雑記帳

作品倉庫

テンダーロインノワール(3)

  ふたりは交差点で曲がり、エリスストリートに沿って歩いた。歩道には教会で食事をもらうために集まってきたホームレスの長い行列ができている。彼らに与えられる料理は暖かいが満腹を感じるほどの量はない。行列はワンブロック西にあるジョナスストリートの交差点まで続いている。ケリーとオニールはホームレスたちの顔を見ながら、ゆっくりとジョナスストリートに向かって歩いた。並んでいるホームレスたちは若者から老人、男、女、黒人、白人、アジア人、ヒスパニック人と様々である。顔色も良く元気そうに見える者、病人のように顔色の悪い者、とても幸せそうに見える者。何人かは憎しみのこもった目でケリーとオニールを見つめている。ふたりがホームレスの顔を見ながら歩いているときに、まっ先に頭に浮かぶことは、この列の中に指名手配中の容疑者が紛れ込んでいないか、近隣住民から通報のあった泥棒と顔の似ているものはいないか――ストリートから犯罪者を摘みだし、弱いホームレスたちをプレデターから守ることも警官の大事な仕事である。

 

ホームレス1


 夕食の時間が近づくと、ホームレスの行列は少しずつ長くなっていく。ケリーとオニールが並んでいるホームレスたちを観察する理由はもうひとつある。歩道沿いに、安いウイスキーとビールを売っている”ヤングエリスフードセンター”があるが、この店と教会の間の歩道では、必ずと言っていいほど毎日争いが起こっている。実に単純な理由で喧嘩が始まるのである。教会で食事や衣類、生活必需品をもらいたければ礼儀作法が要求される。それはテンダーロインという通常とは異なる世界であっても人として最低限守らなければならないマナーである。しかし、その一方で、テンダーロインには『プレデターヒエラルキー』が出来上がっている。プレデターは教会が要求するマナーではなく、『弱肉強食の掟』に従って行動する。教会と警察は、無益な争いを避けるために、下記のルールを作った。

「怒鳴らない、文句を言わない、人を罵らない、人を無理に押さない、盗まない、行列に途中から割り込まない、人が見つけた場所を横取りしない、自分の順番がくるまで辛抱して待つ」

 しかし、このルールが守られていたのは、ほんの短い期間だけである。
 数週間前の午後、ケリーとオニールがパトロールに出てすぐ、エリスストリート372番地の”the BlueWater Wash Laundromat(コインランドリー)"の正面で殺人事件が発生した。エリスストリートでは喧嘩はしばしば起こるが、殺人事件にまで発展したことはなかった。その日も、夕食をもらうために集まってきたホームレスたちの長い行列が出来ていた。その列の中にケリーが”アル中のプロ”と呼んでいるビル・サンダースがいた。彼がコインランドリーの前で立っていると、ネイビーブルーのシーマンズコートに黒いニット帽をかぶった黒人がサンダースの前に割り込んできた。黒人はサンダースの前にいる友人と話をしたかっただけであるが、理由はどうであれ、この割り込みはバッドマナーと看做された。アル中の禁断症状が出始めていたサンダースは黒人にひどい言葉を浴びせた。数分、お互いに罵り合うと、黒人はコートのポケットから安物のリボルバーを取り出し、サンダースの顔を撃った。一発の銃弾で口論は終わり、サンダースは歩道に倒れる前に死んだ。 

 

  事件の通報を受けたオニールとケリーは、すぐに現場に向かった。ふたりが現場に到着したときには、犯人は逃げ去ったあとだったが、この時は、喜んで捜査に協力してくれた目撃者がいた。この地区を担当している殺人課のキース・ギャラガー警部とグレッグ・ゴンザレス刑事が現場を調べている間に、ふたりは目撃者から犯人の人相風体を聞き出した。犯人が逃げた方向に歩いていくと、ホームレスの行列の中に目撃者の証言とぴったり一致する黒人がいた。オニールとケリーに見つかると、男は銃をぬいて二人を撃ち殺そうとした。しかし、引き金を引く前に、取り押さえられた。

 この日、エリスストリートで起こった大きな事件は、サンダースの射殺事件だけである。歩道で順番を待っているホームレスの中には酔っぱらいも何人かいたが、大きな声でしゃべっているだけで喧嘩は起こらなかった。この事件以来、食事の配給を待つホームレスたちの中で、殺人事件は起こらなかったが、小さな諍いは毎日のように起こっている。

  ケリーとオニールは教会のダイニングルームが開くまで、エリスストリートに留まった。ジョナスストリートの交差点と教会の間を何度も往復し、時々、顔見知りのホームレスを見つけると声をかけて雑談をして時間をつぶした。黒人の中年女性と話をしているとき、行列の後ろの方から、たんが絡んだような湿った咳が聞こえた。ふたりは咳が聞こえた方に歩いていくと、列の一番後ろに、最近、友人になったメガネをはめた男がいた。年齢は30代後半、ブルージーンズに赤いフランネルのシャツ。その上に厚手の青いパーカーを羽織っている。男はまた咳をした。咳が出るたびに足が震え、呼吸も苦しそうである。
「おい、エリックか?」
 ケリーが声をかけた。
 男はひどく咳き込んで返事ができない。少し咳がおさまると、手で口を押さえたまま頷いた。彼の着ている服にはシミも破れた箇所もない。髪の毛もきれいに手入れされ髭も伸びていない。

「大丈夫か?」
 もう一度ケリーが言った。
「ありがとう。大丈夫、すぐ治る」
 エリックは両手で口を抑え、かすれた声で答えた。

「だいぶ辛そうじゃないか。風邪をひいたな。こんな寒いところにいたら、もっとこじらせるぞ」
 ケリーはポケットを探って、フリークリニック(無料診療所)のカードを取り出した。
「ほら、このカードを持って、医者に行ってこい。ポルクとグローブストリートを渡ったところに診療所があるから、このカードがあればお金はいらん」
 ケリーはカードを差し出したが、エリックは受け取ろうとしなかった。
「遠慮なんかしなくてもいい。早めに医者に見せないともっと悪くなったらどうするんだ。このカードがあれば無料で診てもらえるから、お金の心配はしなくてもいい。わたしを信じろ。わたしはここで長い間、警官をやってるんだ。でたらめで言ってるんじゃない。とにかく早く風邪を治さなきゃダメだぞ」

 エリックはカードを受け取り、「ありがとう」と言おうとした。しかし言葉よりも咳が出て、口に手を当て頷くことしか出来なかった。

「オッケー! 体を冷やすのが一番よくないからな。教会で食事をしたら体が温まるまで外に出ないほうがいい。あんたの好きなだけ教会にいてもいいんだからな。早く出て行けなんて誰も言わないから、ゆっくり食事をして、暖かくしてたら、少しは咳きもおさまってくるだろう。早く風邪を治せよ。絶対、医者に行くんだぞ。いいな。エリック」

 

 

続く

 

 

ーーーーーーーーーーー

いつもありがとうございます。

コロナも軽症ですみ自宅療養期間も終わりました。

これからまた少しずつですが小説、日記等アップしていきますね。