雑記帳

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エンジェルダスト(7)

アパートに戻り、上着を脱いだ途端に一気に疲れが襲ってきた。頭の中で、今日見たものが走馬燈のようにぐるぐる回っている。路上の浮浪者、たむろする黒人、歩道を行き交う人の群れ、そしてレロイのつぶれた顔。あらゆる物が重なり合い、スローモーションになり、大写しになり、早送りになり、頭の中のスクリーンに映し出されてはフェードアウトしていく。22年間、見慣れた町の風景。でも何かがちがう。
 『おまえはまだ何もわかっちゃいない 』
 ケリーの言葉が壊れた蓄音機のように繰り返し繰り返し頭の中で響いている。制服を脱ぎ捨て、シャワーもあびずベッドに潜り込んだ。

 

     ******

 

 私は再びベトナムにいた。南ベトナムの緑に囲まれた丘の上。子供の頃、母と一緒に行ったゴールデンゲートブリッジが見えるマリンカウンティの静かな丘に似ている。
 誰も撃ってこない。
 誰も私を殺そうとしない。
 敵はどこにもいない。

 突然映像が切り替わり、私は戦闘のまっただ中にほりこまれていた。
 漆黒のジャングル、すさまじい爆撃音、紅蓮の炎、断末魔の叫び。キャンプの周囲で迫撃砲が爆発する。四方八方から走ってくる足音が聞こえる。ライフルとマシンガンを乱射しながら、姿の見えない敵が向かってくる。グレネードランチャーの強烈な閃光と爆音。M-16とAK-47の耳になじんだ乱射音。私の頭上を怒り狂った殺人蜂のように無数の弾丸が飛んでいく。
 塹壕の中で誰かが泣いている。
「ブライアン、逃げよう、ブライアン、逃げよう」
 二つ年下の友人。
「ブライアン、逃げよう、逃げよう、逃げ・・・・・・」
 突然、彼のヘルメットが吹き飛んだ。弾が頭蓋骨を貫通し、カッと目を見開いたまま、私の友人は真後ろに倒れた。頭にぽっかり空いた穴からピンク色の脳みそがズルズルとはい出てきた。どす黒い血がスローモーションのようにゆっくりと広がっていく。飛び出した眼球が私を恨めしそうに見ている。友人の顔ではない。それはレロイ・ワービングの顔だった。
 後ろで誰かが叫んでいる。
「地下指令壕へ退却!」
 事態は急速に悪化していった。

 逃げなければ・・・・・・
 と、その時、強烈な光りと焼け付くような熱。身体が吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
 死にたくない。死にたくない。死にたくないのに死にかけている。
 私は必死で地面を這い、あらん限りの力を振り絞って立ち上がり、走ってはまた倒れ、倒れては地面を這い、死の淵にいる男に残されたありったけの気力を振り絞って、指令壕をめざした。
 前方の空が突然、赤とオレンジと黒の炎に染まった。
 ナパーム!
 爆風はない。ただ焼けるような熱さ。灼熱の地獄!
 皮膚が焼ける。私の皮膚が溶けていく。体中からピンク色の液体がどろどろと流れていく。

 その時、自分の悲鳴で目が覚めた。

 

 

午前6時。爆音も銃声もきこえない。ここはサンフランシスコの自分のアパート。またベトナムの夢を見た。眠りは私をあの地獄の戦場へつれていく。
 疲れが抜け切っていない身体を起こし、キッチンでコーヒーの準備をしたあと眠気ざましに熱いシャワーを浴びた。鏡を見ながら髭をそっているとき、ブラウンヘアーの中に白髪を2本見つけた。
「たった一日で白髪か! なんてこった!」思わず鏡に向かって言葉を投げつけた。

 黒いスウェットスーツに着変え、リビングルームに戻ってテレビをつけた。コーヒーを飲みながらチャンネルを色々切り替えたが、どの番組もクリスマス一色。24日の深夜に行われたローマ法王のミサの場面ばかりである。続いてベトナムのニュースが流れた。
ニクソン大統領はベトナム戦争終結に向け、努力することを・・・・・・』
 もういい! 何の努力だ! こんなことをしている間にも仲間が大勢死んでいる。
 私はニュースの途中でテレビを切り、朝の散歩に出かけた。太陽はすでに昇っている。空気は冷たいが、早朝のストリートを歩くのは気持ちがよかった。
 毎朝、ワシントンスクエアまで太極拳の稽古に通っていた。先生はチャイナタウンに住んでいる80歳近い中国人だったが、姿勢も良く、声に張りがあり20歳は若く見えた。いつもなら、20名ほどの生徒が集まっているが、今朝は10名しか集まっていなかった。生徒の中では私が一番年少である。
 深い呼吸。緩やかな螺旋状の動き。徐々に身体がリラックスし、昨夜の悪夢もかすんでいく。


     ***** 

 

 月曜日のクリスマスはテンダーロインも比較的静かで、特に大きなトラブルもなく過ぎていった。夫婦げんかと恋人同士の喧嘩が数件。すべてファーザーケリーの采配で丸く収まった。いかがわしい酒場で客同士の乱闘騒ぎがあったが、軽い痣程度の傷でおさまり、泥酔した2人の客には、クリスマスをトラ箱で過ごしてもらい、大事には発展しなかった。

 パトロールの途中でグライドメモリアルチャーチとセントアンソニーダイニングルームに立ち寄った。両方の教会は貧困者救済のため、年中無料で暖かい食べ物と寝る場所を浮浪者たちに提供している。
 ケリーからセシル・ウィリアム神父を紹介された。禿頭の体格のがっしりした黒人の牧師で、「貧困者を救うこと、それが神が私に与えた使命です」と暖かい笑みを浮かべて言った。私は一目でこの牧師が好きになった。ジョーンズストリートを下っている途中でセントフランシスコ会のフロイド神父にあった。彼もまた貧困者救済チャリティーバザーを開いたり、セントアンソニー教会で住む家のない浮浪者達に惜しみない愛を与えている1人である。静かな物腰、穏やかな笑み。茶色のローブは人々の苦しみ、不幸、叫び、涙で織られている。神父の肩には世界の重さがかかっている。


 一週間が瞬く間に過ぎていった。
 ベトナムの悪夢を呼び覚ますような事件もなく、テンダーロインには似つかわしくない静寂と秩序があった。まるでテンダーロインの住人が一時的な停戦協定を結んだか、あるいはクリスマス休暇でどこかへ遊びに行ってしまったのではないかと思えるほどだった。売春婦の姿もまばらである。私とケリーの顔を見ると、ゴキブリのようにそそくさと暗い路地に逃げ込んでいく。
「ここの連中は、大晦日に備えてこの期間はエネルギーを充電してるのさ」
 ケリーが言った。そのおかげで、大晦日が来るまでに、私も十分にバッテリーを充電することができた。

 私の姿も一週間で雰囲気ががらっと変わった。鏡の中ですましてたっていた一週間前のくそまじめなブライアンではない。4つボタンの上着ではなく、ケリーと同じブラックのウォームジャケット。両肩にはSFPDのフェニックスのパッチ。ショートバトンの他に、プラスチック製の60センチのナイトスティックを持ち運んでいた。木製のナイトスティックよりももっと慣性の法則がはたらく護身用の危険な武器である。服を変えただけなのに、ずいぶんベテランになった気分がする。アカデミーの同期生は、あいかわらず堅苦しいブレザーの制服でパトロールに出ている。ショルダーホルスターを装着して拳銃をいれると、上着のボタンがはまらないとぼやいてるのもいるようだ。制服に関しては、テンダーロイン署に配属されたことを感謝している。

 31日は午後からパトロール課の警部補によるミーティングがテンダーロイン署のブリーフィングルームで行われた。
 ドナルド・タランティーノ警部補――サンフランシスコで生まれ、サンフランシスコで育った根っからのサンフランシスコ人である。彼の家族はフィッシャーマンズワーフで何代も続いているレストランのオーナーで、長年に渡り、サンフランシスコの経済の発展と政治にも関わってきた。背が低くでっぷりした腹はサンフランシスコの富裕層にみられる典型的な体型である。頭頂部が薄くなりかけたごま塩ヘアーを始終かき上げながら、一日中デスクから離れず、金縁眼鏡の奥から上目使いに職員を観察し、何かひとこと言ってやるのが彼の仕事だった。
 今日のブリーフィングも彼の退屈な話が延々続き、あくびを必死でかみ殺していた。警部補は話の合間に、ブリーフィングルームに集まった署員を観察し、私とケリーのほうを何度もちらちら見ている。私たちがちょっとでもおかしな事をしたら、「ケリー指導巡査と見習い警官オニールは将来、市警にトラブルをもたらす可能性あり」と上司に報告して点数稼ぎをしようとしてるのがありありと感じられた。
 タランティーノを警部補に推薦したのはイタリア系アメリカ人のジョセフ・アリオット市長で、伝え聞くところによると、1906年のサンフランシスコ大地震の際、海に逃れたボート上で警部補と市長の両親が出会ったということらしい。市長になる前はサンフランシスコでもかなりの権力をもった弁護士であった。サンフランシスコの市民は、アリオット市長はコーザ・ノストラ(イタリアンマフィア)の親戚ではないかと噂していたが、それを証明するものはなにもなかった。彼の生い立ちが何であれ、市長のバイタリティーと犯罪撲滅に対する並々ならぬ情熱で市民からの評価は高かった。市長は取り巻き連中の中で、彼のお目に適う者がいれば、即、昇進させた。制服組の中には市長に取り入ろうとする警官もいたが、ケリーは警官として培ってきた21年間のキャリアを政治家のために使う気は全くなかった。それは私も同じである。兵士としてのキャリアは政治家のためには決して使わない。


 タランティーノ警部補のすばらしい子守歌の演説が終わり、残ったコーヒーを一気に喉に流し込み、ケリーと一緒にブリーフィングルームを出ようとしたらギャラガー警部が入ってきた。グレーのヘリンボーンのツウィードジャケット、ワイン色のクルーネックセーター、チャコールグレーのズボンに、ピカピカに磨かれた黒い靴。きちんとセットされたグレーの髭と髪の毛。ケリーと同じ50歳だと聞いていたが、もっと落ついた雰囲気があり、アメリカの警官というよりは名門大学の教授のように見える。
 警部に笑顔で挨拶したが、私の笑顔など見えなかったとでもいうように、相変わらずクリスマスイブの晩と同じ無表情な顔でニコリともしない。もう少し愛想がよければ女性にももてるのにと余計なことを考えたら、「オニール、何を笑ってる? 私の顔に何かついてるか?」と、警部に言われた。
「いえ、あの、ごくろうさまです」と何とも間の抜けた返事をした。
 警部は私の返事などどうでもいいようで、男子トイレのほうに歩いていったケリーの背中にむかって、「おい、ジョン」と呼びかけた。「なんだ?」とケリーが振り向き、こちらに戻ってきた。
「ボーイを少しかりてもいいか? 話したいことがあるんだ」
「ボーイってこいつか?」ケリーが私のほうに顔を向けると、警部は無表情で頷いた。
「で、話って――」
 ケリーが訊くと「これだ」と言って、警部は手に持っていた封筒をケリーに渡した。
「何がはいってるんだ?」
「まぁ、読んでくれ。話というのはこのことだ。オニールには私から直接話す。かまわないか?」
 警部が訊いた。
「オッケー。わかった。今からパトロールに出ようと思ってたとこだが30分ぐらいならボーイを貸し出すよ」
「サンキュー、ジョン」
 警部はドアの側にたっていた私に、「よし、親父の許可を貰った」と言うと、手だけを動かして私にもう一度、席に戻れという相図をした。
 ブリーフィングルームに戻り、私が腰掛けるとすぐに警部が話し始めた。
「今、法廷から戻ってきたところだが、レロイの検死結果が出て資料を貰ってきた。いま、ジョンに渡した封筒だ。クリスマスイブの晩に自殺した男、覚えているだろ?」
「はい、レロイ・ワービングですね。覚えています」
「あのときは君はなかなかいい働きをしてくれたね」
「ありがとうございます」
 内心では褒められてうれしかったが、笑い顔は作らずに答えた。
「検死医の報告によると、レロイの血と尿から薬物反応が出た」
マリファナですか」と訊くと、警部は白い歯を見せて少しだけにやりと笑った。
「君が見つけてくれたレロイのポケットに入ってたビニールの包み。あの中の葉っぱを調べたら面白い結果が出たぞ」
「何でしょうか」
「君はまだ試験期間中の身だが、いずれは法の番人のメンバーに加わることになるから、レロイの検死結果を君の耳に入れておこうと思ってね。実務的な知識もいいが、アカデミックな知識も警官には必要だ」
「ハイ、あの、それで、何が出てきたんですか?」
「レロイの血と尿から出た薬物と、ポケットにあった葉っぱからマリファナのほかに新しい薬物が出てきた。タランティーノの演説で眠った頭をたたき起こすには最高のクスリだ」 
 警部はにやりと笑った。
「PCPという名前を聞いたことがあるかね?」
 私の目を真正面から覗き込むようにして警部が質問した。
「知りません、初めて聞く名前です。何ですか?」
 私も警部の目を見つめて答えた。
「ほほう、優秀な君でも知らないことがあるか、なぁ、ミスタースマート君」
 そう言うと、警部は椅子の背にもたれ、口元だけに笑みを浮かべて私の顔をじっと見ている。何か言わないと間が持たないが、警部の皮肉には返す言葉がない。それにしても、口が悪いのはサンフランシスコ市警の伝統だろうか。
 私が警部の顔から視線を外し何も言わずに机を見ていたら、警部が少しだけ身を乗り出して、口を開いた。
「PCPの正式名称はフェンシクリジン。舌をかみそうな名前だから、一般的にはPCPと呼ばれてる。動物用の麻酔薬だよ。象があっというまにひっくり返る麻酔薬だ。人に使うと全く違う反応が出るようで人体への使用は禁止されていたが、最近、ロスからこのベイエリアにPCPが流れてきてるらしい。末端価格はロスで一本10ドル。サンフランシスコではもっと安く売られてるはずだ。ストリートではエンジェルダストと呼ばれている」
「エンジェルダスト(天使の粉)――」
 私は警部の言った名前を繰り返した。
「そうだ、連中はそう呼んでいる。人間が使うと、一時的な幻覚症状、時にはそれが長時間続くときもある。極度の興奮状態、精神異常を引きおこす神経毒性のある薬物で、体温が上がって、汗がふきでて、真冬でも裸になりたくなるらしい。おそらくレロイはオファレルシアターに来る前に、どこかでエンジェルダストのはいったマリファナを買って、それを吸って天使に命をもっていかれたわけだ。しかし、あれじゃ天使じゃなくて悪霊がきたのかもしれないな」
 警部はまた皮肉っぽい笑みを浮かべて言った。
「とにかく、このことを君に知らせたくてね。その代わり、これはまだ極秘情報だから、だれかに漏らさないように。いいね。とにかくもっと情報を集める必要がある。それとエンジェルダストは皮膚からも吸収するから、葉っぱを扱うときは用心するように」
 警部は言い終わるとポケットからマルボロを取り出して口にくわえ、ライターで火を点けようとしたが、急に何かを思い出したように、煙草を口から外して私を見た。
「そういえば、君が書いたレロイの報告書。うまく書けてたじゃないか。正式な報告書にして提出する前にチェックして私が少し書き加えておいたから」
 というと、警部はジャケットの内ポケットから折りたたんだ報告書の用紙を引っ張り出して机の上に置いた。
「この中の赤ペンのひっかき傷の箇所は、もう一度よく確かめておきなさい。私にはまるっきり暗号だよ。解読してると頭痛が襲ってくる。この年になると、細かい作業は脳に負担がかかってね。特に報告書を仕上げるのは一苦労だ。でも、きみならすぐにできるはずだ。たのむよ」
 なにか、面倒な仕事を押しつけられたような気もするが。そんなことを思いながら、あちこちの文章に赤線を引いてある報告書を見直していたら、ケリーが部屋に入ってきた。
「キース、話はおわったか?」
「ああ、いま、終わったとこだ」
「さっきの資料読んだが、それにしても困ったものが出てきたな」
 ケリーは警部が渡した封筒を机の上においた。
「こんな薬物が出まわってるとなると、また忙しくなるな。ま、とにかくそういうわけだ。ひきとめてわるかったな。あ、それと、オニールはなかなかスマートボーイだが、もうすこしマナーを知らないとな。ジョン、その辺をもっと教えてやってくれ」
「10-4 (了解)」ケリーは軽く敬礼するような仕草をしながら警部にいった。
「それじゃな。ミスタースマート。よい年を!」
 ギャラガー警部は部屋を出ていった。

 ブリーフィングルームのドアが閉まると、すぐにケリーに質問した。
「あの、私は何か警部の気に障ることをしましたか? 警部に失礼なことをした覚えも言った覚えもはありません」
 ケリーは笑みを浮かべて私の肩を軽くたたきこう言った。
「気にするな。おまえとの会話を楽しんでるんだよ。キースに気に入られたようだな。もしそうじゃなかったら、あいつがおまえのような新米に会うために時間を割いて、わざわざこんなところまで出向いてこないよ」
 と、ケリーは言ったが、どうも納得がいかない答えである。
「さて、それじゃ、そろそろ出かけるぞ。助けを待ってる市民がいる。行くぞ!」

 私とケリーは夜の町へ繰り出した。

 

 

(続く)