雑記帳

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テンダーロインノワール(6)

  無意味な日々を送っていたエリックに目的ができた。それは奈落の底から這い上がるための、たったひとつの手すり――テンダーロインのありのままの姿を書く事。これが自分の使命だと思った。彼はコーヒーの空き缶の中に入っているコインをポケットにいれ、ダンボールの看板とラジオをバックパックにしまい、ハイドストリートの坂を足早に上っていった。エディーストリートにある薄汚い小さな古本屋に入り、店内を素早く見回した。置いてある本は、かつてエリックが所有していた数よりも少ない。彼は辞書を探していた。表紙がちぎれ、中身が黄ばんだ『Webster’s Colligate Dictionary』を見つけ、50セントで買った。それからマーケットストリートの”Walgreen’s Drugs”に行き、残ったお金を全部使って鉛筆と鉛筆削り、黄色いラインが入ったスパイラルノートを買った。
  その日の夕方、エリックはセントアンソニー教会のダイニングルームで、暖かいシチューを食べながら、彼の物語――『Castaway: A Modern Robinson Crusoeキャストアウェイ:現代のロビンソンクルーソー)』を書いていた。
(※Castaway:世間から見捨てられた人)
   二つめの変化はその時に起こった。テンダーロインから南に下ったミッション地区にある聖アンソニー教会(St. Anthony’s church)から来たフランシスコ会の牧師の一人、名前も教会と同じアンソニー牧師がエリックに気がついた。汚れた身なりをしたホームレスの中にあって、エリックの清潔さが、すぐに牧師の目を引いたのである。アンソニー牧師はエリックの隣に腰かけ、ふたりは一時間ぐらい話をした。エリックが帰ろうとすると、アンソニー牧師はこんなことを言った。
「エリックさん、GAというのをご存知ですか?」
  牧師が訊くと、エリックは首を横に振った。
「それなら明日、教会の事務所に来てください。市の方で、貧困者救済のプログラムをいくつか用意してますが、その中にGeneral Assistance Program(一般扶助制度)というのがあって、略してGAと言ってます。それに登録すると、救済給付金が出るんですよ。毎月もらえますから、そのお金があれば、食べ物と寝泊りする場所には困らないはずです。フードスタンプと同じようなものです。明日、教会でその手続きをしましょう」
(※フードスタンプ:政府が発行している生活保護者のための無料食券)

 

  エリックはGAに登録し、初めて貰った給付金で新しい服と下着、食べ物を買った。ホームレスの多くは、給付金を受け取ると、一度で全部使い果たしてしまう。エリックはそんな無計画な使い方はしなかった。毎月支払われる給付金はわずかである。必要最低限の生活をするにも必要なものはいくつかあるが、その全てを購入できるほどの金額ではない。物価の高いサンフランシスコで、給付金だけで暮らしていくことは簡単なことではない。エリックは毎月お金を受け取ると、何を買い、何を我慢するか、どうやって少ない金額で一ヶ月間暮らしていくか考えなければならなかった。バスとキッチンが付いたワンルームのアパート(studio apartment)を借りるためには、毎月1000ドルの家賃がいる。そんな部屋を借りる余裕はない。エリックは質素倹約を心がけ、月に一週間から二週間はSROホテルに泊まれるようにお金を貯めた。汚いホテルでもベットで眠ることができる。シャワーも使える。二週間分の部屋代を払えるくらいまでお金が貯まると、エリックは考えた。二週間連続して部屋を借り、残りの二週間はストリートで寝るか、それとも一週間交代にするか。エリックは後者を選んだ。

 

  そうして夏が過ぎていった。『キャストアウェイ』の執筆を続ける一方で仕事を探して街を歩いた。しかし、住所不定の男を雇ってくれる会社はどこにもなかった。やがて秋が終わり冬が来た。エリックは、一ヶ月の最初の一週間はSROホテルで泊まり、熱いシャワーとベットの贅沢を楽しんだ。2週目は登山用のテントを張って路上生活をした。ホテルの宿泊費を貯めるために、朝食と夕食はセントアンソニー教会とグライドメモリアル教会のダイニングルームを利用し、昼は何も食べなかった。三週目は食料を少しだけ買ってホテルに泊まり、部屋に備え付けてある小さなホットプレートで温めるだけの簡単な料理を作った。そして最後の一週間は路上に戻った。そんな生活を続けてきたが、月末になると、エリックの手元には1セント硬貨が二、三枚しか残らない。SROホテルを利用しなければお金は残るだろうが、熱いシャワーとベットの生活を断念する気にはなれなかった。路上に座って施しを乞うようなことは二度としたくはなかったが、少しでもお金を稼ぐためにはそうする以外に方法がない。エリックは再びダンボールの看板を持ち、コーヒーの空き缶を置いて、パイオニアモニュメントの横に座った。

     しかし、以前のようにお金も食べ物も集まらなかった。下書き用に使うノートを買う余裕はない。そんな日が何日も続くと、エリックはゴミ箱や歩道に落ちているビラや紙くずを拾ってノートの代わりにした。オフィスビルの近くにあるごみ収集所(trash bin)には、不要になった書類や書き損じたメモ用紙がたくさん捨ててある。ピンクや黄色の色つきの紙から、小さく丸めてシワだらけのもの、半分にちぎれているもの、コーヒーのシミが付いたもの。どんな紙でも書くスペースがあれば拾ってバックパックに詰め込んだ。エリックは拾った紙に書き込んだ文章を時間をかけて推敲し、SROホテルに泊まっている間にノートに清書した。

 

    サンフランシスコの冬。外は凍りつくほど冷たい風がふき、霧は路上で暮らすホームレスたちの心までも湿らせていく。エリックはSROホテルに泊まることができない時は、寒空の下、エディーストリート沿いにある空き地にテントを張って夜を過ごしたが、そこよりももっと安全な場所、危険なプレデターや他のホームレス、通行人の目につかない路地を見つけた。エディーストリートの朽ち果てたビルとビルの間にできた細長い通路。雑草と犬猫の糞、昼間でも光がささない湿って嫌な匂いがする路地だったが、エリックには安心して眠れる場所だった。その路地がエリックの住処になった。雨の日は小さなテントの中でラジオを聴きながら、拾った紙に小さな字で『キャストアウェイ』を書いていた。プレデターに狙われないように、教会で食事をする時と紙を拾いに行く時以外はテントから出なかった。彼は毎日書き続けた。氷雨がテントを叩き、外がどれほど寒くても、エリックには“書く”という目的があった。”書かねばならない“という使命があった。“書きたい”という熱い思いがあった。それがエリック・ヨハンセンという男を人間として活かすエネルギーだった。

 

  11月の終わり、エリックはいつものようにパイオニアモニュメントの前に座り、コーヒーの空き缶を置いて、ダンボールの看板を首から下げ、ラジオを聞きながらシワだらけのピンク色の紙に『キャストアウェイ』の続きを書いていた。冷たい空気の中で手袋もせず、何時間も鉛筆を握り続けていたエリックの手は死人のように冷たくなっている。こごえた手に息を吹きかけていると、白髪で赤ら顔の大きな警官と、まだ20代後半ぐらいの小柄な警官がモニュメントの方に歩いてくる。エリックは彼らの顔を知っている。テンダーロインの歩道や教会のダイニングルームで何度も見かけたことがある。時々夕方になると、モニュメントがあるフルトンストリートまでパトロールに回ってくるが話しかけられたことは一度もなかった。エリックは、その日始めて、いつも見かけるこの二人の警官がテンダーロイン署のケリー巡査とオニール巡査であることを知り、自分の名前も覚えてもらった。ふたりがエリックの前で立ち止まったときは、こんなところでラジオを流し、座り込んで物乞いをしていることを咎められると思った。しかし、ふたりの警官の顔は穏やかで、エリックが下書き用に書き込んだピンク色の紙をじっと見ている。最初に言葉をかけたのはオニールだった。
「何を書いてるのかな。ダイニングルームでも一生懸命何か書いてたよね。すごくびっしり書き込んでるけど」
エリックは恐る恐る顔をあげた。全身ブラックのユニフォーム。腰のベルトにつけたホルダーから拳銃のグリップが見える。顔立ちがジェームズ・ディーンに似ているオニールの顔には笑みが浮かんでいるが、エリックは笑顔を返すことができなかった。
「あんたのことは前から気になってたんだ。何を書いてるんだろうって、いつもオニールと話してたんだよ。あんたいつも綺麗な顔してるからな。よく目立つんだ。こいつの方がよっぽど怪しい浮浪者だな。見てみろ、この無精髭」
 大きな警官は無邪気な笑みを浮かべ、オニールの顎ヒゲを軽く引っ張った。ジョークを交えた人懐っこいアイルランドなまりで話すケリーに親近感を覚えたエリックは、自分の経験談を書いていることを二人に話した。それから20分ほど話をした。ケリーとオニールは、まるで昔からの友人のように気さくに話してくれる。短い時間だったが、エリックはテンダーロインに来て始めて声をだして笑った。そして何よりも嬉しかったことは、エリックが書いている『キャストアウェイ』を気に入ってくれたことである。
「この話は面白いな。完成したら本にしたらどうだ」
 ケリーは、エリックが渡した書きかけの原稿を読みながら言った。
「そのつもりです。出来上がったら出版社にもっていって・・・・・・」
 そこまで言いかけて、急にエリックは口を抑えた。咳が出そうになったのである。
「どうした?」 
 ケリーが尋ねた。
「あ、大丈夫、なんでもないです。くしゃみが出そうになって」
「寒いからな。あんまり無理しちゃダメだぞ」
ケリーが言うとエリックは下をむいて口を押さえたまま頷いた。
「あんたの書いてる話、楽しみにしてるからな。また読ませてもらうよ。じゃ、寒いから風邪ひくんじゃないぞ」
 そう言って、ケリーとオニールはパトロールに戻っていった。

 

 

   翌日も夕方の4時ごろ、ケリーとオニールはパトロールの途中でパイオニアモニュメントに立ち寄ってくれた。短い時間だったが、エリックはたくさん話した。自分の境遇、テンダーロインに来た理由(わけ)。給付金で暮らしていること。SROホテルに泊まれない時はエディーストリートの路地を住処にしていること。自分はこんなにもおしゃべりだったのかと驚くほど沢山喋った。しかしひとつだけ彼らに話さなかったことがある。毎日、冷たい風と霧の中にいたエリックは、数日前から微熱が続いていた。最初は風邪を引いたと思った。寝ていればその内に良くなるだろうと思ったが、熱は下がらず咳がひどくなってきた。風邪をこじらせたと思ったエリックは無料のクリニックへ行った。診察の結果、エリックの病気は風邪ではなかった。それは死ぬまで病状が改善されない恐ろしい病気。ホームレスの間では“テンダーロインの黒死病”と言われている結核であった。そのことをケリーとオニールに知られたくなかったのである。嘘をつくつもりはなかったが、そんな病気だと知ったら、彼らはもう二度と話しかけてくれないかもしれない。エリックは、ケリーとオニールに会うと元気を装い、咳をこらえて話をした。

  クリニックの医者とスタッフはエリックにこう言った。
「この病気は非常に再発性の高い病気ですが再発を抑えることは出来ます。感染ルートは、おそらく、どこかで同じ病気の人に接近したんでしょう。SROホテルの客か、あるいは食料の配給所か、あなたが食べたものに菌がついていた可能性もあります。この病気は流行性の感冒ではないですが、大都会の不衛生な街ではよくある病気です。でも、今は結核はきちんと治療すれば治りますから心配しなくても大丈夫です。州の病院で入院の手続きをとりましょう。しばらく入院してもらうことになりますが、三ヶ月ぐらいで良くなりますよ」
 

――自分は破滅の道に進むことが運命付けられているのだろうか。
エリックは自分の病名を聞いたとき、仕事も家族も家も財産もすべて失った時よりももっと深い失望を感じた。しかし、現代では、医者が言うように結核は不治の病ではない。入院して治療すれば必ず良くなる。エリックは悲観的な考えを打ち消し、医者の言葉を信じた。
 貧困に加えて結核という重荷を背負ってしまっても、希望を捨てなかった。入院している間に『キャストアウェイ』を完成させよう。何度も推敲して納得のいくまで書き直し、退院したときには自信をもって出版社に持っていこう。そしてもう一度人生をやり直そう。

 

12月の始め、エリックはエディーストリートを歩いているとき、ケリーとオニールに呼び止められた。
「エリック!  いいとこで会った。あんたのことを探してたんだ。ほらこれ」
ケリーは紙袋を差し出した。
「なんですか?」
 エリックが訊いた。
「少し早いけど、クリスマスプレゼント。遠慮しないで受け取ってください」
 オニールが明るい声で言った。エリックがためらっていると、
「私たちからのプレゼントだよ。たぶん、気に入ると思う。ほら」
 と、ケリーに促され、エリックはずっしりと重たい袋を受け取った。中に入っていたものは、A4サイズの500枚入りのコピー用紙とスパイラルノートが5冊。鉛筆が一ダース。小さな鉛筆削りと消しゴムも入っていた。
エリックは何度もお礼を言った。
「こんなに素晴らしいものをもらっても、私には何もお返しができない」
 エリックがすまなさそうな表情で言うと、ケリーはにっこり笑った。
キャストアウェイを早く書いて欲しいな。本が出来上がるのを待ってる読者がここに二人いるからな。とにかく早く完成させてくれ。お返しはそれでいいよ」

 2週間がまたたく間に過ぎていった。その間、エリックは何かに取り付かれたように書き続けた。SROホテルでは、ほとんど一日中部屋にこもって執筆に没頭した。路上生活をしなければならない時は、太陽が傾くまで市役所のそばにある公園に座り、雨の日は駅の待合室で、パイオニアモニュメントでは、いつものようにダンボールの看板を下げ、コーヒーの空き缶を置いてラジオを聴きながら、オニールとケリーからもらったコピー用紙に文章を綴っていた。彼の内部で、『早く書け、早く完成させろ』と何かが命じている。病院に入院する前に下書きを完成し、書き上がったものを全て綺麗なノートに書き写しておきたいという強い衝動があった。彼には果たさなければならない使命がある。どれほど惨めな境遇に身を置こうと、エリックは人間であり続けた。

 

  12月最後の金曜日、ワインで有名なナパの近くにあるソノマ州立病院に入院することが決まった。その5日前の月曜日、エリックの給付金はほとんど底をついていたが、もうパイオニアモニュメントで物乞いをすることはやめようと思った。サンフランシスコを去る日まであとわずかである。テント暮らしももうすぐ終わる。来月からは安全な病室で、『キャストアウェイ』を読み直し、ゆっくり時間をかけて推敲ができる。親切にしてくれたケリーとオニールに何も言わずにテンダーロインを去ることになるが、退院したら完成した原稿を持って、もう一度ここに戻ってこよう。『キャストアウェイ』は彼らにまっ先に読んでもらいたい。将来のことを考えていると、物事は徐々に上に向いて進んでいるような気がした。

 

 


 その日の午後、『キャストアウェイ』の最後のパラグラフを下書き用の用紙に書き終えたエリックは、ラストのチャプターをもう一度読み直した。
――ノートに清書するのは明日にしよう。
 エリックは原稿をバックパックにしまい、夕食をもらうために、グライドメモリアルチャーチに行った。ウィリアム牧師の言葉に甘えて、体が温まるまでキッチンの中で過ごし、ケリーが渡したお金で買ってきてくれた風邪薬を貰い、エディーストリートの路地に戻ってテントを張り眠りについた。

 

続く