雑記帳

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エンジェルダスト(24)

暗く陰鬱な雲がサンフランシスコを覆い、雲が流す涙はストリートを濡らし、聖マリア大聖堂の前にたたずむ制服警官たちを湿らせていく。

 午前9時。
 朝の通勤ラッシュがおさまると、教会を囲むギアリーストリートとゴッホストリートの2車線は通行止めとなり、かわりに警察車両の駐車場になった。すでにギアリーストリートの教会寄りの車道にはパトカーの長い列ができていた。

 サンフランシスコ市警察、郡警察(the Sheriff's Department)、デーリーシティー警察、オークランド警察、カリフォルニアハイウェーパトロール、そのほか、北カリフォルニアのほとんどすべての警察がラムの葬儀に参列するためにここに集まってきている。教会の前には100名ほどの制服警官が霧雨の中でセレモニーの開始を待っていた。

 私はブラックのゴムバンドをはめたバッジをつけ、車椅子のフラナガン巡査部長の後ろに立っていた。テンダーロイン署の仲間も巡査部長の周りに集まっている。今日、私たちはラムに別れを告げ、彼を墓場までエスコートする。これは私たち警官にとって、二度と経験したくない悲しい任務である。
 巡査部長はレクイエムが始まると車椅子から立ち上がろうとした。眉間にしわを寄せ、唇をかみしめ、車椅子のアームを支えに必死で体を起こそうとしている。私は彼の体を押しもどし椅子に座るように耳元でささやいたが、巡査部長は聞き入れなかった。
 自分の部下が殺されたのだ。PCPの犠牲になった部下の最後を自分だけ座って見送ることは警官としてのプライドが許さないのだ。私は巡査部長を見てそう感じた。だから車椅子に押し戻すのをやめ、巡査部長の腕をもって立ち上がらせようとしたが 彼はそれも拒否した。
 フラナガン巡査部長はついに自分の力で立ち上がった。そしてレクイエムが終わるまで、タフなアイリッシュ警官は誰の支えもかりず背筋をのばして立ち続けていた。
 
 レクイエムが終わると、ラムの棺を載せたリムジンが数台の黒いキャデラックを従えてゴッホストリートの方からゆっくりと教会に近づいてきた。フラナガン巡査部長はまだ座ろうとしないので、私は小さな声できいた。
「大丈夫ですか?」
「私のことなら心配しなくてもいいよ。車椅子に座ってると、なんだか君の体の一部になったみたいでね、太陽のささない腹の中に閉じ込められてるようだよ」
 巡査部長は口もとに少しだけ笑みを浮かべ、いつもと代わらぬ穏やかな口調で言った。空軍スタイルの口ひげはワックスでかためられ、雨に濡れてもその形を崩すことがなかった。
「わかりました。でも疲れてきたら私にもたれてください。誰にもわからないようにしますから」
 私がそういうと巡査部長は小さくうなずいた。


 リムジンの霊柩車が教会の前で止ると、後部ドアから四つボタンの制服に制帽をかぶったジョンが降りてリムジンの後部に回った。数名の警官が霊柩車のほうに歩いていき、ジョンと一緒にリムジンからシルバーの棺をゆっくりとおろして肩に担ぎあげ、その場で立ち止まった。参列者全員が棺を見ている。制服姿のギャラガー警部とゴンザレス巡査がリムジンの助手席まで歩いていき、ドアを開けて、今は未亡人となったマエの手を引いて車から降りるのを手助けした。マエが車から降り立つと同時に、サンフランシスコ警察マーチングバンドによるバグパイプの演奏が始まった。それはアイルランドに伝わる軍隊の葬送曲である。曲が始まると、棺を担ぎ上げていた警官たちは、棺を肩から脇に移動し、ゆっくりと教会の正面に向かって歩き出した。ラムの棺のすぐ後ろには、ギャラガー警部とゴンザレス巡査に付き添われたマエが続き、その後ろを車椅子に座ったフラナガン巡査部長と私、テンダーロイン署の警官、各地区から来た警官たち、最後にバグパイプの音楽隊が続いて教会の中に入っていった。

 棺を持った警官たちは、荘厳な雰囲気に包まれた中央通路をゆっくりと進み、メタルのテーブルの上に棺を下ろすと、教会のアテンダントが棺を花で囲んだ。スコット署長はすでに最前列の信者席に座っていて、マエは署長の隣に並んで座った。全員が信者席につくとバグパイプの演奏が止った。
 右側の扉が開いて、豪華なローブをまとった大司教と、数名の司祭、チャイナタウンにあるオールドメリー教会の司祭が入場してきた。と同時に、サンフランシスコ交響楽団のストリングオーケストラによる演奏が始まった。

 儀式は厳かに進んでいく。聖書朗読。聖歌の斉唱。ガブリエル・フォーレのレクイエム の合唱。スコット署長による弔辞。署長の追悼演説の間、目頭を押さえない者はほとんどいなかった。

 葬儀が終わると、ソプラノ歌手の歌うシューベルトの『アベマリア』に見送られ、再びラムの棺は警官たちによって霊柩車まで運ばれていった。
 教会の外ではバグパイプアイルランドの葬送曲を奏でていた。ラムを乗せたリムジンはモーターサイクルオフィサー(白バイ隊員)に先導されて、サンフランシスコの南に位置する墓場の町として知られているコルマまでついていく。葬儀に参列したものはみな、それぞれのパトカーでリムジンの後に従った。私は巡査部長の車椅子を押して駐車場に戻り、巡査部長をパトカーの助手席に座らせ、車椅子を後部座席につんでコルマの共同墓地へ向かった。

 コルマの墓地には、ラムの棺を埋葬する穴が掘ってあり、棺を運んできた警官たちは穴の上に一時的に設置された支えの上に棺を置いた。楽団はアメージンググレースを演奏している。
 マエは墓のそばに置かれた椅子に座り、ハンカチを握り締めて、うつろな瞳で最愛の夫が眠る棺をみていた。

 オールドメリー教会のジョセフ司祭が棺に聖水をまき、ラテン語と英語で祈りの言葉を唱えた。それが終わると7名の警官が一斉にM−1ライフルを構え、重く垂れ込めた黒い雲に向かって三度、発射した。志半ばにして倒れた仲間を弔うための21発の礼砲が響き渡った。

 サンフランシスコは働くにはいい場所だ。そして、死ぬには最高の場所だ。

 ラムの棺に土がかけられたとき、そんな言葉がふと心に浮かんだ。

 ラムは最後まで警官だった。

 棺はもう見えない。

 最後の土がかけられた。


 サンフランシスコ市警ジェリー・ラム巡査のキャリアは幕を閉じた。

 享年 23才

 

 

 

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Vitas のアベマリア。素晴らしいソプラノ
http://www.youtube.com/watch?v=pMN5GJnYjrk&feature=fvst

youtu.be

 

※ 死ぬには最高の場所(a magnificent place to die)は
Tom Borges の詩からの引用。

※ガブリエル・ユルバン・フォーレ(1845-1924)
フランスの作曲家
「レクイエム」ニ短調作品48は彼の代表作

 

 

 

エンジェルダスト(23)

 木曜日。午前9時。
 市役所の裏にある地下駐車場にシボレーをとめ、朝の冷たい空気に包まれたゴールデンゲートアベニューを連邦ビルに向かって歩いていた。
 それにしても、なぜFBIのエージェントに会うのに上等なスーツが必要なのか。理由がわからないが、警部の命令なので、三つ揃いのブラックスーツに薄いブルーのシャツ、ストライプのネクタイをはめ、どこからみても品行方正でクソまじめな青年に化けてアパートを出た。

 連邦ビルはほとんど街のワンブロックを占領するほどの広さがある。アメリカの庁舎は、神殿を思わせるようなボザール様式の建物が多いが、連邦ビルの外観は、連邦政府の庁舎とは思えないモダンなビルである。これは連邦政府の庁舎であることをカモフラージュするために、連邦指令によりそのように設計されたのである。
 ビルの入り口に通じる階段を上がり、警備員にバッジとIDカードを見せ、中に入った。一階は入国管理局のオフィスで、ロビーには、ベトナム、インド、アフリカ、ラテンアメリカなど、世界各国から来た人たちであふれかえっていた。人垣を押し分けてビルの案内板でFBI支局の場所を確認し、エレベーターで7階まで上がった。このビルの他のフロアにもFBIのオフィスが入っているが、7階が受付になっていて部外者は先ずここで用件を伝えなければならない。エレベーターを降りると 床はゴージャスなローヤルブルーのカーペットが敷き詰められていて、ロビーはダークな色合いの木製のパネルで仕切られていた。受付に座っている若い女性は、いかにも良家の子女といった雰囲気がある。私は受付の女性に自分の名前と訪問の目的を伝えたが、彼女はまるで顔面の筋肉が張り付いてしまったようでにこりともしない。受付に蝋人形を座らせてどうするつもりだ!
「すこしお待ちください」と蝋人形がしゃべった。
 お待ちくださいといわれてもロビーには腰掛ける椅子もない。すぐに担当者が来るだろうと思ったら、10分待っても20分待っても誰も現れない。

 一時間が過ぎ、やっと組織犯罪の担当者がやってきたが、その間、ずっとロビーに立たされていた。
 まったくなんてところだ!  こんなところで一時間も待ちぼうけを食らわせて、私がアル・カポネじゃなかったことをありがたく思え!

 背の高い男が私の前に来た。金髪で真っ青な瞳。FBIの捜査官というよりはアメリカンナチスのメンバーといた方がぴったりする。
エドガー・ソーンズビーですが、今日はどういった用件でしょうか、オニール捜査官・・・・・・?」
 一時間も待たせておいて、それを詫びる言葉もない。ソーンズビーは最初、私の顔を見ると、全身をチェックするように、ゆっくりと視線を私の足元の方に移動した。まるで私が捜査官だというのは嘘ではないかと思っているようだ。こんな若造が捜査官になれるわけがない、きっとそう思っているのだろう。ソーンズビーは挨拶の握手もしなかった。

「アジアの組織犯罪についてお尋ねしたいのですが、特にサンフランシスコと香港の犯罪組織について詳しい方にお会いできますか」
「それなら私ですね。特にどういったことでしょうか?」
「香港のトライアドと、それからこの男ですが――」
 上着の内ポケットからワ・チュウの写真を取り出してソーンズビーに渡した。気味の悪いワ・チュウの写真を見ても、ソーンズビーの表情は全く変わらない。
「わかりました。それでは私のオフィスで調べてみましょう。どうぞこちらへ」

 ソーンズビーの後について長い階段をおりると、広いスペースをパーティーション(間仕切り)でいくつにも区切ったオフィスについた。ソーンズビーは私に椅子を勧めることもせず、自分だけさっさとグレーのメタルキャビネットの方に行き、その中にびっしり並べられたフォルダーを親指でめくっている。ソーンズビーはしばらくフォルダーを探して、その中から一部を抜き取りデスクの上に置いた。それは薄っぺらなフォルダーで、その中から小さな写真のついた書類を一枚抜き取って私に見せた。
「この男ですか?」
 私は写真を見た。スキンヘッド、そり落とされた眉、皮膚病を患ったような顔。
「間違いないです。この男ですね。何者ですか?」
「名前はワ・シン・チュウ、香港からきたトライアドの工作員で14Kのバンガード(先導者)です」
「この男は、最近、何かたくらんでるとか、目立った動きがありますか?」
 私が質問すると、ソーンズビーは無表情で首を横に振りながら「それは言えませんね」と愛想のない返事。
「捜査中の事件は口外しないという規則ですから。それにしても、どうしてこの男に関心がおありなんですか? この写真は最近撮ったんですか?」
 ソーンズビーは私が渡した写真を見ながら言った。
「捜査中の事件は口外するなという決まりですから、私もそれは言えません。ファイルを見せていただき、どうもありがとうございました」
 私がそういうと、ソーンズビーは何も言わず、写真を私に返し、フォルダーをもってキャビネットの方に行ってしまった。彼の態度にむかついたので、礼も言わずにすぐにオフィスを出て階段を一気に駆け下り、ビルの外に出て先ずは大きく深呼吸した。

『嫌なやつだ!』
 駐車場につくまでずっと心の中で怒鳴りながら歩いていった。


 むかつく連邦ビルを後にして、カスタムハウス(税関)のあるフィナンシャル地区に向かって車を走らせた。

 カスタムハウス連邦政府の庁舎に特有の歴史的建造物をモデルにしたようなクラシックな雰囲気を持った建物である。
 ここの職員の応対もFBIと大差はなかった。サンダースという名前のテキサスなまりで話す60才くらいの職員にワ・チュウの写真を見せてたずねたが、こんな男は見たことも聞いたこともないと言われた。何をたずねても 首をかしげて「さぁ?」では取りつく島もない。自分の年金がたまるまで、ただ椅子に座ってるだけの職員に何を尋ねても時間の無駄。私はすぐにカスタムハウスを引き上げた。

 駐車場に戻る途中で警部から無線が入った。イタチのジョーからの通報で、彼の仲間が1週間ほどまえにモントゴメリーストリート44番地にあるビルの前でワ・チュウのリムジンを見かけたらしい。本部に戻る前にそこに立ち寄ってくるよう指示された。

 私はすぐにモントゴメリーストリートに向かい、住所を頼りにそのビルを探した。その住所には40階建てのガラス張りのオフィスビルが建っていた。この中にワ・チュウが立ち寄るようなオフィスがあるんだろうか。
館内の案内板で、このビルの中に入っている企業の名前を調べてみたが、特にそれらしいものは見当たらなかった。ただひとつ、ワ・チュウと関連するオフィスといえば、17階にある「East Asian Research and Development Group(東アジア研究開発グループ)」だけである。
 受付でこの団体のことを尋ねてみたが、3ヶ月前に引き払って、いまは空き部屋になっているという情報しか得られなかった。
 今日の収穫はほとんどゼロ。これ以上立ち寄る場所もないので、本部に戻ることにした。
 それから30分ほどで捜査課のオフィスについたが警部もジョンもまだ本部には顔を出していないようだ。飲みかけのコーヒーカップと灰皿からあふれ出たマルボロの吸殻が昨晩と同じ位置からまったく移動していない。
 私は、先ず、コーヒーカップと灰皿をかたずけ、それから、広東インポートの納品書のチェックに取りかかった。何枚もある納品書を見ながら、黄色い用紙に商品名をすべて書き写した。
 男女の衣類、玩具、帽子、チョコレート、キャンデー、スノーグローブ、お茶、ランプのオイル、めがね、殺虫剤のスプレー、食器類、キャンドル、そのほか、日用雑貨はほとんどすべて扱っている。
「この中の一体どこにPCPを隠したんだろう。税関をごまかせる品物はどれなんだ?」
 心の中で自分に質問しながら、書き写した用紙に列挙された商品名を眺めていた。私はこの中から可能性のあるものをピックアップし名前の下に赤線を引いた。リストアップした品物は4つ――キャンドル、ランプのオイル、お茶、スノーグローブ。ほかにも可能性のあるものは何かないか考えていたら、警部とジョンがデスクの方に歩いてきた。
「今朝はどうだった? 何かいい話はもらえたか?」
 警部が言った。
FBIも税関もマヌケの集まりですよ! 頭の中 空っぽだ!」
 私がすこし怒った調子で言うと、警部はにやっと笑い「そのことはみんな知ってるよ、それで、何か見つかったか?」
「はい、ほんのちょっとだけですが、あの写真の男の名前はワ・シン・チュウ、14Kのボスだってことだけです。ほかにも聞きたかったんですが、捜査中の事件は口外できないといわれました」
「いつものパターンだな。担当者は誰が来た? ソーンズビーか?」
「あ、はい、警部は彼のこと知ってるんですか?」
「ああ、ソーンズビーには何度もあってる。ロースクールを出ても弁護士になれなくてFBIに拾ってもらった男だ」
「法律知っていても、礼儀を知らないんじゃ、幼稚園からやり直したほうがいいですよ」
「マァ、そうカッカするな。彼らも絵本くらいは読める能力はあるからな」
 警部はすこしだけ歯を見せて笑い、マルボロに火をつけた。
「それで、税関のほうは?」警部が訊いた。
「完全にバカです。FBIよりも大バカでした。何にも知らない」
「だから私たちの仕事が増えるんだ、彼らの代わりに動いてやって、早く仕事をかたずけてやらないといけないからな」
 私と警部が話している間、ジョンは半分笑いながら、私がリストアップした黄色い用紙を眺めていた。
「オニール、この赤線は何だ?」ジョンが尋ねた。
「これ、納品書から書き写したんですが、みんな3週間ぐらい前に入荷した品物で、この赤線を引っ張ってあるのは、香港からPCPを密輸するのに、こういうのなら税関をごまかせるかもしれないと思ったんです」
 ジョンは私が書き写した黄色の紙を手にとって 暫く考えていた。
「お茶?」ジョンが独り言のようにつぶやいた。
「はい、PCPのついたマリファナです。
中にマリファナを入れて外側には「お茶」のラベルを貼るとか」というと警部が付け加えた。
「かなり大量のお茶がいるぞ、 マリファナとお茶は、誰でも思いつくアイデアだな、ほかに何がある?」
「あの、キャンドルは、多分、カプセルみたいなものにPCPを入れて、それを蝋で固めたら・・・・・・化学のことはわからないですけど、何かそういう小さなケースにPCPを入れてキャンドルの中に隠すこともできそうです」
「それならできそうだな。サンフランシスコに着いたら、キャンドルを壊して カプセルを取り出せばいいわけだから 簡単だ。 それから、このランプオイルはどういう風にするんだ?」ジョンが言った。
「はい、このランプオイルはクォートサイズ(0.946リットル)のボトルに入っていて、いろんな香りがします。ボトルの中にPCP入れて、ケースからあぶれた半端のボトル、25個くらいがちょうどいいですが、そういう箱に入れたら、税関は半端ものはチェックしませんよ」
「なるほど。ランプオイルか。いまのところ一番可能性が大きいな」
 警部はうなずきながら言った。ジョンが最後に残ったスノーグローブの文字を指差しながら
「これは? スノーグローブ?」
「はい、クリスマスになるとおもちゃ屋でよく見かける置物です。ガラスの玉の中に小さい人形とかツリーとか入っていて、水が入れてあって、それを振ると雪が降ってるように見えるのです」
「ああ、わかった、わかった。昔、クリスマスプレゼントで買ったことがある。それでスノーグローブでPCPをどうするんだ。水の代わりにPCPをいれるのか?」

「そういうこともできるかもしれないです、でも、あの、これって、クリスマス商品ですよね。クリスマスまでまだ8ヶ月もあるのに、なんで今頃 注文したのか・・・・・・それにどこの店に卸したのかもわからないんですよ」
「そうだなぁ、これからの季節にはミスマッチの商品だな。それで、どれくらい仕入れてるんだ?」ジョンが訊いた。
「ひと箱だけです、6かける6の36個入り、これひとつだけです」
 私が答えると警部は白いあごひげを引っ張りながら、デスクの上の納品書をじっと眺めていた。
「とにかくもっと調べてくれ。何か見つかるかもしれない。モントゴメリーの44番地は何かわかったか?」
「特にこれといったものはなかったんですが、普通のオフィスビルで、香港とは関係なさそうな会社ばかりでした。あの、East Asian Research and Development という団体、知ってますか?」
「いや、初めて聞く名前だが」警部が言った。
「ワ・チュウと結びつきそうな会社といったら、これくらいで。受付で聞いたら、一年くらいオフィスをレンタルしていたらしいんですが、3ヶ月前に引き払ったといってました」
「ジョーの話では、1週間くらい前に、ビルの中に入っていくワ・チュウを見かけたといっていたが。どこに用事があったのかはわからんが」
「それなら、帰りにもう一回、寄ってみます。ビルの周りもちょっとしらべてきます」
 警部は「おまえに任せる」というと、引き出しをあけて、中をかき回し、奥の方から幅広のブラックのゴムバンドを引っ張り出し、私に渡した。
「忘れる前に渡しておくよ。明日はラムの葬儀だろ。おまえは葬式は初めてだから持ってないだろ。これはバッジにはめるんだ。喪章だよ」
 警部に言われてはじめて思い出した。明日は金曜日、ラムの葬儀の日だ。
仕事のことが頭を占領していてすっかり忘れていた。明日は朝8時に本部前にリムジンが来て、ジョンは棺の付添い人としてそのリムジンで教会に行き、私は 葬儀の間は車椅子のフラナガン巡査部長の世話役をまかされた。
 午後5時に仕事を切り上げて、モントゴメリーストリート44番地に向かった。あたりはだいぶ暗くなってきて、ブライアントストリートは会社帰りの人たちで 歩道も車道も徐々にやかましくなってきた。
 フィナンシャル地区のメインストリートには駐車スペースはないので、わき道に入り、車を止めて44番地のビルまで歩いていった。ビルのロビーに、警官のような制服をきて胸にゴールドバッジをつけた50代くらいの警備員が立っていた。私は彼に警察バッジをみせ、自分の名前を伝えると、その警備員は元気な声で言った。
「オオ!、捜査官! サンフランシスコ市警の!  あなたの顔、どっかで見たなぁ。ちょっと待てよ・・・・・・、ああ、 そうか、ジョンと一緒にテレビに出た人だよね」
 ぜんぜん知らない人の口から突然、仲間の名前が出てきたのでびっくりした。
「あの、ジョンというと、ジョン・ケリー? テンダーロイン署のフィールドトレーナーのケリー巡査ですか?
「そうそう、ジョンは私のいとこだよ。私はトム・ケリー。昔はね、私も警官だったんだ。今は退職して ここにいるがね。ジョンは元気にしてるかい?」

 何よりも驚いたのは、また違うケリーが登場したこと。
 ショーン・ケリー。トム・ケリー。
 ジョン、ショーン、トム、3人とも大男、おまけに3人そろって市警の警官。ジョンの父親を合わせたら4人。ひょっとしたら ほかにもまだケリー一族のメンバーが市警の中にいるのではないかと思えてきた。
「そうなんですか。はい、ジョンは元気ですよ。今は、本部でギャラガー警部の右腕です」
「オオ、それはすごい出世だ。それで、今日は ここへは何かの捜査かな?」
 私はトムにワ・チュウの写真を見せ、東アジア研究開発団体についてたずねてみた。
「この男なら 前に数回見かけたなぁ。エレベーターで上に上がっていったよ。その団体なら 事務所は17階にあるけど、今は空っぽだよ。何か 私に 手伝えることがあるかね?」
「あの私と一緒に17階まで来てもらってもかまいませんか?」
「10−4!」
 トムは笑いながら 返事をした。一緒に17階にあがり、団体がレンタルしていたオフィスのドアをノックしたが 何も返事がない。
じっと中の物音に耳を澄ましていたら、何か 擦っているような音が聞こえてきた。トムに頼んで 鍵を開けてもらった。
 ドアをあけると、手紙の山が崩れて、ドアの動きにあわせて手紙が床をはっていった。部屋の中には家具類は何もない。ただひとつ 置き去りにされたように 部屋の片隅においてあったのが 電話のメッセージを受信するアンサーリングマシーンだけ。メッセージは何も残っていなかったが、まだそれは機能している。音の主はこの機械だった。
 なぜ、電話だけ残していったのか。私が留守番電話気を調べていたらトムが言った。
「そういえば前に一度だけ、この写真の男がこの部屋に入るのを見たけどね。でも、2〜3分で すぐに出てきたなぁ」
 私はトムの顔を見て尋ねた。
「あの、これからも協力してもらえますか。あなたは今は 退職したけど、まだ警官だ。多分、電話が動いているから、また戻ってくるかもしれない。もし、この男を見かけたら 連絡してもらえますか?」
「オッケー、オッケー! もちろん! いつでも力になりますよ」
 私はトムと力いっぱい握手して別れた。

 

 

 

 

 

エンジェルダスト(22)

明け方まで降り続いた雨は、朝7時にはあがったが、太極拳の稽古に出かけるころには、町の上空は濃い霧で覆われていた。
 ワシントンスクエアには いつもの三分の一くらいの生徒しか集まっていなかった。みな、湿った空気の中で稽古をしている。私も仲間に入って湿った冷たい空気を体いっぱい吸い込んだ。稽古が終わった後、私は帰り支度をしているマスター・チャンに声をかけた。
「先生、あの、今、少し時間ありますか?」
 私が聞くとマスター・チャンはにっこり笑い、「はい、ブライアンのための時間はいつでもとってありますよ。今日は心の中に何がありますか?」
「仕事のことです。警察の仕事のこと。先生に少し聞きたいことがあるんですが、でも、先生が言いたくないことだったら言わなくてもいいです。先生はいろんな人から慕われてるし、コミュニティーの人をたくさん知ってるみたいだから、教えてもらいたいことがあるんですが」
「はい、たくさんの人、知ってますよ。何が知りたいですか? 私にできることなら ブライアンの仕事の手伝いしますよ」
 マスターは首まで伸びた真っ白なひげを撫でつけながら答えた。
「ありがとうございます。それで、先生、この前、メイリン・チャンのこと 知ってるって言われましたが、彼女の家族のことはわかりますか?」
「はい、チャンファミリーのことなら知ってますよ」
「ミスター・チャンは、えっと、ハワード・チャンのことですが、彼はどんな人ですか?」
「はい、彼はとてもいい人ね。働き者で、まじめな人ですね。ここのコミュニティーの人、彼の店で何人か働いてますね。いろんな慈善事業にも協力的で、たくさん寄付もしてます。みんな、ハワードを尊敬してますよ」
 マスターは髭を撫でながら頷いた。
「そうですか、すごく立派な人なんだ、そうか、わかりました。それで、メイリンのお兄さんはどうですか?」
 私が訊くと、髭を撫でていたマスターの手が止り、眉間にしわを寄せた。
「ロンも知ってますよ、何年も前に、お父さんと一緒にカンフーのクラスにきました。しばらく 稽古に通ってきましたが、ロンは、頑固で、素直ではなかったです。教室の規則にも従わなかったですね。そのうち、来なくなりました」
「ロンも先生の生徒だったんですか?」
「はい、短かったですね。あっという間に、やめましたよ。やめてからは、警察の厄介になること、度々ありましたね。盗みや喧嘩、悪い仲間にも入ってました」
「悪い仲間というと?」
 私が訊くと、マスターの表情が急に翳った。 
「ジョイ・ラック・ボーイズ。彼らはよくないね、とてもよくないグループですね」と、嫌なものでも見たときのような表情で、首を横に振りながら答えた。
「Ghee Kung Tong と、香港からきた14 K の傘下に入ってると聞きました。
とても恐ろしいグループです。彼らは悪いです、とても悪い。でも、ブライアン、なぜ、ロンのこと 知りたいですか?」
 マスターが私の顔を見た。
「先生、本当のこと言うと、ロンが何か悪いことに関わってるようなんです。でもまだ捜査が始まったばかりだから たくさんのことは言えないんですが。でも先生に聞いてよかったです。すごくいい情報もらいました。本当に感謝してます」
 マスターの顔が少し笑顔になった。
「ブライアン、お礼はいらないですよ。チャイナタウンはたくさん問題ありますね。ゴールドラッシュの時代からずっとですよ。でも、私たちはチャイナタウンが良くなるよう、努力してます。だから、私の知ってることが少しでも役に立つなら、いつでも協力しますよ」
 マスターは私の顔を見ながら強く手を握った。私はもう一度 感謝の言葉を伝え、お辞儀をして、マスターと別れた。

 午前中は部屋の掃除をして時間をつぶし、昼過ぎにアパートを出た。ツナサンドを食べながらシボレーを運転し、マスタングを探して一時間くらいチャイナタウンをさまよっていた。1時30分頃、ワシントンストリートからスポッフォードストリートに曲がっていく赤いマスタングを見かけたので後に従った。マスタングフリーメイソンのシンボルがついたレンガ色の建物の前で止った。
 ここはスポッフォードストリート36番地。今日は鉄扉の入り口の前にもう一台車が止っている。ブラックのキャデラックリムジン。マスタングはその後ろに止まっている。ブラックのスーツを着たロンが車から降りてきて、ビルの中に入っていった。鉄の扉の前には昨日と同じフェドーラ帽をかぶった男が立っていた。
 
 私は建物の周辺を一回りし、車を止める場所を探した。クレイストリートの曲がり角に黄色いラインが引いてあるパーキングスペースを見つけた。ここは商用車が荷物の積み下ろしをするために一時停車する場所である。うまい具合に一台分のスペースが空いていたのでここにシボレーを止め、マスタングを見張ることにした。エンジンを切り、座席に体を沈めるようにして座り、ダークブルーのニット帽を深くかぶってブラックのサングラスをはめ、しばらく車の中で待っていた。
 5分ほど過ぎた頃、ジョンから無線が入った。
「インスペクター101からインスペクター102 へ」
「はい、インスペクター102です。どうぞ」
「チャンネル2に変えてくれ」
「10−4」
 すぐにスイッチを切り替えジョンにメッセージを送った。
「101、はい、いいです。チャンネル2で応答してます」
マスタングを見つけたか?」
「イエス。今、コード7(staked out/ 張り込み中)です。スポッフォードストリート36番地にいます。あのメイソンのシンボルがついてるビルです」
「10−4、気をつけろ。荒っぽい連中だ。昼ごろ、そこで写真を撮ったら、外に立ってた男にカメラを取られそうになったよ。わたしはニューヨークから来た観光客だっていったんだが何を言ってもだめだ。最後に撮った写真がレザーコートを来た大柄の中国人だ。ちょうどリモ(limo/リムジン)から出てきたから、そいつの写真をとった後は一目散に逃げてきたよ」
「無事生還ですか。リモはまだここにいますよ。獲物は10分ほど前に家の中に入っていきました」
「10−4、リモのナンバープレートを確認してくれ。それから獲物を見失うんじゃないぞ。これからわたしと42(ギャラガー警部のこと)はミカドホテルに行って42の友達に会ってくる」
「OK。何か見つけたら連絡します。ハンティングを楽しんできてください」
 無線をきってシートに少し体を沈め、獲物が動くまで車の中で待った。

 

 


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※Ghee Kung Tong は 中国のフリーメーソン(秘密結社)

 

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 スポッフォードストリート36番地。午後1時35分。

 ブラックのリムジンのすぐ後ろに赤いマスタングが止った。アルマーニのブラックスーツにブラックタイのロン・チャンが車から降り立つと、フェドラ帽をかぶった屈強な体格の見張り番がロン・チャンに近づいた。
「ワ・シン・チュウ(Wah Sing Chu)が二階で待ってます」
「わかってる。金の話できたんだ」
 ロンは背広の左前を開き、大きく膨らんだ内ポケットを軽く叩いた。見張り番が鉄の扉を開けると、ロンは中に入り階段をゆっくり上がっていった。

 ビルの2階はオフィスになっていて、大きなダークブラウンの木製のテーブルと椅子が2脚置いてあるだけであとは何もない。ブラックのシルクのシャツにブラックタイ、ブラックのレザーコートを着たワ・シン・チュウが待っていた。年は30代後半、身長は約180センチ、幅の広い鼻、分厚い唇、切れ込みを入れたような細い目、水泡痘か天然痘におかされたような肌。スキンヘッドで眉毛もすべてそり落としてある。
「ミスター・ワ・シン、 お越しいただき感謝します。オークランドからここに来る途中で渋滞に巻き込まれてしまって、お待たせして申し訳ありません。お金のほうは用意してあります」
 ロンは相手の顔色を伺うような目つきで言った。
「遅れたことは気にしなくてもいい。それよりも新しいビジネスの話が先だ。金はあとでいい。立っていてはディスカッションができないだろ。座ったらどうだ、ミスター・チャン」
 ワ・シン・チュウは向かい合わせの椅子に目をやり、顎をしゃくって座れという仕草をした。ワ・シン・チュウの後ろにはブラックスーツを着た屈強な体格の若い中国人が二人、無表情で立っている。ロンは椅子に浅く腰掛けた。

「先ず私から聞くが、今、我々が流している製品を10パーセントまで増やしたい。それが可能かどうか、香港シンジゲートが知りたがっている」
「それなら簡単なことです」
「どうするつもりだ」
「今、香港から受け取っている品は両方とも中身の量を増やしても大丈夫です。そうするには適した品物ですから。二つとも中身がばれて押収される心配はないです。野菜に撒く薬剤のスプレー缶のほうは、サンタクルーズとメンドシーノで需要が多いですから、在庫を増やすのは問題ないですね」
「ロスとシアトル同様、サンフランシスコにも販売ルートを拡張したいと思っているが、品物の輸送に関しては問題はないのか?」
「心配はご無用です。州境で車のチェックはしてません。自由に入れます」
「それはすばらしい!  我々のタイムリミットは60日だ。60日間でそれができるか?」
「それだけあれば十分です。香港から届いた荷物を、ここの地下室で詰め替えてロスとシアトルのそちらが指定する場所に送ります」
「ベリィグッド!   実にすばらしい。 それでは、今後は君の報酬は33%、ビジネスがすべて完了したときはボーナスも加える。それでどうだ、ミスター・チャン」
 ロンは口元だけに笑みを浮かべて頷き、背広の内ポケットから分厚い封筒を取り出してワ・シン・チュウに手渡した。
「ビジネスはうまくいってます。最近は人気も出てきてすべて順調です」
「それはすばらしい!」
 ワ・シン・チュウは封筒の中から100ドル紙幣を10枚ほど抜き取ると、それをロンに渡した。
「これは私からの褒美だ。君の忠誠心が今後も続くことを願っている」
 ロンはワ・シン・チュウの後ろに立っている男をちらっと見てすぐに視線を外し、受け取った紙幣をポケットにしまった。

「ところで、ミスター・チャン。先日テレビで見たが、おまえのアパートに日本から来た留学生がいるのか? 妹の友人らしいな」
「はい。彼女ならうちのアパートの3階に住んでますが、それが何か?」
「先日、この娘をレッドドラゴンで見かけたが、テレビに出ていた若い方の警官と一緒だった。私としてはこれはあまりいい話ではない。我々の安全のためにこの娘を取り払えるか?」
「取り払う? どうやって?」
「方法はおまえに任せる。この娘は我々のビジネスのネックになるかもしれない。災いの種は今のうちに抜き取った方がいい。私のいってることがわかるか、ミスター・チャン?」
 ロンは黙ってうなずいた。
「よろしい。それでは娘の方は任せる。中身を増やすよう香港には伝えておく。その製品の発送準備が整ったらこちらから知らせる」
 ワ・シン・チュウは二人のボディーガードを従えて部屋から出て行った。

 

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クレイストリートの角で張り込みを始めて1時間が過ぎたころ、鉄の扉が開いてビルから男が三人出てきた。背の高い黒ずくめの男がリムジンの後部座席に乗り込みドアが閉まるとこちらのほうにゆっくりと近づいてきた。私は急いでニット帽を引っ張り、ラジオのスイッチを入れてラテンアメリカのミュージックが流れているチャンネルにあわせ、音楽に聞き入っているように見せるため、頭を上下に振ってリズムをとった。リムジンはシボレーに覆いかぶさるようにしてカーブを左折し、クレイストリートに出ると一気に加速して走り去った。リムジンのナンバープレートは" AHCHU"。ポケットから手帳を取り出してナンバーを控え、ロンが出てくるまで待った。
 15分後、ロンが平べったい箱を抱えてビルから出てきた。彼は車の正面から回って運転席に乗り込むとすぐに車を発進させた。マスタングは私のシボレーが止っている角を左に曲がり、クレイストリートを下ってグラントアベニューの方に向かって走っていった。
 ロンが出てきたビルの前にはフェドーラ帽をかぶった男が立っている。
『おまえにはまだ用があるからな。後で戻ってくるからそこで待ってろよ』
 シボレーのバックミラーに写った男に向かって心の中でそう言った。私はシボレーを発進させ、安全な距離を保ってマスタングの後を追った。

 ロンが最初に立ち寄った場所はテンダーロイン。エリスストリートとレーヴェンウォースストリートの交差点の近くにある駐車禁止エリア。テンダーロインをパトロール中に、赤いマスタングを見つけた場所である。
 アパートの前にドラッグディーラーのタイリー・スコットが立っている。ロンの車が止ると、タイリーがすばやく車に寄っていった。助手席の窓が開くと、タイリーは手に持っていた白い封筒の中身を窓越しにロンに見せている。封筒の中身は札束かもしれない。その封筒と引き換えに、タイリーはB5サイズほどの分厚い封筒を受け取った。マスタングが走り去るとタイリーはアパートの中に駆け込んでいった。私は時間と場所を手帳に書き込み、マスタングの後を追った。

 レーヴェンウォースストリートをあがりポストストリートの交差点まで来ると、曲がり角でマスタングが止った。猫背で背の低い白人の男がビルの陰から出てきてマスタングに近づいていった。助手席の窓が開くと白い封筒を投げ入れた。助手席の窓から分厚い封筒を持った手が差し出され、猫背の男はそれを受け取ると再びビルの陰に入っていった。私は時間と場所をメモした。
 次にマスタングが止った場所は、サターストリートとポルクストリートの角。しかし、マスタングに近づいてくる人間はいない。ロンは助手席の方に体を倒して何かしていたが、すぐに車はサターストリートを西に向かって走りだした。フィルモアストリートで左に曲がり、坂を下ってエディーストリートの交差点を左に折れ、車は化け物でも住んでいそうな壊れかけたビクトリアンハウスの前で止った。ビクトリアンハウスの玄関前にある階段にグリーンのズボンにブルーのシャツを着た黒人が座っていた。男は立ち上がってマスタングの助手席のドアのほうに近づいていった。車の窓が開いた。男は白い封筒を窓から投げ入れ、B5サイズの封筒を受けとった。

 三回とも、立ち寄った場所ですることは同じ。白い封筒と引き換えにB5サイズの分厚い封筒を受け取る。疑う余地はないだろう。これはドラッグの取引きだ。

 マスタングは”プロジェックト”と呼ばれている低所得者向けのアパートが建ち並んでいるエリアに入ってきた。ここは、PCPに毒された化け物ポール・パパスが逃げ込み、K−9ユニットのシェパードに噛み付かれた場所である。
 アパートの前にマスタングが止ると、小さな公園から背の高い黒人が二人、姿を現しロンの車のほうに歩いて行く。マスタングの窓が開くと助手席に白い封筒を投げ込み、分厚い封筒を受け取った。ロンはすぐには車を動かさず、受け取った白い封筒に何か書いている。それが終わると、助手席の窓から少しだけ頭を出して、二人の黒人とほんの1分ほどの短い会話をした後、マスタングは別の目的地に向かって走っていった。

 シボレーは30秒遅れて発車した。
 V8エンジンを唸らせながら後を追うブラックのシボレー。まるでジャングルで獲物をつけねらうブラックパンサーのようだ。狙った獲物は必ずしとめる危険な黒ヒョウ。私はこのシボレーに”ブラックパンサー”というニックネームをつけた。



 夕方になってまた雨が降り始めた。鈍よりとした灰色の雲が空を覆っている。辺りはずいぶん暗くなってきた。
 マスタングはサザンパシフィック鉄道を渡り、サンフランシスコの南東部に位置するハンターズポイントに向かっている。10分ほど車を飛ばしてオークデールアベニューを右に折れ、フェルプスストリートの手前でマスタングのブレーキランプがつき、バラック小屋のような小さな酒屋の横に止った。
マスタングの前に赤いキャデラックが停っている。ドアが開いて黒人が降りたち、マスタングの助手席側に回った。助手席の窓が開くとすることは同じ。白い封筒を投げ込み、分厚い封筒を受け取る。
 このエリアは黒人のゲットーである。ロンは封筒を渡すとすぐに車を発進させた。ベイシャワーブルーバードを15分ほど飛ばし、サニーデールストリートの曲がり角で停車した。15歳くらいの黒人の子供と封筒の交換をするとすぐに車を発進させ、数ブロック行ったところで再び止った。
 ここには" Pink Palace" と呼ばれている低所得者向けの10階建てのアパートが建っている。ここもプロジェクト同様、貧困者救済策の一環として市が費用を負担して建設したアパートである。”ピンク”と名前がついているが住民はすべて黒人である。このアパートには白人の警官はうかつには近づけない。警官が中に入ろうとすると、上からものを投げつけられる。テレビが落ちてくる。窓から警官に向かって発砲する。
 マスタングが止ると、"Pink Palace"から18歳くらいの黒人が出てきた。今までと同じように封筒の交換をするとすぐにマスタングをUターンさせ、来た道を戻って行った。私もこんなところで長居はしたくない。ここの連中は頭の狂ったケダモノだ。30秒待たずにシボレーを発進させた。

 マスタングはリックハイウェーをかなりのスピードで飛ばしていく。その後をブラックパンサーが追う。マスタングはハンターの存在にはまったく気づいていない。このままハイウェーを進みベイブリッジを渡ればオークランド市だ。
 ハイウウェーの途中での建物が見えてきた。このあたりから急に交通量が増え、車線の数も多くなってきたので獲物を追うことが難しくなってきた。マスタングは何度も車線変更をする。見失わないように、左右にゆれるマスタングのテールランプを必死で追いかけた。
 車はベイブリッジを渡ると右の方にカーブしているニミッツフリーウェイー(Highway 880)に乗り換えウエスオークランドに入った。ここは黒人の居住区だがフィルモア地区とは雰囲気が違う。廃墟のようなビクトリアンハウスと低所得者向けのうす汚いアパート。いたるところゴミの山。ビルの壁は落書きだらけ。ウエスオークランドは警官の数が極端に不足している。それをいいことに、頭のいかれた連中がのさばり暴力が街を支配している。いつ敵が飛び出すかわからない。獲物を追うブラックパンサーに緊張が走る。
 ロンは14番ストリートとフィルバートストリートの交差点の手前に車を止めて黒人に封筒を渡すと、再びハイウェーに乗ってベイブリッジを渡り、サンフランシスコ市内に引き返した。サンフランシスコの街の灯に向かって走っていると、少しずつ緊張がほぐれてくる。






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※ハンターズポイント:海軍の造船所があります。テンダーロイン同様、ここも犯罪多発エリア

オークランドは現在も殺人が日常茶飯事と言ってもいいくらい危険なエリアになっています。



 マスタングはチャイナタウンに戻ってきた。クレイストリート1214番地の3階建てのアパート。チャンファミリーの自宅。一階にはチャン夫妻、二階はロン、三階にはメイリンとマコトが住んでいる。ロンはカーブの縁石に沿って車を止めて降り、アパートに入っていった。それから数分して二階の部屋に明かりがついた。私は手帳を出してロンが帰宅した時間を書き込んだ。マコトの部屋は電気が消えている。たぶん、もう寝てしまったんだろう。私はシボレーをバックさせ、ストックトンストリートのほうへ坂道を降りていった。
 これからもうひとつ、個人的な仕事が残っている。広東インポートの店に立ち寄り、安物の黒ぶちめがねと玩具の手錠を買った。シボレーに戻ってUターン禁止エリアでUターンし、クレイストリートからスポッフォードストリートに入る曲がり角に車を止めた。車の中で玩具の手錠を箱から出して自分の手首にはめてみた。玩具にしてはよくできている。これなら大丈夫だ。
 ピーコートのポケットに手錠と黒ぶちめがねしまい、ニット帽を眉毛の辺りまで引っ張って車から降りた。ビルの角から頭だけを出してメイソンのシンボルマークを掲げたレンガ色のビルの方を見た。フェドーラ帽の男はまだそこにいる。あいつは見張り番だろうか。ドアの前を行ったり来たりしている。私はポケットから黒ぶちめがねを取り出してはめ、ピーコートの襟を立ててニット帽を深くかぶり、腰の曲がった年寄りの振りをして、フェドーラ帽の男の方に歩いていった。男との距離が2メートルくらいになったとき、ポケットからタバコを1本取り出して、顔は下を向いたまま、タバコを持った手だけを上げて、中国語なまりの英語で男に向かって叫んだ。
「ハイ、ハイ、火、あるかね(Hei! Hei! light)」
 腰を曲げ、顔がわからないように下を向いたままタバコを持った手を揺らしてもっと男に接近した。近所のビルの窓から明かりが漏れているが、私の顔がはっきりわかるほど明るくはない。
「ハイハイ! 火、あるかね?」
 私がもう一度言うと、男は怒ったような口調の中国語で何か言ってきた。私の頭をつかんで後ろに押し戻そうとしたので、そいつの顎に思いっきり右のカウンタークロスをぶち込んでやった。体がでかいくせに、私のパンチ一発で吹っ飛んだ。男はすぐに体勢を立て直して間合いをきり、カンフースタイルで構えた。突然そいつの蹴りが飛んできたので、私は腰を落とし腕を交差させ、男の足をクロスした両腕の間でキャッチし、そのまま上にジャンプ。クロスした腕を離すと、ターゲットを捕らえ損ねた男の足が空中で踊った。すかさず、空を舞う男の足首を右手でつかんで、少しだけ私の右側にまわしてやった。バランスを崩した相手にはほんの僅かな力を加えるだけで簡単にひっくり返る。無様な格好でぶっ倒れた男をすぐに仰向けにさせ、男の腿を左手で押さえつけ、顔面にグラウンドパンチを一発みまってやった。男は「グブッ」と変な声を上げた。
 強そうに見えるのは外見だけか。あっけなく気絶してしまった。
「弱いくせにブルース・リーを気取るのはやめとけ!」
 私はポケットから玩具の手錠を取り出して男の右手首にかけ、配水管のパイプのところまで引きずっていって、男をパイプにつないでやった。
「ジョンをいじめたお返しだ!  観光客にはもっと優しくするもんだ!」
 誰かに見られる前に急いでシボレーに戻り、アクセルを一気にふかし、勝利の雄たけびを上げながらブラックパンサーは本部に向かった。



 午後9時30分にギャラガー警部のデスクに戻り、午後10時にはジョンが運転するフォードLTDの後部座席に座っていた。これからタレコミ屋に会って、その後はナイトクラブに聞き込みに行くと言われた。
 ロン・チャンがどこで何時に何をしたか警部にすべて伝えたが、フェドーラ帽の男をぶん殴った話はしなかった。私は あの場所にはいなかった。
やったのは得体の知れない中国人の年寄り。それは私ではない。
 私がロンを追いかけている間、警部とジョンはミカドホテルでサミー・タナガワと会っていた。車の中でジョンと警部が話しているのを黙って聞いていた。
 サミー・タナガワはエンジェルダストに関してはまったく初耳だったようだ。ただ、彼らも香港マフィアのトライアドを警戒している。
「香港マフィアの14Kを恐れているか」というギャラガー警部の率直な質問に サミーは「イエス」と答えたらしい。
 ベイエリアのタナガワファミリーは、サンフランシスコではいたって紳士的な組織で、不動産業で健全なビジネスを展開しているらしい。サミーは日本から来たクライアントをラスベガスに招待している。

 警部とジョンの話の中に、時々、ジェニファー・ジョーンズに似ているとか、エキゾチックな女性とか、そんな言葉が出てくるが、ひょっとしたらこの女性は 私がギンズバーグであったキキ ではないだろうか。その女性の名前は二人の会話の中に出てこないが、どうもそんな気がする。彼女はベガスに来る日本人観光客にコールガールの世話をする”プライベートコンダクター" と呼ばれている仕事をしているらしい。
 二人の会話を聞いていて、疑問が浮かんだ。
「あの、警部、訊いてもいいですか? サミーは日本のマフィアでしょ。そんな人の話、信用してもいいんですか? どうして、警部はヤクザにそんなに接近するんですか?」
 助手席に座っていた警部が後ろを振り返った。
「サミーと私は 昨日今日 知り合った仲じゃないからな。彼とは協定を結んでいるんだ。サミーは私に情報を流す、その見返りに 私も時々 情報を与える。それで今までうまくいってる。サミーからもらった情報が事件解決に大いに役立ってる。もちろんこれは 我々の間の秘密だがね」
 警部はにやっと笑った。

 刑事がヤクザと情報の交換をし、売春の斡旋をしていることも知りながら、見逃している。それで事件解決に役立ってるからといわれても、何かすっきりしなかった。そんな話をしているうちに フォードは、タレコミ屋との待ち合わせの場所についた。
 モントゴメリーストリート沿いにある成人映画専門で上映している映画館の前に車を止め、「Enrico's Coffee House] まで歩いていった。歩道側はガラス張りになっていて、外を行きかう人々の姿がよく見える。普通なら、こういう店は 通行人を観察するために窓側の席を選ぶが、今夜は、外からは見えない、一番奥のテーブルについた。
 5分ほどして、背の低い男が私たちのテーブルにやってきた。
髪の毛はオイルでぎらぎらしていて、顔は見るからにずるがしこい感じがする。
「ハイ、ジョー。元気か? こっちの大男はミスター・K,小さい方は ミスター・O,心配するな、私の仲間だ」
 警部はその男に私たちを紹介した。
「ミスター・Gのお仲間ですかい。そりゃ、今後ともよろしく」
 ジョーとよばれたその男は いやらしい笑みを浮かべて ギャラがー警部の隣に座った。
「今日は、なんだい? ミスター・G」ジョーが言った。
 この男の髪の毛から、ニンニクの匂いがしてくる。
「おまえ、エンジェルダストとかPCPという名前を聞いたことがないか?」
「知ってますぜ。この辺じゃ、そんな名前より、”Bad shit (不運)”っていってる連中の方が多いですがね。ばら撒いてるのはChinktown の Chinksって野郎だ。Chinktown の外へもばら撒いてるって話ですぜ。そりゃ、酷いしろものらしいじゃねえですか。そいつを使うと、頭、狂っちまうとか。
こんなもんが出回ってるおかげで、地元のボスはカンカンだ。小便引っ掛けて、捨てちまえって言ってますぜ。マリファナに浸したり、スプレー振りかけたりして、連中は売りさばいてんで、地元の連中はみんな怖がって、マリファナを買わねぇ。Bad shit を吸ったマリファナなんぞ、つかまされたら、ほんとに不運(bad shit) だ。誰だって狂いたかねぇからな。おかげで商売 あがったりだって、この辺のボスは、頭きてますぜ。オレのしってるのはそれだけだが、ミスター・G、 なんでこんなこと知りたいんだ?」
「今、我々はこの事件に関わってる、いいか、ジョー、おまえの言ったように、こいつはとんでもなく悪い薬だ。使ったやつは 狂い死にだ。
ジョー、おまえの新しい仕事は、私がこれを調べてると、あちこちで言いふらしてほしい。もちろん、おまえのボスたちにもだ。ミスター・Gがかぎまわってると言いふらすんだ。それで、誰が作ってるか、誰が売ってるか、これを使ってるやつは誰か、なんでもいい、わかったら 知らせてくれ。いいな」
 ジョーはにやりと笑ってうなずき、警部は新品の20ドル札をジョーに渡した。それをポケットに突っ込むと、ジョーは店を出て行った。
「あいつはこの辺のストリートじゃ、”イタチ(Weasel)”と呼ばれてる男で、ギャングの雑用係みたいなことをしてる。自分で自分のことをギャングにはなくてはならない重要人物だと思ってるようだが。マァ見ての通りだ。
私としてはたった20ドルで動いてくれるから、助かってるがね」
 警部が言った。
 それから私たちは注文したコーヒーを一気に飲み、店を出て 次の目的地に向かった。コーヒーショップを出て、半ブロックほど下ったところに、「Big AI's」
というナイトクラブがある。[Totally Nude Co-eds(女子学生ヌード) ] とかかれた大きなネオンサインが、ダークグレーの空をバックに白っぽいまぶしい光を放っている。入り口のドアを開けると、歩道から中の様子が見えないようにするために長いカーテンがかかっていた。
 店内はロックンロールの騒音公害。バックステージではロックのリズムに合わせ、金髪のヌードダンサーが腰をくねらせ、髪振り乱して踊っている。
彼女が動くたびに 大きな胸と腹の肉が一緒に揺れる。
「オイ! 彼女、女子学生に見えるか?」
 ジョンが 私の耳元に顔を近ずけて言った。私も同じことを言いたかった。どう見ても30歳過ぎにしか見えない。肉がだぶついて、お世辞にも色っぽいとは思わなかった。

「ここに、ヴィニーはいるか?!」
 警部はバーのカウンターでバーテンダーに向かって叫んだ。バーテンダーは頭を横に振り、同じように大きな声で叫んだ。
「ミスター.アバンダンドはここにはいませんよ。ヴェスビオ の店にいきました(Na, Mr.Abbandando ain't here. He's down at Vesuvio's)」
 警部はうなずいて、私とジョンに店から出るよう、目で合図した。店から出てもまだ耳の中でロックが鳴り響いているように感じた。ジョンは外に出るとすぐに警部に言った。
「それにしても、ひどいもんだな。どこが女子学生だ。ミカドホテルで世話してもらった方がよほどましだ」
「ああ、そうだとも! サミーはいつも一流を好むからな
(that's my boy! Sammy always gose for class act)」 警部はにやりと笑って答えた。

 外は小雨がぱらついている。私たちは『City Light Book Store』の近くにあるローカルバー『Vesuvio's』まで、コロンブスストリートの坂を下っていった。歩きながら警部が ミスター・アバンダンドについて説明してくれた。
 ヴィンチェンツォ・アバンダンド――地元のギャングの副ボスで 「vesvio's]
 のオーナーである。
『Vesuvio's』 は Big AI's とは対照的に、イタリアンオペラが流れていて、静かな店内にはバーテンダーとグレーのシルクのスーツを着た男以外 誰もいなかった。スーツの男は小さなテーブルでラザニアを食べていた。
警部はその男のテーブルに歩み寄り、静かな口調で言った。
「食事の邪魔をして悪いが、少し話しをしても かまわないか?」
 男は食事の手を止めテーブルから顔を上げた。
「オオ! ギャラガーじゃないか! しばらく会わなかったが,どうしてた?」男はにっこり笑って言った。
「私は元気だよ。この腕以外はな」
「また、奥さんにやられたか?」
 男の顔には屈託のない笑みが浮かんでいる。きれいに手入れされたブラックのカーリーヘア。黒い瞳、褐色の肌、年齢は40歳位に見える。  
「それより、その二人の友人を紹介してくれよ。アイリッシュヒットマンの仲間か?」
「ああ、そうだった、紹介が遅れて申し訳ない。私の仲間のケリーとオニールだ」
 警部に紹介され、私たちはお互いに握手をして挨拶した。
「座ってゆっくりしろよ。何か飲むか?」ヴィニーが訊いた。
「いや、私たちはすぐ帰るよ、ちょっと訊きたい事があって寄っただけだ、食事を続けてくれ。話はすぐすむ」
「そうか、残念だな。 それで、何だ? 話って?」
「ドラッグのことだが、 PCPとかエンジェルダストという名前を聞いたことがあるか?」
「ああ、知ってる。最近、ストリートで出回ってるようだが、最悪のブツだな、これは。これで頭がおかしくなった連中を何人も知ってる。ほとんどブラックエリアばかりだがね。しかしボスは完全に頭にきてる(the boss is pissed off)。ストリートの連中はかなり怖がってるみたいだが。中に混ざってるんじゃないかって びくついてるんだ。だからマリファナに手をださなくなってきてる。まったく、とんでもない話だよ。香港から来た連中が、このあたりを侵食してるようだが、聞いた話じゃ、たしか、ワ・チュウ、
確かそんな名前だ。この男が、仕切ってるらしい。このままこいつをのさばらせたら、ストリートは香港に完全に食われてしまうだろ、ボスの怒りも爆発寸前だ」
 ヴィニーはナプキンで口をぬぐい、グラスの水をすこし飲んで、警部の顔を見た。
「あんたのボスはなんて言ってる?」警部が訊いた。

「私のボスだけじゃない、ボス連中全員だ。ワ・チュウを殺る。そう言ってる」
「なるほど、やはりそうか・・・・・・」
 警部はため息をついて、向かい合わせの椅子に腰掛けた。
「聞いてくれ、ヴィニー。ボスの言ったこと、それが一番気にかかってたことだ。いま、我々も この捜査に関わってる。おまえの言ったワ・チュウ。
これはいい手がかりだ、感謝するよ、ヴィニー。それで、ヴィニー、おまえに頼みがあるんだが。ワ・チュウは私が何とかする。手下どもも 全部ひっくるめてだ。彼らを全部まとめて シャットダウンするつもりだ。だから、それまで、手を出さないでくれと、ボスに言ってくれないか」
 ヴィニーは大きくうなずいた。
「わかったよ、ギャラガー。ボスに伝えておく。おまえはいつも フェアだからな。ボスも おまえの頼みなら、わかってくれるはずだ。しかし、あまり長くは待てないぞ。連中が ダスト(ごみ)をばら撒いてる間に、こっちの商売が干上がってしまうからな。期限は2週間。待てるのはここまでだ」
「OK、約束しよう。2週間でけりをつける。ヴィニー、おまえには感謝してるよ」
 ヴィニーが微笑んだ。
「友達だろ。又遊びに来てくれ、次は旨い酒を用意しておくよ。おまえのアイリッシュヒットマンの分もな」
 私たちは、簡単に別れの挨拶をして店を出た。
「一体、何人 ”ともだち”がいるんだ、キース。ギャングのご機嫌をとるのも大変だな」
 車に戻る道すがら、ジョンが警部に言った。
「おまえが思ってるような友達じゃないよ。お互いを尊重するとか称賛するとか、そんなものは彼らの社会には存在しないからな。それでも、こっちが望むことをやってくれるなら、許せる範囲内で、こちらも目をつぶってる。
許容範囲から出たときは、彼らが自分たちで速やかに処理すれば、黙って蓋をしてそれで終わりだ。もしそれができなければ、二度と立ち上がれないように 彼らの頭上に大量のレンガを落とす。彼らも十分 そのことは承知してるはずだ」
「魚心あれば水心か」ジョンが言った。
「まぁ、そんなところだ。彼らに言わせたら、これはビジネスだ」



 本部に着くまで、車内で今後の打ち合わせをした。
「すこし気がかりなことがあるんだが・・・・・・」
 警部が言った。
「ヴィニーは2週間待つといったが、もしもボスがワ・チュウを殺すつもりならそんなに待てないはずだ。殺すと決めたら即、実行に移すからな。ヴィニーの話し振りからすると、まだ明確には決まってないようだが、とにかく私たちも急ぐ必要がある。来週はかなりハードスケジュールだぞ。それから、これはジョンが今日、撮った写真だが――」
 警部はポケットから写真とペンライトを取り出して、私に渡した。
「そこに写っている男がおそらくワ・チュウにまちがいない」
 写真にはリムジンから降りようとしている黒いコートを着た大柄の男が写っていた。私がシボレーの中から見たときは、顔まではわからなかったが、ジョンが写した写真には男の顔がはっきり写っていた。
「気味の悪い男だろ」
 運転しながらジョンが言った。確かにこの顔は、一目見ただけでぞっとする。
「明日、この写真を持ってゴールデンゲートアベニューにあるFBIの支局に行って、組織犯罪専門のエージェントに聞いてきてほしい。もしも彼らがこの男を知ってるなら何か情報をくれるはずだ。それから、サンサムストリートの税関が何か知ってるかもしれないから、そこにも立ち寄ってほしい」
「はい、わかりました」
「ロンのほうは、ジョンと交代だ、3日もシボレーじゃ、気付かれる心配があるからな。明日はFBIのエージェントに会うから、そんな格好じゃまずいぞ。ブラックの上等なスーツがいいな。外の仕事が全部終わったらオフィスで広東インポートのゴミの整理だ。今日一日じゃとても無理だった。まだ半分以上のこってる。明日はおまえにも手伝ってもらいたい」
「はぁ、上等のスーツでゴミあさりですか」
 私が言うと、ジョンは軽く笑ってバックミラーに映る私に向かって言った。
ギャラガー警部に言わせると、捜査官の仕事は90%があくびがでるほど退屈で、残りの10%が冷酷なテロリストなんだとさ。まぁ、これも経験だ。がんばれ、オニール」


 それから5分ほどで本部の駐車場に到着した。ジョンは私と警部を降ろすと、自分のワーゲンには乗り換えずフォードで帰っていった。今夜はシボレーの助手席には警部が座っている。地下の駐車場を出てギヤをトップに入れ一気に加速すると、警部が言った。
「シボレーの乗り心地はどうだ?」
「最高ですね」
「そうだろ、この車は最高だ。マックイーンのブリット、見たことあるか?」
「はい」
「あのカーチェイス、覚えてるか? あれはすごいだろ。マックイーンがのってるのはマスタングだが、このシボレーのほうがもっと性能がいいぞ。そう思うだろ。どうしてこのシボレーを使わなかったんだろうなぁ」

 警部の家に着くまでずっと車の話をしていたが、ほとんど警部一人でしゃべっていた。クラシックとアジアの芸術しか興味がない物静かなインテリタイプだと思っていたが、案外、私以上に”やんちゃ坊主”なのかもしれない。警部を家まで送り、自分のアパートに戻ったときは時計の針は深夜1時をさしていた。

 

 










 

 

 

 

 

 

 

 

エンジェルダスト(21)

 朝7時。
 快適な目覚めではなかった。昨晩は妙な夢を見たが所々しか覚えていない。私がいたのはベトナムのジャングル。悲鳴も爆音も銃声もしない。ただ闇だけが支配する世界。誰かが私の名を呼んだ。
「ブライアン、ブライアン、ブライアン・・・・・・」

 突然、私はテンダーロインの路上にほりこまれていた。赤、青、黄色の光線が路上を縦横無尽にはっている。やがて光は赤一色になった。血の色に染まった路上に頭が半分崩れたラムが立っていた。彼は何も言わない。ただ、じっと立っている。私はラムの方へ行こうとしたが、何かが私の足をつかんで、もがいても、もがいても先に進めない。叫ぼうとしても声も出ない。必死で右腕をのばし、左腕を伸ばし・・・・・・
 何かを掴んだと思ったとき目が覚めた。しかし手には何もない。シーツがかなり乱れていたので、夢にうなされながらシーツを引っ張っていたのかもしれない。

 ベッドから降りて窓を開けた。小雨が降っている。窓から見えるコイトタワーは、どんよりとした空を背景に、今日も悠然とした姿でサンフランシスコを見下ろしている。テレグラフヒルの麓にある私のアパートの窓から見える風景はいつもと変わらないのに、どうして人の人生はこんなに早急に変わってしまうのだろう。
 ベトナムで友人の戦死の報告を何度も聞いた。そのたびに、体の中から胃をゆすられているような感覚を覚えた。感情をもたない機械になりたいと思ったことがある。心がなければ悲しみも感じない。

 フラナガン巡査部長のメッセージを聞いてすぐ、ラムの家に電話をかけたが誰も出なかった。続いてジョンに電話した。ラムの葬儀は今週金曜日、聖マリア大聖堂(Saint Mary's Cathedral )で行われるということだ。葬儀の手配は全て市警が行い、詳しいことがわかり次第、連絡するといっていた。ジョンがフラナガン巡査部長から聞いた話によると、ラムは昨日の夕方、突然激しい頭痛に襲われ、30分もしないうちに意識不明の状態に陥った。すぐに救急車で近くの救急病院に運んだが、もう手遅れだった。オマー・スコットの攻撃で、ラムの頭の血管はかなりのダメージを負っていたようだ。通常、このようなダメージは治療不可能で、昨日、ついに頭の血管が破裂してしまった。ラムがテンダーロイン署で大怪我をして病院に運び込まれた日に、ラムの命はもう長くないという話を家族は医者から告げられていたらしい。だからラムの家族は彼を自宅に連れ帰ったとマエが巡査部長に語ったようだ。私とジョンがラムの家を訪問したとき、彼の母親は、ラムは良くなっていると言ったが、あれは私たちを気遣ってそう言ったんだ。
 しかし、いつまでも悲しみに浸っているわけにはいかない。私にはしなければならない仕事がある。一刻も早く解決しなければならない事件が待っている。
 エンジェルダスト――間接的にしろ、これがラムの命を奪った。オマー・スコットもジョンのアバラを一撃で折ったパパス同様、エンジェルダストの影響で人間離れした化け物になっていたのだ。あの大男ジョンですら太刀打ちできなかった。小柄なラムが適う相手ではない。どこの誰がばら撒いているのかわからないが、必ず見つけ出して地獄の天使の息の根を止めてやる。

 シャワーを浴びたあと、コーヒーを飲みながらベッドに腰掛けて、窓から外を眺めていた。出勤する人の流れをみていて、ふと思った。今日からはパトロール警官の制服ではなく私服で出署しなければならない。パトロール警官ならば、制服があるので洋服で悩むことはない。唯一、服を選ぶときの悩みと言えば、どのジャケットを着るか。もちろんこれは天候によって決定されるので、困った時は天気予報に頼ればいい。しかし、私服となると何を着ていけばいいのか。制服のように便利なポケットがたくさんついた服は一枚も持っていない。ビジネスマンのようにネクタイにスーツ姿がいいのか、それとももっとカジュアルなスタイルがいいのか。まさかこんなことで悩むとは。これじゃまるで、デートに行く前の女の子じゃないか。 ワードローブから洋服をあれこれ引っ張り出し、最終的に決まったのが、ジーンズにブラックのタートルネックシャツ、軍隊で支給されたアーミージャケット。靴はブラックのコンバットブーツ。
 洋服は決まった。次は携帯する拳銃。ショルダーホルスターにはどの拳銃を入れるべきか? パトロール警官のリボルバーは重量があるので、こんなものを脇のホルスターに入れて持ち運んだら体の左側に負担がかかりすぎる。勤務中の拳銃は非番の時に携帯している9ミリの15 ショットセミオートマチックに決めた。これならリボルバーより軽いので、ショルダーホルスターに入れて上着を着ても、体の左側がかさばることがない。バックアップガン(予備の拳銃)はワルサーPPK/S 380 キャリバーオートマチックピストル。これはベルトクリップのついた柔らかなレザーホルスターに入れてズボンのベルトに付ければ、良い具合に腰にフィットする。テンダーロイン署の初日に、ジョンから「ジェームズ・ボンドに返して来い」と言われた拳銃だが、それが今頃役に立つとは思わなかった。まだ時間は十分にあるので拳銃のクリーニングをすることにした。

 キッチンのテーブルの上で拳銃を解体し、部品をひとつずつ丁寧に磨いてオイルを塗り、表面がかすかな薄い膜でコーティングされる程度にまでオイルを丹念にふき取る。再び元通りに組み立てて完成品を点検した。それから弾倉のクリーニングに取り掛かった。弾倉は全部で4つ、ひとつはPPK/S。残りの3つは9mmオートマチック。ラウンド(弾)はトータルで51発。すべてホローポイント弾である。クリーニングが終わった拳銃をもう一度チェックした。パーフェクト。これで今日一日中撃っても、途中で故障する心配はない。拳銃を元の棚にもどし、冷めたコーヒーを温めなおしてトーストとコーヒーだけの簡単な朝食をとった。

 

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(SFPD本部のある建物)

 

市警本部はテンダーロインから数ブロック南に下ったブライアントストリート沿いに立っている。道路の混雑状況がわからないので、早めに支度をして1時にアパートを出ることにした。出かける前にもう一度バスルームでシャワーを浴び、ひげの手入れをした。市警では、私服警官も制服警官も顎ヒゲをはやしている。警官はヒゲを生やせと命令でもされたのではないかと思うほど、ほとんど全員が顎鬚を生やしていた。私もそれに習って、最近では顎ヒゲを生やすようになり、バスルームでひげをそるときも顎だけはかみそりを当てなかった。シャワーとヒゲの手入れを終え、朝、選んだ服を着て、拳銃を身につけ、引き出しから皮手袋とIDカード、ゴールドバッジ、手帳を取り出してアーミージャケットのポケットにしまった。手帳にはメモ用紙とフィールドインテロゲーションカードと呼ばれている人差し指サイズのカードがはさんである。このカードは、警官が職務質問などした場合、その人物の情報を記録に残したいと思ったときに書き込むカードで、その日のシフトが終了したとき、仕入れた情報を分かち合うために本部に提出することになっている。

 ブラックのサングラスにブラックのベースボールキャップをかぶり、1時きっかりに部屋を出た。外はまだ小雨が降っている。ラジオの天気予報では雨はまだ数日は続くようだ。これからの季節は小雨のサンフランシスコを歩くのも悪くない。町全体がしっとりした雰囲気に包まれ、雨にぬれた歩道はグリースを塗ったようにツヤが出て、夜になるとライトに反射して黒光りする。

 

 ストックトンストリートのバス停には、中年の中国人の女性と70代くらいの中国人の老婆。ふたりともこぼれおちそうなくらいたくさんの野菜を入れた買い物かごをぶら下げている。他には、学校帰りの小学生と観光客らしき男女が数名。自分はろくでなし(riff-raff)だと、わざわざ宣伝しているような風体の20歳くらいの白人の男が一人。こういう連中は、テンダーロイン、マーケットストリート、ブロードウェイストリート、フィッシャーマンズワーフ辺りに行けばゴロゴロいる。

 

 トロリーバスがバス停に止まると、乗客たちの列が急に乱れた。中国人の老婆がバスに乗ろうとしてステップに一歩足をかけたとき、ろくでなしの白人が無理やり老婆の前に割り込んでバスに乗ろうとした。そのせいで老婆は歩道にひっくり返ってしまい、買い物かごから野菜が全部飛び出して歩道に散らばってしまった。そんなことなどお構いなしに、ろくでなしはバスのステップを上がろうとしたので、私はそいつの後ろから襟首をつかんで引きずり下ろしてやった。突然後ろ向きに引っ張られたので、このバカ者はステップを踏み外し、私が手を離した途端にバランスを崩して勝手にしりもちをついた。

 

「ひっくり返されて、どんな気分だ! また誰かに同じことやりたいか!」

 このバカ(asshole) をにらみつけて怒鳴ってやった。そいつは、「クソッ!  バカヤロー!」と捨て台詞をはいて、私の靴につばを吐いた。しりもちをついた時にしこたまぶっつけた尻をさすりながら立ち上がろうとしたので、私はすぐに背後に回って左手で頚動脈を押さえ、この男の意識が吹っ飛ぶ前に、自分のポケットから警察バッジをだして男の目の前に突きつけてやった。足をばたつかせ、私の左手を外そうと無駄な努力をしているが、すぐに動かなくなった。妙な格好でひっくり返ったばか者のボディーチェックをし、ポケットからIDカードを取り出して、早速、インテロゲーションカードに書き込んだ。

「雨にぬれた歩道は冷たくて気持ちいいだろ。当分そこでくたばってろ!」

 

 バス停のそばにいた人たちが、路上に散らばった野菜を拾って、かごに戻すのを手伝っていた。後から来た年配の男性が老婆を抱えるようにして一緒にバスに乗り込み、空いている席に老婆を座らせた。最後に私がバスに乗ると一斉に拍手が起こった。老婆は「ありがとうございます」と何度も頭を下げている。

「あなた、テレビで見たおまわりさんと違う?」

 バスの中の乗客にそう言われたが、「ノーノーノー」と言って、一番後ろの席に座った。何人かが振り返って私を見ている。本当はすごくうれしかった。なんだかスターになったような気分だ。でも、照れくさい。降りるまで腕組みをして寝たふりをしていた。

 

 

「おい、おまえ!」

 バスから降りたとき、後ろから誰かが私の肩をつかんだ。振り返ると、私より頭ひとつ分大きい20歳くらいの黒人が立っていた。私のすぐ前の座席に座っていた男だ。

「何ですか?」

 私が言うと、その黒人は少しあごを突き出し、「おまえ、調子にのってんじゃねぇぞ!」と私を威嚇した。

 また出たか!    こういう連中はゴキブリのようにどこにでもいる。

「おまえ、テレビに出ただろ。有名になったからってな、なめたまねするんじねぇっていってんだ!」

「私は乗客の安全を守っただけだ! マナーとルールを知らないやつは我慢できないからな。なんならあんたにも教えてやろうか!」

「なめたことぬかすな!    クソガキ(Shut the fuck up!)」

 男が私の襟首をつかみかかってきたので、コンバットブーツで思いっきりむこうずねを蹴り飛ばしてやった。反撃するかと思いきや、「ググゥ」っとうなって、その場にうずくまってしまった。

「クソガキはそっちだろ!  次は骨を折ってやろうか!  手を後ろに回せ!」

 

 今度は私がこの愚か者を見下ろして威嚇した。男は顔をゆがめて下から睨んでいるが、薄笑いを浮かべて立っている私を見て、しぶしぶ両手を後ろに回した。男の後ろに回って、左手で男の両手の親指を強く握って手の動きを封じ、右手で男のボディーチェックをした。武器はもっていない。ポケットからIDカードを抜き取って、男の背中を机代わりにしてインテロゲーションカードに住所、氏名、社会保障番号を書き込んだ。

「聞け! ポンコツ野郎!(Listen you piece of crap) またやったら、次は病院行きだからな。そのあとはおりの中で入院だ。おぼえとけ!」

 

 そのとき、ハワードストリート行きのバスが来たので男を釈放し、私はバスに乗り込んだ。本部に行く前からインテロゲーションカードを2枚も使ってしまった。くだらないことで時間をつぶしてしまった。アパートを早めに出たのは正解だった。

 

 ハワードストリートでバスを降り、クレメンティーナストリートのほうに向かって歩いた。この辺は、小さな工場や倉庫、雑居ビル、100年ほど前から建っているビクトリアンハウスが混在して立ち並んでいる。サンフランシスコがまだ若かった頃はずいぶん華やかで活気に満ちた地区だったが、時の流れとともに、ビクトリアンハウスは徐々に色あせ、それに合わせるように、付近の商店や工場も沈んでいった。

 

 Hall Of Justice の正面に着いたときには雨は本降りになっていた。階段を上がって建物の中に入り、警備員にIDカードとバッジを見せた。セキュリティーチェックを済ませて、捜査課のある2階へ上がるためにエレベーターに乗った。 Inspecter Breau と書いたドアを開けて中に入り、受付の女性にギャラガー警部のデスクをたずねたら、「あそこです」といって、部屋の南側の一番奥を指差した。

 

 ジョンと警部の姿を見つけた。殺人課のセクションの方へ歩いていくと、警部がこちらをじっと見ている。

「どうしておまえまでアーミージャケットを着ているんだ。これじゃ制服だな」

 警部に言われて気がついた。三人ともアメリカ陸軍で支給されたオリーブドラブ色のジャケットにブルージーンズ、ブラックのコンバットブーツをはいている。違いは警部の腕にはめてあるギプスだけである。ジョンと私はお互いの顔を見て苦笑いした。警部は右眉を釣り上げあきれ返ったような表情で私とジョンを見ている。

「明日からはもうちょっと違った格好をするべきだな。まぁ今日のところはしょうがないが、ボーイ、おまえはもっとだらしない格好のほうがいいぞ」

「はい、ボス。わかりました。明日からは浮浪者の格好で来ます」

 私が答えると警部がにやりと笑った。

 

「ところでおまえたち、ミーティングの前にコーヒーでも飲まないか」

 警部は私たちの返事も聞かず、立ち上がってファイルキャビネットの横にある小さなテーブルへ行き、琥珀色の液体がたっぷり入ったプレス式コーヒーメーカーと紙コップを持って戻ってきた。デスクにコップを3つ並べると、ジョンがコーヒーを注いだ。湯気と一緒にヘーゼルナッツの甘い香りが立ち上っている。私とジョンがコーヒーカップを持って椅子に座ると、すぐに警部は仕事の話を始めた。

「デービス課長から話は聞いてると思うが、エンジェルダストに関しては課長もかなり頭を痛めている。地方検事とも協力しているが、いまだに出所も流通経路もわかっていない。それで、おまえたちに捜査の協力を願ったわけだ。私の腕が治るまでドライバーもしてもらいたい。前にも言ったが、過去3ヶ月の間に起こった喧嘩、自殺、殺人事件でPCPが出たのは28件。PCPの血中濃度のレベルはさまざまだが、すでに今日で31件に増えている。これは 非常に危険で恐ろしい薬物だ。私の知る限り、つい最近までサンフランシスコでPCPによって引き起こされた事件は報告例がほとんどない。数年前、オークランドサンノゼであわせて2件。それだけだ。それ以外は聞いていない。とにかく一日も早くこの薬物がどこから来てどうやって広まっているのか、それを見つけ出して叩き潰さねばならない。そこでだ・・・・・・」

 警部はコーヒーを一口すすってから話を続けた。

「二人とも、パパスで経験済みだからPCPの恐ろしさは十分わかってると恩う。それからPCPに関しては、ボーイが調べて資料にしてくれたから、この事件を担当している捜査官と同じくらいの知識はすでに持ってるはずだ。それで、ボーイ。おまえに質問だ」

「はい?  何でしょうか?」

「まず、PCPの起源。次にこれがどうやってサンフランシスコに入ってきたか、おまえの意見を聞きたい」

 警部はマルボロに火をつけ、椅子の背にゆったりともたれた。

 

 捜査官になったばかりの新米に、ずいぶん難しい質問をしてくれる。まるでこれから口頭試問を受ける受験生になった気分だ。警部からPCPの資料を作れと言われたときに、PCPに関する本を読み、質問されても困らないようにある程度の知識は頭に入れてある。PCPのレポートを書きながらいろいろ考えた。自分の意見も持っている。だから、今、自分の立てた仮説を警部に話そうと思った。

 湯気の立った熱いコーヒーを少し飲み、話を始めた。すでに私の作ったPCPの資料は警部もジョンも目を通しているので、化学的な説明は私の仮説に必要な部分のみピックアップして簡単に説明した。

 

 アメリカでは最初、外科用の麻酔薬としてPCPが使われた。1962年に、米国最大にして最古の製薬会社パーク・デービス社が『セルニール』という名前で認可を取って製造販売を始めたが、投与した患者に精神錯乱のような副作用が出て使用禁止になった。それから5年後『セルニラン』という名前で、動物用の麻酔薬に変えて販売したが、これも現在は製造中止になっている。PCPの原形は黄色いオイル状の液体で、それを塩酸ガスや塩酸含有イソプロピルアルコール液と反応させると白色の結晶になり、溶かすと無色透明になる。

 このことから推察して、もしかしたら、パーク・デービス社からPCPの研究開発の依頼を受けたアメリカ国内の小さな研究所が、製造販売が中止された後も、ひそかに作っていたのではないか。私はまず、そのことを警部に話した。

 

「小さな研究所?  アメリカで? それで、そういう研究所はあったのか?」

 警部が訊いた。

「いいえ、いろいろ調べてみたんですが、そういう情報は見つかりませんでした。PCPの合成なら、小さな研究所でもできるのではないかと思ったんですが、これは私の推測が外れたみたいです。でも調べてわかったんですが、アメリカじゃなくてアジアで製造されていたようです」

「アジアで? アジアというと中国あたりか?」

 今度はジョンが訊いた。私はもう一口、コーヒーを飲んでから質問に答えた。

「中国も入ってましたが、これは否定してる団体がいますね。中国以外には、タイ、南ベトナム、香港です。おそらくPCPはこの3つの国から入ってきたんじゃかと思います」

「タイ、南ベトナム、香港か。どうしてそう思う? どうやってここに入ってきたんだ?」

 ジョンが言った。

ベトナムの話ですが、むこうで薬物中毒になった兵士はかなり多いです。彼らが使ってる薬はベトナムでしか手に入らないから、それを隠してアメリカに持ち帰った兵士がたくさんいます」

「GIがベトナムから持ち帰ったか?」

 警部が私に訊いた。

「はい。GIがベトナムからドラッグを持ち帰ったのは本当です。でも、たいていマリファナ(乾燥大麻)です。タイスティックと呼ばれてるやつです。ヘロインやLSDも隠し持ってきたのがいたようですが、せいぜいポケットにしまえるくらいのわずかな量で大量に持ち帰るのは無理です。でも、持ち帰っても、みんな見つかって捕まってしまって、うまくいったのはゼロに近いですね」

 

 私はそこで言葉を切り、冷めかけたコーヒーで口を潤した。警部が指先に挟んでいるマルボロには火がついているが、私が話している間、まったく吸っていない。長く伸びた灰が今にも落ちそうだ。

「ボーイ、おまえ、ベトナムで何か聞いたことはないか。何か他の薬物のことで、誰かが吸ってたとか、何かわからないか」

 警部がそう言ったとき、デスクの上の灰皿に、伸びすぎた灰がうまい具合にぽとっと落ちた。

 

 

ベトナムで、マリファナやヘロイン以外の薬物のことを聞いたことがありますが、あの時はまだPCPという名前はまったく知らなかったから。でも、今思い出すと、たぶん彼らが話してたのがPCPだったんじゃないかと思います。液体につけたタバコを吸うと良いとか、そんな話をきいたことあります。液体につけて、それを乾かして吸うんですが・・・・・・確か、えっと・・・・・・Embalming Fluid(濃度の高い飲み物)・・・・・・そんな名前で呼んでたような覚えがあります。実際にそれを試してみた連中もいたようで、ホルムアルデヒドを吸ったみたいだと言ってたのをきいたことがあります。でも誰が言ってたか、名前まではわかりません」

「なるほど。濃度の高い飲み物か」

 警部があごひげを引っ張りながら独り言のように言った。

「はい、それをよく使ってたのは、黒人とラテン系のアメリカ人のGIでした。白人はLSDマリファナでハイになってました。ドラッグをやらないかわりに、酒でアル中になったのもいました」

 私は警部の顔を見た。口を少しだけ突き出して、髭を引っ張っている。

 

「なるほどな。そうか。黒人とラテン系のGIが持ち帰ったというのも十分にありうる話だ。麻薬課でPCPでつかまった容疑者の記録を見せてもらったが、サンホゼで捕まった容疑者はラテン系だった。オークランドのほうは黒人だ。ドラッグがらみの犯罪は今ではオークランドのほうが圧倒的に多いが、容疑者の半数以上が黒人だ。オークランド警察もPCPがどこから入ってきたか、まだよくわかってないようだ。もっともアメリカ国内に入ってしまえば、国境を越えることなどそれほどやっかいなことじゃないがな。国境の警備員がまともに仕事してるかどうか、怪しいもんだ。そういういい加減な連中を国境に置くから、われわれの仕事が増えるわけだ」

 

 警部はそういうと、火をつけただけでほとんど吸っていないマルボロを灰皿の中でもみ消し、2本目を取り出して火をつけ、吸い込んだ煙をゆっくり吐き出した。 

 

「確かにキースの言うとおりだ。アメリカに入ってしまえばあとはどうとでもなる。それで訊きたいんだが、オニール。もしPCPがアジアから来たのなら、どうやってアメリカに入ったんだ? 今、サンフランシスコで出回ってるPCPは、GIが持ち帰れるようなわずかな量じゃないと思うが。国境の警備員と違って税関はそう簡単にはいかんぞ」

 ジョンが質問した。

「はい、戦地から持ち帰っても成功した例はほとんどないし、大量に運んだらすぐにばれてしまうし。飛行機も船も税関はまともに仕事してますからね。それでどんな方法があるか考えたんですが――」

 

 私がそこまで言うと、警部もジョンも少し身を乗り出してきた。

 

「これだけ短期間でPCPの犠牲者が増えているということは、ある程度まとまった量が入ってきてるはずです。でもベトナムから持ち帰ったとしても、ほんの僅かだから、サンフランシスコでばら撒けるほどの量ではないです。薬物を持ってくるのに、体のどこかにテープで貼り付けるとか、手荷物の中に隠すとか、そんなことをしても税関でばれてしまう。そういう方法で運ぶより船を使った方がもっとたくさん運べます」

 

「つまり、おまえの言いたいことは、コンテナ船のようなものに積んで来たということか?」

 ジョンが私の言いたかったことを付け加えてくれた。

「貨物飛行機という方法もありますが、船と飛行機とどちらが成功する率が高いかといったら、やはり船だと思います。アジアからの輸入品を積んだ船は、ほとんどがオークランド港かロサンゼルス港に来ますよね」

「うん、両方ともハブ港だからな」(※ハブ港:中枢国際港湾

 ジョンが言った。

 

「はい、それで海上輸送のことを少し調べたんですが、陸揚げされたコンテナのチェックが結構いい加減なんですよ。ヤードに搬入されたコンテナは積荷目録を確認するだけで、実際にコンテナを開けて中身までチェックしません。それから、たとえば、そうだな、えっと、砂時計みたいに、中に砂とかオイルとか水とか、何かもっと他の小さいものでもいいですが、壊さない限り中身を出すことができない玩具とか置物とか、そういった類の品物は中の成分までチェックしないから簡単に税関を通過できるんですよ」

「うん、なるほどな。そういう抜け道があるわけだ」

 ジョンが頷いた。

「PCPは液体にもなるし固体にもなるし、もしもPCPが今言ったような商品に化けて入ってきたら、たぶん税関は見逃してしまうんじゃないかと思います」

 警部は腕組みをして黙って聞いている。

「あの、警部。ちょっと質問してもいいですか?」

「なんだ?」

 警部が言った。

「私は警察に入ってまだ日も浅いし、ドラッグの世界のことはよくわからないんですが、ここ数年の間でドラッグをさばいていた元締めっていうのは誰だったんですか?」

 私が聞くと、警部は「いい質問だ」といって、コーヒーで口を湿らせ、椅子に座り直してから話し始めた。

「我々がつかんでいるのは、イタリアンマフィアのジミー・ランザ。父親のフランチェスコ・ランザの跡をついで2代目のドンになった。それから、トニー・リマ、マイケル・アバッティ。ジミー・ランザはニューヨークの5大ファミリーとコネクションを持ってる。ラスベガスにもコネがあってカジノからファミリーに金が流れてきてるようだ。ランザの資金源は売春、高利貸し、カジノ、麻薬。ランザが扱ってるのは、ヨーロッパから入ってくるヘロイン、南アメリカからのコカイン、あとはメキシコのマリファナだ。それ以外の薬物は、おそらく東海岸、ほかのファミリーから流れてくるのもあるかもしれない」

 

 警部はそこまで言うと、メガネをずらして、親指と人差し指で鼻の付け根をはさむようにして目頭を強く押さえた。頭痛がするんだろうか。少しつらそうに見える。

「あとは、ヤクザだな」

 警部は目を押さえたまま言った。

「ヤクザって何ですか?」

「日本のマフィアのことだ。自分たちのことを仁侠団体(chivalrous organizations)と呼んでるらしい。日本の大阪に本部があるタナガワファミリーというのがベイエリアに入ってきてるが、ここでは小さな組織だ。ベイエリア支部を仕切っているのがタナガワサムル。ファミリーのメンバーからはサミー・タナガワと呼ばれている。父親がファミリーのドンだ。日本の東京あたりで、売春、麻薬、パチンコ、銃の密輸とかなり手広くかせいでるらしいが、ベイエリアじゃおとなしいもんだ」

 

 警部はマルボロを取り出して口にくわえ火をつけた。タバコで一服してから警部は話を続けた。

「リトル大阪にミカドホテルというのがあるだろ。このホテルの権利もサミー・タナガワが持ってるようだが、ホテルの経営のほうはファミリーのメンバー以外の人間にやらせてるらしい。ロスにも支部があるが、ロスのほうは麻薬、売春、恐喝、人身売買にも手を染めてるらしいが、これはサミーのスタイルじゃない。サミーが最近手を出してるのが、不動産、これは今のところ法に触れるようなことはしていない。それ以外には、観光客相手にコールガールの斡旋業もはじめたらしい。ラスベガスに来る”Whales" 相手に商売しているようだ」

「Whale ? クジラ? なんですか、それ?」

「われわれの業界用語だ。Whale はクジラじゃない。こういう世界じゃ、”カジノで大金を賭けるやつ”って意味だよ。おまえも捜査官になったんだから、こういうアンダーワールドの言葉も覚えないとダメだぞ」

「はい、勉強します」

 私が言うと、警部は口元に少しだけ笑みを浮かべた。

「明日、サミーに会って、少し話を聞いてみるつもりだ」

 警部が言った。

「あの、サミー・タナガワを知ってるんですか?」

「ああ、彼は私の道場の生徒だよ」

「ヤクザが?  ヤクザが習いにくるんですか?  警部の道場に?」

 思わず声が大きくなってしまった。

「道場のルールさえ守ってくれれば誰が来たってかまわんさ。サミーはなかなか筋がいいぞ。そのうち機会があれば彼と手合わせでもするか?」

 警部は私の顔を見て、少しだけ歯を見せて笑った。

 

 

「ところで、キース。トング(チャイニーズマフィア)のほうは最近はどうなんだ?」

 

 ジョンが訊いた。

 

「ああ、トングか。トングなら今じゃ、弱体化の一途をたどってるよ。相変わらず、縫製工場や賭博場、雀荘をコントロールしてるようだが、縫製工場の労働者は哀れなもんだ。低賃金で強制労働だからな。ところで、ボーイ、サッターストリートにある”Forbidden City(紫禁城)”というナイトクラブを知ってるか?」

 

 警部がタバコをもみ消しながら私の顔を見て言った。

 

「いいえ、知りません」

 

「トングが経営してる店だ。そこで働いてる若いダンサーやシンガーはみんな借金の肩代わりに無理やりつれてこられた娘ばかりだ。トングから借りた金が返せなければ、娘の体で返せというわけだ。売春を強要されても、誰一人文句も言わない。警察にも裁判所にも言わない。それが家族のためだと思って、何をされても文句も言わず働いてる。彼女たちはいずれ家に帰れると思ってるが、そんな希望は薬物でぼろぼろにされて終わりだ」

 

「まだそんなことやってるんですか!」

 

 娘の体で返せ――こんなことは昔の話で、今では映画の中だけのことだと思っていた。警部の話を聞いて、驚きと同時に無性に腹が立ってきて声が大きくなってしまった。

 

 

 

「金、女、クスリ。アンダーワールドの構成要素だな」

 

 警部はフゥーっと鼻から大きく息を吐きながら椅子にもたれかかり、少しの間、何も言わず、大きなガラス窓から外を見ていた。警部はもう一度、大きく息を吐くと、視線を私に向けた。

 

「それから薬物のことだが、トングが関わってるのは最近ではアヘンの売買だけで、ほかの薬物には手を出していないようだ。彼らは自分たちのコミュニティー固執してるから、アヘンの売買には、おそらく黒人は関わっていないと思う。トングは黒人を毛嫌いしてるからな。ビジネスに黒人が関わることはまず考えられん。ただし、トライアド (三合会)は別だ」

 

「あの、トライアドとトングって、どっちも同じチャイニーズマフィアじゃないんですか?」

 

「何だ、オニール。同じだと思ってたのか。それは違うぞ。トングはアメリカに移民で渡って来てここに根を下ろしたチャイニーズアメリカンの犯罪組織で、トライアドは香港系のマフィアだ。一緒じゃないぞ」

 

 ジョンのあとを警部がつなげた。

 

「ジョンの言うとおり、二つの組織は別物だ。トライアドは香港から入ってきた香港スタイルの犯罪組織だ。この組織は、犯罪と名のつくものなら何でもやる。暴行、脅迫、放火、殺人、誘拐、収賄、密輸、麻薬、売春、銀行詐欺、ノミ行為(book making)、数え上げたらきりがないが、ありとあらゆる犯罪、刑法のテキストに出てくる犯罪すべてだ。ドラッグの取引でも売る相手は誰でもいい。中国人コミュニティーだけを相手にするトングとはそこが違う。トライアドのディーラーが相手にするのは、黒人だろうが、アジア人だろうが、メキシコ人だろうが、誰でもかまわない。要は、売って金が入ればいいわけだ。この連中には罪の意識などかけらもない。もっとも、罪を悔いるような心でもあればマフィアなんかにはならないだろうがな。とにかくこの連中は、自分の利益のためなら眉ひとつ動かさず人を殺せる」

 

 警部の声が次第に低くなり、これから重大な秘密を打ち明けるような話し方になってきた。

 

「現在、サンフランシスコを拠点にしている組織は、14K、華青(Wah Ching)、ジョーボーイズ(Joh Boys)、この3つの組織の資金源は香港で、今ではトングを押さえつけて強大な犯罪集団に成長している。彼らは構成員を増やすために地元のストリートギャングリクルートしてるようだ」

 

「まったく厄介な連中だ」

 ジョンが独り言のように低い声で言った。

「なぁ、キース。おまえはどう考えてるかわからんが、オニールの話ではアジアからPCPが流れてきたかもしれないって事だから、手始めに、中国マフィアのアジトがあるチャイナタウンから調べてみたいと思うんだが」

 そういうと、ジョンは私のほうを見て、言った。

「オニール、おまえはどう思う。結構いい勘してるからな。チャイナタウンから捜査を始めるってのはどうだろう?」

「はい、私も同じこと考えてました。あのニューイヤーに飛び降りた男、えっと、名前は、確か、ケビン・ワシントン。テンダーロインでパトロール中に会ったPCPの犠牲者の中で、チャイナタウンに関連するような証拠を残したのはあいつだけですよね」

「ああ、あの札束に書いてあったChinese の最初の4文字か」

 ジョンが尋ねた。

「はい、でも絶対 "Chinese "だって確証はないですが、このアルファベットはチャイナタウンでよく見かけるから、チャイナタウンを調べたらケビンにつながる何かが出てくるような気がします。それから赤いマスタングですが――」

 そこで少し頭を整理するために話を中断したら、警部が私のほうに身を乗り出してきた。

「続けなさい。その車がどうした」

 警部が言った。

「あのマスタング、パトロール中にテンダーロインで3回見かけました。3回目に見たときは、ドライバーはドラックディーラーとしゃべってたし。もし、あのドライバーがロン・チャンなら、仕事が終わって夜になったら、あの車でテンダーロインまで来て、ヤクの取引をしてたのかもしれないし・・・・・・そういうことなら、ロンが金をたくさん持ってるとマコトがいったことも納得できるし。あるいはほんとうにギャングのメンバーかもしれない。あ、それに、ケビンが飛び降りたアパートもマスタングを見た場所もテンダーロインだから、あのドライバーのことを調べたら何かわかるかもしれないと思うんですが。それで、もしできるなら、私はロン・チャンを追ってみたいんですが」 

 警部は大きく頷いた。

「よし、わかった。私も二人の意見に同意する」

 それからジョンのほうに顔を向けて言った。

「ボーイがロン・チャンを調べたいといってるが、ジョン、どう思う?」

「わたしはこいつの勘を信じるよ。案外、そっちが突破口になるかもしれないな」

「そうか、それなら意見が一致したな。よし、じゃ、この線でスタートする。もしも間違ってたら、また最初に戻って別の方法でトライだ。いいな。二人とも」

「オッケー!」

  ジョンが元気よく答えた。 

 警部はカップに残ったコーヒーを一気に飲んでから、ポケットから手帳を取り出した。

「ロンを調べたいんなら、広東パシフィックインポートのアドレス、ちょっと控えておいてくれ。事務所はワシントンストリート 880、チャイナタウンに店があって、住所はストックトンストリート 1022、ここは食料品から洋服、インテリア雑貨まで、アジアからの輸入品を何でもあつかってる雑貨屋だ。それから、倉庫はサードストリートのはずれのピア48(48番埠頭)にある。あと、チャイナタウンのクレイストリートを上がったところにアパートがあるが、ここも広東インポートが所有してる」

 私は手帳にアドレスを書き込んだ。クレイストリートのアパートにはマコトが住んでいるが、捜査の話とは関係ないのでマコトのことは伝えなかった。

「店の周辺を回ってたらマスタングを見つけるのは、それほど難しくないだろう。それで今夜、ボーイにやってほしいことは、ロン・チャンがどこへ行って誰と会ったか。それから、彼のラップシート(犯罪記録)とマスタングの登録証のコピーをもらってきてほしい。今夜の仕事はこれだけだ。おまえの車は・・・・・・ちょっと待て」

 そういうと警部は立ち上がって、デスクの横にあるキャビネットの中から鍵がたくさん付いたキーホルダーを取り出し、その鍵束の中から一本外して私に渡した。

「ほら、おまえの車はシボレーノバ クーペ。ジョンは、私の代わりにフォードLTDを運転してもらいたい」

 警部はジャケットのポケットからフォードの鍵を取り出してジョンに渡した。ジョンが受け取った鍵をポケットにしまうのを見ていたら警部が私に言った。

「ボーイ。何だ、その浮かない顔は。シボレーじゃ不服か?」

 フォードのほうが大きくてかっこいいと思っていたので、警部に心の中を見抜かれて少しびっくりした。

「シボレーはおまえのようなアクティブガイにぴったりだぞ。V8 エンジン、ヘビーデューティトランスミッション、あとでトランクを見てみろ。ショットガンとM−16、最新型のラジオを積んである。どうだ、ホットアイテム満載だろ」

 警部はにやりと笑った。ジョンも目が笑っている。

「私とジョンは今日は退屈な仕事だ。今から市役所へ行って、広東インポートの納税証明書のチェックをして、ワシントンストリートの事務所を少し探ってみる。そのあとはブロードウェイストリートでマフィアの情報を聞き出してくるつもりだ。タレコミ屋を数人つかまえてるからな。それじゃ、9時30分になったらここに戻って来い。もし何か見つけたら連絡してくれ。いいな」

「わかりました」

 私が返事をすると警部はパンと軽くデスクを叩いて立ち上がった。

「よし!  それじゃぁ、出かけるぞ!(Okidoki! Let's go!)」

 

 

 

 

 

 

 

 

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※トング(The Tongs)は 在米中国人の犯罪組織。The triads(三合会)は香港を拠点とする犯罪組織。

※サミータナガワ(仮名)はサンフランシスコにいた実在のヤクザです。SFPDシリーズ第2弾『ビヘッダー・切断』に登場します。リトル大阪はジャパンタウンのこと。この時代、ジャパンタウンにあるレストラン、ホテルのバックにはヤクザがついていました。余談になりますが、観光客に人気のフィッシャーマンズワーフのレストランのバックにいたのはマフィアです。

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★チャールズブロンソン主演の『ヴァラキ』

オメルタ―沈黙の掟 (ハヤカワ・ノヴェルズ) マリオプーヅォ (著)

★The Chinese Mafia: An Investigation into International Crime  Fenton S. Bresler(著)  

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※ヘロインは大麻大麻を乾燥させたものがマリファナ、LSDは幻覚剤

 

 ※ホルムアルデヒド

毒性の強い有機化合物。粘膜への刺激が強い。現在ではシックハウス症候群の原因のひとつといわれている。

 

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刑事部の入り口で警部達と別れたあと、私は無線室(radio room)に立ち寄ってロン・チャンの運転免許証と車の登録証、犯罪記録のコピーを受け取ってから、エレベーターで地下のガレージへ降りた。

 

 私の車を見つけた。

 2ドアのシボレーノバ。色はブラック。やはりフォードLTDにくらべると見劣りする。ハブキャップはついていないがタイヤは上等だ。トランクには2つに仕切った木製のボックスが入っていた。その中には、レミントンM870(ポンプアクション式散弾銃)、コラプシブルストック(折りたたみ式銃床)を備えたM-16ライフル、予備のラウンド(弾), 防弾チョッキ、バトン、犯行現場の調査に必要なさまざまな小道具、ドギーディナーとハッピードーナツの紙袋、マルボロの空箱、一ヶ月くらい前のサンフランシスコクロニクル紙。警部の言ったホットアイテムというのはこのことか。フューリーのトランクに積んであったゴミ箱がそっくりそのままシボレーに引っ越してきたわけだ。また今回も、警部の言葉に乗せられて上手く誘導されてしまったように感じたが、運転席に座ってエンジンをかけたときは思わず 「オー、クール!」と叫んでしまった。エンジン音がいかしてる。まるでNASCAR のカーレースに出場するレーシングカーのようだ。

 

 

シボレー

 

外はまだ雨が降っている。本部の駐車場を出てセブンスストリートを曲がり、5ブロックほど過ぎてから無線のスイッチを入れてチャンネル1にあわせ、司令室を呼び出した。

「インスペクター102です。現在、10-8 (任務遂行中)、何かメッセージはありますか?」

「こちら司令室、インスペクター102 10-8、メッセージはありません(No traffic)」

 

 車がテンダーロイン地区に入ったとき、なんだか自分の家に帰ってきたような気がした。時刻はまもなく5時になる。ライトをつけて走っている車の数が増えてきた。テンダーロインの店にもそろそろ灯りが灯りはじめた。レストラン、バー、映画館の派手なネオンが、濡れた歩道に反射して、光のあたった部分だけが超現実的で妖艶な美の世界を作っている。少しだけ、雨のテンダーロインをパトロールしてみようと思った。

 

 ギアリーストリートとパウエルストリートには春休みを利用して遊びに来ている観光客らしき若者の姿が目立ったが、それ以外の歩道は雨のせいで人影もまばらである。マーケットストリートにあるケーブルカーの終点には、乗客の長い列ができていた。ユニオンスクエアにある高級百貨店は、出入りする人の流れが途切れることがない。タッドのステーキハウスもも満員だ。

 

 運良く、あの赤いマスタングがどこかに止っていないだろうかと思ったが、探しているときはうまくいかないものだ。私は ギアリーストリートからストックトンストリートへ入り、チャイナタウンへと車を向けた。車の数が少なかったので、渋滞にも巻き込まれず、トンネルの中を雷鳴のようなものすごい音を撒き散らして走り抜けた。トンネルでエキサイティングした後は、時速20マイル(20mph.32km/h)まで落とし、赤い車を探してゆっくりチャイナタウンをクルージングした。

 

 

 ストックトンストリート1022番地には3階建てのビルが建っていた。建物の外壁は薄い水色でペイントされ、宝石店やヒスイの専門店、小さなレストラン、洋品店、ヘアサロンが同じ住所を分かち合っている。ビルの軒先には、『Canton-Pacific Traiding and Import Company(広東パシフィックインポート)』という文字が入ったグリーンのオーニング(可動式天幕)がついている。入り口は開放されていて、店内からもれてくる黄金色の灯りが店頭の客を照らしていた。店の前に車を止めて、周りを探してみたが赤いマスタングはどこにもない。しかたがないのですぐに車を発進させ、ジャクソンストリートに出て、半ブロック先の角を右に曲がり、ちょうどビルの裏側になるロスアレー(Ross Alley) に入り、再び店の前に出るということを3回繰り返したが、私の探し物には出会えなかった。

 

 

 

 雨足が激しくなってきた。歩いている人の数も一気に減ってしまった。もう一度マスタングを探すために、今度はコースを変えて、ロスアレーからワシントンストリートに出て、狭くて暗いスポッフォードストリートに車を入れた。道の脇は空き缶や壊れた木箱、ゴミくずで縁取られている。この路地に入って半分ほど来たところで、赤茶けたレンガ色の建物の前に立っている男の姿を認めた。車の速度をさらに落として、ゆっくりと男に近づいて行った。その男は黒っぽいフェドラ帽を深くかぶって顔を隠し、黒いウインドブレーカーを着ている。上着の背中には白い文字で漢字が二つ並んでいた。私の車が側まで来ると、その男はタバコをくわえたまま、レンガ色の建物の中に消えていった。この建物の窓にはすべて鉄格子がはめ込まれ、正面の扉は分厚い鉄板で出来ていて、その鉄板の上には鉄棒が縦と横に数本、埋め込まれている。正面の扉の上部には、コンパスと定規を組み合わせたフリーメーソンのシンボルがかかっていた。

 

 夜にうごめく魔物の家。何かすごく嫌な感じがしたので、アクセルを踏み込んで、この場から即、退散した。

 

チャイニーズフリーメーソンのアジト

 

 悪霊が棲みついていそうな気味の悪い路地を出て左に曲がり、観光客に人気のあるグラントアベニューに向かった。雨が降っていなければ観光客がぞろぞろ歩いているが、今夜はグラントアベニューも閑散としている。チャイナタウンをぐるぐる走り回っているうちに雨が弱まってきたので、車の窓を半分あけた。旨そうな匂いが車の中に入ってきた。チャウメン、フライドライス、北京ダック。急に腹が減ってきた。そういえば、今日は朝からコーヒーとトーストしか食べていない。しかし今は食べている時間はない。私にはしなければならないことがある。匂いだけで我慢して窓を閉め、グラントアベニューからワシントンストリート、ウェイブリープレイスへと車を進めた。  

 

 ウェイブリープレイスはスポッフォードストリートと並行して走っている路地だが、ここにはメイソンのシンボルを掲げている建物は一軒もない。それどころか、どこの建物のドアも看板すら出ていない。ただドアがあるだけで、誰が住んでいるのか、中で何をしているのか、さっぱりわからない。得体の知れない建物が並んでいる路地を抜けて再びワシントンストリートに入り、広東インポートの事務所を探した。

 

 事務所は4階建てのビルで、中国建築特有の外側に反り返ったような屋根がついている。事務所の周囲を一回りしてみたが、ここにも赤いマスタングはいなかった。

 

 どこへ隠れてる! どうして見つからないんだ!

 

 もう一度、ストックトンストリートの店に戻って周辺を探してみたが、やはり赤いマスタングはどこにもなかった。

 

 どこへ行ってしまったんだ!  どこで何をしてる!  姿を現せ!  

 

 

 

 雨はいっこうにやむ気配がない。マスタングも見つからない。空腹も相まって、いらいらはつのるばかりだ。マスタングを見つけることよりも先に、腹に何か入れた方がいいかもしれない。私はチャイナタウンでマスタングを探すことをあきらめ、本部の近くにあるタウンセントストリートのドギーディナーまで車を飛ばした。店の駐車場に車を止め、雨の中を走って店内に駆け込み、オニオン入りのチリドッグ、フライングバーガー、チョコレートシェーキを買って車に戻った。あれほど腹が減っていたのに、チリドッグを半分ほど食べただけで満腹になってしまったので、残りは袋に戻し、再びマスタングを探すことにした。

 

 ここからではチャイナタウンに戻るよりも、広東インポートの倉庫があるピア48の方が近い。もしかしたら、そこにマスタングがいるかもしれない。ドギーディナーの駐車場からバックで車を出し、ピア48の方角に車の向きを変えた。シボレーのスピードを上げると、それに負けまいと、雨が必死でフロントガラスを叩きつけてくる。濡れた路面がライトの光を受けて輝き、まるで鏡の上を走っているようだ。 

 

 チャイナベイシンで跳ね橋を渡り、左に曲がってドッグエリアに入りスピードを緩めた。壊れかけたおんぼろの倉庫が立ち並んでいる。私は車の窓を開けた。外の空気が冷たい。雨と一緒に海草の匂いが車内に入ってきた。 

 

 48番埠頭に並んでいる老朽化した倉庫の前をゆっくり走り、広東パシフィックインポートの倉庫を探した。前方に車が止っている。シボレーのヘッドライトが車の全形を捕らえた。

 マスタングか? 

  私は前方に目を凝らしながら、ゆっくり接近していった。車体は赤。ナンバープレートにIMPORTのアルファベット。まちがいない。あの車だ。ずっと探していた車。赤いマスタング。ついに獲物が見つかった。 

 

マスタング

 

 

 マスタングは大きな倉庫の前に止っていた。倉庫の窓から煌々と明かりが漏れている。私は周囲を見回し、車を止める場所を探した。数メートル後ろにコンテナ置き場がある。シボレーをそこまでバックさせ、大きなコンテナの陰に車を入れてライトを消し、エンジンを切った。ここからなら相手に気づかれずにマスタングを見張ることができる。

 

 私は真っ暗な車内で、チョコレートシェーキを飲みながら、マスタングの運転手が出てくるのを待った。待っている間に無線室で受け取ったロン・チャンの運転免許証のコピーを出し、ペンライトで彼の顔写真を確認した。写真に写っているロンは前髪を切りそろえたビートルズのようなショートヘア。私とジョンが見た運転手はもう少し髪が長かった。でも顔だけ見たら似ている。たぶん間違いないだろう。テンダーロインでドラッグ・ディーラーのタイリー・スコットと話していた男がロン・チャンだ。

 

 

 10分過ぎ、20分過ぎ、30分が過ぎたころ、エンジンをふかす音が聞こえた。それから数秒後、シボレーが潜んでいるコンテナの前を、赤いマスタングが滑るようにゆっくりと通り過ぎていった。私の車にはまったく気づいていないようだ。

 

 私は30までカウントした。

 

 25、26、27、28、29、30。

 

 エンジン始動。V8エンジンの攻撃的な唸り声が暗闇に響き渡る。ライトを消したままアクセルをゆっくり踏み込み、コンテナ置き場を出て獲物のあとに従った。今、マスタングは跳ね橋を渡っている。真っ黒なシボレーが後を追う。

 

 跳ね橋を渡りサードストリートに入る手前で、マスタングとシボレーの間に別の車が一台割り込んできた。割り込んだ車のヘッドライトが獲物を照らしてくれるので見失うことはない。シボレーの存在に気付かれないくらいまで車間距離をあけライトをつけた。マスタングは再び右に曲がり、キングストリートからエンバカデーロ地区へ向かって走っていく。見失わないようにシボレーのスピードを上げた。フロントガラスにからみつく雨をワイパーが必死で追い払う。

 

 

 

 人通りの途絶えた雨のストリート。派手な原色のネオンライトが、濡れた路上に色を添えている。

 

 マスタングはフェリービルディングを過ぎ、ブロードウェイストリートにぶつかるとそこを左に曲がり、サンフランシスコのナイトライフの中心地に入っていった。シボレーの前を走っていた車は交差点を曲がらずに真っ直ぐ行ってしまったので、マスタングの運転手に感づかれないように、交差点を左折したところでスピードを落とし、車間距離をさらに長くとった。ブロードウェイストリートの坂を上り、ストックトンストリートの交差点で左に曲がり、トンネルを通り抜け、再び左に曲がってサターストリートに出た。マスタングはネオンがぎらつく中国の王宮のような建物を少し過ぎたところで路肩に車を寄せて止った。

 

 ここが警部が言っていたナイトクラブ 「紫禁城」だ。マスタングのテールランプが消え、運転席側のドアが開いて男が降りたのが見えた。私の車が「紫禁城」の横にきたとき、店の中に入っていく男の後姿を見た。身長は160センチくらいの痩せ型で、全身黒ずくめ。ショートヘア。車の窓越しに後姿を一瞬見ただけなので、この男がロン・チャンなのかどうかはわからない。私は「紫禁城」の先にある角を左に曲がり駐車エリアに車を止めた。

 

 

 

 まだ雨が降っている。ベースボールキャップを深くかぶってアーミージャケットのファスナーを首まで絞め、車から降りて旅行会社のビルの入り口まで走った。旅行会社は閉店しているのでビルの中には入れないが、入り口は歩道から少し奥まったところにあるので、ここなら雨宿りもできるしナイトクラブに出入りする客の姿もよく見える。しかし、冷たい北風は避けられない。ときどき風が雨をつれて吹き込んでくる。こんなところで一体どれだけ待たなければならないんだろうか。あの男は本当にロン・チャンだろうか。本当に運転免許証の男と同一人物なのだろうか。私の思い違いだったら・・・・・・

 

 いや、否定的なことを考えるのはやめよう。あの男は絶対にロン・チャンだ。こんな店に入っていって、このナイトクラブでショウでも見るんだろうか。最悪の場合、店が閉店するまで待つことになるかもしれない。 

 

 それにしても寒い。10分間ここに立っていただけなのにジャンパーがかなり濡れてしまった。テレビの刑事ドラマならそろそろ出てきてもいい頃だが、現実は思い通りにはいかない。あとどれだけ待てばいいのか。ベトナムのジャングルでも暗闇でひたすら待った。でも銃弾がとんでこないだけ、ここはまだましか。

 

 

 

 20分後、マスタングの運転手が店から出てきた。私の不満が心優しい女神に聞こえたのかもしれない。ブラックの皮のジャケットにブラックのズボン、年は20代前半くらい。ビートルズのようにカットした短い真っ黒な髪。ナイトクラブの明かりで男の顔がはっきり見えた。運転免許証のコピーについていた顔写真と同じ男。ロン・チャンだ!

 

 私の獲物は旅行会社のビルの前を通り過ぎ、マスタングに戻っていった。私のことにはまったく気づいていない。私もすぐにシボレーに戻った。数分後、マスタングが発進し、再び追跡が始まった。雨の振る夜のサンフランシスコを駆ける野生の馬マスタング。それを追う真っ黒なハンター。

 

 

 マスタングはカーニーストリートを左に曲がりチャイナタウンに向かっている。ワシントンストリートの交差点を左折して坂を上り、スポッフォードストリートと交差するところでもう一度左に折れた、

 

 嫌な場所に入ってきた。悪霊に取り付かれたような薄気味の悪い路地。マスタングはあのメイソンのシンボルを掲げた鉄格子のはまった建物の前で停っている。私はスピードを緩めてマスタングに接近した。建物の前にフェドラ帽をかぶった男がいる。ロンが車から降りたとき、手に何か箱のようなものを持っているように見えた。ちょうどそのとき、明るいライトをつけた車がこのストリートに入ってきたので、私はそのままのスピードでマスタングの横を通過した。マスタングの横を抜けるとき、私の目に入ったのは、鉄格子のはまった鉄の扉の中に入っていくロン・チャンとフェドラ帽の男。その男の背中には白い文字で漢字が二つ並んでいた。

 

 

 路地を出たとき無線が入った。

 

「インスペクター42からインスペクター102 へ」

 

 ギャラガー警部の声。

 

「チャンネル2に切り替えよ」

 

「10-4(了解・テンフォー)」

 

 私はすぐに無線のスイッチをチャンネル2にあわせ応答した。

 

「本部に戻ってきなさい。そろそろ時間だぞ。家に帰る前に報告することがある。10−4か?」

 

「10-4。10-49(I'm on my way/そちらに向かってるところです)」

 

 

 

 それから10分後、シボレーは本部の駐車場に到着した。さすがに本部だけあって夜になっても警官の数が多い。テンダーロイン署とは大違いだ。警部とジョンはコーヒーを飲みながら私が来るのを待っていた。

 

「どうだった?  何かいいことあったか?」

 

 ジョンがコーヒーをカップに注いで私の前に差し出した。雨に濡れて体がかなり冷えていたので、報告する前に熱いコーヒーを飲んだ。

 

「はい、1時間くらい前にラッキーなことがありましたよ。ピア48でマスタングを見つけて、それから車の後を追いかけたら、紫禁城に来て、運転手は店に入っていったから私は外で20分くらい待ってました。あの運転手ですよ、テンダーロインで見かけたドラッグディーラーと一緒だったやつ。こいつがロン・チャンですよ。それからチャイナタウンに戻ってスポッフォードストリートにある変な家に入っていきました」

 

「変な家?」

 

 警部が尋ねた。

 

「はい、ロンの親父の店の近くにあるレンガ色をした建物です。窓はみんな鉄格子がはまっていて入り口にメイソンのシンボルがついていました。入り口のとこに男がいて、ロンと一緒に中へ入っていったんですが、ロンは手に何か箱のようなものを持ってるみたいでした」

 

「なぞは深まる一方か (the plot thickens)」

 

 ジョンはそう言って、腕組みをしたまま椅子の背にもたれた。

 

「ほかには何かあったか?」

 

 警部が訊いた。

 

「いいえ、今夜はそれだけです。すみません。他は何も見つかりませんでした」

 

「謝る必要はない、上出来だ。捜査っていうのはそういうものだ。ジグゾーパズルと同じだよ。集めたピースを組み立てて作品を完成するんだ。どんな小さなピースでもそれがなけれ完成できないだろ。ピースが合わなければ合うまで探す。それに今夜、おまえが拾った情報はなかなか興味深い。そういう小さなピースの中に大きな情報が詰まってることもあるんだ。今日は私たちも面白いものを少しゲットしたぞ」

 

 警部の口の隙間から、マルボロの煙がゆっくり出てきた。

 

「広東パシフィックを調べてみたんだが、商売の方は何の問題もない。22年間続いてるが、その間、違法なことは何ひとつしていない。オーナーのハワード・チャンはCCBAのメンバーで、コミュニティーの中でもかなりの名士のようだな。カリフォルニア大学のバークレー校で経営学の学位をとってる。ビジネスも順調で、店員の話では、商品は8割がた香港から仕入れてるらしい。タイからもいくつか入ってるようだ。日用雑貨から食料品まで扱っていてベイエリアサクラメントの小売店にも卸してると言っていた。ところで、ボーイ、ロン・チャンの犯罪記録はとってきたか?」

 

「はい、これです」

 

 私は警部に無線室でもらったコピーをすべて渡した。

 

「あの、そのコピーなんですが、警部。その犯罪記録、ロンが未成年だったときも何かやったみたいなんですが、それは地方検事の許可がないと教えてもらえなかったのでわからなかったんですが、最近はスピード違反と駐車違反ばっかりですよ。違反切符と出頭命令書はチャイナタウンとテンダーロイン、フィルモア地区から出てます」

 

 私がそう言ったとき、節目がちだった警部の目が少し大きくなった。

 

「それはおもしろい!」

 

 警部が私の顔をみて言った。

 

「金持ちの名士のパパがいるチャイニーズボーイがテンダーロインとフィルモアで何をしてるんだ?  どっちも黒人のエリアだぞ」

 

 警部は私の顔をさらに覗き込むようにして言った。

 

「今日、ジョンと一緒にワシントンストリートの事務所に寄ってきたんだがな。時間が遅くて誰もいなかったから、正面玄関からじゃなくて裏からだがね。それで、これだけもらってきた」

 

 警部はデスクの下から大きな透明のビニール袋を引っ張り出して机の上に置いた。

 

「何ですか、これ?」

 

「広東パシフィックの事務所から出たゴミだ。タイプライターの失敗した用紙、カーボン、レシート、納品書、受領書、商品のリスト、全部いらなくなって捨てたようだから勝手にもらってきたよ」

 

 

 

 私がサンフランシスコの町でカーチェイスをしていたとき、警部とジョンはゴミあさりをしていたのか。暗闇でゴミを物色している二人の姿を想像しながらゴミ袋を見ていたら警部が言った。

 

「明日はおまえとジョンはまた外で仕事をしてもらいたい。その間、私はここでコーヒーでも飲みながらこのゴミをチェックしてるよ。こんな仕事はおまえたちのようなアクティブガイには退屈だろう。外の方が風も冷たくて気持ちいいぞ」

 

 ジョンは少し顔を傾け右の眉だけ吊り上げて警部の顔を見た。警部は目を細めて、煙草のけむりを天井に向かってゆっくり吐き出した。

 

「それからジョンは、明日は観光客に化けてほしいんだが。そういう風に見える服で来てくれ。観光客の振りをしてチャイナタウンで調べてきてほしいことがある。カメラを渡しておくよ」

 

 警部は一番下の引き出しからニコン35mmを取り出してジョンに渡した。

 

「あすの朝、ボーイの言った変な家、メイソンのシンボルマークのある家と広東インポートの店、それから事務所の周辺で何か面白いものでもあったら写真を撮ってもらいたい。それが終わったらここに戻ってきて私のドライバーをやってほしい。自分で運転できたらいいんだが、腕が使えないというのはまったく不自由だな」

 

 警部はマルボロの煙を腕のギプスに吹きかけた。

 

「それと、ボーイ。おまえのアパートには駐車場があるか?」

 

「はい、でも車がないです」

 

「OK。それならこれからはシボレーがおまえの車だ。明日はまたロンを見つけて追いかけてほしい。一日中、ロンから目を離さないように。何時にどこへ行ったか、立ち寄った場所の住所も確認してくれ。彼の行動パターンが知りたい。いいな」

 

「はい、わかりました」

 

「よし、それじゃ今日はこれで解散だ。帰るぞ」

 

 警部はビニール袋を机の下に押し込み、椅子から立ち上がった。

 

「キース、家まで送っていくよ。ケイコさんが迎えに来るのか?」

 

 ジョンが訊いた。

 

「彼女は今頃、猫とベッドの中だよ」

 

「そうか、ケイコさんにはそのほうがいいかもな。おまえといるより猫といたほうが安全だ」

 

 ジョンが笑いながら言った。それから私たちはオフィスを出て、三人並んで地下の駐車場に降りていった。

 

 

 

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※CCBA(the Chinese Consolidated Benevolent association)

 

オニールとケリー巡査にマコトとメイリンを救ったことで感謝状を贈った中国人コミュニティーの組織※NASCARアメリカで最も高い人気のあるカーレース

 

 


























エンジェルダスト(20)

 ジョンも同じメッセージを受け取っていた。何故二人そろって署長室に出向かなければならないのか、何の説明もなかった。曜日と時間、制服を着用せよ、メッセージはそれだけだ。何故呼び出されたのか、それだけのヒントでは推測もできない。頭をひねっても悪い予感以外、何も浮かばない。
 説明もない、理由を探るヒントもないというのは非常に不安になる。警官は物事を論理的かつ現実的に考える傾向がある。自分の経験や知識を使ってある結論を導き出す過程において、私情をさしはさむことは許されない。非論理的なものは一切排除する。警官はファンタジーの世界では生きていない。この傾向は勤務中だけでなく、徐々に普段の生活の中にも入ってくる。このような論理的思考が身についた警官が期待するのは「曖昧」ではなく「率直」「正直」である。しかし、内部調査委員会のような組織が大手を振って歩いているような警察では、「正直」とか「誠実さ」の解釈が次第に捻じ曲がってくる。このような職場で働いていると、コップパラノイア(警官の偏執病)と呼ばれている疑心暗鬼のような症状が常について回る。
 私とジョンの留守番電話にメッセージを残した若い女性秘書は、そんなことなど考えたこともないだろう。おそらく電話をかけたのはシビルサービス(市民の奉仕活動)から派遣された職員だろう。ただ8時間デスクの前に座り、与えられた仕事だけ何の考えもなくただすればいい。彼女の残した寸足らずの言葉が、どれだけ警官を不安にするか。そんなことは彼女たちには関係ないことだ。もしそういうことにまで気を配れる職員ならば、もう少しメッセージの中に情報を盛り込んだはずだが、シビルサービスの職員にそれを期待するのはまず無理だ。
 説明不足のメッセージのおかげで、土曜日と日曜日は私の心に黒い雲がかかって、快適な週末にはならなかった。不安が解消されないまま月曜日の朝を迎えた。

 私はいつもパトロールのときに着ているブラックのジャケットではなく、ジョンが「そのうち着る機会がある時までしまっておけ」といった4ツボタンの制服に着替えた。もしかしたら、警官の制服を着るのも今日で最後かもしれない。その考えが振り払っても振り払っても浮かんでくる。胃が締め付けられているようで、せっかく作ったコーヒーも全部飲めなかった。

 10時15分にジョンがアパートまで迎えに来てくれた。ジョンのワーゲンがにつくまで、二人とも何もしゃべらなかった。これから私たちの身に起こることをあれこれ考えても仕方がない。一番良い方法は、もし、それができるなら、何も考えないことだ。

 ジョンは地下の駐車場に車を止め、私たちはエレベーターで署長室のあるフロアまで上がった。エレベーターの扉が開いて真っ先に目に飛び込んできたのは、廊下に立っている数人のニュースキャスターとテレビ局のスタッフたち。エレベーターの扉が開いたとたんに、まるで私たちを待ち構えていたようにカメラのフラッシュが瞬き、エレベータから降りると、体にぴったり張り付いたようなブラウスとスカートをはいた女性のレポーターが、ジョンの前にマイクを差し出した。
「ケリー巡査、今回の内部調査会の決定について、どう思われますか?」

 一体何事が始まっているんだ!?
 何故、報道陣がここに押しかけているのかさっぱりわからない。

 ジョンは「ノーコメント」といって、レポーターの質問を無視し、私たちの前をふさいでいるテレビ局のスタッフを押し分けて署長室のほうへ行こうとした。しかし、今度は私の前にマイクが差し出された。
「オニール巡査、あなたが容疑者を射殺した警官ですね。今回の件について、どのようにお考えですか?」
「何の話かわかりませんが。すみません、道をあけていただけませんか」
 先に進もうとすると、また別のマイクが出てくる。次々に差し出されるマイクを手でよけ、通路をふさぐ報道陣をかき分けて、私とケリーは署長室へ入りドアをしっかり閉めた。

 

私たちが入った部屋は署長室の中にある待合室で、部屋の真ん中においてある大きなメープル材のデスクには受付係りの女性が座っていた。彼女は私とジョンが来たことを署長に伝えるため隣の部屋に入っていった。私とジョンはお互い顔を見合わせるだけで、何もしゃべらなかった。私たちは待合室においてあるクッションの良く効いたブラウンのソファーに座り、少しでもリラックスして気を落ち着けようと思ったができなかった。
 すぐに受付係りの女性だけが戻ってきて、少し待つように言われた。10分ほどして、デスクの電話が鳴り、彼女が電話を受けて二言三言、話してすぐに受話器を戻し、それから彼女は席を立って「どうぞこちらへ」と言って、私とジョンを隣の署長室へ案内しドアを開けてくれた。

 部屋の中に入って、私もジョンも驚いて一瞬立ち止まってしまった。今朝呼ばれたのは私たちだけかと思ったら、部屋にはスコット署長のほかに、署長のアシスタントが数名、捜査課のデービス課長とパトロール課のタランティーノ警部補。二人とも制服を着ている。そして彼らの隣には、黒い燕尾服にゴールドのネクタイをはめた黒髪のアジア人の男性、もう一人のアジア人の男性はグレーヘアーでネイビーブルーの燕尾服に赤いネクタイをはめていた。さらに驚いたことはブラックのフォーマルドレスを着たタチバナマコトとメイリン・チャンもいる。
 何故、彼らがここに。一体どういうことだろう。


 署長が笑顔で私とジョンの前に来て握手をした。それから二人のアジア人の男性を紹介してくれた。黒い燕尾服を着た男性は日本領事館のタナカヒロシ総領事。ネイビーブルーの燕尾服の男性はCCBAのハロルド・フォン代表。二人の紹介が終わったとたんに、署長室のドアが開いてレポーターとカメラマンたちが一斉に部屋の中に入ってきた。彼らは署長のデスクの上に機材を置いて、セッティングを始めた。その間に署長のアシスタントがデスクの前においてある書見台を片付け、それから演壇のマイクロフォンのコードをコンセントにさした。この人たちは一体何をしているんだろう。記者会見でも始めるつもりなんだろうか。

 今から何が始まるのか誰も何も教えてくれない。私もジョンも部屋の真ん中に突っ立って、ただ黙って彼らの仕事を見ているだけだった。
 壁際にメイリンと並んでたっているマコトと目が合った。彼女のアーモンドのような目が私に何かを訴えているように感じたが、部屋の準備ができたようなのですぐにマコトから視線をはずした。

「ケリー巡査、オニール巡査、さぁ、ここへあがってください。署長の隣に並んでください」
 署長のアシスタントに促され私とジョンは演壇に上がって署長の隣に並んだ。
「そろそろ始めてもよろしいかな?」
 署長がテレビ局のスタッフに聞くと、すぐに「OK」の合図が出て、署長は演壇の上にセットされたマイクの前に進み出た。


「レディース アンド ジェントルマン。サンフランシスコ市警のスコット署長です。本日は、私から市民の皆さまにお伝えしたいことがあります。どうぞ、今しばらく、チャンネルをそのままにして、私の話にお付き合いくださるようお願いします。さて、我々の町サンフランシスコには、中国、日本、アフリカ、メキシコをはじめ、世界各地からやってきたさまざまな国の人々があつまり、ここで生活しています。時代の移り変わりとともに人口も急激に増え、いまやサンフランシスコは世界の中の大都市のひとつに加えられるようになりました。しかし、それに伴い、犯罪も多種多様化し、今までサンフランシスコでは起こりえなかったような新たなタイプの犯罪も増えています。我々は市民の皆様の安全を守り、より平和で住みやすい街つくりのため、人種の壁を越えて、犯罪撲滅のために尽力してきました。この姿勢は今後も変わりません。ところが、昨今、サンフランシスコ市警がまるで人種差別集団の牙城であるかの如き、不当な評価をうけ、不当な攻撃にさらされております。我々がこのような不当な批判にさらされている今、サンフランシスコ市警の良き伝統を守り、自らの命をも顧みず、市民を守るための盾となって、凶悪な犯罪者から市民の命を救った二人の警官を、本日、ここに、皆様に紹介できることを心よりうれしく思います。テンダーロイン署に勤務するジョン・ケリー巡査とブライアン・オニール巡査です」
 テレビカメラが私たちのほうに向いた。後ろのモニター画面に二人の姿が映し出されたが、あまりに突然のことで、喜びよりも驚きのほうが先に来て、笑顔も作れず、カメラが回ったときはレンズに向かって、ただ小さくお辞儀をするのが精一杯だった。
 カメラは再びスコット署長をアップで写した。スコット署長の演説が続く。
「数週間前に、アントニオストリートで発生した事件に関してはすでにテレビ、新聞などで報道されましたのでご存知の方も多いと思います。事件の詳細については省きますが、一歩間違えれば、取り返しのつかない残虐な強姦殺人事件になっていたかもしれません。今、紹介しましたケリー巡査とオニール巡査は、彼らの的確な判断とすばやい行動で、サンフランシスコ市民のメンバーである日本人留学生の立花真琴さんと、彼女の友人で中国人のメイリン・チャンさんの命を救いました。二人の警官の勇敢な行為に対し、我々は心から敬意を表すとともに、サンフランシスコ市警の英雄として彼ら二人を讃えます」
 再びテレビカメラが私たちを写した。今度は私もジョンも少し笑顔をカメラに向けたが、私の頭の中は、まだ事情がよく飲み込めていなかった。何がどうしてどうなって、突然「英雄」になったのか。頭の中が混乱して、考えがまとまらない。

 カメラはタナカヒロシ総領事に切り替わり、彼のスピーチが始まった。
「テレビをご覧の紳士淑女の皆様。天皇皇后両陛下、日本政府ならびに日本国民の皆様。第2次大戦が終わり、世界に平和が戻ったのもつかの間、いまだに、あちこちで悲惨な戦争が続いております。ここカリフォルニアに日系人強制収容所があったのは戦時中の話ですが、戦争が終わった今でも、アジア人に対する根強い偏見が存在しています。悲しいことに多くの市民は社会情勢に無関心でもあります。事件の被害にあわれた立花真琴さんと中国人のメイリン・チャンさんは、狂った犯罪者によって死の恐怖にさらされました。犯人は無防備な彼女たちを路地に連れ込み、彼女たちの尊い命を奪おうとしました。このようなアジア人に対する偏見が残る現代社会にありながら、サンフランシスコ市警の二名の警官、ケリー巡査とオニール巡査は、警官としての職務、いえ、人間としての正義感から、アジア人の二人の女性を救ってくれました。私は日本人を代表して、ケリー巡査とオニール巡査に心より感謝の意をささげたいと思います」

 続いてフォン代表がマイクの前に立ち、話しはじめた。
「スコット署長、本日はありがとうございます。紳士淑女の皆様、日本領事館の総領事であります田中さんのスピーチにもありましたが、今、アメリカ社会においてはアジアのコミュニティーは非常に苦しい立場にあります。しかし、本日ここにみえます、サンフランシスコ市警のケリー巡査とオニール巡査は、人種の偏見をこえ、尊い人命を守るという崇高なる使命により、私たちの大切な娘を救ってくれました。ケリー巡査とオニール巡査は、これから花開こうとする日本と中国のかわいい花の命を助けました。彼らの助け無しには、彼女たちはあの路地で枯れ果て、二度と再びこの世界ですばらしい大輪の花を咲かせることはできなかったでしょう。彼らの勇敢な行為が、今後、人種差別をなくし、アジア人ならびにチャイナタウンに住む人々に対する間違った理解を少しでも減らす一助になるであろうことを願って、ケリー巡査とオニール巡査にチャイニーズコミュニティーを代表して、心よりお礼を申し上げます。あなたたちは我々コミュニティーのヒーローです。ありがとう」

 スピーチに続いて、私とジョンは、タナカ総領事とフォン代表のアシスタントから、豪華な額に入った感謝状を受け取った。
 短いセレモニーが終わり、私とジョンが演壇から降りると、デービス課長から 廊下に出て少し待つように言われた。署長室では、これからスコット署長と、タナカ総領事、フォン代表のインタビューが行われるようだ。
 マコトとメイリンはかなり緊張した面持ちで立っている。部屋を出る前にマコトのそばに行って耳打ちした。
「あとから、電話 してもいいか?」
「デンワ、イエス、オッケー」
 それだけ伝えて、私とジョンは廊下に出た。しばらく廊下で待っていると、タランティーノ警視が部屋から出てきた。私もジョンも警視とは話もしたくなかったので、すぐにエレベーターのほうに行きかけたら、タランティーノ警部補に大きな声で呼び止められた。
「そこの二人! 待ちなさい!  君たちに話がある。すぐに私のオフィスに来なさい!」
 振り返ると、警部補は険しい顔で私たちを睨みつけている。そのとき、署長室のドアがバンッと開いてデービス課長が出てきた。
タランティーノ警部補! この二人はもうあなたの部下ではない!  今からケリー巡査とオニール巡査には私のオフィスで大事な話がある。私の部下に勝手なことはしないでいただきたい! それよりも、署長があなたに話があるようですよ。おそらく、あなたが署長の命令に従わなかったことと、フラナガン巡査部長とラム巡査、ゴンザレス巡査へのハラスメントの話じゃないでしょうか。ただの私の推測ですがね。はやく部屋に戻られたらどうです。これ以上、署長の機嫌を損ねると、あなたの昇進にひびくんじゃないですか。あくまで、私の推測ですが」
 警視は、唇をかみ締めて眉を吊り上げ、怒りに満ちた恐ろしい形相で立っている。デービス課長は、その横を何食わぬ顔で通り過ぎ、私たちの肩を軽く叩いて、課長の後についてくるよう促した。

 

 私とケリーが課長のオフィスにはいると、すぐにデービス課長が私たちに握手を求めてきた。
「おめでとう。君たちは市警の誇りだ。我々は皆、君たちを誇りに思っているよ。タランティーノは別にしての話だが。たぶん、これから署長が彼をいちから教育しなおすだろうね。さぁ、そこにすわりなさい」
 デービス課長が椅子に腰掛けるよう手で合図した。私とジョンは同じソファーに並んで腰かけたが、座るとすぐに、ジョンが腑に落ちないというような表情で課長に尋ねた。
「あのデービス課長、先ほどは身に余る言葉を署長始め領事館の代表の方からも頂き、大変うれしく思っていますが、あの報道陣といい、なにがあったのか全く事情がわからないんですが――」
「いや、驚かせて申し訳なかったね。君たちに何も言わなかったから驚くのも無理はないと思うが。これは、ちょっとした作戦でね」
 課長は軽い笑みをジョンに向けた。
「作戦と言いますと?」
 ジョンが訊いた。
「実はね、被害にあわれたタチバナマコトさんがチャンスを作ってくれたんだよ。内部調査会に呼ばれた時に、かなり気分を害したようで、日本領事館に行って全部伝えたそうなんだよ。それで領事館のほうも、今回の君たちの処分も含め内部調査課の判断にかなり憤慨したようでね。今回の運びとなったわけだ」
「そうだったんですか」
 ジョンが大きく頷きながら返事をした。

 マコトがこの取材のきっかけを作ったのか。『領事館に言います』――そういえば、ポーツマススクエアであったとき、こんなことを言っていた。彼女は本当に言ったんだ。それにしても、あの報道陣は一体なんだろう。まさか、マコトがテレビ局にも何か言ったんだろうか?   私が心の中で思ったことをジョンが言葉にしてくれた。
「課長、もう一つ、お尋ねしたいことがありますが、署長室にいたテレビ局のスタッフ。あれも領事館が呼んだんでしょうか?」
 ジョンが訊くと、課長は笑いながら首を振った。
「いや、あれは違う。マスコミは署長が呼んだんだ。署長とシーハン課長、それから私の三人で君たちの謹慎処分をどうやって解くか考えたんだがね。それで、マスコミを利用するのが君たちの処分を解除するためには一番良いのではないかと思ってね。あの日本人の女性が領事館に報告してくれたのを利用するというと聞こえが悪いが、まぁいいチャンスだからね。内部調査会相手に正攻法でせめても功をなさんだろ」
「そうですか。それでわかりました。エレベーターから降りたら、マスコミに囲まれて本当にびっくりしましたよ」
 ジョンの緊張した顔が緩み、軽く息を吐いてソファーの背にもたれた。課長は私たちがオフィスに入ったときからずっと笑みを浮かべている。その笑みをジョンに向けて課長が言った。
「ケリー巡査。私に質問はそれで終わりかな?  まだ聞きたいことがあると思うんだが、どうだろう? 今、君たちがどうしてここに呼ばれたか、その理由もわからんのではないかな?」
「はい」
 私とジョンは同時に返事をした。課長は私とジョンの短い返事に満足したようで、にっこり笑った。私には課長の笑顔の意味が全く分からなかった。
「そうだろうね。誰もまだ君たちには話してないからな。それじゃ、今から手短に説明しよう。先ず、ケリー巡査」
「はい」
 ジョンが課長の顔を見た。
「君は今日からはもうフィールドトレーナーじゃない。どういうことか君なら数分で理解できるはずだ」
 ジョンの表情が一瞬翳った。しかしデービス課長は微笑んでいる。
「それからオニール巡査」
 課長は私に顔を向けた。
「君はもうすぐ90日間の研修期間がおわるが、今までケリー巡査から色々教えてもらったと思う」
「はい」
「オニール巡査。良く聞きなさい。いまから伝えることは全て署長が決定されたことだ。オニール巡査は本日付けで、新人の見習い期間を終了し、審査にパスしたものとみなす。したがって、君はもう明日からはサンフランシスコ市警の一人前の警官だ。だから君にはもうフィールドトレーナーは必要ない。君はもうベイビーの鳥じゃない。ケリー巡査から離れて一人で飛び立たなければだめだ」
 デービス課長はそう言うと、私とジョンの顔を交互に見た。ジョンはうつむいてデービス課長の話しに頷いているだけである。
「それから、話はまだある。いいかね。二人ともギャラガー警部とは一緒に仕事をしたことがあると思うが、まぁ、彼の場合、浮浪者のようにふらふらさまよっているように見えるが、刑事としての実力は捜査課でもトップランクに入る。それで警部が今、追ってる事件だが。エンジェルダストに関してはすでに知っているだろう。いま、サンフランシスコに徐々に出回っている薬物だ」
「はい、聞いております」ジョンが低い声で答えた。
「そういえば、エンジェルダストの資料はオニール巡査が作ってくれたそうだね。あれは実に良くできてた。ギャラガー警部は今、このエンジェルダストを追っているんだが、彼の捜査を手伝ってくれる警官をほしがっているんだ。それで、彼は君たち二人を指名してきた」
 うつむいていたジョンがサッと顔を上げて、びっくりしたような表情でデービス課長を見た。
「エンジェルダストの流通経路に関しても、まだほとんどわかってないのが現状で、彼は優秀な助手を望んでいるんだよ。この事件が終わるまで、要するに、ギャラガー警部がこれで事件は全て解決したと言うまでだ、君たち二人は彼のアシスタントとして、エンジェルダストの捜査に協力してほしい。君たちはギャラガー警部の助手、という事はつまり、私の部下だ。今日から私の部下として、君たちの持てる能力を全て発揮して、ギャラガー警部と協力しエンジェルダストの捜査にあたってほしい」
 デービス課長はそこで言葉を切り、私とジョンの顔を見た。朝からびっくりするようなことが立て続けに起こるので言葉が出てこない。ジョンも何も言わない。デービス課長はにっこり笑って私とジョンにこう告げた。
ジョン・ケリー巡査。ブライアン・オニール巡査。本日より、君たち二人をインスペクター(捜査官)に任命する」

 


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※CCBA(Chinese Consolidated Benevolent Association).
チャイナタウンに一番最初に設立されたチャイニーズアメリカンのための組織。チャイナタウンの住民たちによって運営されている組織。日本で言うならば規模の大きい町内会。現在のチャイニーズコミュニティーセンターの母体。

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私とジョンがインスペクター!

 

 あまりに突然の話で、私もジョンも二人そろって言葉を忘れてしまったように、ただ、デービス課長の顔をじっと見つめるだけだった。デービス課長は笑みを浮かべて私とジョンを見ている。それから課長は立ち上がって彼のデスクに行き、引き出しから新しいバッジをふたつ取り出し、私とジョンの前に置いた。部屋のライトがテーブルの上に並べた金色のバッジに反射している。

 

「インスペクター2101。これがケリー捜査官のバッジナンバー。ラジオ無線では君はインスペクター101 だ。それからオニール捜査官はインスペクター2102。これが君のバッジナンバーだ。ラジオ無線ではインスペクター102。いいかね。忘れないように。間違えてパトロール警官のときのナンバーを使わないように」

 デービス課長はテーブルの上のバッジを取って、私とジョンに手渡してくれた。

「二人とも、昇進おめでとう!  君たちは今日から捜査官だ」 

 

 突然天から降ってきたような予想もしなかった幸運に直面すると、頭が空っぽになってしまって感謝の言葉も忘れてしまい、掌の上で黄金色に煌めいているバッジをボォーっと見つめていた。まだ3ヶ月も過ぎていない新人の手の中にゴールドバッジがある。捜査官になりたいと強く思ったことはないが、でも、いつか、ゴールドバッジをつけてみたいと思っていた。それがこんなに早く手に入るとは思ってもみなかった。本物のゴールドバッジだ。夢じゃない。本当にゴールドバッジを持っているんだ。

 

「オニール捜査官」

 

 ゴールドバッジのほうに完全に気が行ってしまっていたので、デービス課長に名前を呼ばれたことに全く気が付かなかった。ジョンから「オニール、返事をしろ」といわれて、あわてて顔を上げて「イエス、サー」と返事をした。デービス課長が笑っている。

「バッジは後からゆっくり見なさい。まだ話したいことがあるから、よろしいかな」

「ハイ」

「いいかな、オニール捜査官。大事な話だからよく聞きなさい。これは異例中の異例の昇進だ。わかるね。本来なら、君はまだ研修期間中の身だ。だから外に出たらケリー捜査官から学ぶことはまだまだ多いはずだ。捜査のイロハについてはギャラガー警部から学べばいい。この先も常に、学ぶという姿勢を忘れないように」

「イエス、サー」

「それから、バッジは二つはつけられないからね。この事件が解決するまではゴールドバッジをつけることを忘れないように。事件が解決したら、またパトロールに戻ってもらうことになるが、君たちがパトロールに戻ってもゴールドバッジは返さなくてもいい。もしもこの先、凶悪な犯罪が起こった時に、君たちの力が必要になる場合もあるかもしれない。そのときは又、捜査官として我々に協力してもらいたい。だから君たちが市警にいる限り、インスペクターのゴールドバッジは君たちのものだ。捜査課は君たちの席はいつでも用意して待ってるよ」

「ありがとうございます。心から感謝します」

 ジョンがデービス課長に深々と頭を下げた。私もジョンに続いて頭を下げ、感謝の言葉を述べた。

「二人とも、頭を上げなさい。私に礼は言わなくてもいいよ。君たちはこれを受けるのにふさわしい働きをしてきた。内部調査課が何を決定しようが、君たちのような優秀な警官を謹慎処分にするなどもってのほかだ。それこそ市警の恥だよ。今頃はタランティーノはマスコミ連中に囲まれてやり込められているだろうな」

「それならわたしたちの謹慎処分はどういうふうになったんでしょうか?」

 ジョンが訊いた。

「安心しなさい。謹慎処分はキャンセル。君たちは英雄としてサンフランシスコ中に報道されたんだ。内部調査課といえど、今回ばかりは決定を取り消す以外ないだろう。その辺のことは、スコット署長が報道陣のインタビューで話してるはずだ。君たちは謹慎処分など一度もうけてはいない。君たちのキャリアに汚点は何もないよ。それから、タランティーノには、今頃、署長が話しをしてると思うが、エンジェルダストが解決したら、君たちが戻るところはテンダーロイン署ではない」

「といいますと?」ジョンが訊いた。

「実は、先日のテンダーロイン署の事件だが、オマー・スコットを射殺したことで、おそらくフラナガン巡査部長が真っ先にターゲットにされる恐れがある。このまま彼をテンダーロインにおいておくのは危険が多すぎるから、怪我が回復したらセントラル署に転属してもらおうと思っているんだ。もちろん、これは命令ではない。選択権はフラナガン巡査部長に与えてあるから、もしも彼が嫌だといえば、今までどおりテンダーロインに残ってもらっても構わない。彼からの要求で、もしもセントラル署にかわるなら、君たち二人も連れて行きたいといっているんだが、管轄エリアはノースビーチ、チャイナタウン、フィッシャーマンズワーフ。フラナガン巡査部長には今までどおり、その地域のイブニングシフトのスーパーバイザーを引き受けてもらいたいと思っている。ケリー捜査官は21年間、慣れ親しんだテンダーロインを離れるのはさびしいだろうが、どうだろう。フラナガン巡査部長と一緒にセントラル署で働いてもらえるか?」

「わかりました。そんなことなら喜んでセントラル署にかわります」

 ジョンが答えた。

「君は異存はないかな?」デービッド課長が私に訊いた。

「はい、ありません」

「ありがとう。フラナガン巡査部長にはその旨、伝えておこう。それでは明日の3時、殺人課のギャラガー警部のデスクに直接行きなさい。何か質問は?」

「ノー、サー」

 私とジョンは一緒に返事をした。それから捜査官が携帯しなければならない小道具を受け取り、それらを全てジョンのワーゲンのトランクにしまい駐車場を出た。

 

 

 朝は車の中で一言も話をしなかったが、帰りは私もジョンも心が弾んでしゃべり通しだった。

「ジョン。捜査官ですよ。ゴールドバッジだ」

 私はずっとゴールドバッジを手で持って眺めていた。そんな私を見てジョンが大きな手を私の頭に置き、父親のような口ぶりで言った。

「おい、坊主。おまえ、クルーゾー警部になりたいって言ってたもんなぁ。夢がかなってよかったじゃないか」

「イヤァ、あれは冗談で言ったんですよ。でも、やっぱりいいなぁ。ゴールドバッジ。捜査官か、捜査官なんだ。捜査官ですよ」

 ゴールドバッジを見ながら独り言のようにしゃべっていたらジョンに笑われた。

「なぁ、オニール、わたしはいままで昇進なんて興味なかったが、実際にゴールドバッジを手にしてみると嬉しいもんだなぁ。わたしは完全にお払い箱だと思ってたからなぁ。これからキースと一緒に捜査官か。引退前に捜査官で大暴れするのも悪くないか」

 

 うれしさが、今頃になって押し寄せてきた。ゴールドバッジを見ていると自然に顔が緩んでしまう。

「おまえ、何をにやついてついてる。キースの助手ってことは、明日からもっとハードな仕事がまってるぞ。覚悟はいいかな。オニール捜査官」

「イエス、サー!」

 

 ジョンのワーゲンが私のアパートにつくまで、ずっとゴールドバッジに彫られた文字を眺めていた。

 

  [San Francisco Police Department    Inspector 2102 ]

 

 

 

 

 午後7時。

 私はブラックの3つ揃えスーツにゴールドタイのフォーマルファッションできめて、チャイナタウンにある高級レストラン<レッドドラゴン>で、マコトが来るのを待っていた。

 

 豪華に盛り付けた中華料理をトレーに乗せたウエイターが、厨房と店内を忙しそうに行き来している。私はバーのカウンターで、彼女が来るまでジントニックを飲みながら窓から外を眺めていた。赤いマスタングが店の前に止まり、ダークレッドのチャイナドレスを着た女性を降ろすとすぐに車は行ってしまった。店に入ってきたその女性をみて、一瞬、目を疑った。確かにマコトだ。しかし、今夜の彼女はいつもと雰囲気が全く違う。裾に孔雀柄をあしらったロング丈のチャイナドレス。姿勢の良い彼女が着ると、凛とした気品を感じる。ダークアイシャドーとアイラインが切れ長の目をさらに強調し、ローズの口紅が肌の白さを際立たせ、彼女の顔立ちに上品さをプラスしている。腕白坊主が突然、魅惑的な大人の女性に変身した。店の客が時々、彼女のほうを見ている。マコトはすぐに私を見つけ、にっこり笑ってカウンターに来た。

「グッドイブニング。私、遅刻した?」

「いや、僕が早く来たんだ。今日はすごくきれいだよ。別人かと思った」

「あなた、ドレスアップしてきなさいっていったから」

「さっき、君が入ってきたときは、びっくりした。今日は朝からびっくりの連続だ。それより、何飲む? ビール? カクテル?」

 私が訊くと、マコトは首を傾けた。

「わたし、カクテル、わからない。甘いカクテル、何? あなた決めて」

 私は彼女のために甘味の強いピニャコラーダを注文した。バーテンはオーダーを受けると、5分もしないうちにマコトの前にピニャコラーダのグラスを置いた。グラスの縁にパイナップルのスライスを飾り、かわいらしい小さな傘の飾りが乗ったカクテルをマコトは目をまん丸にして見つめた。それからストローで少しだけ飲むと、「おいしい」と言って、一気にグラスの半分まで飲んでしまった。

「それ、ラムが入ってるよ。一気に飲んだら酔っぱらうよ」

「わたし、アルコール、少し、つよい。これ おいしい。ねぇ、さっき、電話で私に、ききたいことある、あなたデンワで言った、何ですか?」

 マコトが訊いた。

「たいしたことじゃないけど、今日、署長室であったこと、君が領事館に言ったんだ」

「はい。あなたのケイサツの人。あなたと大きい警官、いじめた人たちのこと、ワタシ、領事館に言いました」

「それじゃ、今日のこと君は前から知ってたの? 知ってたら話してくれればよかったのに。今朝、署長室に行ったら、君とメイリンがいたからびっくりしたよ」

 私がいうと、マコトは「ちょっと待って」といって、何か言葉を探しているような表情をした。

「あの、答えはノー。昨日、夜、領事館からデンワ来ました。今日 朝、9時、あなたの警察 署長室、来てください。洋服はフォーマルドレスで来てください。それだけ。だから、今日、テレビのこと、初めて知った。だから、びっくりした」

「そうか。それじゃ、君も知らなかったんだ。僕もびっくりしたよ。テレビ局が来てるし。何のことかさっぱり分からなかったよ。でも、今日はすごくいいことがあったから、今夜はここでお祝いをしたかったんだ」

「はい、あなたのパーティーね。あなたと大きい警官、えっと、ケリーさん、ヒーロー」

 マコトがにっこり笑った。

「僕はヒーローじゃない。するべきことをしただけだ」

 そういうと、彼女が首を振った。

「ノーノー。あなたたちのおかげで、私もメイリンも生きてます」

 マコトはピニャコラーダの入った大きなグラスを持ち上げて私の方に向け、「トースト(乾杯)」といって、私のグラスに軽く当てた。

 

 

 それから私たちは、テーブルの用意ができるまでバーのカウンターで時間をつぶした。ウエイターが呼びに来て、私たちはレストランのテーブル席に案内された。席に着くと、ウエイターが料理を並べていく。大皿に豪華に盛り付けた北京ダック。カシュナッツの入ったサラダ、ビーフロッコリ、シュリンプフライドライス。

「すごい!  北京ダック!」

 彼女の視線は真ん中の大皿に注がれている。

「この前、店頭に飾ってあったのを見てただろ。北京ダック、好きかなと思って注文したんだ」

「はい、北京ダック大好き」

「おなか、減っただろ。全部食べていいよ」

「はい、わたし、いつもハングリー」

 

 マコトは口元に笑みを浮かべ、アーモンド型の目をもっと大きく開いて私を見た。それからすぐに、小皿に北京ダックをとり食べ始めた。彼女はいつも私の前で何かを食べている。最初に会った時から、そういうイメージが私の中で出来上がってしまった。それにしても、マコトは何を食べてもおいしそうに食べる。そんな彼女を見ているのも楽しみのひとつだった。

 

 

「君に見せたいものがあるんだ」

 

 私はポケットからゴールドバッジを取り出してマコトに渡した。

 

「これ、警官のバッジ?  映画で見たことある」

 

 マコトが言った。

 

「今日、あれから課長に呼ばれてね。ジョンと僕はインスペクターになったんだよ。それがインスペクターのゴールドバッジ」

 

「インスペクターって何?」

 

「インスペクターは、えっとね、インスペクターは・・・・・・えっと、ダーティーハリー」

 

「ワオ! ブゥラァイアン ダーティーハリになった。クール!」

 

 マコトはまるで新しいおもちゃをもらって喜んでいる子供のように、バッジを自分の胸につけてみたりライトの灯りで反射させたりして遊んでいる。

 

「今日からはもうパトロールの警官じゃないんだ。これからはギャラガー警部の助手をするんだ。だから、そうなったら当分休めないと思うから、もし嫌じゃなかったら、今度の非番の日に、また会える?」

 

「はい、あなたの休みは、いつ?   明日の次の次の次の次の日?」そういいながら指を折って数えている。

「そう、4〜5日あと」

「はい、OK」 

 

 おいしい料理で話も弾み、10時ころ店を出て、タクシーでマコトのアパートまで送った。彼女がタクシーを降りるとき「サンキュー」といって私の頬にキスしてくれた。自分のアパートの近くでタクシーを降りて青白い月明かりに照らされた歩道を歩いていたとき、どこからか彼女がつけていたローズの香水に似た香りが漂ってきた。

 

 あわただしい一日だったが最高にハッピーな日だ。部屋に戻り、スーツを脱いでシャワーを浴び、パジャマに着替えてから留守番電話のメッセージをチェックした。メッセージは一件だけ。それはフラナガン巡査部長からの伝言だった。どうしていつも幸せの後には不幸が来るのだろう。

 

 

 ジェリー・ラムが死んだ。

 

 

 

 

 

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★ピニャ・コラーダのレシピ

 

ラム 90ml

 

ココナッツミルク45ml

 

パイナップルジュース 45ml

 

 

ビーフロッコリはアメリカの中華料理店では定番の料理。牛肉とブロッコリをオイスターソースで炒める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






 

 

スケッチ

愛知県犬山市にある民族博物館リトルワールドに行ってきました。

北海道アイヌ部落のスケッチ。

このクマ、たまに洋服着てることもあるそうで

リトルワールドアイヌ部落


開園40周年を記念してトルコ、イスタンブールのゾーンにアンブレラスカイ

リトルワールドアンブレラスカイ