雑記帳

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テンダーロインノワール (2)

テンダーロイン風景4

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  サンフランシスコ市警のテンダーロイン署に勤務するジョン・ケリー巡査とブライアン・オニール巡査は、テンダーロインにあるホテルの名前を全て知っている。毎日、パトロールでSROホテルに立ち寄るうちに、ホテルの看板を見なくても、中に入れば、そのレイアウトで名前を言い当てることができるようになっていた。ホテルに立ち寄ることが義務付けられていたわけではない。二人でそうしようと決めたのである。このようなホテルには弱い獲物を狙って悪事を企んでいるプレデターが潜んでいることがある。

  ケリーとオニールは、ホテルの名前だけでなく殺し屋からドラッグディーラー、こそ泥、売春婦、アル中患者、そして犠牲者の名前まで、全て頭の中に入っている。テンダーロインはそれほど広いエリアではない。ふたりはSROホテルに泊まることができない路上生活者たちの名前も知っている。夜になると、公園や路地、ビルの入口には寒空の下で眠っているホームレスがいる。彼らは誰からも相手にされない世の中から見捨てられた人々である。路上で死んでも誰も悲しまない。彼らがこの世に存在していることを知っているのは、この地区をパトロールしている警官だけである。

 

 12月の下旬、ケリーとオニールはいつものようにテンダーロインをパトロールしていた。エディーストリートを歩いているとき、オニールが言った。
「ジョン、どうしてこの辺はいつまでたっても変わらないんだろ。サンフランシスコはどんどん綺麗な街になってるのに、テンダーロインは昔のままだ。どうしてここには妙な連中ばっかり流れてくるんですか? テンダーロインに来たっていいことなんか何もないのに」

  物事を額面通りに受け取らないオニールは、その裏側を知りたい時、しばしばケリーに質問する。テンダーロイン署に20年以上勤務し、そのほとんどの時間をパトロールで費やしてきたケリーは喉の奥で「うん」と唸り、しばらく歩きながら考えていた。

「それはだな。たぶん、消えるにはいい場所だからだろ」
 
「どういう意味ですか?」

 オニールは歩みを止め、ケリーを見た。

「ここは人間が簡単に消えることができるんだ。あっという間に姿が見えなくなる。例えばおまえが姿を隠したかったら、人口75万の町と100人しか住んでない街と、どっちを選ぶ? 大都会に紛れ込んだほうが見つかる確率が低いだろ。ここに流れてくる連中は、大勢人間がいるところは姿を消すにはもってこいの場所だって思ってるんだろうな」

「大きな池の小さな魚は見つかりにくいってことですか」

 オニールが訊いた。

「そうだな。木を隠すには森の中ってことわざもあるからな。人間を隠すには人間の中だって考えもある程度はあたってるだろ。だけどな、何かの事情で姿を消したいって思ってるのがひとり、ふたりなら問題ないが、そういう連中の数が2万とか3万になってくると逆に目立ってしまうんだ。消えるどころかもっとよく見えるぞ。わかるだろ」

「そういうことか。大きな池の小さな魚が、突然大きな魚になってしまったんだ」

「まぁ、簡単にいえばそういうことだ」

 ケリーはそう言うと、立ち止まって前方のスーパーの前で屯しているホームレスに目を向けた。

「あそこに集まってる連中。あいつらもここに流れてきた小さな魚だ。害のない小魚ならいいんだが、中には毒をもった魚もいるからな。指名手配中の犯人やレイプ魔や強盗、幼児虐待したやつとかも紛れ込んでることがあるだろ。こういう連中は、銀行の口座も住所も持ってないよな。領収書も受け取らん。そういうものから足がついて捕まりたくないからだ。パトロール中に挙動不審な奴を捕まえても、拘束できるのは72時間までだって法律があるだろ。逮捕状が出てないことがわかれば72時間後には野放しだ。だけど、たいてい捕まった奴らは何かの罪状を抱えてることが多いから、72時間で釈放ってわけにはいかんな。だから、警察に捕まると具合が悪いから姿を消そうとするんだ。大勢の中に入って自分の姿が見えないようにして悪いことをやってる」 

「透明人間みたいですね」  

   オニールが言うとケリーは眉をしかめて首を振った。

「そうはうまくいかん。どうしてかわからんが、10回のうち9回は姿が見えてるからな。どこかの酒屋でビールを盗むか悪いドラッグを手に入れるだろ。そのあとはお決まりのパターンだ。路地やビルの前でへべれけになってひっくり返ってるだろ。そういうことをするから、おまえとわたしの目に付くんだよ。何か様子がおかしい奴を見かけたら、引き止めて話をするだろ。名前を調べて逮捕状がでてるかどうか確かめるよな。たいていビンゴだろ。逮捕状がごっそり出てる奴もいる。そういうバカバカしいヘマをしでかすから、消えたくったて完全に消えることは無理だな」

ケリーは続ける。

「路上で会った連中の名前を覚えろっていったのも、ひとつにはそういう理由だ。IDカード(身分証)をもってないのもいるからな。顔を見ただけで名前が分からなきゃダメだ。わたしは20年もここにいるから、新しい名前を覚えなきゃならんのは、週に二人か三人ぐらいだがな。たまに、名前のリストから外さなきゃならん奴もいるな」

 ケリーは含み笑いを浮かべてオニールを見た。

「おまえもだいぶ覚えたと思うが、とにかくテンダーロイン池にいる魚の名前は全部覚えるんだぞ」

「はい。あのサイコみたいな奴の名前もですか?」

 オニールが尋ねた。

「そういうのはここにも何人かいるがあまり見かけないなぁ。バークレーに行けば結構いるがテンダーロインは少ないほうだ。だけど、そういう頭のイカれたやつは72時間ルールが適用するからな。72時間だけ精神病院に放り込まれて、そのあとはポケットに薬を詰め込まれて追い出されるんだよ。だけど薬が切れるとまた捕まって精神病院に逆戻りだ」

「ドラッグ中毒と同じですか?」

 オニールが聞くと、ケリーは歩きながら軽く頷いた。

「わたしの友人でマリンカウンティーで警官やってるのがいるんだが、こんな話をきいたことがあるんだ。精神分裂か躁うつ病か忘れてしまったが、そういう病気の男がいて、サンアンセルモである日、夢遊病者のようにふらついてたところを保護されて、犯罪歴も逮捕状も出てないから72時間で釈放されたんだ。だけど、また二日後にサンラファエルでまた同じようにさまよってたから警官に保護されたんだ。それからまた数日後、今度はナバトでも同じだ。こんなことの繰り返しだったらしい」

 

 ケリーの話を聞いてオニールは笑った。
「おまえは笑ってるがな、そのうちにおまえもこういう連中を相手にするようになるんだぞ。まったくバカバカしくて嫌になるぞ。こういうサイコ野郎は大きな町よりも、小さい町で警官にこづかれるんだ。こういう連中は、自分だけにしかわからない夢の世界に住んでるんだ。たぶん、夢の中にいるのが平和なんだろうな。静かで自由なファンタジーの世界が好きなんだろ。夢の世界でさ迷ってる時は、傍から見たら、明らかに異様に見えることをしてるからすぐにわかる。これが大きな池にいるサイコ系の小魚を見つけるテクニックだ」
「はい。新しいケリーセオリーですね。わかりました」

 オニールは笑顔で答えた。
「しっかりメモしておけよ。それともうひとつ言っておくが、テンダーロインじゃ、こういうタイプはあまり多くはない。中には賢い奴もいて、医者から貰った薬を売って金にするんだ。警察に保護されると、犯罪に関わるようなことでもしない限りは72時間だけ病院でおとなしくしていれば、あとはバイバイだろ。帰るときはタダで薬がもらえるからな。それを売るんだよ。そういうことには妙に知恵が回る奴もいるんだ」


 ケリーとオニールはストリートの角にある薄汚れたマーケットに立ち寄った。店内を見回したが、ふたりの注意を引くような不審人物はいない。店のオーナーと少しだけ雑談をしてからストリートに戻った。昼間の明るい歩道を周囲に目をやりながらゆっくりと歩き、しばらく行くと、オニールが再び質問した。

「なんにも持ってない人はどうなんですか? 犯罪者やサイコじゃなくて、お金も家も何もない人もいますよね。悪いことをしてないんだから身を隠す必要もないと思うんだけど、どうしてそういう人もここに集まってくるんですか?」
「テンダーロインに来ればかろうじて生きていくことは出来るからな。数ドルあれば服が買える古着屋(second-hand store)もあるし、市がやってる無料のメディカルケアも受けられるだろ。わずかだが給付金ももらえるし。もし金がなくなって、食べるものも買えない時はセントアンソニーダイニングルームかグライドメモリアル教会に行けばタダで食べさせてもらえるだろ。洋服も歯ブラシも、生活に必要な最低限のものは教会が無償で与えてくれるからな」
 ケリーの話が終わったとき、オニールは顔を上げた。ふたりはテイラーストリートとエリスストリートの交差点にいる。偶然にも、ケリーの話に出たグライドメモリアル教会の正面に立っていた。 

 この教会はカリスマ的な黒人のセシル・ウィリアム牧師によって運営されているメソジスト派の教会である。この教会の使命はただ一つ。慈愛と公正をもって人々を苦しみから救い、貧困と社会的に疎外された人々をこの世からなくすことである。

 

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※マリンカウンティーはサンフランシスコの北部。ゴールデンゲートブリッジの北に位置する半島。

 

続く