れしたようだ。少女は旨そうにドーナツを頬張っていた。私が報告書の作成に取りかかったとき、フラナガン巡査部長が私たちのほうにやってきた。
「戻ったばかりですまないが、今、ギャラガー警部から緊急連絡が入って、ふたりにすぐ来てほしいそうだ」
「え、いまさっき警部と別れたばかりですが、なにか事件でもあったんですか?」
「タークストリートとレブンワースの角で飛び降り自殺があったようだ。警部は今現場にいる」
「新年早々、飛び降り自殺かい」
 ケリーに言われて始めて気がついたが、1973年が始まってすでに30分が過ぎていた。フラナガン巡査部長からユニット53の鍵をもらい、私とケリーは署の横に駐車してある白いシボレーノバに乗り込んだ。緊急時のライトは運転席側のリードスポットライトだけである。
「オニール、ショットガンを持ってろ」
 ケリーに言われて助手席側にとりつけられたホルダーから12ゲージのレミントンショットガンを抜き取った。サイレンを鳴らしたのはほんの1分ほど。すぐにシボレーは現場に到着した。野次馬の間からギャラガー警部の姿が見えたときレロイのことを思い出した――また警部の助手をやらされるんだろうか。またおぞましい死体のチェックと自殺現場の測量をしなければならないのか。どこから飛び降りたんだろう。現場の調査となったら、私も飛び降りた場所へ登らなければならない。なんてこった。最悪のニューイヤーだ。

 すでに現場には黄色のテープが張られていた。私とケリーは野次馬を押し分けて中に入った。白いTシャツにブルージーンズをはいた黒人の男がうつぶせになって路上に倒れている。白いTシャツの両脇にはどす黒い血のしみが広がっていた。落ちたときの衝撃で皮膚が破れ、そこから身体の中の臓物と骨がはみ出だしていた。両腕が本来なら曲がるはずのない方向に曲がっている。両足は曲がってはいけない場所が奇妙な形に折れ曲がっている。そして彼の頭蓋骨は・・・・・・彼の頭蓋骨は・・・・・・中身が何もない。ただの真っ暗な穴。なんども死体を見てきたが、この男の頭蓋骨を見たときはレロイの時には感じなかった吐き気を催した。地面に激突した時に頭のてっぺんが割れて脳ミソが全部弾け飛んでしまったのだ。男の頭の周囲には1mくらい先までピンク色のどろっとしたものが飛び散っている。
 警部はゴム手袋をはめて男のズボンのポケットを調べていた。私たちよりも先に現場に到着した警官がメージャーで現場の測量をはじめて数字を手帳に記入している。
 私とケリーが野次馬の整理をしていたら、警部が私とケリーを呼んだ。路上に飛び散った脳ミソをなるべく踏まないように死体の足のほうから警部に近づいた。
「残念だなボーイ。もうちょっと早くここにきてたら、私の代わりに色々やってもらったんだがなぁ」
 警部は私を見てにやりと笑った。
「それにしても、見事なかっこうだな」
 ケリーが路上でひしゃげた男をみながらいった。
「あそこから落ちたようだ」
 警部は懐中電灯で窓が開け放されている3階の部屋を照らした。
「ボーイ、ジョンと一緒にあそこへ行って調べてきてくれないか」
 私とケリーは警部が懐中電灯で照らしている方向を見上げた。ここは五階建ての短期滞在型アパートメントホテルで、部屋はシングルのみ、トイレとシャワールームは共同、住民はネズミ、ゴキブリ、ノミと共同生活をしなければならない。この騒ぎで寝ていた住人も全員起きてしまったようだ。全ての部屋に明かりがついていた。窓から身を乗り出して見物している者もいる。
「IDカードにはこの男の部屋は3Cとなってる。何があったのか調べてきてくれないか。何故飛び降りたか、何かわかるかもしれない」

 私とケリーはすぐに建物の中に入った。中は湿って古びたカビの臭いがする。廊下には馴染みのないパターンを織り込んだカーペットが敷き詰められていたが、擦り切れてところどころ下のコンクリートがむき出しになっている箇所もある。エレベーターがないので廊下の突き当たりにある昇降口から外階段をつかって3階にあがった。ケリーは階段の踊り場から男の部屋を照らした。窓が外側に開いている。建物の壁面にはちょうど人が歩けるくらいの幅の張り出した部分があり、ケリーは明かりをその部分に向けた。懐中電灯の光の輪が張り出したコンクリートの上をゆっくりと這ってこちらに来る。
「ムチャですよ。雨で濡れてるし滑るかもしれないので、やめましょう、危険です」
 ケリーが命令する前に、私が先にケリーの無謀な計画を阻止した。
「すぐそこだけどなぁ、お前なら身が軽そうだし」
「イヤ、ダメです。暗いし幅が狭いし、もし滑ったら、とにかくここは危険です」
 私は懐中電灯を持っているケリーの腕を思わず引っ張った。
「何だ、おまえ、ひょっとして高いとこがこわいのか?」
「すみません!」
 ケリーが笑った。
「わかった、わかった。しょうがないやつだな。それじゃここはやめよう」

 私たちは下に降りて、今度は建物の中にある階段を使って3階に戻り男の部屋に行った。ドアは開け放されていてラジオからけたたましいロックが流れている。部屋に入り、私は開け放された窓から少し身を乗り出して窓の周囲に懐中電灯の光を当てて調べてみた。特に変わったところは見当たらない。眼前には宝石をちりばめたようなゴージャスな夜景が広がっている。そしてすぐ下の路上にはピンク色の脳ミソを撒き散らしたグロテスクな死体。美と醜の見事なコントラスト! なんというドラマチックな光景だろう。


 ケリーは部屋の中を調べていた。一部屋の中に小さな流し台、小さなテーブル、クローゼット、うすっぺらなマットレスの敷いてある木枠のついたベッド、生活に必要な最低限の家具は揃っている。ライティングテーブルの上おかれた黄色いガラス製の灰皿にはタバコの吸殻が山のように積みあがってテーブルにまで溢れ出ている。そのなかにマリファナと思われる吸いさしも幾つか混ざっていた。テーブルの引き出しを開けたらゴムでとめた札束がごっそり出てきた。札束の上には白い紙が挟んであって、子供のようなへたくそな字で「CHIN」と書いてある。 
 ケリーがベッドの下からダンボールの箱を引きずり出した。あけてみると、30センチ四方の透明のビニール袋が入っている。
「オニール、ちょっとこれ、見てみろ」ケリーが箱から袋を取り出した。袋の中には乾燥した葉の入った小さなビニールの袋がいくつか入っていた。
「これ、マリファナじゃないですか?」ケリーに訊いた。
「うん、そうかもな。とにかくキースにここま上がってこいと伝えてくれ」
 私はすぐに警部に無線を入れた。

「こちら3アダム42、インスペクター42応答願います」
「こちらインスペクター42, チャンネル2で応答せよ」
「10-4、チャンネル2で応答します」
 無線をチャンネル2に切り替え再び警部を呼び出した。
ギャラガー警部、オニールです」
「お、ボーイか。何か見つかったか?」
「窓の周囲と外壁には何もありません。争った形跡もないようです。今、部屋にいます。マリファナの包みのような袋と札束をみつけました。ここまで来てもらえますか」
「わかった。すぐそちらに行く」
 無線がきれて数分で警部が部屋に入ってきた。
「何があったって?」警部が聞いた。ケリーがライティングテーブルの引き出しを開け札束を警部に見せた。
「ほほう! 随分な額じゃないか。こんな場所で暮らしてるやつが持てる金じゃないな」
「キース、この箱の中にはいってる葉っぱ。ちょっと見てくれ」といって、ケリーは箱の蓋をあけ、中身を警部に見せた。
「こいつはこの辺で商売してるディーラーじゃないか?」ケリーが言った。
「ボーイお前はどう思う?」警部が袋を調べながら私に質問した。
「はい、私もそういう気がします。この中身、レロイのポケットから出てきたのと似てますし、マリファナじゃないですか?」
「今はなんともいえないが、可能性は大きいな。とりあえず、ここの写真を撮ってくれないか。この箱の中身と、引き出しの金、あとは、このタバコの吸殻。ここで取引があった証拠写真にする。これでこの部屋の捜査令状を取る」

 警部からカメラと新しいフィルムを受け取り、言われた物を写していると、窓際に立っていたケリーが、「あの男は何で落ちたんだ?」と独り言のように呟いた。
「自殺するにしても、ラジオはつけっぱなしで、お金はたんまりあるし、何かおかしい」
 ケリーは警部に顔を向けた。
「問題はそこなんだが・・・・・・」と言いながら、警部は窓枠から窓の周囲、壁から突き出たコンクリート部分に懐中電灯の光をあてて調べている。私の頭の中ではすぐにマリファナとエンジェルダストが結びついた。
「警部、エンジェルダストを吸ったんでは?」
「ははぁ、レロイのようにここにも天使が舞い降りたか」
 それから警部は引き出しの中の札束に目をやった。
「CHIN、このCHINという文字、どういう意味だと思う。ボーイ」
「これ、名前じゃないですか?」
「名前?人の名前か?」ケリーが訊いた。
「いえ、CHINESE, CHINS , チャイナタウンによく遊びに行くんですが、こういう文字よくみかけますよ」
「チャイナタウンか、chinese のchin、うん、なるほどな。なかなか冴えてるじゃないか」
 ケリーが言った。警部は頷きながら証拠品を入れるビニール袋に札束を入れはじめた。すべて入れ終わると証拠品のラベルを貼った。
「オッケー、今夜はここまでだな。明日は鑑識の連中がまた調べに来るからもっと詳しいことが判るだろう。今夜はこれ以上何もできない。さぁ、もう帰るぞ」
 警部は証拠品として箱の中身と札束をエビデンスバッグに入れると、廊下に出て階段の方へ歩いて行った。私たちも警部に続いて部屋を出た。階段の途中で、警部が言った。
「ああ、そうだ、ジョン。署に戻ったら、この部屋に立ち入り禁止のシールを貼りに来るようフラナガン巡査部長につたえてくれないか」
 それから警部は腕時計をチラッと見て、私に言った。
「ボーイ、お前は家に帰ってパジャマに着替えろ。子供の時間はとっくに過ぎてるぞ」
 時刻はまもなく2時になろうとしていた。私たちがアパートから出てきたとき、死体を載せた救急車が出て行った。路上には血のしみと飛び散った頭の中身、チョークの線だけが残されていた。やがてネズミとゴキブリがあらわれるだろう。飛び降りた男が最後に流した血は彼らの腹をみたす最高の食事となる。

ハッピーニューイヤー トゥ・・・・・・

 

(続く)