雑記帳

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エンジェルダスト(16)

ブライアントストリートを渡っての向かいにある「The Gavel」に立ち寄った。ここはHall of Justice (サンフランシスコ警察署とサンフランシスコ郡高等裁判所の本部)の職員がよく利用するバー兼レストランで、ランチタイムは弁護士専用、ディナータイムは警官専用と、昼と夜で客層ががらっと変わる。時間によって職種が別れているのは、この店にこういうルールがあるからではない。警官と弁護士は仲が悪いという単純な理由で、お互い顔をあわせたくないだけである。昼時にここに来ると、店内は弁護士ばかりである。本部やサウスステーション(南署)に勤務する警官たちは、皆よその店に行ってしまう。それがいつしか、昼は弁護士、夜は警官と明確に分かれてしまった。

 時刻は12時10分。
 私も弁護士だらけの店にはいるのは嫌だったが、今は、とにかく一杯飲みたい。内部調査委員会というところは全く不愉快だ。一杯飲んで気分を変えたかった。ビールを注文して一気に飲んでから、店の公衆電話でケリーに電話をかけた。呼び出し音が5回なったあと、ケリーが電話に出た。
「ハロー、はい、オニールか?」
「はい、今、終わりました」
「で、調査会はどうだった?」
「そのことを言いたくて電話したんですよ。口外するなといわれたんですけど、とにかく頭にきました。あいつら、集めた情報を自分たちの都合のいいように変えるでしょうね。私のことをプロの殺し屋だと思ったみたいですよ。それに、今日の調査会は私じゃなくてジョンのことが知りたかったみたいで、何か言うたびにケリー巡査はどうしたってそればかり聞かれました。ベラスコを撃てといったのはジョンかって聞かれました。だから、それは違うということを伝えておきました」
「まぁ、そうだろうな。大体予想はつくよ。で、タランティーノはそこにいたのか?」
「ハイ、いました」
「やっぱりな。あいつは昇進のチャンスがあったら母親でもいけにえに差し出す男だ」
「あ、それから、帰りがけに昨日、人質になってた女性、首を切られそうになったほうの人に廊下で会ったんですが、電話をしてほしいって言われて、電話番号を書いた紙をもらったんですけど。でも、タランティーノが彼女としゃべるなって通路で叫んでたんですが、どうしたらいいでしょうか?」
「そうか。何か話したいことでもあるんじゃないか。よくわからんが、電話してやればいいじゃないか。タランティーノはそこまでは調べんだろ。一度、キースに電話して聞いてみたらどうだ。わたしは2時から審問だから、もう出かけないといけない。調査会から戻ったら電話するよ」
 そういってケリーは電話を切った。店内はちょうどランチタイムで、弁護士たちが出たり入ったりしていた。こんなところに長居をするのは嫌だったので、店を出て、途中で昼食をとり、2時ころアパートに戻った。

 今頃ケリーは、あの真っ暗な部屋でスポットライトの当たった椅子に座らされているのかと思うと、気分が落ち着かなかった。ギャラガー警部はもう仕事にでかけたかもしれないが、とりあえず電話をしてみることにした。

「はい、あら、ブライアン?」
 ケイコさんが電話に出た。
「ハイ、ブライアンです。こんにちわ。あの警部はいますか?」
「ごめんね。今ね、道場にいるの。仕事に行かなきゃならないからすぐに戻ってくるけど、帰ったら電話するようにつたえておくわ」
「すみません、おねがいします」といって、電話を切ろうとしたら、「ブライアン? あなた、どうしたの? 今日は声が沈んでるわよ。昨日のこと、キースからきいたわよ。二人も女性を助けたんでしょ。ヒーローじゃない。キースもそういってるわ」
 いつもと変わらぬ明るい声でケイコさんが言った。
「え、声、沈んでますか? なんともないですよ。今、調査会から帰ってきたとこだから、ちょっと疲れたのかな。今頃はジョンがやってますよ」
 極力、明るい声で答えたが、本当はケイコさんが言ったように気持ちが沈んでいた。
「そう、それなら大丈夫ね。あなたヒーローなんだからね。あなたはいいことをしたのよ。OK? じゃ、キースがきたら電話するわ」

 ケイコさんと話していると、短い会話でも気が晴れてくる。電話を切って時計を見たら2時45分。たぶんアントニオストリートの路地の話になってるころだ。誰がケリーに質問しているんだろうか。タランティーノ警視だろうか。それとも私に質問した私服の警官だうか? こんな無駄なことをしなくても、結果はわかってるじゃないか。私もケリーも謹慎処分だ。私と同じで、今頃はケリーも不愉快な思いをしていると思う。


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 2時55分。220号室にて、ドナルド・タランティーノ警部補によるケリーの審問が続いていた。
「ケリー巡査、『正しいことをせよ』というのはどういう意味で言ったのか説明しなさい」
「何が起ころうとわたしのことには構わず、そのときの状況に一番ふさわしい行動をとれ、ということです」
「それは、ベラスコを撃てということですか?」
「状況によってはそれもあります。しかし、ベラスコを殴る、あるいは蹴る、投げ飛ばす、そのときの状況次第で選択肢はいくつもあります。何が起こるかは、わたしには予測できません。オニール巡査が発砲したのがあと数秒遅ければ、あの女性は殺されていました。とにかく、早く何とかしなければならないと思っていました」
「では、あなたは時間がない場合は射殺せよとオニール巡査に言ったわけですね」
「いいえ、そのように教えたことはありません。彼は自分で決断しました。しかし、彼のとった行動は正しい判断です」
「オニール巡査がベトナムにいたということは、フィールドトレーナーのあなたにはすでに耳に入っていると思いますが、何かベトナムのことに関して、つまり、彼は人殺しが好きで、一番気に入ってる武器は拳銃だと、そのような話を彼がしたことがありますか?」
「そういう話は一切聞いたことがありません。そこで起こったことを二度と繰り返したくないと思っているはずです」
「わかりました。それではあなたはオニール巡査がベトナムでスナイパーだったことを知っていますか?」
「いいえ、それは知りません。しかし、彼がスナイパーだったと聞かされても、私は驚きません。彼はどんな現場であっても常に冷静に対処します。なかなか新人ではそこまではできません。それは、すでに彼は十分に訓練され鍛えられてきたという証拠です」
「ケリー巡査、これは私の個人的な興味から聞きますが、フィールドトレーナーとして、あなたはオニール巡査をどのように評価してますか?」
「彼は優秀な新人です。現場でうろたえることはありません。理解力も早いです。彼がもっとキャリアを積めば、すばらしい警官になる素質があります。私が言っているのはグッドではなくグレートです。もしもあなた方が彼にチャンスを与えてくれるなら、オニール巡査は必ずグレートな警官になります」


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※内部調査委員会、当時の名前は INTERNAL AFFAIRS 。 現在はPOLICE MANAGMENT CONTROL UNIT と名称を変えました。 現在では、警官への銃規制がさらに厳しくなり、その結果、犯罪が増え、警官が射殺される事件が増えています。


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警部から電話がかかってくるのを4時まで待ったが、まだベルはならない。きっと何か仕事が入って連絡ができないのかもしれない。先にあの女性に電話をしようか。彼女も私からの電話を待ってるかもしれない。タランティーノは彼女と話すなといったが、かまうもんか。裁判もなしに人のキャリアをぶち壊すやつらの言うことなんか聞く必要もないだろう。私は彼女からもらった紙切れに書かれた番号をみてダイアルを回した。

 呼び出し音が1回、2回、3回、4回、そのあと日本語で「モシモシ」
「ハロー、ミスタチバナはいますか(Is Miss. Tachibana there please?)」
「わたしはタチバナです。あなたはダレですか?」
「ブライアン・オニールです」
 私は自分の名前を告げたが、彼女からおかしな英語が返ってきた。
「ブアーアンオニイルゥ?」
 今朝、彼女がしゃべった片言の英語を思い出した、たぶん英語がよくわからないのかもしれない。
「あなたは英語ができますか?(Can you speak English?)」
「ハイ、イエス、すこし。どうぞ、ゆっくりはなしてください」
「OK!  今朝、あなたは電話をしてほしいといいました。名前と番号の書いたメモを私にくれました。わかりますか? サンフランシスコ市警のオニール巡査です。(This is Officer O'Neil from SFPD. You asked me to call. You gave me paper with your name and phone number this morning?)」
 彼女が理解できるように、なるべく簡単な英語でゆっくり話した。
「ああ、ハイハイ、わかります。あなたは小さいケイカン」
「イエス、イエス。小さい警官です」と答えたが、「小さい警官」といわれたのがおかしくて噴出しそうになった。
「私に話したいことがあると言いましたが、どうしたんですか?」
「あの、あの、コーヒー、コーヒー のみますか? わたしたち 一緒に、コーヒー のみます。はなすこと できます」
 彼女のしゃべり方は かなりゆっくりである。単語をひとつずつ区切って話すので、多少おかしな発音でも言ってることは理解できる。
「イエス! いいですよ」
「OK! あなたは チャイナタウンを しっていますか?」
 彼女が言った。
「イエス。知ってますよ。近くに住んでます。(Yes, I know Chinatown, I live near there)」
「わたしのうちも近くです。 OK、あなたは あした、私に会いますか? ポーツマススクエアで1時、OK?」
「OK! ポーツマススクエアに1時、いいですよ」
 最後にもう一度、場所と時間を確認してから電話を切ると、すぐにまた電話のベルがなった。彼女の気が変わったのかと思ったら電話の主はギャラガー警部だった。

「ボーイか。遅くなってすまなかった。ケイコから聞いたよ。それで今日はどうだった?」
「内部調査課ってとこは本当に腐ってますね。彼ら、ジョンをひねりつぶそうとしてるみたいです。私は謹慎処分になりました。どうせ一方的にきめるんだから調査なんかしたって時間の無駄なのに。全く酷いところですよ」
 受話器の向こうから低い笑い声が聞こえた。
「それだけしゃべれたら大丈夫だな。落ち込んで泣いてるかと思ったよ。あいつらは白が黒に見える連中だ。私のことも、何か追い出す口実はないか、必死で探してるらしいが。まぁ、あそこに呼び出されたら黙って座ってる以外、どうすることもできんからな。タランティーノを八つ裂きにすることでも考えてたら、あっという間に時間がたつぞ。それより私に話があったんじゃないのか?」
「あ、はい、あの実は、昨日の被害者の女性ですけど、明日、私と会って話がしたいようなんですが。ポーツマススクエアで1時に会う約束しました」
「どっちの女性だ? 日本人? 中国人?」
 警部が訊いた。
「日本人の女性のほうです。名前はタチバナマコト。タランティーノ警視からは喋ったらだめだといわれたんですが、どうすればいいか、警部に聞こうと思って電話したんです」
「珍しいな。被害者の女性が会いたいといってきたか。あんまりそういう話はきかないが。彼女も今日、委員会に呼び出されたようだが。ベラスコの件で今回は、裁判無しで処理されてるから、何か言いたいことでもあるのかもしれないな。その女性と会ってみたらどうだ。約束したんだろ?  彼女が何を言ったか、また知らせてくれ」
「わかりました、じゃ、明日電話します」
 電話を切る前に、本部でケリーに会ったということを教えてくれた。思ったとおりケリーも謹慎処分で、かなり憤慨していたらしい。


翌日の一時、私はポーツマススクエアの真ん中にあるベンチに座って彼女が来るのを待っていた。ここはワシントンストリートとクレイストリートに挟まれた公園である。シルクのチャイナドレスをきた中年の女性が子供と手をつないで歩いている。ベンチに座ってチェスをしている老人。滑り台やブランコで遊んでいる子供たち。たくさんの人たちが、この公園で楽しいひと時を過ごしている。聞こえてくるのは広東語(cantonese)と中国語(Mandarin)。英語をしゃべっている人は誰もいない。
 チャイナタウンはサンフランシスコにできた小さな中国。ここに住んでいる人たちは、皆、ここで生まれ、ここで働き、ここで死ぬ。よその町に越していく家族はめったにいない。

 午前中は曇っていたが今は太陽が出てきた。顔に当たる風がやわらかい。ここにはもう春が来ている。ベンチに座っていたら「ハイ!」と右側から声をかけられた。振り向くと、茶色の紙袋を持ったミスタチバナが立っていた。
「ハロー、こんにちわ」彼女が言った。
「ハイ、ハロー、ミスタチバナ
 私は笑顔で挨拶したが、彼女は微笑を返さなかった。顔の怪我のせいで笑いたくても笑えないのかもしれない。しかし、その怪我をサングラスや化粧で隠すこともせず、時々、彼女の顔を見ていく人たちがいても、一向に気にする様子もない。私は彼女が座れるように場所をあけた。彼女はベンチに腰掛けると、茶色の紙袋から箱入りのチャーメン(五目ヤキソバ)、エッグフーヤン(中国の卵料理)、エッグロール(春巻き)、紙コップに入ったコーヒーを取り出してベンチに並べた。
「今、ランチタイム。だから、食べ物、買いました。これ、はい、あなたのコーヒー」といって、コーヒーカップを渡してくれた。
彼女はジーンズに白いスニーカー、ブルーデニムのメンズのジャケットをはおって、左手に男物の大きな腕時計をはめている。メンズファッションが好きなんだろうか、それとも、もしかしたらレズビアン? 頭の中で妙なことを想像してしまった。

「今日、来てくれてありがとう。あなた、おなか減ってる? どうぞ、たべて」
「僕にランチ?  どうもありがとう(thanks a lot)」
 私が礼を言うと彼女は春巻きをひとつ取り、食べ始めた。挨拶もそこそこに、料理を広げて春巻きの皮をパリパリかじっている姿が、ディズニーの漫画に出てくるシマリスのチップとディールに思えてくる。前歯が2本だけ出ているところはチップ、殴られて半開きになった目はディール。春巻きがナッツに見えてきてしかたがない。
 それにしても、今日、私を呼び出して、一体、何がしたかったんだろう? 1〜2回あっただけの男にランチを買って、酷い顔の怪我を気にすることもなく、食べることに夢中になっている。私の知っている女の子の基準からは少し外れているようだ。そんなことを考えながら彼女を見ていると可笑しくなってきた。でも、こんなところで笑っては彼女に悪いと思ったので、コーヒーカップを口に近づけて、チビチビすすりながら彼女を眺めていた。口の周りに切り傷があり、唇もまだ腫れているので大きな口があけられないようだ。見ていると痛々しい。
「具合はどう? 君はほんとに危ないところだったから( You had a close call)」
「わたしはOKです。でも、まだ痛い。たくさん 痛いです。きのうも、たくさん痛い。でも、あなたのケイサツに呼ばれました。あのひとたち、あなたのけいさつ わたしをいじめた」
「いじめた?」 
「きのう、220号室のひとたち。なぜ、わたしに、質問しますか? あなたのこと きいた。 大きい警官の人のこと たくさん ききました。わたし うまくはなせない。でもたくさん ききました。日本の領事館の人、通訳 いないでした。だから、私 言いました。領事館に言う。私、彼らに、それ、いいました。わたしは、たくさん、話せない。わたしは、ビクチム」
「ビクチム?」
 私が訊き返すと、「ちょっとまって」と言って、まだ使っていない白い紙皿の上に、春巻きについてきたマスタードソースをインク代わりにして箸でアルファベットを書き始めた。
「これ」と言って見せてくれた文字は、「VICTIM(被害者)」
「ああ、はいはい、ヴィクティムね」
「はい、それ、私、それです。私、犯人ではない、なぜ、彼らは、私に質問しますか?」
「たぶん、それは・・・・・・たぶん、君じゃなくて僕をいじめたいから」
「なぜ? なぜですか? なぜ、あなたをいじめますか?」
 彼女は瞬きもせず、私の目をじっと見ている。
「あの人たちは、僕が嫌いだから。ほかの警官も嫌いだから・・・・・・」
 私がそこまで言うと、彼女は大きく首を横に振った。
「ノー、ノー! あなたは、いい人。大きい警官もいい人。もしも、あなたと大きい警官の人、来なければ、私とメイリン、死んだ。あなた、悪い犯人、殺した。あなたは いい人。だから、ありがとうを言いたいです」
「お礼はいいよ。そんなことより、君たちが無事でよかった」
 一昨日の話が出たついでに、もう少し彼女に聞いてみることにした。
メイリンは友達?」
「イエス 彼女の名前はメイリン・チャン。わたし、メイリンの家に住んでいます」
「ああ、一緒の家にいるんだ。それで、彼女は大丈夫?」
「はい OKです。でも、たくさん 彼女も 痛い。でも、あなたと大きい警官の人にサンキュー 伝えてほしい 彼女言いました」
 彼女は私の顔をじっと見つめながら言った。私はにっこり笑って頷いた。
「あの、少し、訊いてもいいかな。一昨日の晩、あんな遅い時間に君とメイリンはどうしてあそこにいたの?」
「私たち、アメリカンミュージックホールに行きました。私とメイリン、ロック好き。ロックのコンサート、あの夜、行きました。メイリンの車、メイソンストリートに止めた。でも、帰り道、迷子、車、わかりません。あの男、きました。後ろから。ナイフ、もっていました。メイリン捕まえた。あの男、それから・・・・・・」
 そこで言葉が途切れた。これ以上は話したくないのかもしれない。
「ごめんね。話したくなければもういいよ」私がそう言うと、「ノーノー、ちょっとまって、あの・・・・・・英語、むずかしい。ちょっとまって」といって、急に何を思ったのか、料理の入っていた紙袋を細長くたたんで先を三角に折り、それを私の胸に突きつけるようにして私の腕を掴み少し前にひっぱた。
「あの、あの男、これしました。だから、私たち、路地にいた。わかりますか?」
「ハイハイ、わかります」
 彼女は英語で答える代わりに、あの男にナイフで脅され、無理やり腕を引っ張られて路地へ連れ込まれたということをジェスチャーで示してくれた。
「それから、あなたと大きい警官 きた。わたしたち、とてもこわかった」
 彼女はうつむいて、しばらく手に持ったコーヒーカップを見ていた。嫌なことを思い出させてしまったようだ。なんといって慰めていいか、言葉を探していたら、ふいに彼女が顔を上げて言った。
「あの、わたし、きょう、話したいことは・・・・・・あの、おねがいがあります。いいですか?」
「はい? なに?」
「わたしのナイフ。路地で落とした。わたし、あの男の顔、切った」

 ベラスコの頬には刃物で切ったような深い傷があったのを思い出した。
「君が、あの男の顔をきったの?」
「はい、わたし、しました、それ、ナイフで」
「それはすごいね。君はすごく勇敢だ、すごいよ」
「あの男、メイリンの服、これ。だから 切った」
 彼女は洋服を破り捨てるようなまねをして見せた。
「私のナイフ、落とした、たぶん、ケイサツ、それ 持ってる。あのナイフ、必要です」
「あなたのナイフを路地でみました。たぶん、現場を調査した警官にきけば知ってるはずです。あなたのナイフがみつかったらすぐに連絡します」
 私が言い終わると、彼女は首をかしげている。長い文章だったから もしかしたら通じなかったかもしれない。もう一度、短く言い直した。
「みつかったら、電話します」
 彼女は大きくうなずいて「サンキュー」と言った。それからジャケットの袖を少しだけめくって男物の腕時計を見た。
「あ、アイムソォリー、わたし、行かないといけない。学校」
「学校? どこの学校にいってるの?」
「サンフランシスコアートインスティテュート。知っていますか?」
「うん、その学校なら知ってるよ。じゃ、君はアーティストなんだ」
「はい。メイリンも。わたし、イラストレーション 勉強します。わたし 少し アーティスト」
 そういうと、彼女はもう一度、時計に目をやった。
「もうすぐ、メイリンの車 きます。むこう」
 といって、彼女はワシントンストリートのほうを指差した。
「いっしょに、いきますか? むこうまで」彼女が言った。
「はい、いいですよ」

 彼女はベンチの上に並んだチャイニーズフードを片付け、私の残した分を紙袋に入れて「これ、あなた、たべて、あとから」といって私に渡してくれた。それから一緒にワシントンストリートのほうに歩いていった。何気なく右のほうを見たら、カーニーストリートのほうから赤いマスタングが走ってきて、ワシントンストリートの交差点を左に曲がり、私とミスタチバナが立っているところでとまった。運転席には額に包帯を巻いたメイリン・チャンが乗っている。メイリンの顔にもいくつかの擦り傷があった。私の顔を見ると、車の中から軽く頭を下げた。

「今日は ありがとう、バイバイ」
 といってミスタチバナマスタングの助手席に乗りこんだ。ドアが閉まるとすぐに車は発進した。西のほうに走って行くマスタングに目をやったとき、バックのナンバープレートに見覚えのある6文字のアルファベットが並んでいた。

【IMPORT】