雑記帳

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エンジェルダスト(19)

金曜日

 まるで神が私たちを祝福してくれたようなすばらしい朝。目の覚めるようなコバルトブルーの空。窓から見えるサンフランシスコ湾は緑を敷き詰めた草原のようだ。クルージングにはこれ以上すばらしい日はないだろう。

 9時30分、私はハイドストリートとビーチストリートの交差点でマコトを待っていた。待ち合わせの場所は何度も繰り返し説明したので、若干不安は残るがたぶん大丈夫だろう。

 昨夜は10時ころまで彼女をクルージングに誘うかどうか悩んでいた。彼女が私を嫌っていないことはわかるがそれ以上の気持ちがあるのかどうか、さっぱりわからない。私は彼女に惹かれている。でもそれは、酷い事件に巻き込まれた被害者に対する同情かもしれない。彼女に接近すればチャンファミリーの情報がもっと引き出せるかもしれない。あるいはPCPに関する情報が何かわかるかもしれない、という打算が私の中にあるのかもしれない。私は本当に彼女自身が好きなんだろうか。ずっとそのことで自分と対話していた。しばらく考え、結論を出した。
 私はタチバナマコトという日本から来た不思議な女の子に興味がある。国籍の違いも言葉の壁も、そんなことは大きな問題ではない。彼女をもっと深く知りたいと思う。だから私は電話をかけて彼女をクルージングに誘った。

「クルージング 楽しそう。でも、ボート、氷山にぶつかったら わたし、泳げない?」
「サンフランシスコ湾に氷山はないよ。心配ならライフジャケットをもって行くよ、一緒に来るかい?」
「イエス

 

   ******

 ケーブルカーが急な坂道を下りてくる。その中に、ブルージーンズにライトブルーのスウェットシャツをきたマコトの姿が見えた。
ケーブルカーの中から手を振っている。彼女はケーブルカーが止まると、ぴょんと飛び降り、にっこり笑って「ハイ!」と挨拶した。

「ヘイ! ブゥラァイアン! ケーブルカー おもしろい! また乗る?」
 彼女は大きな目でもっと乗りたいと訴えている。
「OK、OK。ケーブルカーはまた今度ね。今日は友達が待ってるからね」
 駄々をこねる小さな子供の父親になったような気分だ。相変わらず彼女は前を見て歩かない。でも今日は上ではなく下を見て、私のことなど忘れてしまったかのように一人でどんどん坂をスキップしながら下りて行ってしまう。どこへ行くのかわかっているんだろうか。案の定、ジェファーソンストリートを右に曲がらなければいけないのに、彼女はまっすぐ行ってしまった。私が追いかけて彼女を連れ戻したが、ジェファーソンストリートでも一人で飛び跳ねて先に行ってしまう。時々、歩道沿いに並んでいるレストランや小さな宝石店、ボート用品店の前で立ち止まってウインドウを覗き込んでいる。やっと彼女に追いついて腕を掴もうとすると、合気道の経験でもあるのではないかと思うくらい見事に私の手をかわして逃げていってしまう。この子を捕まえるのはストリートの浮浪者を捕まえるよりも大変だ。
 彼女は一人でどんどん先に行ってしまい、フィッシャーマンズワーフの有名なシーフードレストラン<pompeii's grotto="">の中へ入っていってしまったので、私は急いで追いかけて彼女のジーンズのベルトを掴んで店の外まで引っ張ってきた。それを見ていた中年の女性の観光客が私のそばに来てこう言った。
「あの、警察を呼びましょうか?」
 私は左手でマコトのジーンズのベルトを掴み、右手でポケットから警察のバッジケースとIDカードをだして、その中年の女性に示した。
「私は警官です。この子、ちょっと脳の病気を患っていて、今日は一日だけ、外出の許可をとったんですよ。それで、彼女の家族から今日一日、彼女の監視役を頼まれたんです。ご迷惑かけて申し訳ないです」
 その中年の女性はチラッとマコトの顔を見て、「そうでしたか、ご苦労様です」といって、行ってしまった。マコトは私たちが何をしゃべっていたのか全くわからなかったようだ。まだ私の手を振りほどこうと腰をひねっている。

「ヘイヘイ、ユーアーブラット! カームダウン!(落ち着け)」
「ブラット って何?」
 マコトが訊いた。
「ブラットは。ちょっと待って」
 私はポケットから辞書を出して、右手だけでページを開き”ブラット”の意味を調べた。
「ブラットは、日本語でヤンチャボウズ、ガキ。君はガキ」
「ノー! 私 ガキ ちがう!」
「君は、ガキ、だ」
 マコトは腰をひねるのをやめて大きな目で私をにらみつけた。
「わたし、帰る!」といって、引き返そうとするので、私はもっと強く彼女のジーンズのベルトを引っ張った。
「ほらほら、あそこ、みて!  友だちが手を振ってる。あのボート、のるんだよ、あそこみて」
 彼女は私が指差すほうに振り返った。
「ワァー すごい!」

 前方の埠頭に係留中の全長10メートルくらいの真っ白なキャビンクルーザーのデッキからジョンが手を振っている。ギャラガー警部とケイコさんの姿も見える。

 私はマコトの手を掴んでクルーザーまで連れて行くと、ジョンがマコトの手をとってデッキに乗せてくれた。私たちはデッキでお互い簡単な自己紹介をし、マコトはジョンにアントニオの路地で助けてくれたことの礼を言った。ジョンは「無事でよかったね」と笑顔で答え、私の方に顔を向けてウインクした。

「よし!  全員そろったな、じゃ行くぞ。オニール、ロープをはずしてくれ」
 ジョンに言われて、私はもう一度桟橋に降り、クルーザーをつないであるロープをはずしてすぐにデッキに飛び乗った。私たちを乗せた真っ白なクルーザーは桟橋を離れ、ゆっくりゆっくり、大海原めざして進んでいった。

 ジョンのクルーザーは私が想像していたものとは全く違っていた。太陽の光を受けてキラキラ輝く真っ白な船体。チーク材のデッキ、鈍い光を放つクロムメッキの大きな舵輪とスッロットルレバー。上部には操縦席もついた2〜3人がゆったりくつろげるフライングブリッジ(最上船橋)。キャビンの内装はシックなダークブラウン。寝台がわりにもなる柔らかなクッション入りの長いす。食事のできる長いテーブル。小さな流し台と冷蔵庫。シャワーとトイレもついている。まるで洋上のビップルームにいるようだ。

「ジョン!  このクルーザーすごいですね。普通のヨットだとばかり思ってました」
「正直言うとな、オニール、パパスにアバラを折られてから、そろそろ私も潮時かなと思ったんだ。いつまでも警官を続けるわけにもいかないだろ。引退したらこの船で魚釣りでもして海のジェントルマンの暮らしも悪くないだろ。だからこの船を買ったんだ。魚群探知機とレーダーもついてるぞ」
「あら、素敵じゃない」ケイコさんが言った。
「そうだな。引退したら海で暮らすか。私は魚釣りよりクラシックを一日中聴いてるよ」
 警部の腕はまだプラスターがはめられているが顔の傷はベースボールキャップとサングラスで隠れているのでそれほどわからない。
 風も波も、みんなの顔もとても穏やかだ。




Pompeii's Grottoのホームページ
http://www.pompeisgrottosf.com/



 マコトとケイコさんはすぐに意気投合して二人で日本語でお喋りしている。何を話しているのか、デッキの男たちにはさっぱりわからなかった。
 ケイコさんが冷蔵庫からビールを出してきてくれた。警部とジョン、私にはギネス、ケイコさんとマコトはキリンビール。警部は片手だけで器用に栓を開け、一気に半分くらい飲んでしまった。さわやかな潮風の中で飲む冷えたビールは最高だ。ケイコさんが私の隣にきて、内緒話でもするようにささやいた。
「ブライアン。かわいい子ね。あなたたちお似合いのカップルよ」
「あの、いや、別にそんな・・・・・・彼女は知り合ったばかりで。まだ友だちだから・・・・・・」
 私がしどろもどろに喋っていたら、ケイコさんがアハハと笑って、私の背中をバンと叩いた。ジョンも警部も笑っている。マコトは何を話していたのかわからないようだったが みんなの輪に入って楽しそうに笑っていた。

 クルーザーは30ノットで穏やかな海を進んでいく。空はどこまでも高く抜けるようなライトブルー。海は限りなく広がる穏やかなダークブルー。地平線に見え隠れする客船のシルエット。はるか沖合いの水面は太陽の光でキラキラ輝いている。
 かつては脱獄不可能といわれたアルカトラズ刑務所のある監獄島を右手に眺め、朽ち果てたバラックの並ぶサンフランシスコの西の玄関、エンジェルアイランドの東側を過ぎ、ブルーのグランデ―ションの中を真っ白いクルーザーが進んでいく。
 マコトとケイコさんはフライングブリッジから海を眺めていた。この空と海が織り成すすばらしい芸術作品がマコトの心を完全に捉えたようだ。

「彼女にはいい友だちが見つかったようだな。サンフランシスコで日本語のわかる友人を見つけるのは難しいだろう」
 警部が私に言った。
「はい、でも彼女、ちょっと・・・・・・いや、だいぶ変わってる子で」
 というと、「それじゃ、お前にぴったりだ。好きなんだろ。そうじゃなかったら連れてこないよなぁ、正直に言えよ」とジョンが笑いながら言った。ジョンの声が大きいので、そのうちマコトに聞こえてしまうのではないかと思い、何でもいいから話を切り替えようとして、ぱっと浮かんだのが赤いマスタングのことだった。
「そういえば、先日ポーツマススクエアでマコトにあったときに、メイリン・チャンがあの赤いマスタングを運転してマコトを迎えに来たんですよ」
メイリン・チャンは あの路地にいた中国人の子だろ? 彼女の車だったのか?」 
 ジョンが訊いた。
「マコトがいうには、あの車は父親のものだけど兄がよく使うといってました」
 それから私は、昨日、マコトから聞いたチャンファミリーのことをジョンと警部に伝えた。警部はずっと顎ひげをこすりながら聞いていた。
「なかなか興味深い話だ。メイリンの父親のビジネスはインポートビジネスか。あのマスタングの所有者は広東インポートだったな」
「はい。マコトは会社の名前は言いませんでしたが、メイリンの父親の会社が広東インポートだと思います」
「前にボーイからもらった車の情報から調べたんだが、車の登録住所は広東インポートの住所ではなくワシントンストリートになってた。ワシントンストリートにも事務所が一軒あって、ベイブリッジの南側の埠頭に倉庫を持ってる。広東インポートに関しては届出もしてあるし、法に触れるようなことは何もない。中国と香港と取引しているようだ。マコトは、メイリンの兄があの車をよく使うと言ったんだな」
「はい、たぶん父親の仕事でドライバーでもしてるんじゃないかと思ったんですが。メイリンがあまり家族の話はしたがらないみたいなんで、よくわからないんですが。何か、家族内で揉め事があるみたいですね。私の考えですが、兄のロン・チャンがお金をたくさんもってるというのは、ひょっとして父親のビジネス以外で儲けた金なんじゃないかと思うんですが」
「それじゃ、わたしたちがあの晩みかけたマスタングの運転手、顔を隠して走り去ったやつがメイリンのアニキか? 話してた相手はタイリー・スコットだったしなぁ。やっぱりあそこでヤクの取引でもしてたんだろうか」 
 ジョンが言った。
「ロンの顔がわからないので、はっきりしたことはわかりませんが、マコトが言ってたロン・チャンはギャングかもしれないってのが気になりますね」
 私が言うと、警部は口を少し尖らせ、さらに強く顎ひげをこすりながら「ウーン」と唸ってうなずいた。
「とにかく、私が又、仕事に復帰したらもう少し情報を集めてみるよ。あ、それと、PCPの件だが、アントニオでマコトとメイリンを襲ったジェームズ・ベラスコと、テンダーロイン署で暴れてくれたオマー・スコットの遺体からもPCPが出たぞ。サンフランシスコの過去3ヶ月の記録を調べたら、PCPの犠牲者は28人になってる。これからもっと増えるかもしれない。おまえたちもこれから忙しくなるぞ」
 警部が私とジョンの顔を交互に見て言った。
「忙しくなってくれたらいいんだけどな。あのクソどものおかげで謹慎処分がどうなるかもわからんし――」
 ジョンがそう言ったとき、フライングブリッジからマコトが大きな声で私を呼んだ。
「ブゥラァイアン!  みて!  ジョナサン!」
「ジョナサン?  なに?」
 私が訊きかえすと、ケイコさんがマコトのかわりに答えてくれた。
「カモメのことよ。マコトちゃんねぇ、SEAGULLがうまく発音できないの。カモメのジョナサン、知ってるでしょ。ジョナサンはカモメのこと。ほら、あそこ。ジョナサンがたくさん飛んでるわよ」
 ケイコさんとマコトが指さすほうを見ると、真っ青な空にたくさんのカモメが飛んでいた。
「オニール、おまえはこれから忙しくなるぞ、彼女に英語、教えてやらないといけないしな。英語の先生、大変な仕事だ。がんばれよ!」
 ジョンの言葉が上にいるケイコさんにも聞こえたようで、大きくうなずいて笑っている。私は返事に困ってしまったので、笑いでごまかしてジョナサンの群れを眺めていた。



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※カモメのジョナサン:1972年ごろアメリカで大ヒットしたリチャード・バックの小説
原題は「Jonathan Livingston Seagull」


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 サウサリートはサンフランシスコの北に位置するマリンカウンティーにある緑豊かな丘陵地帯と海に挟まれたリゾート地である。はじめは小さな漁村だったが、いまではしゃれたレストランやアートギャラリー、専門店が並び、多くの観光客でにぎわっている。
 私たちはクルーザーを降りて、サウサリートの町でしばらく時間をつぶすことにした。ケイコさんとマコトはまるで仲のいい姉妹のように手をつないで私たちの5メートルほど先を歩いている。

 セーターしか売っていない大きな店に入って店内を見て周り、ケイコさんはホワイトのセーターを一枚買った。一番はしゃいでいたのがジョンで、気に入った色のセーターを見つけると鏡の前に行って体に合わせ、「おい、どっちが似合う?」と私に聞く。店にいる間、ずっとジョンのファッションアドバイザーをしていた。
 どの店に立ち寄るかはすべて女性任せ。男たちはただおとなしく従うだけである。

 ブリッジウェイ(サウサリートのメインストリート)にという極端に小さい看板を掲げたバー&レストランがある。注意してみないと、通り過ぎてしまうくらい小さな看板である。ここは昼は軽食の店、夜はバーに変わり、地元のミュージシャンによるジャズやカントリーミュージックの生演奏が聞ける。私たちはここでランチタイムをとることにした。
 店内はウィッカーチェアーとテーブルがたくさんおいてあり、ダークマホガニーの柱で区切られている。店内の奥はパティオ(中庭)になっていて、そこでも食事ができるようにベンチとテーブルが並べてあった。私たちはパティオに席を取り、この店自慢のチーズバーガーと分厚くカットしたフライドポテト、男性陣はギネス、女性陣はサンフランシスコの有名なビール「アンカースティーム」をオーダーした。マコトは大きな目で店内をきょろきょろ見回している。見るもの聞くもの食べるもの、彼女の周りに存在するあらゆるものに興味があるようだ。

 ランチのあとは海を眺めながら海岸通りをのんびり散歩した。コンクリートでできた歩道のすぐ左側は海である。歩道の左下には直径30センチほどの石がいくつも積み上げてあり、それが波よけのテトラポッドの役割を果たしている。
 1940年ごろからオープンしているレストランの近くまで来たとき、岩に座って釣り糸をひっぱっている中国人の老人の姿が目に入った。
 何か魚がかかったようだ。マコトは立ち止まってじっと老人をいている。海面から魚の姿が見えたとき、マコトが大きな声で叫んだ。
「見て!  みて! シャーク!  シャーク!」
 老人が釣り上げた魚は70センチほどのタイガーシャークだった。サンフランシスコ湾には時折、ホオジロザメも姿を見せることもあり、鮫はそれほど珍しくもないが、日本から来たマコトには、姿は小さくても、本物の鮫をまじかで見るのは初めての経験だったようだ。どうしても鮫に触りたいというので、その老人にお願いして触らせてもらった。
「すごい! サンドペーパーみたい。すごい!」
 マコトはこんなことを何度も言いながら、目をまん丸にして鮫肌の感触を楽しんでいた。それからクルーザーに戻り、フィッシャーマンズワーフに向かった。クルーザーの前方にゴールデンゲートブリッジが見えてきた。この橋のふもとには南北戦争時代に建設されたレンガ造りの要塞、フォートポイントがある。今は国立公園になっているが戦時中は米第6軍(南方陸軍)の本部があった「プレシディオ・オブ・サンフランシスコ」をデッキから眺め、古代ギリシャの建造物をイメージさせるパレスオブファインアーツを過ぎ、まるでクルーザーごと過去へタイムスリップしたのではないかと錯覚するほど、私たちの眼前には時を越えて存在する建物が次々と現れてくる。クルーザーに乗っている間中、マコトはあちこち指差して「あれは何?」「これは何?」と私に質問した。

 私たちの乗ったクルーザーがフィッシャーマンズワーフの埠頭についたころには、太陽は半分ほど地平線にかくれていた。私とマコトはジョンのワーゲンでアパートまで送ってもらい、夜の9時頃、アパートに戻った。

 すばらしい天気。見事な風景。久しぶりに味わった開放感。そして私のそばにマコトがいた。

 留守番電話にメッセージが一件あったのでチェックした。それは署長室の秘書からのメッセージだった。

「月曜日、朝11時、制服、制帽を着用して署長室に来てください」


エンジェルダスト(18)

 水曜日、朝。

 今日も仕事に行けない。仲間にも会えない。謹慎処分――裁判もなしに私とケリーに下された判決。最悪の場合、もう二度と警官の仕事に戻れないかもしれない。署長は心配するなと言ってくれたが、たぶん私を励ますつもりでそう言っただけだろう。スコット署長の権限すら及ばない市警内部にできたゲシュタポ。彼らに歯向かったら、署長といえども裏から手を回されて辞職に追い込まれる。

 腹が立つ! 無性に腹が立つ!
 こんなときこそ、太極拳でもして気分を落ち着けたほうがいい。

 午前8時、ワシントンスクエアでは若い女性から60代の男性まで、さまざまな年代の中国人が20名ほど、マスターチャンの動きを真似て太極拳の稽古をしていた。
「はい、リュートをひきますよ。後ろに下がって、猿を追い払いましょう。はい、クラウドハンド、一歩下がって虎になりますよ」
 マスターチャンの掛け声にあわせ、「猿拳」と「虎拳」の動きを稽古している。
 私は、朝の冷たい空気を吸い込んでゆっくり吐きだした。それを数回繰り返してから稽古に加わった。全員が同じ動きをするロボットになったように、同じ技を何度も繰り返す。いつもなら、10分も稽古すれば気持ちがスーッと楽になってくるのに、今朝は全く気が入らない。しばらく稽古からぬけて、一番後ろでみんなの動きを見学していた。結局最後まで稽古には加わらなかった。 
 稽古が終わると、マスターと目があった。私のほうに歩いてくる。 
「あなたの心は今日はどこにいますか、ブライアン?」
 小柄なマスターチャンは、首を上げて私の目をみた。心の奥底を覗き込むようなダークブラウンの瞳。マスターに嘘はつけない。
「マスター。今朝は心がどこかよそにいます。たぶん、日曜日の晩。テンダーロイン署で酷いことがあったから・・・・・・」
「ああ、はいはい」
 マスターチャンは2回、頷いた。
「その事件ならニュースで聞きました。ブライアンの友だちは誰か怪我をしましたか?」
「はい。四人。大怪我をして病院に担ぎ込まれました。二人は家に帰れたようですが、まだ二人、フラナガン巡査部長とラム巡査が病院にいます」
 私がそういうと、マスターチャンは「ラム、ラム・・・・・・」と真っ白な顎ひげを引っ張りながらつぶやいている。
「ラム・・・・・・ひょっとしてジェリー・ラム?」
「ハイハイ、ジェリー・ラム。友だちです」
「アア、そうでしたか。ジェリーは前にチャイナタウンのレクリエーションセンターでカンフー教えましたね。彼の家族のことはよく知ってますよ。彼の両親、知ってますね。ジェリーの奥さんはおなかが大きかったですが、赤ちゃん、生まれましたか?」
「はい、日曜日の夜、ラムが大怪我して病院に運ばれて。それでラムの奥さん、救急病院で待ってるとき陣痛が始まって、女の子が生まれました。あの晩ハッピーなことはそれだけです」
 私が言うと、マスターは目を細めて数回頷いた。
「奥さんと赤ちゃん、元気ですか?」
 マスターが訊いた。
「はい。奥さんも赤ちゃんも元気ですよ。ギャラガー警部の奥さんが出産のとき、ずっとついてたんですよ」
ギャラガー?」
 マスターは少し驚いたような表情で私を見た。
「今、ギャラガー警部といいましたか?」
「はい、殺人課のギャラガー警部です。警部も大けがして病院に運ばれたんですよ」
「そうでしたか。その警部さん、知ってますよ。髪の毛と髭が真っ白で背の高い警部さんね。リトル大阪で合気道してますね。奥さんにもあったことありますよ。それで警部さんの怪我は酷いですか?」
「いいえ。もう退院したから怪我は大丈夫だと思います。だけど、マスターがギャラガー警部と奥さんのこと知ってたなんて驚きました」 
 マスターは私を見て微笑んだ。
「はい、もっと知ってますね。アントニオストリートでブライアンが助けた女の子。メイリン・チャンと彼女の友だちの日本人の女の子」
 あの事件は新聞とテレビで報道されたので、たくさんの人が知っているだろう。でもマスターはニュースでは流れなかったことを知っているのかもしれない。タチバナマコトのことはどれくらい知っているんだろう。私はマスターに尋ねた。
「マスターはあの日本人の女の子のことも知ってるんですか?」
「はい、でも、知ったのは最近です。彼女は時々公園で竹刀、振ってますよ。天気の良い日は、お昼に行くとメイリンとご飯たべてますね」
「シナイ?   日本の剣道で使うシナイですか?」
「そうです。少しだけ彼女と話をしたことあります。彼女、日本で長い間、剣道を稽古してたと言ってましたよ、チャイナタウンには道場がないから素振りだけは続けているといってました」
 剣道ときいて、何故彼女が男の子みたいに見えたのか、少し納得した。
「すごいですね、マスターの知らない人っているんですか?」
「チャイナタウンのことなら、たくさん知ってますよ。知らない人は少ないですね。今日は、ラムの家に見舞いに行きますよ。ご両親、とても心配してるはずです。それから、ブライアン。最近、たくさんつらいことありましたね。でも、心の中で、最初に友だちのこと考えましたね。それはいいことですよ。たぶん、ブライアンの心はあと数日で太陽でますよ。でも、それまでの間、つらくても暴力や投げやりになることは良くないことね。いいですね、深呼吸して新鮮な空気を楽しみなさい」
 マスターチャンは穏やかなダークブラウンの瞳で私の顔を見て、にっこり笑った。
 マスターチャンと話していると、何か大きくて柔らかいものに包まれているような気がして、気分が楽になってきた。タチバナマコトの話が出たことも理由のひとつかもしれない。このまま家に帰ってもすることがないので、途中でサンフランシスコクロニクルの朝刊を買って、ユニオンストリート沿いにあるカフェに立ち寄った。トーストとコーヒー、ベーコン入りのフライドエッグとフライドポテトを注文し、料理が運ばれてくるまで新聞を読んでいた。第一面にはいつも暗いニュースしかないから、最初に読むのは漫画のコーナー。それから一面の記事に戻ったが、ちょっと目を通した途端にまた不愉快な気分に逆戻りした。テンダーロイン署の事件があってから、もう3日が過ぎているというのに、まだトップニュースになっている。今日の記事にはさらに不愉快なことが書いてあった。ブラックコミュニティーのリーダーがかなり激怒しているという内容である。

【――オマー・スコットは白人の警官によって不法逮捕され射殺された。早急に調査団によって事実関係を調査すると同時に、事件に関わった4名の警官を告訴する。オマー・スコットは家族思いで、妻と子供を心から愛しているすばらしい父親だった。彼は、我々コミュニティーの傑出した人物であり、信望も厚く・・・・・・】

 読んでいて気分が悪くなってきた。調査団の名前とメンバーの名前が出ていたが、全く聞いたこともないような団体である。
 オマー・スコットには暴行罪と麻薬の不法所持の重犯の前科がある。二人の女に子供を生ませているが、どちらの子も私生児で、一緒に暮らしたことも、金銭的な援助もしたことがない。そんなことはどこにも書いていない。こうして事実を捻じまげた情報が黒人のコミュニティーの中に広がっていき、彼らは白人を敵だと思うようになるのだ。他の記事もチェックしたが、オマー・スコットから暴行を受けて病院に運ばれた警官たちの記事はどこにもなかった。
 トーストを半分とコーヒーだけ飲んですぐに店を出た。

 腹が立つ。調査委員会にも腹が立つ。新聞記事にも腹が立つ。なんでもいいからぶん殴ってやりたい。殴ったらすっきりするような気がする。でも・・・・・・
 心のどこかでもう一人の自分が叫んでいる。
 だめだ、だめだ、だめだ!
 弱虫! 弱虫! 殴るしか脳のない弱虫め! そんなやつは家から出て行け!
 心の声は義理の父だった。私は弱虫じゃない!
 歩こう。とにかく歩こう。へとへとになるまで歩けば何も考えられなくなるだろう。
 私は行く当てもなく、ただひたすら歩いた。どこをどう歩いたのか、どこを曲がったのか全く覚えがない。歩いて歩いてハイドストリートのギャラガー警部の自宅の近くまで来てしまった。警部は今頃どうしているだろう。ここまで来たついでに、警部の家に立ち寄ってみることにした。頑丈な木の扉の横についているブザーをおすと、ケイコさんの声がした。インターホンに顔を近づけて自分の名前を言うと、驚いたような甲高い声が戻ってきた。
「えー! ブライアン?   早い! どうして? あなた、どうやって来たの?  あなた飛べるの?」
 何のことを言っているのかわからなかったが、「あの、歩いてきました」と返事をした。
「私、今あなたに電話したのよ、あなた出なかったからメッセージ入れておいたの。とにかく入って。今、鍵あけるから」
 すぐに電子錠が開く音がした。庭では3匹の猫が鬼ごっこをしている。黄金色の猫は私の顔を見るとさっと逃げてしまったが、黒白の小さい猫はまん丸の目で私をじっと見ていた。玄関の扉を開けると、ケイコさんが待っていた。彼女の顔はいつもどおりの明るく柔らかな表情に戻っている。
「あなた、時速100キロくらいで歩けるの? だって私が電話を切ったらすぐ来たんだから」
「電話してくれたんですか。アパートに帰ってないから電話のメッセージ聞いてないんです。仕事にも行けないし、今日もすることないから、ふらふら散歩してたらここまで来ちゃって」
「ああ、そうなの。あんまり早すぎるからびっくりしたわ。あのね、キースがあなたに電話しろっていったの。何か話があるみたい。今、書斎にいるわ。あとでコーヒーもっていくから先に行ってて」
 ケイコさんがスリッパをそろえてくれたので、私はそれを履いて、そのまま警部のいる書斎に直行した。

 書斎のドアをノックして中に入った。部屋の窓にはカーテンが引かれているので外の光がはいってこない。灯りはマホガニーの大きなデスクの上にあるスタンドと、柔らかなブラウンの光を放っている間接照明だけである。警部は黒ぶちのめがねをはめて、部屋の奥にあるデスクの前で左手で何かを書いていた。警部の額には包帯が巻かれていて、右腕は骨折用のプラスターの添え木がはめられ三角巾で首から腕をつるしていた。
「怪我の具合はどうですか?」
 私が声をかけると、警部はデスクから顔を上げてめがねを鼻の先までずらし、上目使いに私を見た。
「ずいぶん早いじゃないか。ケイコに電話してくれって言ったのは今さっきだよ」
 少し驚いたような声で警部が言った。
「朝、太極拳にいったんですが、家に帰ってもしょうがないから、ふらふら歩いてたらここまできてしまって」
「歩いてきた? ここまで? そのスポーツバッグをぶらさげてか?」
「はい。それで、警部はどうしてるかなと思って・・・・・・あの、ほんとは太極拳のあと、おなかが減ったからカフェで朝食を食べてから帰るつもりだったんですが、クロニクルの朝刊読んだら食欲がなくなってしまって。今朝の記事、みました? 頭にきて、だから歩こうと思って、とにかく歩こうと――」
「なるほど、それで気がついたらここに来てたわけか」
「はい」
 警部の顔に少しだけ笑みが浮かんだ。スタンドの明かりで照らされた警部の顔には、まるで猫と大喧嘩して、あちこち引っかかれたような傷がたくさんある。全部ガラスで切った傷だ。
「まぁちょうどいい。おまえに渡したいものもあったし。今朝の記事ならもう読んだよ。頭にきたって言うのは黒人のコミュニティーの記事だろ」
「はい。それです」
「まったく、吐き気がしてくる記事だ。世間の連中はPCPよりも、オマー・スコットの身の上話のほうに関心があるらしいな。新聞を破り捨ててやろうかと思ったよ。薬物でどれだけの人間が死んでるかなんて、誰も気にしちゃいない。どれだけの人間が薬物でぼろぼろになってるのか、そんなこと考えたこともない連中ばかりだ。私達のことなど、どこにも書いてない。ただ、無実の黒人を殺した警官、それだけだ。そのほうが新聞がよく売れるんだろう。コミュニティーのリーダーの話を真にうけた連中はホントだと思うだろう。黒人社会で何が起こってるか、やつらは何も知らない。暴力、殺人、ドラッグ、そんな事実は市民は誰も知らん。黒人のコミュニティーの連中ですら、本当のことを知ってるやつなんかほとんどいない。新聞社も無知な人間を増やすのに一役買ってるようだな。もっとも、黒人相手に事実を知らせたところで、そんなことは絶対認めたがらないがね」
 警部は私に目を向けると、口を結んで鼻から大きく息を吐きだした。そこへケイコさんがコーヒーを運んできた。ヘーゼルナッツの甘い香り。私の好きなコーヒーだ。
「この前はありがとうね、病院に来てくれて。フラナガン巡査部長とラムはまだ帰れないみたいね。ラムは早く赤ちゃんの顔、早くみたいでしょうね」
 ケイコーさんは渋い色合いの和風のコーヒーカップとシュガーポットを私の前においてくれた。
「病院に運ばれたって聞いたときはホントにびっくりしましたよ。だけど。警部が早く退院できてよかったですね」
「うん、だけど、もうちょっと入院しててくれたほうが助かったんだけど。だって、この人うるさいのよ。体が動かないから、あーしろこーしろって、いちいち私を呼ぶの。口の達者な赤ん坊って困っちゃうわよ。ハイ、コーヒー。お砂糖いれまちゅか? ギャラガー警部?」
 笑みを浮かべおどけた口調で言いながら警部のコーヒーに砂糖を入れているケイコさんと、病院の待合室で涙をこらえていた彼女が全く別人のように思えてくる。
 警部はコーヒーを一口飲むと、引き出しから何かが入っているビニールの袋を二つ取りだしてデスクに並べた。
「これ、おまえのだろ。返すよ。これを渡したくて今日はおまえをよんだんだ」
 それは私のリボルバーとミリタリーサバイバルナイフだった。
「ところでボーイ、おまえのリボルバーのラウンド(弾)はいくつ入れてある?」
「6発ですが。それが何か?」
 私が訊くと、警部は少しだけ口を尖らせて軽く数回頷いた。
「おまえが撃ったのは一発だろ。弾道検査で残りの5発も持っていかれたぞ。何を調べたかったのかはわからんが、6発分のラウンドの代金、請求するべきだね、いつ払ってくれるかは神のみぞ知るだが。しっかり請求したほうがいいぞ。それから、このナイフ、現場に落ちてたんだが、誰のかわかるか?」
 警部はナイフの入っているビニール袋を私に渡した。
「あ、はい、これ、たぶん日本人の女性のナイフですよ。あの時、現場で落としたと言ってましたから。彼女に会ったときに、このナイフを見つけてほしいと言ってました」
「それなら、ここにナイフの受領書があるから、彼女に渡す時に書き込んでもらってくれ。えっと、彼女、なんていった、たしか、タバチネ・・・・・・」
タチバナマコトです」
「ああ、そうだ、タチバナマコト。この受領書に英語で書きこんで、なるべく早く私のところに持って来てもらえるか?」
「はい、わかりました」
 私が答えると、ケイコさんが私に顔を向け尋ねた。
「その人、日本人?」 
「はい、絵の勉強のためにここに来たって言ってました」
「そうなんだ。じゃ、アーティスト。すてきじゃない」
「彼女も、自分のことを少しアーティストって言ってましたよ。もう一人の被害者の女の子の家に住んでるらしくて、一緒の学校に通ってるそうです。公園で時々竹刀を振ってるとか、彼女、日本で剣道稽古してたそうですよ」
「あら、ブライアン。彼女のこと詳しいわね」
 ケイコさんがにっこり笑った。
「いや、詳しいわけじゃ・・・・・・あの、ナイフ渡して受領書、すぐ持ってきます」
 私はデスクの上の受領書をとってポケットにしまった。それから銃とナイフをスポーツバッグに入れた。ケイコさんは笑みを浮かべて私のすることを見ている。
「よしわかった。もっと話をしたいところだが、まもなく今世紀最大級の拍動性の痛みが私の頭を襲う予定だ。今から少し眠らなければいけない」
 警部はそう言うと、椅子からユックリと立ち上がった。ケイコさんはあきれたような顔で警部を見た。
「もう、あなたどうしていつも簡単な話を難しく長くするの。普通に酷い頭痛がするって言えばいいのに、ねぇブライアン」
 私は噴出してしまっってしばらく笑いが止まらなかった。それからすぐに警部はベッドに横になったので、私は二人に挨拶してギャラガー邸を去った。
 リボルバーが戻ったときはほっとした。タチバナマコトのナイフが戻ったときは、急に心の中に渦巻いていた黒雲がサーッと消えたような気がした。これで彼女に会う口実ができた。

 アパートに戻ったのはちょうど12時。もう学校へ行ってしまっただろうか。でも、まだ家にいるかもしれない。すぐにタチバナマコトに電話を入れた。
「モシモシ」
 今日は2回の呼び出し音で彼女の日本語が聞こえた。
「ハイ、モシモシ。ミスタチバナ?」
 私も同じように日本語で言った。
「誰ですか?」
「サンフランシスコ市警のブライアン・オニール巡査。この前、ポーツマススクエアで一緒にランチをたべた警官」
「ハイハイ、あなた、小さい警官、きょうは何ですか?」
「君のナイフ、ありました。僕が預かっています」
「わぁ、ありがとう。ありがとうございます」
 電話の向こうから彼女のうれしそうな声がした。
「あの、君、今から出てこれる? ナイフ、返しますよ」
「はい、私 きょう、学校 行かない日。だから 1時、ポーツマススクエア。1時 あなた 来る。わたし、行く そこ、OK」
「今日、学校 行かない日! そうか。良かった。ポーツマススクエア 1時 いいですよ。じゃ、あの、君、ランチは? おなか減ってますか?」
「はい、わたし いつも ビッグハングリー」
 彼女と話していると、どうしても笑いが出てくる。ビッグハングリーか。わかりやすい表現だ。幼稚園の子供と話しているような気になってくる。
「それじゃ、今度は僕が何か買いますよ。えっと、ピザは? ピザ 好きですか?」
「ピザ。はい、好きです。何の種類のピザですか?」
 ピザの種類まで考えてなかったので、とっさに浮かんだのは、「アンチョビーとマッシュルーム」
「アンチョビイ。何ですか?」
「小さい魚。それでいいですか?」
「ハイ、魚 食べます。1時、会います。じゃ、バイバイ」
 彼女は電話を切った。

 ポーツマススクエアに行く途中、ブックショップに立ち寄った。辞書があったほうがいいかもしれない。アパートを出るとき、ふとそう思った。私の知っている日本語は「モシモシ」「スシ」「スキヤキ」「トーフ」この程度だ。彼女の英語力では、込み入った話は全くできない。二人の間にある言葉の壁を取り払うのに、多少でも辞書が役に立つかもしれない。
 ブックショップでポケットサイズの辞書を購入したあと、小さなピザ屋でアンチョビとマッシュルームの入ったラージサイズのピザとコーラを2つ買い、大きなピザの箱にコーラを乗せ、彼女の待っている公園に向かった。
 今日は彼女のほうが先に来て、ベンチに座っていた。私の姿を見かけたら、彼女が笑って手を振った。笑えるようになったんだ。この前あったときと同じジーンズにメンズのジャケット、腕には大きな腕時計。まだ口元の傷は消えていないが、目の腫れは引いて、真っ黒な瞳のアーモンドのような目で私の顔をみて「ハロー」と挨拶した。
 彼女の隣に腰掛け、ピザの箱とコーラを置くと、「これ、アンチョビ?」と彼女が言った。箱を開けたとたんに、大きな目でピザを見て、「ワオ! YUM!(おいしそう)  食べていい?」
 挨拶よりも食べることのほうが先のようだ。
 私たちは、簡単な英語でたわいのない話をしながらピザを食べ、箱がすっかり空になったときには、ピザの半分以上は彼女の胃袋へ消えていた。彼女の身長はだいたいケイコさんと同じくらい。でもケイコさんよりもやせている。この細い体のどこに入っていくのかその食欲にはびっくりする。
 彼女の故郷は日本の大阪。年は私より1つ下で21歳。サンフランシスコに来てまだ半年。英語の勉強よりも絵の勉強がしたくて、英語力がさほど重要視されない学校に入ったと話してくれた。剣道は10歳からはじめ、女の子が誰もいない道場だったので、男の子の友だちのほうが多く、いつも男の子とばかり遊んでいた、と彼女が言った。その話が出たとき、少し抵抗があったが、気になっていたことを思い切って質問した。
「あの、変なこと聞くけど、怒らないで。君を傷つけるつもりはないんだ、ただ、知りたいだけで。僕は全然気にしないけど、あの、ひょっとして、君はレズビアン?」
 最初は英語がわからないというようなきょとんとした顔で私を見たが、すぐに、「今、わたしは レズビアン、あなたいいましたか?」と聞き返した。私が小さくうなずいた途端、彼女は人目もはばからず、大きな声で笑い出した。ベンチのそばにいた人たちが何事かと思って私たちの方を見るので恥ずかしくなってしまった。
「ノーノーノー、ノーレズビアン!」
「ノー?」
「イエスエス! 私はノーマル」

 それから彼女は身の潔白を証明する説明を片言英語で一生懸命話してくれた。言葉に詰まると、少し考え、私の持ってきた辞書を使って単語を調べ、発音できないと私に辞書を見せて単語を指さし、おそらく5分ですむ話が30分かかってしまった。彼女の証言によると、男物の服を着ているのは、彼女の肩幅が42センチもあって、女の子のサイズが合わないこと、彼女の肩幅にマッチするのはアメリカ人のメンズのMサイズ。男物の時計は、文字盤が大きくて見やすいこと、ただそれだけの理由だった。
 私が話をするときは、彼女は私の口の動きをじっと見ている。時々、私の言葉を鸚鵡返しするが、発音がおかしいと、そこで話が中断して発音のレッスンになる。彼女の前で、なるべくゆっくり唇の動き、舌の動きを示してあげると、まるで歯医者のように私の口の中を覗き込んでくる。女の子からこれだけまじまじと口の中を覗き込まれたのは初めてだ。「ワンスモア。ワンスモア」と彼女が何度も言うものだから、しまいには笑えてきて、私の英語もおかしくなってしまった。何度練習しても上手く発音できなかったのが、悲しいことに私の名前「ブライアン・オニール(Brian O'Niel)」。彼女が言うと母音が混ざって「ブゥラァイアン・オニイルゥ(Buraian/ Oni-iru)」になる。これは日本語と英語の越えられない壁かもしれないと思いギブアップした。
 彼女は「ミスタチバナ」ではなく「マコト」と呼んでくれといった。私を呼ぶときは「小さい警官」ではなく「ブゥラァイアン」になった。
「ああ、そうだ、忘れるとこだった。ナイフかえすよ」
 アパートを出るときにコートのポケットにナイフを入れて、彼女に会ったらすぐに返すつもりが、ピザを食べるときにコートを脱いで、それから話に夢中になってしまって、ナイフのことをすっかり忘れていた。
「ありがとう」
 マコトがにこっと笑ってナイフを受け取った。私は彼女にナイフの受領書とペンを渡し、必要箇所を書き込んでもらった。
「あの晩、あの男の顔を切ったよね。アメリカ人の女性はそんなことできないよ。マコトは勇敢だ」 
 私がそういうと彼女は首を横に振った。
「ノーノー わたし、勇敢 ちがう。メイリン 助けたかった。それから、このナイフ、セルフディフェンスのナイフではないです」
「護身用に持ってるんじゃないの?」
「竹刀 直します。これで、こうします。みて、わたしのうで、竹刀の悪い場所、こうします」
 彼女は左腕を前に伸ばして ナイフで削るような格好をした。
「アア、わかった。ナイフで竹刀を削るんだ」
 私の顔を見てにっこり笑い、「ハイハイ」と数回うなずいた。
「あの路地のこと、お母さんとお父さんに言ったの?」
「いいえ。わたし、言わなかったです。なぜならば、もし 私がはなしたら。お父さんとお母さん、サンフランシスコは悪い町。そう思います。だから、お父さん、日本に帰れ 、わたしに 言います。だから、お父さんと お母さんは知りません。でも、メイリンはお父さんとお母さんに怒られました」
メイリンは怒られた? 何故?」
「はい、メイリンのお父さんとお母さん、古い中国の家族です」
「古い中国の家族?」
 意味がわからなかったので辞書を渡すと、少しの間、辞書をめくって言葉を捜していた。
「ア、これ、トラデショナル。メイリンの家族、トラデショナルチャイニーズファミリー(伝統的な中国人の家族)。娘はロックンロール 行ってはだめ。家にいて勉強しなければいけない」
「そうか。それで、メイリンは元気? 怪我はよくなったの?」
「はい、彼女は元気です」

 それから40分ほど、ベンチに座ってお互いの趣味の話をした。剣道のこと、合気道のこと、太極拳のこと。そして彼女が一番好きなことは、美しいものを見ること。
「ノブヒルに行ったことある?」私が訊いた。
「いいえ。わたし、チャイナタウンと学校のそばしかしらない」
「よし、じゃ今から行こう。景色が最高だよ」
 彼女は大きな目をもっと大きくして、元気な声で「イエス」と答えた。彼女が私のことをどう思っているのかはわからない。でも少なくとも、嫌いではないはずだ。私が嫌いなら、誘いを断るだろう。

 私たちはマーケットストリートを一緒に歩いた。普通、男なら、好き嫌いに関わらず女の子の手を握るのはそれなりの勇気がいる。ましてや気になる女の子なら手をつなぐまでにはある程度時間が要る。しかし彼女の場合、そんなことは言ってられない。手をつないでいないと危なくてしょうがない。「手をつなぐ」というよりも「手を掴む」というほうがぴったりかもしれない。彼女は前を見て歩かない。まるで生まれて初めて高層ビルを見るように、「わぁ、すごい」「「わぁ、高いね」といいながら、上を見ながら歩くので通行人とぶつかりそうになる。階段から落ちそうになる。
 今まで付き合った女の子は手をつなぐと私の腕に寄り添ってきた。しかしマコトは違う。寄り添うのではなく、ぶつかってくる。私は左手で彼女の右手を掴んでいた。彼女は手を握られても嫌がるそぶりは見せなかった。その代り、自分の行きたいほうに行く。私が左に曲がろうとすると、彼女は右に行こうとする。そこでお互い体がぶつかってしまうのだ。ケーブルカーに乗せたときはもっと困った。急な坂を上っていくケーブルカーの座席では、手すりを持っていないと体がどんどん下の方にいざってしまう。それが面白くてしょうがないらしい。「おもしろい、おもしろい!」といいながら、わざと体を私の方にずらしてくるので、私は隣に座った中年の女性を押しつぶしてしまわないよう、必死で彼女の体を支えていた。
 彼女はいたずら好きの妖精。やんちゃ坊主。こんな女の子は初めてだ。

 カリフォルニアストリートとメイソンストリートの角でケーブルカーをおり、そこからテイラーストリートに向かって歩き、やっとのことでノブヒルの頂上にある公園まで彼女を連行してきた。今日は天気がいいので風が気持ちいい。ベンチに座った途端に質問攻めである。
「あの教会は何?」
「あれは聖グレース大聖堂。エピスコパリアン派の教会だよ」(※米国聖公会(Episcopalian Faith))
「イピスパーアン? イピイピス」 
 彼女は首を少しだけ傾け、発音の練習をしている。私は、彼女にわかるように口を大きく開けて「エピスコパリアン」とゆっくり発音した。
「それ、何?」
プロテスタントの教会。英国国教会(anglican)と同じだよ。聖グレース大聖堂はエピスコパリアン派のサンフランシスコの本部みたいな教会だよ」
「すごくきれい。それじゃ、あれは?」
 彼女は、公園の反対側にある茶色のギリシャ風の建物を指差した。
「あれはパシフィックユニオンクラブ、すごく古い建物だよ」
「クラブ? 何のクラブ? わたしも入れる?」
「それは無理だ。あそこは金持ちの老人のクラブ。ほら、あっち見てごらん」
 私はパシフィックユニオンクラブの右のほうを指差した。
「あそこはマークホプキンスホテル」
「ホテル! そこ、お金 高い ホテル?」
「高いよ。一番上には高級レストランがあるんだ。すごくきれいなホテルだよ。最初はね、カリフォルニアの鉄道を作ったマークホプキンスという人のマンションだったんだ。彼の奥さんが、家をデザインしてアートスクールにしたんだ」
「アートスクール! 私の学校みたいに?」
「うん、すごくグッドなアートスクールだって聞いたよ。でも1906年の大地震で壊れてしまった。全部燃えてしまったんだ。そのむこうはフェアモントホテル」
「そこも、高い ホテル?」
「すごく高い。僕の給料じゃ泊まれないよ」
 彼女は、私の説明を頷きながら聞いていた。自分ではゆっくり話したつもりだが、もしかしたら、半分も伝わっていないのかもしれない。でも、そんなことはどうでもよかった。彼女に説明することよりも、アーモンド型の目を大きく開いて、私の指差す方向を見つめている彼女の顔を見ているほうが楽しかったのだ。

 ノブヒルからの眺めを楽しんだあと、フェアモントホテルへ彼女を連れて行った。豪華な家具で飾られたメインロビー、ゴージャスなカーペットの階段、私たちはホテルのロビーを一回りしてからカリフォルニアストリートへ出た。そこから急な坂道をくだり、パウエルストリートを走っているケーブルカーのラインを横切り、グラントアベニューを下ってチャイナタウンの近くまで戻ってきた。
「あの教会は何?」
 彼女はグラントアベニューの北東に立っている赤いレンガ造りの教会を指差した。
「あれはサンフランシスコで一番古い教会。カトリックの教会だよ。1906年地震で壊れたけど、また建て直したんだ。それで――」と言いかけた時、彼女が突然私の手を引っ張って走り出し、数メートル行って急に止まった。彼女の興味を引いたのは、北京ダックの店。店頭にはヒートランプのケースに入った北京ダックがおいてあった。
「いいにおい。おいしそう」
「もうおなかへったの?」
「おなか、減ってない。でも、いいにおい」
 北京ダックをじっと見てる姿があどけなくて、とても21歳の女性とは思えない。
「北京ダック、食べたことあるの?」
「はい、ずっと前、メイリン つれてってくれた。でも、どこの店かわからない。彼女の車で行ったから」
 メイリンの車。あの赤いフォードマスタングのことだろうか。
メイリンの車、この前メイリンが運転してた車、カッコイイね」
 あの車は前から気になっていたので 少し話題を車に切り替えようと思った。
「あの車、ほんとうは メイリンの車ではないです。お父さんの車。でも、時々、彼女 使う。でも、彼女のお兄さん、たくさん使います。メイリンのお兄さんは お父さんの会社で働いています」
「そうなんだ。お父さんは何の仕事してるんだろう?」
「インポートビジネス(輸入業者)」
メイリンもお父さんの仕事、手伝うの?」
メイリンは仕事 しない。ロン・チャンだけ働きます」 
「ロン・チャン? メイリンのお兄さん?」
「はい。でも、わたし、ロンのことよく知らない。メイリン あまり、家族の話 しない。でも、前に、ちょっと聞いた。メイリン、家族のトラブルあります。ロン、たくさん お金 持ってます。ロン、昔、警察とトラブルした。たぶん、ロンは ギャング?  わたし、よくわからない。メイリン、あまり話さないから」
 マコトはそれだけ言うと、また私の手を引っ張って次の店に走っていく。北京ダックの次は高価な美術品を販売しているアートギャラリー。
「ワォ!  ここ高い!   大阪 もっと安い! ブゥラァイアンは アート 好き?」
「好きだよ。でも、アジアンアートはよく知らないんだ」
「OK。じゃ、私が教える」
 彼女は笑顔で私の顔を見た。
 アートギャラリーを出たあとは、ストックトンストリートに並ぶ食料品店を見ながら歩いていった。このストリートには中国の食材を店頭に並べた店が軒を連ねている。観光客が喜ぶような土産物は何も置いていない。それでもマコトには、珍しい食材を見て歩くのが面白くて仕方ないようだ。軒先に積みあがった野菜や果物をじっと見つめ、「これは何?」「どうやって食べる?」と私に質問する。時には、買う気もないのに、店の中に入って行ってしまうこともあった。マコトに手を掴まれ、まるで連行されていく犯罪者のような格好で歩きながらストックトンストリートとワシントンストリートの交差点まで来たとき、彼女は腕時計を見た。
「あ、わたし、帰る時間。今日は 楽しかった。ありがとう。また、電話して、バイバイ」
 というと、掴んでいた手を離した。大きな目で私を見てにっこり笑い、バイバイと手を振って、私がさよならの挨拶をする間もなくストリートを走って行き、角を曲がって私の視界から消えてしまった。
 不思議な子だ。
「また電話して」と彼女は言った。これは一種の社交辞令か、それとも私にもう一度会いたいからなのか。とにかく今日は楽しかった。それに、チャンファミリーの情報も少し手に入った。ロン・チャン。警察とトラブル。ギャングかもしれない――どういうことだろう。

 アパートに戻ると、留守番電話にジョンのメッセージが入っていた。
『ハイ、わたしだ、ジョンだよ。おまえ、どうしてる? 会えなくてさびしいよ。グッドニュースがあるぞ。フラナガンとラム、明日、退院だ。フラナガンの家へ見舞いに行くが 一緒に来ないか? 帰りにラムのとこにもよろうと思ってる。それと金曜日、サウサリートにクルージングに行くぞ。キースとケイコさんも来るから、おまえも来いよ。誰か友だち誘ってもいいぞ。それじゃ、帰ったら電話してくれ』

 それからすぐにジョンに電話を入れたが留守だったので、「OK」のメッセージを残しておいた。今日のデートのことは、またあとでジョンに話そう。

 


    **********


 木曜日 昼

 私とジョンはフラナガン巡査部長の家の前に立っていた。ここはサンセット地区のはずれ。サンフランシスコ動物園の近くである。玄関のブザーを押すと、フラナガン巡査部長の妹のアリスが出迎えてくれた。リビングルームに案内され、中に入ると、巡査部長はブラウンの皮の椅子にゆったり腰掛け、窓から外の景色を眺めていた。大きな窓の向こうには貨物船がゴールデンゲートブリッジをめざしてゆっくりと進んでいく。アリスはソファーの上に置いてあるブランケットをとって巡査部長の膝にかけると、私たちに軽く会釈して部屋を出て行った。それからすぐにスコッチウイスキーと氷の入ったグラスを3つ持って来てくれた。ジョンがウイスキーをグラスに注ぎ、しばらくの間、ウイスキーを飲みながら近況報告で時間をつぶした。巡査部長の足が元通り歩けるようになるにはまだ、一ヶ月ほどかかるようで、それまでの間、妹に面倒を見てもらっていると巡査部長が話してくれた。話題がタランティーノ警部補と内部調査委員会のことになると、巡査部長の声が低くなった。 
 巡査部長の話では、入院している間にタランティーノ警部補が内部調査委員会の連中を引き連れて病室にやってきた。彼の意識が少し戻り、医者が「話をしても大丈夫だ」というやいなや、スコット署長がとめるのも聞かず、病室に乗り込んで一方的に巡査部長の行為を責め立てて帰っていったらしい。巡査部長は意識はあったが点滴の最中で、起き上がることも反論することもできなかったようだ。
 
「全く酷いもんだよ。タランティーノは一分でも一秒でも早く人のキャリアを壊したいようだな。監理委員会(Board of Supervisors)なんてものがなければ、内部調査委員会など存在すらしてなかった。大体、こんなものがいるのかね? 何が正しくて何が間違ってるか、そんなことをいちいち人にチェックしてもらわなくても、常に自分のことは自分で律してきたよ。それができないなら警官なんかにはならんよ。私も君たちと同じ謹慎処分だ。全くひどい話だ。あんな組織は必要ない。昔も今も、あんなものはいらん!  彼らはゴミだよ、ゴミ!」
 巡査部長は外に目を向け大きな溜息を漏らした。私もジョンもフラナガン巡査部長と同じ気持ちだ。彼らは市警のゴミ。人間のクズだ。
 それから1時間ほど話をして巡査部長と別れ、アパートへ帰る途中でラムの家に立ち寄った。
 ラムの母親が赤ん坊を抱いて出てきた。だいぶ疲れた表情をしていたが、私たちの顔を見ると笑顔になった。ジョンがラム容態を訊き、会うことができるか、と尋ねると、ラムは今、眠っているのでまた別の日に来てほしいと言われた。でもラムの具合はだいぶ良くなっているようだ。ラムに会えない代わりに生まれたばかりの孫の顔を見せてくれた。気持ちよさそうに眠っている。しばらく玄関先でたわいない話をしたあと、お礼を言ってラムの母親と別れた。

 

 

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※ Board of Supervisors: 市民の要求から、どんな政党にも所属していない11名のメンバーによって設立されたサンフランシスコの行政執行機関。米国、特に中西部および東部の諸州における郡(county)の行政執行機関。

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クラウドハンド(Cloud Hands);
太極拳の技。左手で体の前で大きく下回りに円を描く、右手と交差したら、次は右手で同じように円を描く。この繰り返し。

エンジェルダスト(17)

テンダーロイン署
8:00P.M

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 いつになく静かな夜だった。

 フラナガン巡査部長はフロントデスクに座り、防弾ガラスをはめ込んだ窓から外の様子を眺めていた。道路は分厚い霧で覆われ、5メートル先は何も見えない。署内にはブリーフィングルームに警官が二人。ロビーには誰もいない。

『今夜は車の数も少ないだろう』
 フラナガンは大きなマグカップに注いだコーヒーを少しずつ口に含み、ゆっくり喉に流し込んだ。

 ピーター・フラナガン、60歳。
 制服姿のフラナガンをストリートで見かければ、太りすぎで機敏な動きのできなくなった初老の警官という印象しか受けないであろう。しかし、深い海を思わせるダークブルーの瞳は、彼の周りで起こっている全てを一瞬で捕捉する。仕事に対する情熱の炎が瞳の奥で燃えている。テンダーロイン署の夜勤のスーパーバイザーとしての仕事も、あと数年で引退である。彼は頬杖をついてコーヒーを飲みながら、やがて来る引退後の暮らしのことを考えていた。クリアレイクに小さなボートを浮かべて、ビールでも飲みながら、のんびり魚釣りでも楽しもうか――

 そのとき、裏口のベルが鳴り、彼の夢は中断された。フラナガンはモニターテレビで誰が来たのか確認した。画面には大柄でスキンヘッドの黒人と、その男を取り囲むようにジェリー・ラム巡査、グレッグ・ゴンザレス巡査、キース・ギャラガー警部の姿が映っていた。フラナガンインターフォンで中に入るように伝えてから待機房へ行った。

「テンダーロインの花形プレーヤーは、今夜は何を捕まえてくれたんだね?」
 フラナガンギャラガーに言った。
「大きなイベントは何もなかったが、公衆酩酊罪と公務執行妨害で一人引っ張ってきた。名前はオマー・スコット。人種分散型の警察が気に入らんようでね。アジアとラテン民族も人種差別集団の軍門に下ったと思ったようで、ラムとゴンザレスに殴り掛かってきた」
「キース。あんたはどうしていつも短い話を長くするんだ?」
 フラナガンが笑いながら言った。
「この黒人はすべての人間を憎んでいるじゃ、味気ないだろ。まぁそういうわけだ。酔いがさめるまで預かってくれ」

 スコットの太い手首は二つの手錠で数珠繋ぎにされていた。待機房に入れるために、ラム巡査がスコットの背後に回り手錠をはずしたとき、突然、スコットが背伸びをして両腕を振り上げ左に回転した。スコットの巨大な左こぶしが、ゴンザレスの頭に命中し、その打撃の威力でゴンザレスの巨体が吹き飛ばされ仰向けにひっくり返った。ゴンザレスが起き上がる前に、スコットはラムを軽々と持ち上げ、ボールを投げつけるようにラムの体を壁めがけて投げ飛ばした。床に崩れ落ちたラムをスコットは片手で持ち上げ、もう一度彼の頭を壁にたたきつけた。ギャラガーとフラナガンは、スコットの背後に回り引きずり倒そうとした。しかし、スコットがすぐに振り返り、ギャラガーの首をつかみ、待機房に隣接するインタビュールームのガラス窓めがけて投げつけ、ギャラガーの体はガラスと一緒にインタビュールームに投げ込まれた。
 そのとき、異常な物音を聞いた二人の警官がブリーフィングルームから飛び出し、地下の待機房へ走っていった。二人が待機房に来るよりも早く、スコットはフラナガンの咽喉を左手で鷲掴みにし、持ち上げてから右手でフラナガンの顔面を殴りつけた。ガラスの破片で血だらけになったギャラガーが部屋のドアからはいずり出てきたとき、スコットに投げられたフラナガンの体がギャラガーの目の前を滑って行き、奥の壁に激突した。
 ギャラガーは立ち上がり、ゴンザレスと一緒にスコットの背中に回り、駆けつけた二人の警官のほうに押し倒そうとした。スコットは背中を押された勢いを利用して二人の警官を突き倒し、側に置いてあった木製の椅子を掴み、高々と振り上げて二人の警官めがけ振り下ろした。
 スコットはもう一度椅子を振り上げ、ゴンザレスとギャラガーめがけ振り下ろしてきた。ギャラガーは、ふりかかってきた椅子を両手で掴みスコットから椅子をもぎ取ろうとした。しかし、ギャラガーの額から流れ出た血が目に入り、スコットの姿をはっきり捉えることができなかった。ギャラガーは椅子の攻撃を受け、床に崩れ落ちた。スコットは意識を失ったギャラガーをまたいで立ち、この一撃で息の根を止めるぞ、と思えるほどの勢いで椅子を高々と振り上げた。

 そのとき、フラナガンの拳銃が火を噴いた。壁に激突し全身を強く打ったフラナガンは、壁に背中を預けたまま、拳銃をスコットに向けていた。フラナガンはもう一度 引き金を引いた。二発の銃弾はスコットの胸と咽喉に命中し、貫通した穴から血が噴出した。胸に命中した弾丸はスコットの心臓を破壊した。頭上に振り上げた椅子がスコットの手から離れ、と同時に、スコットの巨体が前のめりに倒れた。

 フラナガンの手から銃が落ち、彼は意識を失った。キース・ギャラガーとジェリー・ラムの意識も戻らなかった。壁に頭を叩きつけられたジェリー・ラムの耳からは血が滲み出していた。


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 午後8時30分

 私はタチバナマコトからもらったチャイニーズフードの残りを食べていた。気にかかるのは、メイリンの運転していたフォードマスタング。ナンバープレートに[IMPORT]と書いてあるのをはっきりと見た。タイリー・スコットを乗せて走り去った車に何故メイリンが乗っているのか。あの晩、顔を隠した中国人の運転手は一体誰だろう。メイリンと何か関係があるんだろうか。
 しかし今日は、車のことも気になるが、それよりももっと気になることがある。タチバナマコト。風変わりな女の子。思い出すと笑えてくる。男物の服を着て、華奢な腕に大きな腕時計をはめ、一見、男の子のように見えるが、顔はチップとディールのようにあどけない。顔の怪我が治ったら、彼女の目はもっとパッチリするだろう。ケイコさんのような人懐っこいしゃべり方ではないが、彼女の片言の英語がとてもかわいいと思った。公園でたった1時間だけ一緒にいただけなのに、何故、こんなに気になるんだろう。もう一度、彼女にあって、あの片言英語が聞いてみたい。今、私の心から彼女を追い払うことができなくなってしまった。
 そのとき電話のベルが鳴った。

「オニールか! 私だ。ジョンだ。いいか、よく聞け!  時間がない。署で何かあったらしい。詳しいことはわからないが、キースとラムとゴンザレス、フラナガンが全員ダウンして病院に運ばれた。彼らを襲った男はフラナガンが射殺したらしい。いまからケイコさんと一緒にカリフォルニア大学病院の外傷センターに行く。私の従兄弟のショーンがお前のアパートに車で迎えに行くから、もうまもなく着くはずだ。ショーンと一緒に病院に来い。いいか、詳しいことはショーンから聞け。いいな」
「わかりました」
 ケリーがこんなに息せき切って話したことは今までに一度もなかった。署で何があったんだ。4人も病院におくられた!?

 電話をきってテレビを消し、急いでショルダーホルスターをつけ、非番のときに持ち歩いている9ミリのオートマチックをいれた。バッジをズボンのポケットにしまってアーミージャケットを羽織り、部屋を飛出し階段を駆け下りてアパートの前でショーンの車を待った。霧が地面を這うように動いている。ストリートを湿らし町に冷気を運んでいく。
 霧の中でサイレンが聞こえた。音は次第に大きくなり、霧の中から赤いスポットライトをつけたブラックのフォードLTDが姿を現し、アパートの正面で止まった。ショーン・ケリーが助手席のドアを開けた。
「さぁ、乗って!」
 私が助手席に滑り込むと、車はすぐに発進した。
「病院に行く前にラムの家によって奥さんを乗せていかないといけない、いいね」
 ショーン・ケリーとジョン・ケリーは双子ではないかと思うくらい顔がよく似ている。
「はい。あの、一体何があったんですか?」
「詳しいことはまだ聞いてないが、ギャラガーとフラナガンとラムはカリフォルニア大学の外傷センターに運ばれて、ゴンザレスはセントラル救急病院に行ったようだ。今のところ、まだどんな状態かわからない」

 車は数分でラムのアパートに到着した。歩道にはお腹の大きな小柄な女性が立っていた。マエ・ラム-――ラム巡査の奥さんである。
 私は車から降りて後部座席のドアを開けた。小さな彼女がもっと小さく見える。
「ブライアン・・・・・・」
 消えいりそうな声だった。私たちを待っている間、ずっと泣いていたんだ。彼女の頬には涙のあとがくっきり残っていた。私は彼女の腕を支えて座席にすわらせ、なるべくお腹に負担がかからないようにシートベルトを緩めに締めた。
 車は霧を裂くように走り、ゴールデンゲートパークの丘の上に立つ病院に着くまで誰も口を開かなかった。

 病院に到着すると、ショーンはエマージェンシールームの出入り口のすぐそばに車を止め、私たちは急いでロビーに向かった。ジョンとケイコさんはまだ来ていない。捜査課とパトロール課の課長はすでに到着していた。
 私はマエをロビーの椅子に座らせ、それからショーンと一緒に二人の課長のところへ行った。捜査課のデービス課長は暗く沈んだ表情で立っていた。私は課長と握手をして自分の名前を告げた。
「あの、まだどんな具合かわかりませんか?」
 私はデービス課長に訊いた。
「まだ詳しくはきいてないが、ギャラガーは脳震盪を起こして右腕を骨折してる。頭と顔をかなり酷くきったらしい。インタビュールームのガラスに思い切り投げつけられたようだ。フラナガンとラムもかなりの重症のようだが、医者はあまり詳しくは教えてくれなかったから今はそれくらいしかわからないんだよ」
ジョン・ケリー巡査とギャラガー警部の奥さんが、もうすぐ来ると思います。私とショーン捜査官はラム巡査の奥さんをつれてきました」
 私が言うと、デービス課長はロビーの椅子にうつむいて座っているマエを見た。彼女は病人のように青ざめた顔で泣いている。
「彼女は妊娠しているのか」
「はい。それで、あの、ラム巡査から前に聞いたんですが、奥さん、もうすぐ予定日らしいんですが。だから、彼女が心配なんですが」 
 私がマエのことを話すと、課長は私のほうに振り返り、私の肩に手を乗せて言った。
「彼女はタフな男とは違う(she dose not Brian)。だから、彼女のそばについていてあげなさい。もし何かあったらすぐに看護婦を呼ぶんだ。彼女も私たちの仲間だから、彼女をたのむ、オニール巡査。これは命令だ」
「わかりました」と答え、ポリスバッジがすぐに取り出せるように、アーミージャケットの左ポケットにしまった。ちょうどそのとき、警察署長のドン・スコットが到着した。厳しい大自然の中で何年も戦ってきたと思わせるような日に焼けた精悍な顔立ち、指揮官の威厳と品格を漂わせた強烈な印象を与える市警の頂点に立つ人物である。パトロール課のシーハン課長が出入り口のドアまで行って署長に挨拶し、それから、二人そろって私とデービス課長のほうに歩いてきた。二人の課長とスコット署長が話している間、私は後ろに下がって立っていた。
 
 そこへ ジョンとケイコさんがやってきた。私はケイコさんを慰めるつもりでそっと抱きしめた。彼女の目は真っ赤に充血して化粧も取れている。でも今は泣いてはいない。私はケイコさんとジョンに、デービス課長から聞いたことをそのまま伝えた。彼女はギャラガー警部が酷い怪我を負ったときかされても表情ひとつ変えず平然とした顔で私の話を聞いていた。
「あそこに座ってる人、ラムの奥さんね」
 ケイコさんはロビーの椅子に座っているマエのほうに顔を向けた。私が頷くと、ケイコさんは「ありがとう」と言って、マエのが座っている椅子まで歩いて行った。隣に腰掛けてマエの背中をゆっくりさすりながら何か話している。

 30分が過ぎた。待合室には重苦しい空気が流れている。誰も何も言わない。気の滅入るような沈黙が待合室を支配していた。ジョンとショーンは同じ椅子に座り、時々、二言三言話すだけで、あとはただ黙って床を見ているだけだった。私はケイコさんの隣に座って、マエの様子を見ていた。マエはここに来たときよりも落ち着いてきたようだ。

「ねえ、ブライアン。しってる?」
 ケイコさんが口を開いた。
「何をですか?」
「日本にね、どれだけ神様がいるか知ってる?」
「日本の神様? 数えたことないです」
 私が答えた。
「あのね、800万もいるのよ。日本書紀という古い本にね、書いてあるの」
「800万ですか。すごいなそれ」 
「すごいでしょ。800万のこと、ヤオヨロズって日本語でいうの。たくさんて言う意味。ほんとは800万もいないんだけどね。でも日本にはたくさん神様いるのよ」
 ケイコさんは、私の顔を見て、少しだけ笑みを作った。
ヤオヨロズですか。初めて知りました。日本にはそんなに神様がいるんだ」
「そうよ。たくさんいるの。私ね、こんなことが起こるたびに、いつも神さまに祈るの。もうこんなことはこれで最後にしてくださいって。だけど、神様、きいてくれないのね。沢山いるのに、誰か一人くらい私の願い聞いてくれてもいいのにね」
 そういうとケイコさんは、ふいに待合室の天井を見上げた。
「ねえ、ブライアン。クイズ。天井にライトいくつついてるか、当ててみて」
 急にそんなことを言うので、私はケイコさんの顔をみた。涙がひとつ、目じりを伝って彼女の髪の毛のなかに消えていった。

 そのとき私は気がついた。ライトの数などどうでもいい。彼女はそんなことを知りたかったわけじゃない。ただ上をむいて必死で涙をこらえているんだ。何という強い女性だろう。私は彼女の涙には気づかない振りをしてライトの数を数えた。


 突然マエが苦しみだした。
「だれか! 医者を呼んで!」
 ケイコさんの叫び声が待合室の沈黙を破った。マエは大きなお腹を押さえて呻いている。ケイコさんは彼女の背中をさすりながら私に言った。
「生まれるわ。分娩室に行かなきゃ。お願い、医者をよんできて!」

 私はエマージェンシールームの正面にあるナースステーションへ駆け込み、マエの緊急事態を伝えた。
「あそこの女の人、さっき、救急車で担ぎ込まれたラム巡査の奥さんです。彼女、子供が生まれそうだから、だれか、先生をお願いします!」
 看護婦が院内放送を入れるとすぐにブルーのドクタースクラブ(医者着)をきた若い中国人の先生が階段を駆け下りてきて、ナースステーションに来た。胸のネームタッグには「スティーブン・ロウ」と書いてある。かなり若い先生だ。たぶんインターンだろう。
「先生、あそこです」
 私はマエとケイコさんがいるほうを指差した。ロウ先生はマエ・ラムのところに行き、彼女の正面にひざまずいて広東語で話しかけた。マエは先生の質問に答えようとしているが、顔が青ざめ話をするのも苦しそうだ。先生はすぐに立ち上がり、看護婦に車椅子を持ってくるよう指示した。車椅子が運ばれてくると、ジョンが手伝ってマエを椅子に乗せた。それからマエを乗せた車椅子は医者と看護婦とともに治療室へ入っていった。数分もしないうちに治療室のドアが開き、ドクターが廊下の椅子に座って待っていた私とケイコさんのところに走ってきた。

「彼女の赤ちゃんはこれ以上待てないそうです。2週間、予定日より早いですが、今から分娩室に運びます。それから、ギャラガー夫人は?」
 といってロウ先生はケイコさんを見た。
「はい、私ですが」
 ケイコさんが少し不安げな顔で返事をした。
「彼女は元気だから大丈夫です。でも、あなたについていてほしいといってます。これから大きな仕事が始まるから、彼女、心細いみたいで。お願いできますか」
 ケイコさんはうなずいて立ち上がり、治療室から出てきたマエの車椅子についてエレベーターに乗り込んだ。

 それから20分ほどして、サミュエル院長が待合室に姿を現し、スコット署長とデービス課長が座っているところにやって来た。私とジョンは彼らのそばに立って、サミュエル院長の報告を聞いていたが全てを聞き取ることはできなかった。しかし、聞こえてきた院長の話によると、フラナガン巡査部長の意識は回復したが、鼻と頬の骨が折れている、今晩一晩だけ病院にとどまって、あとは自宅で療養すればいいようだ。ラムは重態でまだ意識が戻らない。頭部に目に見える腫れはないが、頭蓋骨骨折。当分の間、入院しなければいけない。ギャラガー警部は頭と額にガラスで切った酷い傷があって、刺さったガラスは全て除去して縫合は終わったようだ。腕の骨折の手術もたった今、終わったところだと話していた。警部の意識は回復していて、フラナガン巡査部長と同じで、明日には家に帰れるようだ。
 院長が立ち去ると、ジョンが署長にセントラル救急病院に運びこまれたゴンザレスの様態を報告した。ゴンザレス巡査は鼻を骨折し、額をすりむいた程度の軽症で、今、テンダーロイン署に戻って報告書を仕上げているらしい。その場にいた全員の顔に少し明るさが戻った。

 スコット署長がデービス課長に話しかけた。
「早急に取り掛かってもらいたいことがある。まず、今回の事件の調査にあたらせる捜査官、何人でも構わん。とにかく、君が必要だと思えば人数に上限はつけん。早急に集めたまえ。超過勤務手当てについては心配せんでもよい。それと、射殺された容疑者の検死結果が早く知りたいから、監察医をせかせて、詳しい検死報告書ができたら、ゴンザレス巡査の報告書とあわせて、私のデスクまで届けてくれ。監察医には、とにかく詳しい結果を出せと、署長からの命令だと付け加えておいてくれ」
 話し終わると、今度はパトロール課のシーハン課長に命令を出した。
「先に、テンダーロイン署の壊れた場所の修理だ。それと、パトロール警官が足りないだろう。エリアの隅々までカバーできる人数がほしい。足りなければ他の分署からまわしてもらえばいい。この事件の捜査に関しては、私が指揮を執る。タランティーノと彼の飼い犬どもをシャットアウトしたまえ。もし、内部調査課から何か嫌がらせがあったら、私のところに来るようにいいなさい。市警の中で魔女裁判をするような人間は、全員、駐車場の切符切りに回すつもりだ。この事件は私が直接担当する。今回、捜査にあたる警官は、すべて私の直属の部下だ。いいかね、君たちは全員、私の部下だ」
 最後の言葉は、スコット署長の周りに集まった警官たちの耳にはっきり聞こえた。

 ちょうどそのとき、エレベーターの扉があいて、ケイコさんが飛び出してきた。私たちのところまで小走りでかけてきて、ジョンの顔を見るなり、「おねがい! コーヒーがほしい!」
 ジョンはドクターズラウンジから勝手に持ってきた誰かの飲みさしのコーヒーカップをケイコさんに渡すと、彼女は冷めたコーヒーを一気に飲み干した。一呼吸してから、「きいて!  ラムに家族が増えたわよ!」
 この場にいる全員に聞こえるくらい大きな声で言った。ケイコさんの一声で、場が一気に明るくなった。署長も課長も、何も言わなかったが顔には笑みが浮かんでいた。

「女の子、女の子よ! ラムはパパよ!  名前はケイコ・メイ・ラム! 彼女、私の名前つけたの! ケイコよ! ラムの赤ちゃん、私の名前よ!」
 ケイコさんは笑顔でジョンとショーンに話しているが、幾分、疲れているように感じた。
「ラムはどう? 怪我はどうなの?」
 ケイコさんがジョンに訊いた。
「ラムなら大丈夫だ。でも、しばらくは入院だと医者が言ってたよ。頭痛が酷いらしいけど心配しなくて大丈夫、すぐに元気になるよ」
「それでキースは?」 
 ジョンはギャラガー警部の様態をケイコさんに伝えた。話を聞いている間に、彼女の顔から笑顔が消えていった。

 スコット署長がケイコさんのそばに来て声をかけた。
ギャラガー夫人。ご主人の意識が戻ったようなので、もう大丈夫です。奥さん、ご主人のしたことは大変立派です。何か困ったことがありましたら、いつでもお力になりますので遠慮なく言ってください」
「お気遣いいただいてありがとうございます。主人なら大丈夫です。あの人、タフだから。いつも自分で言ってます。誰も私の命をとることはできないって。だから大丈夫です」
 ケイコさんは署長に軽くお辞儀をしてから、ジョンの腕につかまってギャラガー警部のいる病室へ歩いていった。

 ジョンとケイコさんの姿が見えなくなってから少しの間、署長たちのそばに立っていた。
「そろそろ帰るか。ケイコさんはジョンが送ってくだろ」
 ショーンに肩を叩かれたので、出入り口のほうに行きかけたら、スコット署長に呼び止められた。
「君はオニール巡査だね?」
「はい、オニールです」
「君とケリー巡査のことについては聞いたよ。君たちの処分に関しては、内部調査委員会と私とは意見が違うから、そのことに関しては心配しなくていい。君たちのとった行動は実に立派だ。あと数日、待ちなさい。君たちのところに連絡が行くはずだ」
 そういうと、署長は二人の課長のいるところへ戻っていった。

「オニール、帰るぞ!」
 ショーンが出入り口のドアの前から大きな声で私を呼んだ。

 外はひんやりしていた。分厚い霧が病院を包み、地面は雨が降ったように濡れている。歩きながらギャラガー警部たちのことを考えた。たった一人の容疑者に徹底的に叩きのめされて、無様な姿で病院に運ばれて、かっこいいことなど何もない。でも、世界中から、どれだけかっこよくて魅力的なものを見せつけられても、彼らと交換する気にはならない。

 


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※Brian (ブライアン)には「たくましい男」という意味があります。

 

エンジェルダスト(16)

ブライアントストリートを渡っての向かいにある「The Gavel」に立ち寄った。ここはHall of Justice (サンフランシスコ警察署とサンフランシスコ郡高等裁判所の本部)の職員がよく利用するバー兼レストランで、ランチタイムは弁護士専用、ディナータイムは警官専用と、昼と夜で客層ががらっと変わる。時間によって職種が別れているのは、この店にこういうルールがあるからではない。警官と弁護士は仲が悪いという単純な理由で、お互い顔をあわせたくないだけである。昼時にここに来ると、店内は弁護士ばかりである。本部やサウスステーション(南署)に勤務する警官たちは、皆よその店に行ってしまう。それがいつしか、昼は弁護士、夜は警官と明確に分かれてしまった。

 時刻は12時10分。
 私も弁護士だらけの店にはいるのは嫌だったが、今は、とにかく一杯飲みたい。内部調査委員会というところは全く不愉快だ。一杯飲んで気分を変えたかった。ビールを注文して一気に飲んでから、店の公衆電話でケリーに電話をかけた。呼び出し音が5回なったあと、ケリーが電話に出た。
「ハロー、はい、オニールか?」
「はい、今、終わりました」
「で、調査会はどうだった?」
「そのことを言いたくて電話したんですよ。口外するなといわれたんですけど、とにかく頭にきました。あいつら、集めた情報を自分たちの都合のいいように変えるでしょうね。私のことをプロの殺し屋だと思ったみたいですよ。それに、今日の調査会は私じゃなくてジョンのことが知りたかったみたいで、何か言うたびにケリー巡査はどうしたってそればかり聞かれました。ベラスコを撃てといったのはジョンかって聞かれました。だから、それは違うということを伝えておきました」
「まぁ、そうだろうな。大体予想はつくよ。で、タランティーノはそこにいたのか?」
「ハイ、いました」
「やっぱりな。あいつは昇進のチャンスがあったら母親でもいけにえに差し出す男だ」
「あ、それから、帰りがけに昨日、人質になってた女性、首を切られそうになったほうの人に廊下で会ったんですが、電話をしてほしいって言われて、電話番号を書いた紙をもらったんですけど。でも、タランティーノが彼女としゃべるなって通路で叫んでたんですが、どうしたらいいでしょうか?」
「そうか。何か話したいことでもあるんじゃないか。よくわからんが、電話してやればいいじゃないか。タランティーノはそこまでは調べんだろ。一度、キースに電話して聞いてみたらどうだ。わたしは2時から審問だから、もう出かけないといけない。調査会から戻ったら電話するよ」
 そういってケリーは電話を切った。店内はちょうどランチタイムで、弁護士たちが出たり入ったりしていた。こんなところに長居をするのは嫌だったので、店を出て、途中で昼食をとり、2時ころアパートに戻った。

 今頃ケリーは、あの真っ暗な部屋でスポットライトの当たった椅子に座らされているのかと思うと、気分が落ち着かなかった。ギャラガー警部はもう仕事にでかけたかもしれないが、とりあえず電話をしてみることにした。

「はい、あら、ブライアン?」
 ケイコさんが電話に出た。
「ハイ、ブライアンです。こんにちわ。あの警部はいますか?」
「ごめんね。今ね、道場にいるの。仕事に行かなきゃならないからすぐに戻ってくるけど、帰ったら電話するようにつたえておくわ」
「すみません、おねがいします」といって、電話を切ろうとしたら、「ブライアン? あなた、どうしたの? 今日は声が沈んでるわよ。昨日のこと、キースからきいたわよ。二人も女性を助けたんでしょ。ヒーローじゃない。キースもそういってるわ」
 いつもと変わらぬ明るい声でケイコさんが言った。
「え、声、沈んでますか? なんともないですよ。今、調査会から帰ってきたとこだから、ちょっと疲れたのかな。今頃はジョンがやってますよ」
 極力、明るい声で答えたが、本当はケイコさんが言ったように気持ちが沈んでいた。
「そう、それなら大丈夫ね。あなたヒーローなんだからね。あなたはいいことをしたのよ。OK? じゃ、キースがきたら電話するわ」

 ケイコさんと話していると、短い会話でも気が晴れてくる。電話を切って時計を見たら2時45分。たぶんアントニオストリートの路地の話になってるころだ。誰がケリーに質問しているんだろうか。タランティーノ警視だろうか。それとも私に質問した私服の警官だうか? こんな無駄なことをしなくても、結果はわかってるじゃないか。私もケリーも謹慎処分だ。私と同じで、今頃はケリーも不愉快な思いをしていると思う。


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 2時55分。220号室にて、ドナルド・タランティーノ警部補によるケリーの審問が続いていた。
「ケリー巡査、『正しいことをせよ』というのはどういう意味で言ったのか説明しなさい」
「何が起ころうとわたしのことには構わず、そのときの状況に一番ふさわしい行動をとれ、ということです」
「それは、ベラスコを撃てということですか?」
「状況によってはそれもあります。しかし、ベラスコを殴る、あるいは蹴る、投げ飛ばす、そのときの状況次第で選択肢はいくつもあります。何が起こるかは、わたしには予測できません。オニール巡査が発砲したのがあと数秒遅ければ、あの女性は殺されていました。とにかく、早く何とかしなければならないと思っていました」
「では、あなたは時間がない場合は射殺せよとオニール巡査に言ったわけですね」
「いいえ、そのように教えたことはありません。彼は自分で決断しました。しかし、彼のとった行動は正しい判断です」
「オニール巡査がベトナムにいたということは、フィールドトレーナーのあなたにはすでに耳に入っていると思いますが、何かベトナムのことに関して、つまり、彼は人殺しが好きで、一番気に入ってる武器は拳銃だと、そのような話を彼がしたことがありますか?」
「そういう話は一切聞いたことがありません。そこで起こったことを二度と繰り返したくないと思っているはずです」
「わかりました。それではあなたはオニール巡査がベトナムでスナイパーだったことを知っていますか?」
「いいえ、それは知りません。しかし、彼がスナイパーだったと聞かされても、私は驚きません。彼はどんな現場であっても常に冷静に対処します。なかなか新人ではそこまではできません。それは、すでに彼は十分に訓練され鍛えられてきたという証拠です」
「ケリー巡査、これは私の個人的な興味から聞きますが、フィールドトレーナーとして、あなたはオニール巡査をどのように評価してますか?」
「彼は優秀な新人です。現場でうろたえることはありません。理解力も早いです。彼がもっとキャリアを積めば、すばらしい警官になる素質があります。私が言っているのはグッドではなくグレートです。もしもあなた方が彼にチャンスを与えてくれるなら、オニール巡査は必ずグレートな警官になります」


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※内部調査委員会、当時の名前は INTERNAL AFFAIRS 。 現在はPOLICE MANAGMENT CONTROL UNIT と名称を変えました。 現在では、警官への銃規制がさらに厳しくなり、その結果、犯罪が増え、警官が射殺される事件が増えています。


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警部から電話がかかってくるのを4時まで待ったが、まだベルはならない。きっと何か仕事が入って連絡ができないのかもしれない。先にあの女性に電話をしようか。彼女も私からの電話を待ってるかもしれない。タランティーノは彼女と話すなといったが、かまうもんか。裁判もなしに人のキャリアをぶち壊すやつらの言うことなんか聞く必要もないだろう。私は彼女からもらった紙切れに書かれた番号をみてダイアルを回した。

 呼び出し音が1回、2回、3回、4回、そのあと日本語で「モシモシ」
「ハロー、ミスタチバナはいますか(Is Miss. Tachibana there please?)」
「わたしはタチバナです。あなたはダレですか?」
「ブライアン・オニールです」
 私は自分の名前を告げたが、彼女からおかしな英語が返ってきた。
「ブアーアンオニイルゥ?」
 今朝、彼女がしゃべった片言の英語を思い出した、たぶん英語がよくわからないのかもしれない。
「あなたは英語ができますか?(Can you speak English?)」
「ハイ、イエス、すこし。どうぞ、ゆっくりはなしてください」
「OK!  今朝、あなたは電話をしてほしいといいました。名前と番号の書いたメモを私にくれました。わかりますか? サンフランシスコ市警のオニール巡査です。(This is Officer O'Neil from SFPD. You asked me to call. You gave me paper with your name and phone number this morning?)」
 彼女が理解できるように、なるべく簡単な英語でゆっくり話した。
「ああ、ハイハイ、わかります。あなたは小さいケイカン」
「イエス、イエス。小さい警官です」と答えたが、「小さい警官」といわれたのがおかしくて噴出しそうになった。
「私に話したいことがあると言いましたが、どうしたんですか?」
「あの、あの、コーヒー、コーヒー のみますか? わたしたち 一緒に、コーヒー のみます。はなすこと できます」
 彼女のしゃべり方は かなりゆっくりである。単語をひとつずつ区切って話すので、多少おかしな発音でも言ってることは理解できる。
「イエス! いいですよ」
「OK! あなたは チャイナタウンを しっていますか?」
 彼女が言った。
「イエス。知ってますよ。近くに住んでます。(Yes, I know Chinatown, I live near there)」
「わたしのうちも近くです。 OK、あなたは あした、私に会いますか? ポーツマススクエアで1時、OK?」
「OK! ポーツマススクエアに1時、いいですよ」
 最後にもう一度、場所と時間を確認してから電話を切ると、すぐにまた電話のベルがなった。彼女の気が変わったのかと思ったら電話の主はギャラガー警部だった。

「ボーイか。遅くなってすまなかった。ケイコから聞いたよ。それで今日はどうだった?」
「内部調査課ってとこは本当に腐ってますね。彼ら、ジョンをひねりつぶそうとしてるみたいです。私は謹慎処分になりました。どうせ一方的にきめるんだから調査なんかしたって時間の無駄なのに。全く酷いところですよ」
 受話器の向こうから低い笑い声が聞こえた。
「それだけしゃべれたら大丈夫だな。落ち込んで泣いてるかと思ったよ。あいつらは白が黒に見える連中だ。私のことも、何か追い出す口実はないか、必死で探してるらしいが。まぁ、あそこに呼び出されたら黙って座ってる以外、どうすることもできんからな。タランティーノを八つ裂きにすることでも考えてたら、あっという間に時間がたつぞ。それより私に話があったんじゃないのか?」
「あ、はい、あの実は、昨日の被害者の女性ですけど、明日、私と会って話がしたいようなんですが。ポーツマススクエアで1時に会う約束しました」
「どっちの女性だ? 日本人? 中国人?」
 警部が訊いた。
「日本人の女性のほうです。名前はタチバナマコト。タランティーノ警視からは喋ったらだめだといわれたんですが、どうすればいいか、警部に聞こうと思って電話したんです」
「珍しいな。被害者の女性が会いたいといってきたか。あんまりそういう話はきかないが。彼女も今日、委員会に呼び出されたようだが。ベラスコの件で今回は、裁判無しで処理されてるから、何か言いたいことでもあるのかもしれないな。その女性と会ってみたらどうだ。約束したんだろ?  彼女が何を言ったか、また知らせてくれ」
「わかりました、じゃ、明日電話します」
 電話を切る前に、本部でケリーに会ったということを教えてくれた。思ったとおりケリーも謹慎処分で、かなり憤慨していたらしい。


翌日の一時、私はポーツマススクエアの真ん中にあるベンチに座って彼女が来るのを待っていた。ここはワシントンストリートとクレイストリートに挟まれた公園である。シルクのチャイナドレスをきた中年の女性が子供と手をつないで歩いている。ベンチに座ってチェスをしている老人。滑り台やブランコで遊んでいる子供たち。たくさんの人たちが、この公園で楽しいひと時を過ごしている。聞こえてくるのは広東語(cantonese)と中国語(Mandarin)。英語をしゃべっている人は誰もいない。
 チャイナタウンはサンフランシスコにできた小さな中国。ここに住んでいる人たちは、皆、ここで生まれ、ここで働き、ここで死ぬ。よその町に越していく家族はめったにいない。

 午前中は曇っていたが今は太陽が出てきた。顔に当たる風がやわらかい。ここにはもう春が来ている。ベンチに座っていたら「ハイ!」と右側から声をかけられた。振り向くと、茶色の紙袋を持ったミスタチバナが立っていた。
「ハロー、こんにちわ」彼女が言った。
「ハイ、ハロー、ミスタチバナ
 私は笑顔で挨拶したが、彼女は微笑を返さなかった。顔の怪我のせいで笑いたくても笑えないのかもしれない。しかし、その怪我をサングラスや化粧で隠すこともせず、時々、彼女の顔を見ていく人たちがいても、一向に気にする様子もない。私は彼女が座れるように場所をあけた。彼女はベンチに腰掛けると、茶色の紙袋から箱入りのチャーメン(五目ヤキソバ)、エッグフーヤン(中国の卵料理)、エッグロール(春巻き)、紙コップに入ったコーヒーを取り出してベンチに並べた。
「今、ランチタイム。だから、食べ物、買いました。これ、はい、あなたのコーヒー」といって、コーヒーカップを渡してくれた。
彼女はジーンズに白いスニーカー、ブルーデニムのメンズのジャケットをはおって、左手に男物の大きな腕時計をはめている。メンズファッションが好きなんだろうか、それとも、もしかしたらレズビアン? 頭の中で妙なことを想像してしまった。

「今日、来てくれてありがとう。あなた、おなか減ってる? どうぞ、たべて」
「僕にランチ?  どうもありがとう(thanks a lot)」
 私が礼を言うと彼女は春巻きをひとつ取り、食べ始めた。挨拶もそこそこに、料理を広げて春巻きの皮をパリパリかじっている姿が、ディズニーの漫画に出てくるシマリスのチップとディールに思えてくる。前歯が2本だけ出ているところはチップ、殴られて半開きになった目はディール。春巻きがナッツに見えてきてしかたがない。
 それにしても、今日、私を呼び出して、一体、何がしたかったんだろう? 1〜2回あっただけの男にランチを買って、酷い顔の怪我を気にすることもなく、食べることに夢中になっている。私の知っている女の子の基準からは少し外れているようだ。そんなことを考えながら彼女を見ていると可笑しくなってきた。でも、こんなところで笑っては彼女に悪いと思ったので、コーヒーカップを口に近づけて、チビチビすすりながら彼女を眺めていた。口の周りに切り傷があり、唇もまだ腫れているので大きな口があけられないようだ。見ていると痛々しい。
「具合はどう? 君はほんとに危ないところだったから( You had a close call)」
「わたしはOKです。でも、まだ痛い。たくさん 痛いです。きのうも、たくさん痛い。でも、あなたのケイサツに呼ばれました。あのひとたち、あなたのけいさつ わたしをいじめた」
「いじめた?」 
「きのう、220号室のひとたち。なぜ、わたしに、質問しますか? あなたのこと きいた。 大きい警官の人のこと たくさん ききました。わたし うまくはなせない。でもたくさん ききました。日本の領事館の人、通訳 いないでした。だから、私 言いました。領事館に言う。私、彼らに、それ、いいました。わたしは、たくさん、話せない。わたしは、ビクチム」
「ビクチム?」
 私が訊き返すと、「ちょっとまって」と言って、まだ使っていない白い紙皿の上に、春巻きについてきたマスタードソースをインク代わりにして箸でアルファベットを書き始めた。
「これ」と言って見せてくれた文字は、「VICTIM(被害者)」
「ああ、はいはい、ヴィクティムね」
「はい、それ、私、それです。私、犯人ではない、なぜ、彼らは、私に質問しますか?」
「たぶん、それは・・・・・・たぶん、君じゃなくて僕をいじめたいから」
「なぜ? なぜですか? なぜ、あなたをいじめますか?」
 彼女は瞬きもせず、私の目をじっと見ている。
「あの人たちは、僕が嫌いだから。ほかの警官も嫌いだから・・・・・・」
 私がそこまで言うと、彼女は大きく首を横に振った。
「ノー、ノー! あなたは、いい人。大きい警官もいい人。もしも、あなたと大きい警官の人、来なければ、私とメイリン、死んだ。あなた、悪い犯人、殺した。あなたは いい人。だから、ありがとうを言いたいです」
「お礼はいいよ。そんなことより、君たちが無事でよかった」
 一昨日の話が出たついでに、もう少し彼女に聞いてみることにした。
メイリンは友達?」
「イエス 彼女の名前はメイリン・チャン。わたし、メイリンの家に住んでいます」
「ああ、一緒の家にいるんだ。それで、彼女は大丈夫?」
「はい OKです。でも、たくさん 彼女も 痛い。でも、あなたと大きい警官の人にサンキュー 伝えてほしい 彼女言いました」
 彼女は私の顔をじっと見つめながら言った。私はにっこり笑って頷いた。
「あの、少し、訊いてもいいかな。一昨日の晩、あんな遅い時間に君とメイリンはどうしてあそこにいたの?」
「私たち、アメリカンミュージックホールに行きました。私とメイリン、ロック好き。ロックのコンサート、あの夜、行きました。メイリンの車、メイソンストリートに止めた。でも、帰り道、迷子、車、わかりません。あの男、きました。後ろから。ナイフ、もっていました。メイリン捕まえた。あの男、それから・・・・・・」
 そこで言葉が途切れた。これ以上は話したくないのかもしれない。
「ごめんね。話したくなければもういいよ」私がそう言うと、「ノーノー、ちょっとまって、あの・・・・・・英語、むずかしい。ちょっとまって」といって、急に何を思ったのか、料理の入っていた紙袋を細長くたたんで先を三角に折り、それを私の胸に突きつけるようにして私の腕を掴み少し前にひっぱた。
「あの、あの男、これしました。だから、私たち、路地にいた。わかりますか?」
「ハイハイ、わかります」
 彼女は英語で答える代わりに、あの男にナイフで脅され、無理やり腕を引っ張られて路地へ連れ込まれたということをジェスチャーで示してくれた。
「それから、あなたと大きい警官 きた。わたしたち、とてもこわかった」
 彼女はうつむいて、しばらく手に持ったコーヒーカップを見ていた。嫌なことを思い出させてしまったようだ。なんといって慰めていいか、言葉を探していたら、ふいに彼女が顔を上げて言った。
「あの、わたし、きょう、話したいことは・・・・・・あの、おねがいがあります。いいですか?」
「はい? なに?」
「わたしのナイフ。路地で落とした。わたし、あの男の顔、切った」

 ベラスコの頬には刃物で切ったような深い傷があったのを思い出した。
「君が、あの男の顔をきったの?」
「はい、わたし、しました、それ、ナイフで」
「それはすごいね。君はすごく勇敢だ、すごいよ」
「あの男、メイリンの服、これ。だから 切った」
 彼女は洋服を破り捨てるようなまねをして見せた。
「私のナイフ、落とした、たぶん、ケイサツ、それ 持ってる。あのナイフ、必要です」
「あなたのナイフを路地でみました。たぶん、現場を調査した警官にきけば知ってるはずです。あなたのナイフがみつかったらすぐに連絡します」
 私が言い終わると、彼女は首をかしげている。長い文章だったから もしかしたら通じなかったかもしれない。もう一度、短く言い直した。
「みつかったら、電話します」
 彼女は大きくうなずいて「サンキュー」と言った。それからジャケットの袖を少しだけめくって男物の腕時計を見た。
「あ、アイムソォリー、わたし、行かないといけない。学校」
「学校? どこの学校にいってるの?」
「サンフランシスコアートインスティテュート。知っていますか?」
「うん、その学校なら知ってるよ。じゃ、君はアーティストなんだ」
「はい。メイリンも。わたし、イラストレーション 勉強します。わたし 少し アーティスト」
 そういうと、彼女はもう一度、時計に目をやった。
「もうすぐ、メイリンの車 きます。むこう」
 といって、彼女はワシントンストリートのほうを指差した。
「いっしょに、いきますか? むこうまで」彼女が言った。
「はい、いいですよ」

 彼女はベンチの上に並んだチャイニーズフードを片付け、私の残した分を紙袋に入れて「これ、あなた、たべて、あとから」といって私に渡してくれた。それから一緒にワシントンストリートのほうに歩いていった。何気なく右のほうを見たら、カーニーストリートのほうから赤いマスタングが走ってきて、ワシントンストリートの交差点を左に曲がり、私とミスタチバナが立っているところでとまった。運転席には額に包帯を巻いたメイリン・チャンが乗っている。メイリンの顔にもいくつかの擦り傷があった。私の顔を見ると、車の中から軽く頭を下げた。

「今日は ありがとう、バイバイ」
 といってミスタチバナマスタングの助手席に乗りこんだ。ドアが閉まるとすぐに車は発進した。西のほうに走って行くマスタングに目をやったとき、バックのナンバープレートに見覚えのある6文字のアルファベットが並んでいた。

【IMPORT】

エンジェルダスト(15)

 

午前8時きっかりに、内部調査課から電話がかかってきた。

 

「おはようございます。本日午前10時から本部の220号会議室で内部調査会による審問を行います。時間厳守でお願いします」

 書かれたことをそのまま棒読みしているような抑揚のないメッセージ。私に用件だけ伝えると、電話はすぐに切れた。

 10時までに出頭せよ! あと2時間しかないじゃないか!   今から準備して出かけたらぎりぎりだ。どうしてもう少し早く電話をしてこないのか! 私は急いでシャワーを浴び、制服に着替え、拳銃をしまってある棚を開けた。扉を開けるまですっかり忘れていた。私のリボルバーは昨日、警部にあずけたんだ。拳銃無しか――空っぽの棚を見て、ため息が出た。

 

 時刻は8時30分を過ぎていた。今からではバスに乗っても間に合わないので、すぐに電話でタクシーを呼んだ。本部へ向かう途中、道路が混雑していて、乗っている間中、気が落ち着かなかったが、なんとか時間に間に合った。

 9時45分。あと15分ある。私は市庁舎(Hall of Justice)の2階にあがり、220号会議室の前の通路で呼ばれるまで待つことにした。胃の辺りを締め付けられているような気がして気分がよくない。これから部屋の中で始まることを考えると、益々いやな気分になってくる。

 

 内部調査課がどういうところか、新人の警官は誰でも知っている。内部調査課は警察内部の汚職をなくし、警官の素行調査をするために、警察内部に特別に設置された機関である。しかし、これは建て前であって、実際は内部調査課自体が腐っている。内部調査課のメンバーになりたければ、警官としての経験や知識などはどうでもいい。仲間を踏み台にしてでも上層部に取り入って出世したいという欲さえあればメンバーに加えてもらえる。自分の出世につながるチャンスを見つけたら、平気で仲間を売る。そのことに対して、彼らは何ひとつ後ろめたい思いも抱かない。そうやって出世した年配の警官が内部調査課に居座っている。彼らに睨まれたら、何年もかけて培ってきた警官としてのキャリアも、いとも簡単に破壊されてしまうのだ。市警の嫌われ者集団。これが内部調査課だ。

 内部調査課のメンバーは「悪魔に魂を売った」とまで言われている。ごくまれに、内部調査課から追い出されるメンバーもいるが、一度、悪魔に魂を売った警官が、仲間の信頼を得ることはむずかしい。誰もそんな警官を信用しない。

 

 午前10時。会議室のドアが開いて、中からドナルド・タランティーノ警部補が出てきた。


「君がオニール巡査かね?」
「イエス、サー」

私は姿勢を正し、警視の目を見て返事をした。

「中に入りなさい」

 タランティーノ警部補のあとに続いて部屋に入った。窓はすべて分厚いカーテンがかかっていて、映画館の中にいるようだ。暗がりの中で見えたのは、「U」の形に並べた3つのテーブルと6人の男のシルエット。U字型に組んだテーブルの真ん中にはスポットライトで照らされた椅子がひとつだけ置かれている。

 「そこに座りなさい」

 タランティーノ警部補が、真ん中の椅子を手で示し、低い声で言った。私が椅子に腰掛けると、正面のテーブルに座っていた私服の男が最初に質問をした。

「オニール巡査。今朝は早くから呼び出して、すまなかったね。我々委員会から先ずそのことで君にお詫びをしたい。君も先刻承知と思うが、昨晩、警官の発砲事件があって、それに関していろいろ訊きたいことがあるのでここに来てもらったわけだが。我々の質問に包み隠さず正直に答えてもらいたい」

 私は話している男の方をじっと見ていたが、暗くて顔は全く見えなかった。

「イエス、サー」

「よろしい。では、神の名にかけて、真実を,すべての真実を,そして真実だけを述べることを誓いますか?」

「誓います」

「それでは君のフルネームとバッジナンバーを言いなさい」

「私はブライアン・ショーン・A・オニール。バッジナンバーはサンフランシスコ市警909です」

「よろしい。では、オニール巡査。君は昨晩、アントニオストリートの路地で発生した警官の発砲事件に関与したというのは事実だね?」

「イエス、サー」

「君は、昨晩、アントニオストリートの路地でジェームズ・ベラスコを撃ったのか?」

「ジェームズ・ベラスコというのは誰のことでしょうか?」

「君が昨晩、撃った男だ」

「ジェームズ・ベラスコという男は知りません」

「ジェームズ・ベラスコはおまえが昨日、銃で頭を撃った男だ! 忘れたのか!」

 タランティーノ警視が口を挟んだ。

「昨夜の発砲事件に関わった人物で、私が名前を知っているのはフィールドトレーナーのケリー巡査と自分です」

「オニール巡査!」

 タランティーノが怒鳴った。

「あなたは今、私が昨晩その男を撃ったと言いましたが、わかっているなら何故、私に訊くんですか?」

「オニール巡査、反抗的な態度をとるのはよしなさい。君は、ジェームズ・ベラスコを撃ったのか?」

 私に質問している調査官も苛立っている。

「まじめに答えてもらえないかね?   同じことを何度も聞きたくはない。君が撃ったのか? どうなんだ? 正直に言いなさい」

 調査官の声がかなりとげとげしくなってきた。そろそろ逆らうのはやめにしたほうがよさそうだ。

「イエス、サー」

 私は正面に座っている調査官に向かってはっきり大きな声で返事をした。ジェームズ・ベラスコは私が頭をぶち抜いた男だ。私が書いた報告書にそう書いてあるのに何故、こいつらはわかりきったことを訊くんだ。

「よろしい。では、昨晩、何があったのか、ケリー巡査とパトロールに出たときから順を追って話しなさい」

 私は15分ほどかけて、アントニオストリートに行くまでに起こった出来事を話した。 

「アントニオの路地で何があったのか、詳しく聞かせてもらえるかね?」

 正面の調査官が言った。

 その場所で起こったことは鮮明に記憶に残っている。路地の近くで聞いた空き缶の転がる音、それに続いて女性の悲鳴を聞いたこと、路地に入ったときに私とケリーが最初に目撃したことを詳しく話した。 

「そのときに、ケリー巡査はどうした? 彼は何と言ったのか覚えているか?」

「『警察だ、やめろ』と叫びました」

「それから?」調査官が訊いた。

「男がケリー巡査のほうを振り向いて、そのときに人質になっていたアジア人の女性の髪の毛を引っ張っていました」

「それから君は何を見たのかね?」

「右手でハンティングナイフを持って、それを女性のわき腹に突きつけていました。それから、あの男のズボンのジッパーが開いていて、そこからペニスが突き出ているのが見えました」

「ペニスが突き出ていた? それは間違いないかね?」

「見間違えるわけがありません。それが何かぐらい知っています」

 私が答えると、右のテーブルのほうで、誰かがわざとらしい咳払いをした。

「君はもう少し、言葉を慎みなさい、オニール巡査!」

 正面の調査官の機嫌がかなり悪くなっている。

「それから、ケリー巡査はどうした?」

「ケリー巡査は『やめろ、ナイフを下ろせ』といいました」

「ベラスコは、それから何をした?」

「『うせろ、ブタ』と叫んで、女性の向きを変えて、後ろから左手で女性が逃げられないように抱えました」

「ケリー巡査は、それからどうした?」

「『それはできない。ナイフを下して彼女たちを離せ。お前を傷つける気はない』と言いました。容疑者はかなり苛立っていて、汚い言葉で叫んでいました。『おれはスラントビッチにコックをぶち込みたい』こういうことを言いました」

「スラントビッチ?」

 調査官が訊いた。

「アジアの女性を侮辱したスラングです。あなたがもしベトナムに行ったら何度も聞く言葉です」

スラングね。なるほど。それで、ケリー巡査はそれからどうした?」

   どうして、この調査官はケリーのことばかり訊きたがるんだろう。これは私の発砲に関する質問ではないじゃないか。ここに集まった連中が知りたいのは、私のことではなくてケリーのことだ。こいつらはケリーのキャリアを潰しにかかってるのか。

 「ケリー巡査は、これをとめるといいました。それから私のライトは絶対につけるなと。そのあと私に無線で救援を呼べといいました」

「それで、君は無線をいれたんだな?」

「はい」

「司令室には何といって無線を入れた?」

「コード3を伝え、現場の位置と二人の女性が人質にとられていること、それから男の身なり、最後に、サイレントアプローチを全ユニットに要求すると無線連絡しました」

「今、君が言ったことに間違いないかね?」

「間違いありません」

「何か他にケリー巡査が君に言ったことを覚えているか?」

「あの男を説得してみるといいました。もしも何かが起こったら、私に正しいことをしろといいました」

「正しいこと?」

「はい」

「ケリー巡査の言った正しいことというのを、もう少し詳しく説明してもらえるかね」

「ケリー巡査は特に私にこうしろ、というような具体的な指示は出しませんでした。そのときの状況によって、私がするべきことをせよ、最善だと思うことをせよという意味に理解しました」

「それはベラスコを射殺しろということか?」

「いいえ。そういうことではないです。状況次第です。状況によっては他の方法も考えられます」

「ほう、他の方法。たとえばどういう方法があるのか話してくれないかね」

「それには答えられません」

 数秒間の沈黙。正面に座っている調査官が私を睨んでいるような気がする。

「オニール巡査。質問に答えなさい」 

「できません。私が言ったように、何をするかは状況によって変わります。他にどんな方法が考えられるかは、その状況になってみなければわかりません。昨晩、あれ以外にどんな方法があったかは、そういう状況になってみなければ答えられません。不確かな推測では判断も行動できません」

 再び沈黙。今度は少し長かった。

「なるほど、よくわかった。それではケリー巡査は、そういう状況になったらいつでも容疑者を撃てと君に教えたんだな?」

「ケリー巡査はそんなことは一言も言ってないです」

 私は少しきつい口調で答えた。

「それなら君は、すべて自分の判断で決めたのか?」

「はい」

 私が答えると、正面のテーブルに座っている二人がお互いの体を寄せて何か相談しているようだ。1分ほど質問が中断したあと、再び今までと同じ調査官が言った。

「オニール巡査、それでは本日の要点に入るが、君はまだ研修期間中の新人のはずだが。君は入署して、まだ3ヶ月にもなっていない。新人の君が自分の判断だけでベラスコを撃ったのか?」

「イエス、サー。私は昨晩の状況から判断し決断しました。状況が私に撃てと命じました」

「オニール巡査、君はずいぶんと自信があるようだが、射撃の能力も含めて、一体、誰が君にそんな権利を与えたんだね? は? 答えなさい」

 人を馬鹿にしたような口調だった。

「理由のひとつとして、私は以前、それをしたことがあります」

「以前したことがある? つまり、君は今までに誰かを撃ったことがあるのか?」

「はい」

「いつ? どこで?」

 「ベトナムでそれをしました、兵士として。それは私たちがそこでしたことです。私たちはそこで人を殺しました」

「君はベトナムで人を殺した・・・・・・」

 調査官が発した言葉は質問というよりも独り言のように聞こえた。

「それが私の仕事です。殺すことが私たちの仕事だったから。だからやったんです!」

 私のそういう言い方が気に入らなかったようだ。左のテーブルのほうから「オニール巡査、けんか腰にしゃべるのはやめなさい」という声が聞こえてきた。正面の調査官から次の質問が来た。

「よろしい。では話を先に進めよう。君が無線を入れたと言ったが、そのときに君はサイレントアプローチを要求して、それから何があった?」

「無線が切れたと同時くらいにサイレンが聞こえました。サイレンを鳴らしたまま誰かのパトカーがこちらのほうに向かってました。だからその警官は無線を聞いてなかったんです」

「君がサイレントアプローチを伝えたのは本当だね?」

 調査官がそういうと、右のほうから声がした。

「間違いないですね。司令室の記録に残ってますので、オニール巡査の言ったとおりです」

「そうか、よろしい。では、君が無線を入れた後、ケリー巡査はどうした?」

 また、ケリーの話か! この調査会はケリーが何をしたか知りたくて開いたわけじゃないだろ。

 このあとも、私が質問に答えるたびに調査官から「ケリー巡査は何を言った、彼は何をした」と、しつこく聞かれた。いい加減にしろと怒鳴ってやりたい気分だ。

 ケリーが容疑者を説得しようとしたこと、そのときのケリーとベラスコの会話、そのあと現場で起こったことを逐一もらさず話し続けた。 

「サイレンを鳴らしたパトカーが路地の近くで止まってサイレンを消したとたんに、あの男がパニックを起こして人質の女性の喉にナイフを押し付けて喉を切り裂こうとしてました」

「だから君は撃ったのか?」

「はい」

 私が返事をしたあと、次の質問までに30秒ほどの間があった。

「どうして君はベラスコを撃ったんだ? 彼はナイフしかもっていなかったじゃないか」

「今、言ったように、女性の喉を切ろうとしたからです。だから撃ちました」

 また短いインターバルがあった。調査官はテーブルに右ひじをついて、手の指で額をとんとん叩いている。

「オニール巡査。君は、撃った弾があの女性に当たるとは思わなかったのか?」

「私の撃った弾は女性には当たりません」

「どうしてそんなことがわかるんだね、オニール巡査?」

「私はそのように訓練されました」

「どういうことか、もう少しわかるように説明しなさい」

 調査官が言った。

「説明する前に、『人は自分の限界を知るべきだ』という言葉をご存知でしょうか。ダーティ−ハリーのセリフです」

「オニール巡査、ここは神聖な場所だ、娯楽映画の話を聞くつもりはない。真面目に答えなさい」

 調査官からつっけんどんな返事が返ってきた。

「ここが神聖な場所だということは十分にわかっています。ふざけて言ったわけではありません。でも、昨晩、私が発砲したのは、自分の限界を超えた仕事ではありません。私の持っている能力の範囲内でしたことです。私には彼女を傷つけずにベラスコだけを仕留めることができます」

 私が答えると、調査官の指の動きが止まった。

「たいした自信だが、オニール巡査。君は射撃の天才かね? 神は君にそういう特別な能力を授けたのか?  私も長年警官をしているが、自分の撃った弾が人質にあたるかもしれないという不安は常にあるんだがね。君にはそういう不安はないというわけか」

 調査官の言葉の調子から、私を小バカににしているのが感じられる。

「そのような不安は一切ありません。私はそのために訓練されました」

「ほほう、君はそうなるように訓練されたというんだな。なるほどね。君の射撃に対する自信の程はよくわかった。しかし自信過剰の警官は危険じゃないかね? 市警の警官が君のようになるまで射撃訓練をすることは、多分この先もないだろうねぇ。ないことを願っているよ」

 スポットライトのせいで、いつまでたっても暗闇に目が慣れない。この調査官がどんな顔でしゃべっているのかはわからないが、きっと、嫌らしい薄笑いを浮かべているのだろう。 

「あなた方がアカデミーで教えているのは、どうやって銃を構え、どこを狙えば効果的かということだけです。でも私はそれ以上の訓練をうけました。戦場で経験もしました」

「つまり君はその方法で殺したというんだな」

「そうです」

「オニール巡査、君が受けたという特別な訓練を少し聞かせてもらえないか」

 そういうと、調査官は体を後ろに引いて椅子の背にもたれかかった。私の話を真剣に聞く気はないようだ。

「わかりました」

 私は少し咳払いしてから話し始めた。 

ベトナムで・・・・・・、私は特殊部隊のスナイパー(狙撃手)として訓練されました。射撃はFBIのスナイパースクールでターゲットを一発で仕留める訓練を受けてきました。M21スナイパーウェポンシステムが使いこなせるように訓練されて、ナトラングで、私は特殊任務を遂行するためマイクのチーム(グリーンベレー)に配属されました」

「特殊任務とは何だね?」

「私たちの仕事は、戦闘の激しい場所に行って、苦戦している部隊に合流して戦って、仲間をそこから救い出すことでした」

「なるほどね。ところで君がさっき言ったM21何とか、というのは一体何かね?」

「M21スナイパーウエポンシステムはセミオートマティックの狙撃ライフルのことです。弾は7.62mmのNATO弾を使用。マクミランM1A ファイバーストック、ライフルスコープはハリス製バイポッド、それとボシュロム社の10×40タクティカルパワースコープを装備したM14 ナショナルマッチライフルです。私が受けた訓練は銃に関するテクニックに加え、どんな環境におかれても、正確にターゲットに命中させるために、気温、風向、湿度などに関する知識も身につけました。銃に関する知識、射撃のテクニックも重要ですが、自分を取り巻く環境の情報を知ることで、自分の発射した弾がどこを通りどの角度で、どこに命中するか正確に計算できます」

 

 私が銃の説明をすると、調査官はテーブルのほうに身を乗り出してきた。

「なかなか大した知識じゃないか。M21についてはわかったが、君の持っているのはリボルバーで狙撃銃とは違うだろ」

 調査官が言った。

「私がFBIで訓練を受けていたとき、私が使ったすべての弾のコンディションをチェックしました。天気の良い日、風のある日、雨の日、寒い日、あらゆる天候で、銃身から発射された弾がどのように飛び、どれだけの威力でターゲットに命中するか、銃弾の飛距離、角度、あらゆることを計算し、その誤差はどれくらいか、細かく調べてそれをノートに記録しました。其れと同じことを、アカデミーの訓練期間中にサービスリボルバーで実験しました。弾の状態を、雨の日、乾燥した日、寒い日、その他にもあらゆる環境で色々自分で試してみました。それを記録したノートも持っています。私はリボルバーの性能を熟知しています。発射した弾は私が計算した通りの場所に命中します」

 私の説明が終わっても正面の調査官はしばらく何も言わなかった。それから、隣に座っている調査官と少し話をしてから、私に質問した。

「これは驚いたね。オニール巡査。君のその研究熱心なところは実に立派だ。訓練生には君の努力をぜひ手本にするよう伝えるよ。それで訊きたいが、昨晩のアントニオの路地のコンディションはどうだったかね?」

「風はありません。気温は10度でした」

「それで君の経験から現場で瞬時に数値をはじき出し、撃っても女性には当たらないと確信したわけか?」

「そのとおりです」

「しかしねぇ、オニール巡査、君の話ではベラスコのナイフは女性の喉もとに押し付けられていたということだが、撃たれた瞬間に反射的にナイフが動いて喉を切り裂く可能性もあるのではないかね」

 調査官はまた椅子の背にもたれかかって、私に言った。

「それはありません。私の撃った弾は容疑者の口に入りました。口から入った弾丸は頭の中で延髄を切断するか破壊します。そこを破壊することで、生命を維持するために必要な神経のシステムが全て機能しなくなります。人間は延髄を破壊されたら、ただ糸の切れた人形のように崩れるだけです。だからあの男の手が反射的に動くことはありません」

「君はそれを知ってるわけだ」

「はい、知っています」

 誰なのかわからないが、左横のほうからため息が聞こえた。

「オニール巡査、昨晩の話に戻るが、君はベラスコを撃つことに対して、どういう風に思った?」

「それが私の仕事だと思いました」

「仕事?  相手は人間じゃないか!  君は人を撃つことをただの仕事だと思っているのか!」

 私を責めるような口調で調査官が言った。

「私が考えなければならなかったのは、人質に取られた女性を無事に救うことです。だから、あの男を人間として考える事をやめて、自分のするべき仕事に集中しました」

 調査官はしばらく何も言わず椅子の背にももたれず、私のほうをじっと見ているようだった。

「オニール巡査、それではベラスコを撃ったあとはどのような気分だった?」

 重苦しい沈黙の後、調査官が言った。

「いい気分ではありません。でも、他にしなければならないことがあったので撃ったことは考えないようにしました。あの時は、被害者の女性を早くあの現場から遠ざけたいと思いました」

「それはまたずいぶんと紳士的な振る舞いだな、オニール巡査」

 皮肉のこもった冷たい言い方だった。

「よろしい。よくわかった。他に何か言いたいことがあるかね? ここで君が話してくれたことで訂正したいことがあれば、今、ここで言いなさい」

「いいえありません」

「付け加えることも訂正することも何もないということだな。ではオニール巡査、ここで話したことは口外しないように。我々の調査結果が出るまでの間、君には謹慎処分を命じる。何か質問は?」

「ありません」

「では、これで終わりにする。オニール巡査、帰ってよろしい」

 私が席を立つと同時に、タランティーノ警視が無言でドアを開けた。暗い部屋で長時間、まぶしいスポットライトを当てられていたので、明るい廊下に出たとき、視力が急に悪くなったように感じた。

 

 220号室のドアから数メートル離れた通路に、昨日、人質にとられて喉を切り裂かれそうになった女性が立っていた。ジーンズに褐色のレインコート、真っ黒な髪の毛は男の子のようなショートカット。年齢は私と同じくらいか少し下かもしれない。私が彼女の横を通り過ぎてすぐに、「プリーズ」と呼び止められた。振り返ると、彼女は軽くお辞儀をした。昨日はわからなかったが、今、彼女の顔を見ると、あの男からかなり酷く殴られたようだ。大きな目の周りには青黒い痣ができていて、唇も腫れ上がっている。頬にも擦り傷がある。 

「サンキュー。きのう、よる。あなたは、わたし、たすけました。わたし、話します。話したいです。これ」

 と片言の英語で私に挨拶し、小さな紙切れを差し出した。紙には<タチバナマコト 555-7564 >と書いてある。

「これ、わたしのデンワ。あなたは デンワを できますか。あとから。OK?」

 彼女が言った。そのとき、220号室からタランティーノが出てきた。私が「はい、いいですよ」と彼女に返事をしたとき、警部補の怒鳴り声が聞こえた。

「オニール巡査! 彼女と話してはだめだ!」

「イェス、サー」と振り返らずに返事をし、紙切れをポケットにしまって、彼女には何も言わずに階段のほうへ歩いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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※ 兵士たちはグリーンベレーのことを『マイクチーム」と呼んだ。 

 

※ナショナルマッチ:命中精度を上げるために特別に設計されたファイヤーシステム

※マクミランM1Aファイバーストック:木よりも軽い銃床(肩に当てる部分)

※7.62mmNATO弾:北大西洋条約機構 (NATO) により標準化された小火器用弾薬

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※法廷での宣誓の言葉:

神の名にかけて、真実を,すべての真実を,そして真実だけを述べることを誓いますか。

(Do you solemnly swear to tell the truth, the whole truth, and nothing but the truth?)

  

 

 

 

エンジェルダスト(14)

朝7時。窓から差し込む眩しい光で目が覚めた。
 酷い頭痛。鼻を折ったときの頭痛とは痛みが違う。まるでくさい靴下を履いた兵隊が口の中で行進しているようだ。『地獄を見るぞ』とはこのことか。
 どうやってアパートまで帰ったんだろう。みんなで乾杯をして、アイルランドの歌を歌って、それからオールドブッシュミルズを一気に飲んで・・・・・・
ケリーがまた継ぎ足してくれて、それから警部からギネスをもらって飲んだような気がする。それから・・・・・・
 だめだ、記憶がそこまでしかない。とにかく熱いシャワーを浴びよう。それで少しはましになるだろう。
 ゆっくりベッドから起き上がった。服も着替えずに寝ていたのか。ひとつ体を動かすたびに「はぁ」とため息が出る。バスルームまでの距離のなんと長いこと。途中で椅子に足を引っ掛けてよろけて壁にぶつかった。
 壁にくくりつけられた薬戸棚をあけて、鼻を折ったときに病院でもらった痛み止めを2錠だして口に含み、洗面所の水道の蛇口から直接水を飲んだ。それからシャツもズボンも床に脱ぎ散らかして、夢遊病者のような足取りでバスルームに行き、いつもより熱いシャワーの下でしばらくじっと立っていた。熱い湯のおかげで兵隊たちの行進が少し緩慢になったような気がする。そのうち頭痛も治まってくるだろう。うがいをして歯を磨き、バスルームを出て洗い立てのスウェットスーツに着替えた。キッチンでコーヒーを沸かし、ラジオをつけた。しばらく椅子に座ってラジオのニュースを聞いていたが、昨日、自分の急所を撃った犯人のニュースは流れてこなかった。交通事故のニュースもない。みな無事、家に帰ったようだ。ロケット燃料とニックネームをつけたエスプレッソを2杯飲んで、1時間くらい、椅子に座ったまま寝てしまった。目が覚めたときには頭痛も消えていたので、近所のスーパーまで、散歩もかねて買い物に出かけ、帰ってからは汚れた制服の洗濯や部屋の掃除で一日を過ごした。
 夜、酔いつぶれた私を心配してケイコさんが電話をかけてきてくれた。ケイコさんの話では、乾杯のあと、ギネスを6杯、オールドブッシュミルズを5杯飲んでダウンしたらしい。完全に意識不明になった私をアパートまで運んでくれたのは警部とケリーだと教えてくれた。ギンズバーグでの飲み会の話を数分したあと、ケイコさんが私の明日の予定を訊いてきた。
「明日も非番でしょ。何も予定がないなら、キースも休みだからみんなでうちでご飯食べない? ビッグケリーも来るわよ。明日、寿司を作るの。キースがね、あなたたち、どうせ一人じゃ、チーズバーガーくらいしか食べてないだろうから、たまにはいいもの食べて栄養つけさせろって言ってるの。だから、明日の4時にまたうちに来て。いいでしょ? これは本部の警部からの命令よ、ブライアン。上司の命令には逆らえないわよ。OKね?」
 断る理由など何もない。警部のうちにまた遊びにいける。時間がゆっくり流れているあの静かなダイニングルーム。誘われなくとも何度でも行きたい場所だ。即座に「イエス」と返事をした。ケイコさんは警部の命令だといったが、きっとこれを提案したのはケイコさんだ。そんな気がした。
「それから、家に来るときはこの前みたいに、よそ行きの服でこなくてもいいわよ。ネクタイなんてとってきて。ジーンズでOKよ。じゃ4時に待ってるわね。バイバイ」
 相変わらず明るくて人懐こいしゃべり方のケイコさん。初めて会ったときもそうだったが、なぜか初対面という気がしなかった。ほんわかとした雰囲気のある気さくな女性。奥さんの話をするたびに警部の顔がほころんだのもわかる気がする。

 翌日はケイコさんに言われたように、ジーンズにスニーカーでギャラガー邸のドアベルを押した。今日は黄金色の猫ではなく黒白の猫が出迎えてくれた。今日もクラシックが流れている。部屋の中はかすかにスイートオレンジの香りがした。
 ダイニングルームのテーブルにはたくさんの料理が並べられていて、ケリーも警部も先に座って待っていた。大きな陶器の深皿には、きゅうりや卵、それ以外の名前はわからないが、赤や黄色や緑できれいにトッピングされた料理がのっている。
「今夜はチラシ寿司つくったの。食べてみて。これがマグロで、これがイカのサシミで・・・・・・」
 ケイコさんが食材の日本語を教えてくれている間に、警部が私の小皿に寿司をよそってくれた。
「ほら、ボーイ。フォークでいいから、この魚、食べてみろ。うまいぞ」
 警部が皿に色々乗せてくれた。警部のこんな姿は仕事中のあの無愛想な表情からはとても想像できない。グラスの氷がなくなると、ケリーは勝手にキッチンの冷蔵庫から氷を出してくる。ケイコさんは足元に絡みついてくる3匹の猫たちに魚をちぎってあげていた。なんだか本当の家族のような気がしてくる。

 そういえば、もう何年も家族そろって食事をしたことがない。私の本当の父は私が生まれてすぐに死んでしまった。6歳のときに新しい父と血のつながっていない弟ができたが、義理の父は私よりも弟のほうをかわいがった。義理の父は完全な白人至上主義者で、食事の時間になると、必ず始まるのが白人がいかにすばらしいかという話。彼の話が終わるまで、心の中では大好きだったジャングルブックモーグリのことばかり考えていた。こんな話を毎回食事のたびに聞かされることに嫌気がさして、学校が終わってもすぐには家に帰らず、友だちと夜遅くまで遊びまわっていた。最初から義理の父とは気があわなかったのだ。だから、いままで、義理の父を「パパ」と呼んだことは一度もない。本当の父が生きていたら、警部のように私の皿に料理をよそってくれたかもしれない。義理の父は絶対にしてくれなかった。

 楽しい時間は瞬く間に過ぎていく。テーブル中、所狭しと並んでいた料理もすべてなくなり、ケイコさんがキッチンで食器を洗っているとき、警部が一枚の写真を私たちに見せた。
「この男を知ってるか? 名前はジョナス・ジョーンズ」
 警部が訊いた。
「ああ、こいつならよく知ってるよ。すりの常習犯だろ。オニール、覚えてるだろ。去年のイブにケーブルカーのターンテーブルのところであった黒人だ」
「はい、この男なら覚えてますよ」
 あのあばただらけの顔は今でもよく覚えている。
「サンクエンティンに未だいると思ってたら、オニールとパトロールに出た最初の日に、偶然見かけてね。ケーブルカーの乗客の列に混ざってたから、どうせまたすりでも始めるんだろうと思って、ちょっと脅したら逃げてったよ。で、こいつがどうかしたのか?」
「こいつはもうスリはできない」
「出来ない?」ケリーがきき返した。
「ジョナスは死んだよ」
「えっ? この男、死んだんですか?」
 私が訊いた。
「首の骨を折って即死だったらしい。そのことで昨日は朝から捜査課の課長に呼び出されてね。おかげで二日酔いが一気にさめてしまったよ」
「なんで首の骨なんか折ったんだ? また自殺か?」
 ケリーが訊いた。
「いや、自殺じゃない。ジョナスの女房の話によると、部屋でマリファナを吸ってたようだが、それからしばらくして、突然大声でわめいて部屋を飛び出していって、アパートの階段から転げ落ちたときに首の骨を折って死んだらしい。まだ検視報告書を見てないが、おそらく今回もPCPが出るような気がするんだが。もしそうなら、クリスマスイブから昨日までで、PCPの犠牲者は12件になる」
「12件も! そんなにあったんですか」
 警部はギネスを一口飲んでから私の顔を見た。
「ボーイとジョンが直接かかわったのは3件だが、テンダーロイン以外の地区でも犠牲者が出ている」
「PCPの出所は何かわかってるのか?」
 ケリーが訊くと、警部は首を横に振った。
「死人に口なし。生きてるやつは記憶がない。正直、今のところこれといっていい情報がない」
 警部はそういうと、テーブルに置いてあるマルボロの箱から一本取り出して、ライターで火をつけた。ちょうどそのとき、ケイコさんが日本のお茶を持ってきてくれた。
「はい、ブライアン。日本のお茶、飲んだことある?」
「あ、はい、日本茶なら何回も飲んだことあります。ジャスミンティーとグリンティー、好きだから家にもいくつかおいてますよ」
日本茶が好きなんてめずらしいわね。コーヒーにしようかと思ったけど、よかったわ。もちろん、砂糖なんかいれないわよね」
「はい。誰か日本茶に砂糖入れるんですか?」
 私が訊くと、ケイコさんはにやっと笑って、警部とケリーの顔を交互に見た。
「この二人、砂糖無しじゃ飲めないのよ。日本茶に砂糖なんて日本文化の破壊よねぇ」
 ケリーはアハハと笑っている。警部は軽く咳払いして警部の隣に座ったケイコさんの頭を軽く叩いた。ケイコさんは笑いながら警部の前にシュガーポットを置くと、またキッチンに戻っていった。

「ああ、そうだ。PCPで思い出したが、ボーイの作ってくれたPCPの資料、お前の名前を入れて麻薬課(Narcotics)と捜査課(Inspector Bureau)に配ったんだが、課長からブライアン・オニールなんて捜査官は知らないって言われてね」
「ええ! 私の名前入りで配ったんですか?」
「あの資料はお前が全部作ったんだから、私の名前を入れるわけにはいかないだろ。だから課長にはちゃんと説明しておいたよ。ブライアン・オニールはテンダーロイン署の優秀な新米警官だってな」
 横できいていたケリーが私の肩を軽く叩き、笑顔で言った。
「オニール。ホントのことだから困ることはないだろ」
「え、でも・・・・・・」
「とにかく資料の出来栄えには課長もずいぶん感心して、公式文書にして配布したいといってる。このことは90日の研修が終わったときの評価にプラスされるぞ。将来、捜査官になりたいと思ったときに、課長に名前を覚えてもらっていたら、お前を推挙するときにも都合がいいだろ」
 警部が言った。
「ありがとうございます。でも、まだ捜査官になるかどうかは・・・・・・」
 というと、「お前、ギンズバーグクルーゾー警部になりたいって叫んでたじゃないか」とケリーが笑いながら言った。
「なんだ、ボーイ、覚えてないのか? 酷いフランス語のアクセントだったが、全員に言って回ってたんだぞ。まぁ、新米にしてはずいぶん行儀がよかったなぁ。新入りで酔っ払ってあそこまでやったのは市警始まって以来だぞ。だがな、ボーイ、そう焦るな。捜査官になりたければ、色々手順をふまんとな。もしお前にその気があるなら、どうやって振舞うかはジョンに教えてもらえ」
 警部はにやりと笑った。
 私がそんなことを叫んでいたなんて今始めて知った。二人でからかっているんだろうか。とにかく何も覚えていない。でも、将来、捜査官になるというのも悪くないかもしれない。

 翌日の夕方は、いつものように私とケリーはテンダーロインをパトロールしていた。私の鼻もケリーの肋骨もほとんど治っていたので、パトカーではなく徒歩で巡回していた。日が沈むまで、ギアリーストリートからオファレル、エリス エディーストリートをぐるっと周り、7時ころ、ギャラガー警部から無線がはいりタッドのステーキハウスで一緒に夕食を食べることになった。
 エリスストリートを歩いているとき、またあの赤いマスタングを見つけた。ナンバープレートには「IMPORT]と書いてある。でも今回は駐車禁止のレッドゾーンには別の車が入っていて、マスタングはその車に横付けするような位置で止まっていた。エンジンはアイドリング状態で、運転席には20代くらいの男が乗っている。運転手側の窓は開いていて、運転手は窓枠に肘をかけて外に立っている黒人の若者と話しをしている。
「あいつらヤクの取引でもやってるように見えるんだが・・・・・・」
 ケリーが言った。
 マスタングのほうに向かって歩いてくる私とケリーの姿を認めると、路上の男はあわてて助手席に乗り込み、ドアが閉まるとすぐにマスタングはタイヤの音をきしませて私たちの横を走り抜けていった。私たちの横を通り過ぎるとき、顔を見られたくないとでも言うように、運転席の男は頭を下に向けた。しかし私もケリーも運転手の顔をはっきり見た。彼は黒人ではなく中国人か日本人のような顔をしていた。
 マスタングを追跡したくとも徒歩ではどうすることもできない。しかし追いかけたところで、路上で話をしていただけでは罪にもならないし、せいぜいスピード違反で捕まえるくらいしかできないだろう。
「横に乗ってた黒人、あいつはタイリー・スコットだな」
 ケリーは助手席の男の顔もしっかり見ていたようだ。
「タイリー・スコット? 誰ですか?」私が訊いた。
「この辺を縄張りにしてるヤクのディーラーだ。しばらく務所に入ってたんだがな」
「あいつが。ヤクのディーラーなんだ」
「ああ。ヘロイン。コカイン、テンダーロインならほしい奴はいくらでもいる。いいか、オニール。パトロール中に妙なやつを見かけたら一回でそいつの顔を覚えるんだぞ。2回目に同じやつに会ったら要注意。3度目は危険信号だ。タイリーは度々見かけたからな。あいつのやり方はストリートの客に直接は売らない。ディーラーにおろすんだよ。委託販売みたいなもんだ。それでディーラーから金をもらうんだ。ヤクの代金とディーラーが売りさばいた分の何パーセントかがあいつの懐に入るわけだ。オニール、いま言ったことはおまえさんのクライムストッパーノートにメモしておけよ」
「はい、わかりました」

 タッドのステーキハウスで食事をしているときに、パトロール中に見かけた赤いフォードマスタングのことを警部に少し話した。警部はステーキを食べながら無表情で話を聞いていたので、私の話には興味がないのかと思ったら、「もっと詳しく聞かせてくれ」といわれた。私はマスタングを最初に見かけたときのいきさつから今夜のことまで、自分にわかる範囲で警部に話した。助手席に乗っていた黒人の話はケリーが伝えた。
「タイリーなら昔、かかわったことがあるからよく覚えているよ。やつが動くのは自分の儲けになるときだけだ。あの男はどうしようもならんクズだ。白人を徹底的に憎んでる」
 警部の表情は変わらないが口調がきつい。
「奴隷の時代は終わったのに、どうしていつまでも黒人は白人を憎むんですか?」
 日ごろから思っていたことを少し警部に質問してみた。
「白人だから、それだけだ。それ以外の理由なんか何もない。タイリーはアジア人も憎んでるようだが。自分のビジネスに役に立つアジア人は別だがね」
 警部は皿に残った最後の一切れを口に放り込み、ナプキンで口を拭いてから話を続けた。
フィルモア地区とテンダーロインでチャイニーズギャングが黒人のディーラーにヤクを売ってるという情報を掴んだが。たまたまその現場を見たという目撃者からの通報だ」
「チャイニーズギャングか。それならあのマスタングの運転手、ひょっとしたら中国人か? オニール、運転手の顔、お前も見ただろ」
 ケリーが私に顔を向けて言った。
「はい、日本人か中国人かわからないですけど、そんな顔でしたね」
 私が言うと、警部は腕組みをして眉間にしわを寄せ何か考えていた。短い沈黙の後、警部が言った。
「その運転手、中国人の可能性が高いな。おそらく私の推測だが、今夜、タイリーは中国人のディーラーと取引してたんじゃないだろうか」
「わたしも最初見た時、そう思ったんだ。オニール。おまえはどう思う?」ケリーが私に訊いた。
「そんな気がします。それに私たちの姿を見たらあわてて車、発進させたし、何にもしてないなら運転手が顔をかくすこともないのに。とにかく何か変な感じでした」
「いい情報だ。いまの話は麻薬課にも伝えておくよ。多分、彼らはタイリーに監視班を付けると思う。えっと、それから、ボーイ、おまえたちが見たマスタングのナンバーと、他に何か車のことでわかってることがあれば教えてくれないか」
 私は警部に車の情報を伝え、警部はそれを手帳に書き取っていた。
「ニューモデルで、IMPORT。広東パシフィックインポートが所有か。オッケー。サンキュー。これだけでも調査の手間が省けるよ。それじゃぁ、今夜はチャイナタウンをひとまわりしてくるか」

 店を出たあと、警部はフューリーでチャイナタウンに向かい、私とケリーは来た道を戻ってオファレルストリートのほうに向かって歩いていった。レロイが頭をぶち抜いたオファレルシアターは今夜も茶褐色の怪しげなネオンの明かりにくるまれている。冬の雨がチョークのあとも血の痕も、きれいさっぱり洗い流してしまった。割れたガラスケースも元通りになっている。オファレルシアターから少し行くとグレートアメリカンミュージックホールがある。今夜はロックのコンサートをやってるようだ。
 私たちは中の様子を見るために、満員の会場に入ったが強烈なフラッシュライトと無数のストロボの光、ものすごい大音響でお互いの話す声がよく聞こえない。ロックのリズムに合わせて若い男女が踊っている。会場は歩く隙間もないほど混雑していて、私たちの立っている場所からでは 中で何がおこっているのか全く見えない。マリファナの匂いがするが、どこから匂いがきたのか、誰が吸っているのか、この超満員の会場の中では見つけるのは不可能だ。これ以上ここにいても仕方がないのでコンサートホールから出てストリートに戻った。
 ロックの大音響の中にいたので外に出たときはほっとした。コンサートホールの地響きするような大音響に比べると、ストリートの騒音のほうがまだましだ。私たちはギアリーストリートでコーヒーを買って飲みながらパトロールを続けた。
 メイソンストリートとテイラーストリートの間に映画館が2軒あり、私たちが通りかかったとき、ちょうど映画が終わったようで、エキサイトした観客がぞろぞろと外に出てきた。路上が一気に賑やかになった。10時30分ごろまで、このストリートを行ったりきたりしていた。11時になると、映画館の周辺でたむろしていた若者たちの姿も消え、そろそろシフトも終わる時間なので署に戻ることに決めた。
 道すがらケリーが子供だったころの話をしてくれた。彼の家はミッション地区のチャーチストリート沿いにあり、高校時代はフットボールの選手だったという話をしながらのんびりと歩いていた。

 エリスストリートとオファレルストリートの間にアントニオストリートと言う名前の路地がある。ストリートと名前はついているが奥は行き止まりで通り抜けはできない。私たちがアントニオストリートのすぐ近くまで来たとき、路地の奥から空き缶が何かにぶつかる音がした。続いて女性の叫び声。ケリーと私は路地の角まで走り、ケリーが奥を覗きこんだ。
「オニール、これはまずいぞ」私の耳元でケリーが言った。
 私も頭を突き出して路地の奥に目をやった。数メートルほど先の行き止まりになったところに誰かがいる。路地には街灯はないが、路地の両脇に立っているアパートからもれる窓の明かりで、そこの人がいることがわかった。 
 ケリーが懐中電灯で路地の奥に明かりを向けた途端、パチーンと頬を平手打ちしたような音がした。数メートル先の行き止まりになったところに男が立っている。男の足元にはアパートの壁を背に地面にべったりと足を投げ出して座っている女性がいる。彼女のブラウスは前がはだけ、ブラジャーがずり落ちて片方の乳房が見えていた。もう一人の女性は、男の左腕に抱きかかえられ、髪の毛を鷲掴みにされているので身動きできない。彼女たちはアジア人のようだ。ハァハァという男の激しい息使いが聞こえる。
「警察だ! やめろ!」ケリーが叫んだ。
 男はこちらを振り向くと同時に、女性の髪を強く上に引っ張って右手に持ったナイフの刃を女性のわき腹に突きつけた。
「やめろ! ナイフを下ろせ!」ケリーが再び叫んだ。
「うせろ! ブタ!(Fuck you pig!)」
 男が叫んだ。左腕で抱きこんでいた女性をケリーのほうに向かせ、今、男はその女性を盾にしている。
「オニール、よく聞け」
 ケリーは私の耳元でささやくよりももっと小さな声で言った。
「わたしがこいつをとめる。おまえのライトを消せ。絶対にライトは使うな。お前はあいつから見えないところで、すぐに救援を呼べ。サイレントアプローチだ、わかってるな。それからわたしの右側でお前が援護してくれ。この男を説得してみる。うまくいくかどうかはわからないが、万一、わたしの身に何がが起こっても、わたしのことにはかまうな。お前は彼女たちを救うことだけ考えろ。わたしのことは絶対に心配するな。もしも、あいつが彼女たちに何かしようとしたら、お前は正しいことをしろ。わかったな」
「わかりました」
 私はすぐに建物の影になった暗い場所に入って、無線の音量を小さくしぼり司令室に救援を要請した。
「こちら3アダム42、コード3。場所はアントニオ。エリスとオファレルの間、ジョナスの西。ナイフを持った男が人質を取っている。容疑者は白人。年齢30代、黒髪、ブルーのシャツ、茶色のズボン、女性を二人、人質に取っている。ネゴシエーター(交渉人)とSWATを要請する。全ユニットにサイレントアプローチを要求する。繰り返す。サイレントアプローチ」
 通信を終え、ケリーのほうを振り向いたと同時にパトカーのサイレンが聞こえた。それは次第にこちらの方角に近づいてくる。
 バカヤロウ!  無線を聞いてなかったのか!  誰のパトカーか知らないが、とにかく早く消してくれ!  音は男の神経を逆なでする。しかし、サイレンはなりやまない。
 ケリーは懐中電灯の灯りを男の顔と上半身にあてながら、ゆっくりと距離を縮めていく。男の右頬にはナイフで切ったような深い傷があり、ザックリ割れた傷口から滴り落ちる血をベロでなめていた。ハァハァと呼吸をするたびに男の肩が大きく上下している。男の左腕に抱きかかえられ、ハンティングナイフをわき腹に突きつけられた女性の目は恐怖で見開かれ、瞬きひとつしない。
「ナイフを下ろしてその子を放しなさい」
 ケリーは穏やかな口調で言った。
「うるせぇ! 消えろ! こっからうせろ!」
「それはできない。ナイフをおろしてその子を放してほしい」
「やだね。そんなことできるか(ain't goin' to happen me)」
 半開きになった男の口から、血の混ざったよだれと一緒に短い笑い声が漏れた。
「オレはやりてぇんだよ。この黄色のメス豚(slant bitch)とよ。オレ様のコックをよぉ、ぶち込みてぇんだよ」
 男の口元の筋肉がヒクヒク動いている。そのたびに頬の傷も一緒に動き、まるで口が頬まで裂けたようにみえる。
「オレの邪魔するな!  それ以上くるな、さがれよ、こっちへ来るな!」
 地面をするようにじわじわ動いていたケリーの足が止まった。私はケリーの右後ろ、男からは陰になって見えない場所に立ち、リボルバーを抜いて撃鉄を起こし、男の頭部に狙いを定めた。ケリーはゆっくり穏やかに説得を続ける。 
「それはできないと言っただろ。お前がナイフを下ろして彼女とそこの友だちを放してくれたら、わたしたちは何もしない。お前を傷つけるようなことはしない。約束する」
「うそつけ! おまえ、オレを殺したいんだろ(You wanna fuckin kill me)」
「そんなことはしない。ほら、見なさい。銃は持ってない」
 手の中には何もないことを男に示すため、ケリーは右手をライトの明かりの中に差し出した。
「わかっただろ。銃は持っていない。だからナイフを下ろしてくれ。そうしたら誰も傷つかずにここから帰れるだろう。もちろんお前も無事だ。よく考えてくれ。ナイフを下ろして彼女たちを自由にするのが、お前にとっては一番いい方法じゃないか」
 男は何も答えない。ナイフの刃を女性のみぞおちの部分に押し当てながら少し考えているようだ。
 そのとき、ずっとサイレンを鳴らして走ってきたパトカーがすぐ近くで止まり、サイレンを消した。その途端、男の態度が急変した。
「この豚ヤロウ!」
 男はナイフを女性の喉もとに押し当て、ケリーをにらみつけながら叫んだ。
「このうそつきめ! 仲間をよんだな! お前ら、この女を逃がしたら、オレを殺すつもりだ!」
 男は彼女の頭を左肩に押し付けた。ナイフを握った手に力が入る。人質にとられた女性は目を大きく開き、ただ一点だけを見つめている。
 彼女の喉にナイフの刃が強く食い込んだ。
 今、まさに喉を掻き切ろうとしている。
 私は男に意識を集中した。敵の動きが見えてからではもう遅い。動きの起こりをとらえるのだ。私は陰の中で銃口を男に向け、その瞬間を待った。

 数秒後、ナイフを握り締めた拳がかすかに変化した。
 いまだ! 
 ナイフが右に引かれる瞬間。時間にしたら1秒にも満たない瞬間の動きが、はっきりみえた。
「うそつきのブタヤロウ!」
 男の叫び声と同時に私は引き金をひいた。
 雷鳴のような銃声。
 銃身から噴出す青と金色の炎。
 炎から飛び出した弾丸が、まっすぐにターゲット目指して飛んでいく。
 私にはそれがはっきり見えた。まるでスローモーションの映像のように、ゆっくりと弾が空中を飛んでいく。
 弾丸は男の歯を砕き、口の中に消えた。後頭部から真っ赤な血しぶきをあげ、男は糸の切れたマリオネットのように地面に崩れ落ちた。男のナイフは獲物の首を切り裂くことはできなかった。
 全てが終わったとき、あらゆる動きが通常の速さにもどった。

 一瞬にして静寂。硝煙の臭い。ケリーは身じろぎもせず倒れた男を見ていた。しかしすぐに私のほうに振り返りだまって頷いた。私とケリーは、ナイフを突きつけられていたアジア人の女性のほうに歩み寄った。年は私と同じくらいかもしれない。まるで凍り付いてしまったかのようにその場に立ちつくし大きな目で私たちをじっと見ている。口をしっかり閉じ、目には涙も浮かべていない。もう一人のアジア人の女性は、壁に背中をつけ、あらわになった胸を隠すように両腕でひざを抱きかかえ、がたがた震えている。彼女の顔からは血が流れていた。
 地面にはキャップのとれた護身用の催涙スプレーの缶が転がっていた。おそらくこれで身を守ろうとしたのだろう。催涙スプレーのそばには、ミリタリーサバイバルナイフが転がっていた。死んだ男が持っていた刃渡り20センチのハンティングナイフは立っている女性の足もとにあった。
 私は銃をホルスターに戻し無線をとった。
「こちら3アダム42。コード4、容疑者は死亡。スーパーバイザーと救急車を要請する。コード3は解除」
 私からの連絡が終わると司令室の通信士はすぐに全ユニットにむけ、私からのメッセージを繰り返した。ケリーは震えてしゃがみこんでいる女性を立たせ、抱きかかえるようにして暗い路地から街灯のともった明るいストリートのほうへ連れて行った。私は立っている女性のそばにより、「もう大丈夫です。あなたを傷つける人はもういませんよ」と声をかけたが、彼女は何も答えない。私は彼女の肩に左腕を回し、右手で彼女の二の腕をつかんで支えるようにして歩き、暗い路地を出た。歩道には銃を抜いた警官たちが何人かいた。彼らに軽くうなずきながら、待機していた救急車のほうに行き、彼女を救急隊員にあずけた。振り返ったらケリーが立っていた。
「彼女たちは無事だ。よかったな、オニール、ありがとう」
 彼は私の肩に軽く手を置き、数回、肩を軽く叩いた。いつもの張りのあるバリトンではなく、少し疲れているような声だった。

 フラナガン巡査部長のパトカーが到着すると、ケリーは険しい表情でパトカーまで歩いて行った。ドアが開いてフラナガン巡査部長が降り立つと、ケリーは激しい言葉を投げつけた。
「一体、誰がサイレンなんか鳴らしたんだ! クソッタレのバカはどこのどいつだ! そいつのせいであの女性が殺されかけたんだぞ。今すぐ、そのバカ者をここへ呼んでくれ!」
 ケリーはすごい剣幕で巡査部長に怒りをぶつけている。その場にいた全員が、黙ってケリーを見ていた。
「ジョン、わかった、よくわかったよ。だから少し落ち着いて。その警官を見つけて、私からよく言い聞かせておくから」
 巡査部長はケリーの大きな肩に両手をかけ、落ち着いた静かな声で答えた。
「ジョン、腹が立つのはよくわかる。でも、今は気を落ち着けて。まず、何があったのか話してくれないか。はじめから、ゆっくりでいいから、ここで起こったことを教えてほしい」
 少しの間、ケリーは巡査部長を睨み付けて何も答えなかったが、気を取り直し話し始めた。私はケリーの話が終わるまで、うつむいて巡査部長が乗ってきたパトカーにもたれかかっていた。なぜかわからないが無性にタバコが吸いたくなった。
「だれか、タバコをもってないですか?」
 私は下を向いたまま、そう言った。誰も聞いてないだろうと思ったら、横からタバコの箱がさっと差し出された。
「ほら、一本とれ」
 聞きなれた声。マルボロの箱。

 ギャラガー警部だった。
 差し出されたパッケージから一本抜きとると、警部がマッチで火をつけてくれた。警部からもらったマルボロを吸っていると、ベトナムにいたころを思い出す。戦場で吸ったタバコがどれだけ旨かったか。一本を吸い終わるまでの短い間だけ、私の周りのすべてを断ち切ることができる。
「全部もっていけ。私のはまだ車に積んである」 
 私は警部に礼をいって、マルボロの箱をポケットにしまった。それから、ホルスターに戻したリボルバーを取り出し、シリンダーを開けて警部に渡した。
「私の銃です。弾道検査にまわしてください」
 警部は何も言わず、ただうなずいて私の銃を受け取ると、容疑者の死体がある路地のほうへ歩いていった。
 フラナガン巡査部長とケリーの話が終わると、巡査部長が私を呼んだ。
「今からケリーと一緒に署に戻って、報告書を仕上げなさい。細かいことも全部、書き忘れないように。それが終わったら、二人でギンズバーグに行って待ってなさい、私もここが片付いたらすぐに行くよ。あとからみんなには連絡を入れるから、とにかく店で待ってなさい」
 巡査部長が優しい口調でそういった。
 私たちは署に戻り、報告書を書き終えてからケリーのワーゲンでギンズバーグに向かった。

 テンダーロイン署の仲間たちがギンズバーグに集まってきたのは深夜1時を過ぎていた。普段は話したこともない人たちが私のそばにきて握手をしたり、ビールをおごってくれた。
 2時ごろ、フラナガン巡査部長とギャラガー警部が店にきた。巡査部長がスコッチウイスキーを持って私とケリーのテーブルにやってきた。
「オニール、今夜、君がやったことは間違っちゃいないよ」
 巡査部長が私の肩に手を置いて優しい声でそう言った。
「それから、ジョンのやったことも立派だったよ。私の時代じゃ説得するなんてことはしなかった。すぐに力でねじ伏せようとしたもんだ」
 巡査部長の顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。
「それから、オニール、たのみがあるんだが。今夜はあんまり酔うんじゃないよ。多分、明日、君とジョンは今夜のことで、内部調査課(Internal Affairs)に呼ばれるはずだ。二日酔いじゃ具合が悪いからね。今夜のことを根掘り葉掘り聞かれると思う。謹慎処分にされるかもしれないが、そうなるかならないかは彼ら次第だ。最悪の場合、もしも謹慎処分になっても、彼らの判断には、一切タッチできないんだよ。でも、今夜、君とジョンがやったことは正しいと思ってる。あの状況では君たちのとった行動は正しい選択だよ。私はねぇ、オニール、君とジョンのことで、彼らがおかしなことを言ってきたら、誰がなんと言おうと、彼らと同等の立場で私の意見を述べるつもりだよ」
 私はフラナガン巡査部長を見た。年老いてはいるが、その眼には強い力がある。巡査部長はスコッチウイスキーのグラスをかかげて、私とケリーのために乾杯してくれた。
 全員が店を出たのは深夜3時を回っていた。ケリーの車で途中まで送ってもらい、車から降りたあと、人通りの絶えた深夜のコロンブスアベニューをアパートに向かって歩いていた。
 海岸から吹いてくる夜風が冷たかった。でもその冷たさを感じることができるのが嬉しかった。
 私は今日も生きている。

 

 

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※slant またはslope はアジア人を侮辱した言葉。
ベトナム戦争のころ、米軍兵士がしばしば使っていました。アメリカ人は、日本人、中国人、ベトナム人のアーモンドのような目が嫌いだったようで、slant(slope) は特にアジア人の目の形を侮辱していった言葉です。slope は「坂」「傾斜する」という意味

※サイレントアプローチ:サイレンを鳴らさずに現場にくること。

※クライムストッパー:
アメコミ「ディック・トレーシー」に登場するディックを助け悪と戦う若者たちのグループ。
明智小五郎と少年探偵団のような関係。
アメリカの警察で市民から寄せられたあらゆる種類の犯罪に関する情報をストックしてあるものをクライムストッパーノートとよぶこともあります。

※監視班
犯罪を起こしそうな人物は24時間体制で監視される。
それを行うチーム